研修事業の仕事を通じて何がしか海との関わり合いや繋がりをもてることを念じてはいたが、余り期待はしていなかった。
それでも、発展途上国からの大勢の技術研修員と彼らの異文化に向き合うなかで、心の片隅では、何か海との接点や連環性は
ないものかと身の周りを見渡し模索していた。研修第2課2班は、通産省、文部省、科学技術庁が所轄する業務に関係のある研修
プログラムを担当していた。端的に言えば、第2班は、それらの2省1庁傘下の研究機関、国公立大学とその傘下にある研究所などを
受入機関とする研修プログラムを担当していた。それ以外の省庁に関係のある分野のプログラム運営を担うのは他課他班であった。
海との関わり合いが深かったのは、農林水産省傘下の水産庁、運輸省傘下の海上保安庁が関係する集団研修コースであった。
セットメニュー型の集団コースは少なくとも200以上はあったと記憶する。私自身が担当したコースではなかったが、例えば、水産庁と繋がりの深い
集団コースとしては、沿岸漁業、養殖、漁業組合運営などのそれがあった。基本的には、それらの漁業関連研修は、新宿の本部ではなく、
神奈川県三浦半島の先端にある漁業の町・長井にあった「神奈川水産国際研修センター」で主に実施されていた。
座学は勿論だが、各種の沿岸漁業実習がその長井の地先海面で行われていた。本部のコース担当者が任務としていたのは、
外務省技術協力課や水産庁の国際協力課との募集要項の協議と作成や、研修員の募集・選定などに関する連絡調整(リエゾン機能)、
その他修了証書の発行など極めて限られたものであった。漁業に関する技術研修の実質的な運営管理に携わりたければ、同水産研修センターに勤務
する他なかった。
さて、海との関わり合いが最も深かったのは、運輸省傘下の海運局、港湾局、海上保安庁が協力する集団研修コースであった。両局や同庁がコアになって、
海運、造船・船舶設計、海上安全・保安・海上防災、船舶交通管制、灯台・航路標識整備、水路測量・海図作成、
港湾運営管理、コンテナ輸送、海上無線通信、マラッカ海峡航路標識整備などに関連する多くの集団研修コースが実施されていた。
コース実施に当たっては、海上保安庁水路部をはじめ、港湾の管理や建設、船舶設計・安全、海上交通などに関連する政府の研究
機関や公益法人などと密接な連繋を取り合っていた。
農水省、水産庁や運輸省関与のそれらの研修コースの運営は他課他班の職務であったが、研事部に長く在籍すると、
いろいろなサイド情報に接することができた。研修プログラムの座学や実習の概略などについて、同僚担当者を通して何かと研修関連
情報に接する機会があり、それだけでも自身の励みと刺激になった。もちろん、研事部の職場内や図書館などで、研修で使用される
テキスト類、研修員の修了時報告書や母国での所属機関・職務関連資料、帰国研修員に対する現地巡回指導報告書などに目を通し
たりして何かと学習することができた。
休題閑話。私が担当した集団研修コースの中にも海と深く関わりをもつコースがあることを発見し、それに大いに喜び職務に精を
出すことができた。私的には、担当するコースが海と少しでも繋がっているのと、そうでないのとでは、張り合いや遣り甲斐が
大いに異なっていた。海と繋がっていれば、自然と仕事への励みとなった。さて、海と最も繋がっていたコースとは通産省工業技術院
地質調査所から濃密な協力を得ていた「沿岸鉱物資源探査」であった。
同コースのミッションは、沿岸域における各種の海洋資源探査などの技術を学ぶことであった。海底の地形調査や
コアサンプリング(柱状コアの標本採取など)などによる地質調査の他、大陸棚下部の物理構造を明らかにするための地震探査法
などを座学と実習を通じて半年間近くにわたって学習するというものであった。探査の主要対象資源は
海底石油・ガスであった。コースの中核となる研修実施機関は、当時通産省工業技術院傘下にあった「地質調査所(GSJ)」
であった。同調査所を幹事役にして、数多くの政府系研究機関とそれらに所属する大勢の研究者が連携をとりながら、
充実したシラバスやカリキュラムを長年に渡り築き上げていた。
地質調査所はカリキュラムの編成と執行の中心的役割を担っていた。各関係研究機関のベテラン研究者らに講義を割当て、コース用の独自の
テキスト・資料の作成、実習計画の作成とその実施に必要とされる諸準備など、コースの実施体制作りを請け負ってくれていた。また、
地方への研修旅行の計画立案、研修修了時の評価会の司会進行や取り纏め、次年度の研修へのフィードバックなど、コース全般の運営を
担ってくれていた。
沿岸鉱物資源探査コースに関わった協力関係機関としては、当時の公害資源研究所、金属鉱業事業団(MMAJ)、石油公団、海洋科学
技術センター(JAMSTEC)、工技院の工業技術研究所、東京大学の海洋研究所、その他海洋開発会社など多数に上った。毎年、
10数か国から、海洋研究をはじめ、海洋物理・地質学、地球物理学などの研究を専門とする政府系研究機関や大学付属研究機関などから
研究者や技術者たちが参加していた。法学のバックグランドしかもたない私は、米国に1年ほど留学していた時は別にして、海洋自然
科学系や工学系に関わる国内の研究機関やその傘下の研究者らと交わる経験は一度もなかった。それ故に、日本国内においてそんな
機関や研究者らと関係をもてることは大変新鮮であり光栄なことであった。
沿岸鉱物資源探査コースの研修修了に当たっては、全研修員をはじめコースリーダーや主だった講師陣らの大勢の
コース関係者が出席する中、研修員一人ひとりから研修報告を受けるための評価会が地質調査所にて開催された。各研修員は研修
プログラムについて思い思いの評価や所感を発表し合った。研修の成果や課題は勿論であるが、学んだ知見の帰国後における実践的な
活用計画などについても発表した。評価会の第一義的な目途は、来年度の研修プログラムを少しでも改善するために有効な情報を
フィードバックすることである。評価会にはプログラム担当者として、何を差し置いても出席し、評価を共有するよう努める必要が
あった。海に繋がるこのプログラムを3年間担当できたことは大変幸運であり光栄であった。
米国留学後初めて、自然科学系の日本を代表する錚々たる海洋研究機関やそれらの研究者や実務関係者と接点をもつことができ、
何がしか海にまつわる職務経験を積み重ねることができた。研事部に配属された時に多少の期待をもってはいたが、研修業務
を通じての海との繋がりは期待以上のものであり、嬉しい限りであった。
そんな中で残念なことが一つだけあった。研修を受託する中核機関の地質調査所をしばしば訪れ、業務打ち合わせをしたり、
研修員の受講状況を垣間見たりしたけれども、他の協力機関を訪ねる機会はほとんどなかった。カリキュラムのほとんどが地質
調査所で実施されたためである。権威のある高名な海洋地質学者や海洋学教授などの講義の末席を汚し、時にじっくり拝聴し、
海洋調査関連知見を増やし今後の糧にしたかった。だが、時間的にみて到底叶うことはなかった。とはいえ、担当者としてプログラム
運営の一端に携わり、研修員らを支えることに大いに誇りと遣り甲斐を感じていた。
海洋関連の研究機関が身近なものに感じられたことも、もう一つの励みと喜びであった。日本の主要な海洋関連機関がどのような学術定期刊行物を発行し、
どのような海洋科学論文を掲載しているか、大いに関心をもてるようになった。それまではそのような刊行物をひも解く
機会もなかった。調べてみると、JICA図書館はそれらの機関から定期刊行物の無償提供を受けていた。バックナンバーをはじめ
最新号をいつでも閲覧できた。図書館にはそれ以外にも、数多くの国内外の学術雑誌などが揃い、
海にまつわる知的好奇心を満たすことのできる場であること、さらにそれらを日常的に活用できる立ち位置にいることを知ることに
つながった。途上国の国別研究については最適の場であることにも気付いた。
因みに、地質調査所は「地質」という自然科学系の定期刊行物を発行し、東シナ海の大陸棚の地質のことや、太平洋でのマンガン団塊の
調査航海記録や関連論文などをたまに掲載していた。海洋科学技術センターは別の刊行物を図書館に提供していた。それはほんの一例である。
図書館はそんな海洋研究関連機関発行の刊行物などを揃え、身近な知の宝庫として存在していた。もちろん、水産関連の政府系研究機関や「海外漁業協力財団」などの水産公益法人が発行する定期刊行物や研究報告書なども
閲覧することができた。時に複写をしてもらい、後日じっくり熟読することで、新しい知見に触れるとともに、海への関心を持続させ
絶やさないための機会とすることができた。
さて、特筆に値するチャンスに巡りあった。東欧ユーゴスラビアの技術者一名(リュブリャーナ出身)を、深海底マンガン団塊の採鉱技術視察のために受け
入れることになった。それは海とのつながりを最も強烈に引き出してくれた個別研修コースであった。通産省・文部省・科技庁担当
の第2班の私に、全く思いがけずそのコースを担当する役目と機会が回って来た。何とラッキーであり、もろ手を上げて「ウェルカム」であった。
張り切って、じっくりと真剣かつ楽しみをもってその研修プログラム作りに取り組んだ。
私がそれをプログラミングするに最たる適任者であろうと、内心秘かに自負した。事実適任者に違いなかった。ワシントン大学でマンガン団塊の採鉱技術
やその海洋環境影響評価について、一学期間じっくり取り組んだことがあった。さらにまた、国連海洋法会議での団塊開発レジームの
ことについてもかなり学究した。当該プログラミングは、自身の「海への回帰」の実務的延長線上にあって、その回帰をさらに深化させて
くれ、なおかつその回帰への喜びを最も実感させてくれるものであった。当該研修の要請は、国連工業開発機関(UNIDO)から外務省経由で
寄せられたものであった。
UNIDOからの研修要請書と研修員の履歴書の「A2・A3フォーム」を目を皿のようにして熟読した。要請された研修とは、端的に言えば、日本に
おける深海底マンガン団塊の採鉱技術開発に関する現況を視察したいというものであった。日本の技術者との間で議論したい具体的な
テーマがある訳ではなかった。採鉱プロセスのうちのある特定技術の開発現況を知りたいとか、当時の国連海洋法会議での議論の
焦点になっていた探査開発制度やその具体的課題・争点について日本側行政官や技術者と意見交換したいとか、同フォームにはそのような
具体的要望についての記載は特になかった。
ユーゴ研修員のためのプログラムの作成に零から取り組んだ。参考にできる過去の類似研修プログラムはなかった。わずか10日ほどの短期滞在に
よる視察型研修であった。沿岸鉱物資源探査コースを通して繋がりを培ってきた地質調査所に一切のプログラミングを依頼すること
もできたが、そうはしなかった。短期の研修であり、日本での団塊採鉱技術の研究機関はごく限られていたので、自身の知見と経験値
の向上を兼ねて、自立的にプログラミングすることに挑戦した。A2A3上の余り明瞭でない記述をいろいろ意訳してみたり、またあれこれ忖度
しながら、5~6の研究機関に研修・視察の受け入れを依頼した。因みに、その目的と視察希望内容の他に、意見交換を希望する項目・
内容などを正式文書にしたためた。もちろん、通産省の国際協力課に仁義を切った。その後は関係機関窓口の担当者に直接に連絡を取って、
研修・視察の要点などを口頭説明しながら協力を依頼した。こうして、零からプログラムを組み立てるのに、1~2週間を要したが、実に楽しい職務遂行となった。
私は、訪問先の筆頭として地質調査所、次いで公害資源研究所、さらに海洋科学技術センター(JAMSTEC)、
東大海洋研究所、金属鉱業事業団などをコアに据えた。日本は当時ワンチームになって、地質調査所や金属事業団などの諸機関は
協業しながら、「白嶺丸」などの調査船をもって、太平洋ハワイ諸島南東方面海域のクラリオン・クリッパートン断裂帯近傍のいわゆる
「マンガン団塊銀座」と称される富鉱帯で、団塊探査航海を繰り返していた。
団塊採鉱に関わる政府系研究機関や国立大学などの視察をはじめ、当該分野で最先端を突き進む錚々たる学者・研究者らとの
意見交換が可能となるように、プログラムを練り上げた。さらに、可能な限りユーゴ研修員に同行して、自身も団塊採鉱技術開発の最前線の現場で、それら
の研究者らから直接説明を受ける絶好の機会をもつことができた。全てに同行することは無理であったが、地質調査所、公害資源研究所
やJAMSTECなどには同行できた。JAMSTECに同行した折には、海洋エネルギー開発、特に波力発電分野での権威である益田氏との面談にも
立ち会うことができた。
ワシントン大学にて、マンガン団塊を巡る国際探査開発レジーム、先進諸国での探査・採鉱の技術開発現況、さらには採鉱にともなう
海洋環境への影響評価などを学んだことが、このプログラミングのための予備知識として、自信をもって役立てることができたことは
望外の喜びであった。それなりに秘かに自負するところであった。
ところで、マンガン団塊開発レジームについての国連での議論に少しだけ立ち戻りたい。鉱物資源開発に要する技術・資本力
を有する先進諸国は、国連第三次海洋法会議当初から、マンガン団塊をできるだけ自由に探査・開発することを望んでいた。
1973年に同会議の第一会期が開催されて間もない頃には、深海底マンガン団塊などを「人類の共同財産」として、
その探査・開発は新設される予定の国際機構による一元的管理に服することを頑なに主張する諸国があった。即ち、東欧諸国を含む発展
途上国の「グループ77」と呼ばれる国家集団である。他方、より緩やかな管理の下で探査・開発を進めたいとする先進諸国とが激しく対峙していた。
米国、英国、フランスなどの先進諸国の民間開発企業体は、団塊の探査・開発において、国際機構からライセンスを取得し、その対価
として一定の合理的な登録料や許認可料あるいはロイヤルティを支払うという「ライセンス方式」を主張していた。そして、国際機構
に求める機能としては、企業体にミニマムの鉱区登録料を納付させること、そして開発企業体間における申請鉱区の重複などの
利害調整を果たすことに限られるべきというものであった。
これに対して、G77は、設立される国際機構の一元的な国際管理の下で探査・開発が行われるべきことを主張していた。
国際機構が探査・開発・精錬・販売・収益の配分まで主体となって行なう権限をもつことを念頭においていた。だがしかし、
機構そのものは技術・資金力をもてそうになかった。このことから、先進諸国の企業体は、機構自身の事業体とジョイント・ベンチャー
契約を交わし「雇われ操業者」となって探査・開発活動に参加するというものであった。
いわば「ライセンス方式」と「直接開発方式」の二方式が、同会議初期段階において、先進諸国とグループ77間で鋭く対峙していた。
そして、1975年当時はまだ、その対立の行方は混沌とし、レジームにつきいかなる合意形成に落ち着くか、全く見通せる状況にはなかった。
米国が両グループ間の膠着状況の打開を図るために重要な提案を行なったのはその1年ほど後のことである。即ち、1976年第4春会期
において、米国キッシンジャー国務長官が次のような提案を行なった。国際機構は、その下部に組織される事業体をもって直接開発
することも、また国家企業体や私企業体が国際機構と契約を交わし探査・開発することもできる。企業体は、開発に当たっては、
同等の商業的価値を有するの二の鉱区を申請し、一方の鉱区において開発が許可され、他方の鉱区においては機構の事業体や途上国
による開発のために留保される、ということが提案された。
ところで、ユーゴスラビアは「グループ77」に属していた。同グループのコアは東欧諸国を含む発展途上国であった。
研修員が来日したのは1978年であった。米国務長官の先の提案がなされていたので、議論は大いに進展するところがあった。
先進・途上国間の対峙は基本的に、探査・開発に従事する事業主体はいずれとするかであり、それが最も際立った
対立点であった。それが打開される方向に進んだとはいえ、開発レジームに関する議論の対立点はそれだけでは済まず、後々幾つもの
重大な争点が浮上していた。
全ての重大争点の決着を図って条約案採択に漕ぎ着けるためには、その後7年以上もの年月を要した。その大きな要因は、それら
の争点の合意形成がはかどらなかったことによるものであった。例えば、重大争点の一つとなったのは、開発したい先進諸国の企業体
に対して、国際機構の事業体への採鉱技術などに関し強制的な技術移転を義務付けるかどうかを巡るものであった。
特に争点は第三者の技術に絡む移転義務の有り方に集中した。途上国は、企業体が国際機構と契約を結ぶ際、その企業体が使用する
技術につき申告させ、機構の事業体に無償でそれを使用させるべきことを主張したのである。先進国はそれに反対で応じた。
視察に訪れたのは「グループ77」の構成国であるユーゴスラビアからの研修員であることから、日本の研究諸機関を視察しながら、
その義務的技術移転についてどう考えるか、どうあるべきかという設問を胸の内に秘めながら、その解を探っているのであろうと推察
した。だが、彼に同行した期間中、そんな類いのことは話題にされることはなかった。故意に避けていたのかどうか、その真意は
分からない。研修員の関心は純粋に日本の探査や採鉱技術開発の状況やレベル、課題などの技術論に主眼をおいた視察であったようであった。
団塊採鉱技術の視察プログラムの作成とその同行案内に自信をもって、また大いに楽しく取り組んだ。だが、
このような海洋法制・政策・技術開発関連テーマに直結するようなプログラム作りはこれが最初で最後となった。とはいえ、一回だけでもその機会に恵まれた
ことは、私的にはJICA職務遂行上の大きな励みと刺激となり、自身を大いに鼓舞させてくれた。実に貴重な機会に恵まれた。研事部での
仕事への満足度は、それだけでも100%であった。
かくして、研事業部にほぼ3年(1976年~1979年)勤務したが、その間沿岸資源探査研修コースの運営や、深海底資源開発技術視察の
プログラミングに大きな喜びや遣り甲斐を感じながら、研修員受入事業全般にわたり楽しく取り組むことができた。
大勢の「異邦人」と正面から向き合い、「人づくり」の一端を担うことができた。将来彼らが「国づくり」に本領を発揮することを
願いながら、わずか3年間であったが、そのための「種播き」の一翼を担うことができた。「異邦人」と時に心を通わせながら、
彼らの異文化や個人的な価値観を学ぶ場と機会でもあった。また、国内外の幾つものヒューマン・ネットワークを築く場ともなった。
国際協力という仕事にかかる「経験値」をワンポイント上げることができた。次はどんな部署でどんな職務に取り組めるのか楽しみに
した。
ところで、私的には、JICAへの奉職という奇跡的幸運の他に、もう一つの幸運に巡り会った。JICAという職場
における「人生の伴侶との出会い」である。朝日新聞の広告に目を止めたのが、その後の一年に起こった全ての幸運の始まりであった。
JICA奉職に繋がっただけでなく、さらに人生の伴侶との運命的な出会いをもたらした。妻は研修第3課でスペイン語の監理員をしていたが、
当時は監理員(嘱託)の採用などの内勤の仕事をしていた。私とは半径5メートルの円内の世界に居合わせながら仕事していた。
幸運にもJICAに奉職することができ、その上人生の伴侶にまで巡り合い、私の人生に割り振られた幸運
をこれで全ての使い果たしてしまったと覚悟したほどであった。「幸運の女神」から一年のうちに二つもの人生最大の贈り物を
授かったからである。因みに、JICAに入団してから9か月後にゴールインした。
研事部をそろそろ卒業することが視野に入って来た3年目の後半に入って、海外出張の機会が巡って来た。エジプト、
トルコ共和国、フィリピンの3ヶ国への出張であった。業務は「地熱エネルギー探査コース」に参加したそれら3ヶ国の研修員
とその所属機関を訪問し、彼らの現況と課題について、コース実施機関であった九州大学教授らと巡回訪問し、調査することで
あった。
調査業務に真剣に向き合うのは当然のこととして、他方で個人的には中近東地域のアラブ・イスラム諸国の海の景色をこの目で眺め、
眼底奥のスクリーンに一度は投影してみたいと渇望していた。エジプトでは特に古代文明の母なる大河ナイル川の畔に佇み、古代文明
を感じたかった。トルコでは現地踏査する道中のいずれかで地中海の紺碧の海の欠片でも垣間見たいと思っていた。旅程では
イスタンブールの総領事館への報告が含まれているので、「国際海峡」として有名なボスポラス海峡と、歴史的に名高い海戦の
場となった「金角湾」とそこに架かる「ガラタ橋」を通りすがりでもよいから垣間見たかった。国際海洋法上「群島水域国家」と
定義されるフィリピンの眩しく銀色に輝く南洋の海のこと、マニラ湾に沈む美しい夕日などを見れることを楽しみにしていた。
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