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    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4節: 羽田空港での初顔合わせと対話は運命の分岐点


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     第3章・目次
      第1節: 国際法を専攻し、国連平和維持軍に興味をいだく
      第2節: 留学できず「浪人生活」するなかで、海洋法ゼミと海洋プログラムに出会う
      第3節: 関大新聞紙上の先輩活躍記事、偶然目に留まる
      第4節: 羽田空港での初顔合わせと対話は運命の分岐点
      第5節: 浪人生活は人生の回り道ではなかった



  約束の時刻をたがわず、羽田空港で曽野氏とうまく落ち合うことができた。そして、既にチェックインを済ませていた曽野氏から、「出発ロビー北側2階にある レストランでカフェでも飲みながら話そうか」と勧められた。初対面の二人が話しを何からどう切り出したのかほとんど思い出せない。 とはいえ、国連での仕事の内情などを改めて尋ねるようなことはしなかった。 はっきりと記憶に留めているやりとりがある。曽野氏から改めて「アメリカのどこの大学に志願しているのか」と改めて尋ねられた。 私は、即座に「シアトルのワシントン大学ロー・スクール大学院です。履修を志願しているプログラムは「海洋総合プログラム」です」 と答えた。その後間を置かずに「指導教授は誰になるのか」と問われた。 ロー・スクールでの海洋法担当教授はウイリアム・T・バーク氏であったので、そのプログラムへの入学が決まれば、指導教授は彼になる はずであった。そこで、私はすかさず「ウイリアム・T・バーク教授です」と答えた。

  曽野氏は続けて、「彼なら良く知っている。これからシアトル経由でニューヨークに戻るところだが、ロー・スクールにも立ち寄るかも知れない。 彼に会うことになれば、貴君に会ったことを話しておこう」と、予期せぬ有り難いお言葉をいただいた。 曽野氏がバーク教授といつ頃どういう深い接点があったのか知る由もなかったし、尋ねることはしなかった。いずれにせよ、曽野氏がバーク 教授と旧知の仲であることをその時に初めて知った。

  何と言う偶然であったことか。関大法学部の先輩が、私が第一希望としていたワシントン大学の出身であり、しかも指導教授と旧知の関係だという。 三人を結びつけることになった余りにも不思議な糸にびっくり仰天し、言葉を失った。それに、ニューヨークに帰任されるにしても、何とシアトル経由で、 しかもワシントン大学に立ち寄り、バーク教授に会うかもしれないという。曽野氏にとっては予定通りのことかもしれなかったが、私からすれば この偶然の成り行きに驚愕であった。

  驚愕の成り行きはさらに続いた。話の文脈については思い出せないが、ロー・スクール大学院への推薦状のことに話しが及んだ。多分、大学院への アプリケーションの手続きがどの程度進んでいるのかを知るために、曽野氏が推薦状のことも含めて、その提出具合を尋ねられたのであろう。私は3人の母校の教授 にお願いし、既に提出されていることを答えたはずである。私から推薦状のことを切り出し、ましてやそれをお願いするほど厚顔無恥ではな かった。初対面では余りに失礼で畏れ多きことであった。推薦状をお願いすることなど初めから全く頭の片隅にもなかった。 それにまた、暗にせよ、会話の中でそれを匂わす様なことも一切することもなかった。とはいえ、後になって憶測するに、私の顔のどこかに 「バーク教授への推薦状、できるものならお願いします」と書いてあったのであろうか。そんなことはなかったはずと、信じている。 曽野氏から、「推薦状がいるなら書いてもいいよ」とおっしゃっていただいた。 その時のとてつもない驚きと感激を今も忘れることはない。

  同じ母校出身とはいえ、初対面の大先輩にとてもそんなお願いが出来るはずもなかった。だが、その場の空気を 察してそうおっしゃっていただいたのであろう。私は、その一言を単なるリップサービスとは考えず、素直に受け取った。変に遠慮するなり、 身を引いてしまうことはしなかった。後で思えばそれがベストの選択であった。率直にお礼を述べて、「よろしくお願い致します」と、 素直に懇願した。帰阪後早速に、お礼とともに、推薦状に役立ててもらえるよう必要事項をしたためた手紙を投函した。 既にロー・スクールへは推薦状も提出していたとはいえ、バーク教授宛てに直接的な推薦状が送り届けられることになれば、こんな心強いサポートは ないに違いなかった。

  さて、羽田空港から浜松町へ出て、東京駅から新幹線に飛び乗った。今日一日における余りの運命的な出来事に興奮冷めやらずの状態であった。 人生における全ての幸運を今日一日で使い切ったような思いであった。この先の人生にあっては、最早幸運の女神に出会うことはないのではと、 心配したくなるほどであった。とはいえ、曽野氏との羽田での対面が運命の分岐点か分水嶺となるかもしれないというところまで気を馳せる ことはなかった。

  面談を通じて、曽野氏がワシントン大学のロー・スクール出身であること、それにもましてバーク教授とは 旧知の仲であること、更にシアトル経由で帰任しロー・スクールに立ち寄る予定であること、バーク教授に会えば母校の後輩が「海洋 プログラム」に志願していることを伝えてもらえるかもしれないこと、そして推薦状をしたためることもやぶさかではないということ、 全く予期していなかったこれら5つの事柄に対して、わずか小一時間の間に次々と向き合うことになった。一気に向き合ったことの 衝撃は余りにも大きく、その余韻は帰阪するまで続いていた。

  さて、その後ワシントン大学から何か連絡は届かないかと、毎日のように郵便受けが気になっていた。特別研究生としての生活もまさに終盤に さしかかっていた。そして、1974年の新年が明けて暫く経った頃に、バーク教授から一通の航空郵便が届いた。真っ白い封筒の左上隅にロー・スクール のロゴが入っていた。そのすぐ上にはバーク教授の直筆署名として、青インクで「Prof. Burke」と記されていた。恐る恐るその場で開封し、 真白い便せん一枚の文面に目を移した。不安と期待が入り混じった、その時の緊張感を今でも思い出す。一気に鼓動の高まりを感じた。 急いでさっと斜め読みした。ネガティブな語彙は一切目に留まらなかった。先ずは安堵し、一息ついた。 そして、郵便受けの前に突っ立ったまま、今度はゆっくりと読み始めた。入学を認める文言をはっきりと読み取ることができた。 末尾にはバーク教授のフル署名がなされていた。最高の嬉しさを噛みしめた。

  教授が自らの手で入学許可につき知らせてくれたことの意味を読み取った。バーク教授は旧知の仲である曽野氏から推薦状を受け取ったに 違いなかった。あるいは、ロー・スクールで曽野氏と会い、曽野氏から直接推薦の一言を受け取ったに違いない、と思った。あるいはまた、それらの 両方であったかもしれない。入学許可はそんな過程を経たうえで発せられたものと重く受け止めた。それらのことは推測に過ぎなかったが、 それに間違いはないものと信じた。 あの日の羽田での出会いと対話がこの結果につながっていることは明らかのように思えた。曽野氏によるサポートが無かったとすれば、 ワシントン大学への留学の実現は遠のいていたかもしれない。あるいは、留学はなかったかも知れない。勿論、推薦をいただいた3名の 母校の教授の恩も忘れることはできない。

  書中には、「少し早めに来て、語学学校で英語の学習をすることを推奨します」との助言がなされていた。教授からの直々の 指示であると受け取った。結局目標にしていたTOEFL600点以上のスコアを一度も提出することができずにいた。語学力は髙ければ 高いほど、学業などのあらゆる面で好ましくはある。それは道理である。 TOEFLスコア550年プラス・アルファそこそこでは、プログラムの修学は相当しんどいことであると、バーク教授の真摯な心配が 胸中にあったのであろう。かくして、百歩前進の喜びを噛みしめながら、渡米のための雑多な準備を始めた。 先ずは推薦を受けた語学学校(English Language School; ELS)への入学手続き、「I-20」という留学ビザの取得などに向けた 準備に奔走した。

  さて、1974年6月下旬、大阪から羽田へ、そして羽田からシアトルに向け離日した。7月からシアトル市内の語学学校 で、9月末までの3ヶ月間語学研修に励むことになった。間もなく26歳を迎えようとしていた。

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      第5節: 浪人生活は人生の回り道ではなかった