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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第3節 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)


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     第6章・目次
      第1-1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その1)
      第1-2節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)
      第2節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第3節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第4節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
      第5節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す



  JICAで最初の配属先である研修事業部に勤務して3年目の後半を迎えていた1979年1月のことである。初めて海外出張の任に預かることになった。 「公用旅券」と呼ばれる、公務のための海外出張用パスポートは、その表紙がグリーンであった。 「赤パス」と言われる一般旅券を、旅行エージェントの担当者を通じて外務省に預け入れした上で、公用旅券を携行することが 許されていた。同時に二種のパスポートを所持することは厳禁であった。出張先は、中近東のアラブ・イスラム文化圏のエジプトとトルコ共和国、 そして長くスペインと米国の統治下にあったフィリピンの3か国であった。生まれて初めてイスラム世界へ足を踏み入れることになった。

  「地熱エネルギー探査技術」という集団研修コースは、過去10年以上にわたり、九州大学工学部を主な研修受け入れ機関にして実施されて きた。研事部でのコース担当者は私ではなかったが、何故か運よく、海外出張のお鉢が回って来た。集団研修コースが10年以上経過した場合には、 研修員の帰国後の活動状況を視察し、彼らと技術的な意見交換をしながら技術的課題を探ったり、また研修に対する意見や 要望をヒアリングしたりして、今後の研修改善に向けフィードバックするために、幾つかの国を巡回することになっていた。集団研修コースの 帰国研修員に対する巡回指導という名目で予算的に認められていた。慣例として、研事部配属3年目の職員が推薦され、その任に預かる ことになっていた。

  巡回指導調査団は当該コース運営のリーダーを長く務めてもらっていた工学部教授を団長にして、工学部事務長と私の3名で 構成された。私は「業務調整」という役割りで参加した。と言っても、出張中何をどうすればその任務を果たせるのか、余り 理解できていないままの出立であった。私には地熱エネルギー探査・開発などは門外漢であったが、団長からすれば、当該研修の充実化 の方策を探るための絶好の機会であった。3ヶ国において帰国研修員が所属し勤務する地熱エネルギー資源開発関連の政府系研究所や公団、 地熱発電のフィールドなどを訪ねることであった、先ずは現場を知ることが何よりも大事であった。そして、研修員が日本での当該研修で得た知見の利活用状況や彼らの 抱える技術課題などを探り、研修プログラムの改善に活かすものである。

  ところで、私は少なくとも現地の国内交通費、小型飛行機レンタル代、会議費、資料購入費などの百万円近い業務用公費を右ポケットに、 左ポケットには宿泊費・食費などの出張公費とその他の私金を忍ばせていた。公金ゆえに一円単位まで厳格な管理が求められるのはよしとしたい。 だが、3ヶ国を巡回するとなると、円貨と米ドル貨との間で計2回の換金(出発時と帰国時)、さらに3ヶ国の出入国を繰り返すたびに ドル貨と現地通貨との換金6回、総計して8回にわたる換金ということになる。 実際に手にする現金と領収書・換金証書類との辻褄合わせ、それに帰国後の精算書づくりが複雑怪奇の作業となる。出張者にとっては 意外とこれが最大の頭痛の種であった。私金の換金も勘定に入れると少なくとも合計16回にもなる。移動するたびに使い物にならない コインでポケットは膨れ上がる。

  公金管理と精算書類作成の実際上の慣れ、そして会計規則の理解度が問われる問題であったが、精算要領をしっかりと飲み込んでいないと、 1円単位まで適正に会計処理するまでには相当苦労させられる。 コインについては少額なのでドル貨に換金しようにも受け付けてくれない。次の国に入国する前に間違いのない適正な会計処理をして おかないと、後々精算処理上の辻褄が全く合わなくなる。どうしても合いそうもなければ、「私金で自己負担する」とか、「少額につき 空港での公式換金は不可能」などとするほかない。それらのちょっとした要領を知らないと、どうもがいても、公金の現ナマと精算帳簿とは合わせられない。 これには随分と泣かされることになった。さて、出張期間は、1979年1月21日から2月7日までの約2週間であった。

  自らの五感をもって、その国の人々の実際の暮らしぶり、風俗風習をはじめ、自然風景を見聞することは最高の喜びであった。 興味は尽きることがなかった。経験値が一気に上昇することにつながった。特に、初めての異国に足を踏み入れ初めて観るものは 全て珍しく印象深いものとなる。私的には、外国出張を巡る高揚感は日本を出発する前から随分とヒートアップした。そして、3ヶ国のそれぞれの地に自身の足 を踏み入れ、その地の空気を吸い、匂いを嗅いだ瞬間に最高潮に達した。

  私は、地熱エネルギー探査・開発に関することは専門外であったし、地熱エネルギー探査コースの担当者でもなかった。だが、自然再生可能 エネルギーの利用開発形態の一つとして大いに興味があった。何故ならば、波力、温度差、潮汐、海流などの海洋エネルギーの 開発とは、「再生可能エネルギー」という点で重なり同一線上にあることから、多少は地熱エネルギーに「親近感」をもっていたからである。

  結論的には、地熱エネルギー開発途上にあるフィールドや、既に稼動中の地熱発電所などの最前線を回ってみて、再生可能エネルギー資源としての開発可能性の 高さを強く感じることになった。また、3国を回る過程で、地熱エネルギーに対する知的好奇心を高め、学びの対象とすることに目覚め ることに繋がった。地熱エネルギーのことを知ることの新鮮さや面白さを実感した。

  日本をはじめ、フィリピンやトルコなどは、 石油・天然ガス資源に余り恵まれてこなかった。他方で、数多くの火山が国内に存在するなど、その地球科学的な観点からして、 地熱エネルギーのポテンシャリティーは極めて有望である。自然環境に十分配慮しながら、その開発可能性を探求する価値が大い にあると思える。クリーンで再生可能な自然エネルギー源の多様化を促進するうえで、大いに期待できるものの一つであるとの確信 をますます強くするようになった。

  だが一方で、開発には幾多の課題がつきまとうことも理解できた。いつの時代においても、地熱エネルギーが賦存する 最適サイトの特定化、開発可能な総熱量(地下の地熱貯留槽の規模・量)やその持続性などについての技術的見極めにはいつも困難を伴う。 それらは発電プラントの規模、累積発電総量や耐用年数、建設コスト、開発の収支バランスなどに直結するからである。また、ヒ素などの有害 化学物質の混じった熱水や蒸気を大量に放出すれば、周辺環境への負の影響が懸念される。地方自治体や地域住民との共生や互恵が求められる。 また、国立公園の保全や自然環境への特別な配慮も欠かせない。あれこれと考えながら、帰国研修員の探査・開発に取り 組む真剣な眼差しにエールを送った。JICAの研修が「国づくり人づくり」に役立ちつつあると実感できる現場に立てることは 大きな喜びであり誇りであった。

  もう一つ個人的に嬉しかったのは、海との接点についてのヒントを得た事である。先にも少し触れたが、海には波力・温度差・潮流・ 海流などの再生可能な自然エネルギーが内包することを再認識させられた。今後、海洋エネルギーの利用開発にも改めて自身の関心 を寄せ深く学んでいく意欲を掻き立てられた。そして、いつでもどこでも海への関心や海との繋がりをもち続けたい私としては、 3か国を巡回しながら、当該国の自然地理や歴史的な出来事と海との接点を追い求めるという視点・視座を得ることができた。 かくして、当該国の海にまつわる面白い史実やエピソードを交えながら今回の出張を振り返ってみることにしたい。

  エジプトでは、最初に、カイロ市街にあるリモートセンシング技術研究所を訪問した。そこで、帰国研修員らと技術懇談会をもち、 リモートセンシング技術を応用した地熱エネルギー探査などについて意見交換した。午後には、別の帰国研修員グループと彼らの家族 をも交えながら懇談した。実は思いがけず、案内されたその場所で感動と感激に浸ることができた。カイロ市街を南北にナイル川が 貫通するが、そこにシテ島と言う中洲が浮かんでいる。懇談の場となったヒルトンホテルはそのシテ島の川下の一角に建つ。カフェを楽しむテラスからは、眼前左右180度の 視界にてナイル川が広がっていた。

  時空を超えて悠然と流れゆく大河ナイル川を眺望することができた。生まれて初めてじっくり心置きなく眺め得たナイル川の 流れであった。一度は川岸に立ってみたかった大河がそこにあった。私的には、一生に一度はこの目で見たかった悠久の流れを、その 畔に座して眺めながらカフェを味わえることだけでも大いに感謝であった。これが5、6千年にわたり古代エジプト 文明を育んだあの母なる大河ナイル川か、と思うと感動で鳥肌が立ってしまった。眼球奥のスクリーンにしっかりと 焼きつけた。

  翌日ギザ経由で、地中海沿岸の商業港湾都市アレキサンドリアへ向けて北上した。ギザにはクフ王などの、巨石を「積み木」したあの ピラミッド3基とスフィンクスが、土漠に悠然とそびえ立つ。ピラミッドの下に立ち積み木石をまじまじと見上げた。 その半端でない巨大さに度肝を抜かれ、その感動は生涯忘れえないものとなった。現在ではピラミッドのすぐ傍に、 ファラオが冥土に旅するために埋葬された木造の古代船が復元され、「太陽の船博物館」として展示される。だが、当時にはなかった。 復元古代船を拝観できたのはずっと後年のことである。今では第二の太陽の船が発見され復元されつつあるという。

  通りすがりであったが、ピラミッドを垣間見た後、砂漠の中を貫通し地平線の彼方へと消えゆく道路を疾走した。見渡す限りの 砂漠の世界を走る初めての体験となった。鳥取砂丘しか知らなかった私は、地平線のはるか彼方まで埋め尽くす砂や土だけの風景を車窓から 飽きもせず眺めていた。何事も初めての体験は新鮮にして観る者を飽きさせない。ギザからアレキサンドリアへ通じる砂漠ルートの ドライブも初めてゆえ、興味津々にして楽しんだ。

  アレクサンダー大王の東方大遠征において築かれた都市アレキサンドリアは、古代ローマ時代にはすでに地中海の重要交易拠点の 一つであり、またオリエントの世界へとつながるシルクロードのゲートウェイでもあった。東洋世界からの多種多様なスパイスなどの 交易品がこの地で船積みされ、西洋世界へと運ばれた。港には「世界の七不思議」の一つと謳われる巨大なファロスの灯台がかつてその港口に そびえ立っていたというが、巨大地震で海底に崩れ落ちたとされる。

  さて、そのファロスの灯台跡に15世紀に建立されたのが「カーイトゥベーイの要塞」である。内部は海軍博物館になっているという。 また、港近くの海底遺跡から古代エジプト・プトレマイオス朝のクレオパトラ女王の治世時代 (紀元前51-30年) に神殿に使われた と見られる、塔門の一部が引き揚げられた。2009年12月のことである。いずれ将来には博物館が建設され、 それらの海底遺物などが展示される予定だと言われる。通りすがりに要塞を見た記憶はあるが、アレキサンドリアでは市街中心地と 海岸通りを直線的にドライブしただけで、何か地熱関連施設を訪問したかは記憶が定かでない。

  地中海沿いの海岸通りでしばし車の行き足を止め、暫く佇み地中海の海をじっくりと眺める機会があった。私は、 煙草の煙を揺らしながら、ブルースカイとブルーシーの境目が砂漠の砂煙か何かで何となくはっきりしない水平線に目を やりながら、感慨の面持ちで眺めたことを記憶に留めている。時に眼前の埋立て人工海岸のような磯辺に 打ち砕ける波を覗き込みながら、生まれて初めて見る地中海を前に、感激の大きなため息をついたのは一度や二度ではなかった。 帰途はルートを変えて、グリーンベルトをドライブした。緑溢れる穀倉地帯を貫く国道をナイル川沿いに一路南下した。 ナイル川の増水によって太古の昔から広大な河口デルタを冠水させ、土地を肥沃にさせたことを思い描きながら、車窓を流れる田畑 や椰子林などの風景を眺め続けた。

  もちろん観光に来た訳ではない。目にしたほとんどの都市・農村風景、そして自然風景は、公務中の通りすがりであった。 だが、強い憧れの気持ちを胸に抱き、何時しか見てみたいと思っていた風景に初めて出会うと、時に生涯忘れえぬ強烈な印象と感激 をもたらしてくれる。テレビや教科書や地図帳でしか知らなかった、あのナイル川の悠久の流れ、巨石の「積み木」のピラミッド、それを守るスフィンクス、 古代より船乗りが航海するには手頃なサイズの「大地に囲まれた池のような海」であったはずの地中海の海風景など。それらは 脳裏にしっかり焼き付けられ、生涯忘れ難いものとなった。

  再びカイロで技術懇談会などをこなした後の夕刻、閉館直前の「エジブト国立博物館」に駆け付け、館内を駆け足で見て回る機会 を得ることができた。時間があれば、5分でも10分でも見てみたいという思いであった。一歩でも足を踏み入れるか、あるいは、またの機会とするかは大違いである。 団長らのそんな思いは、何日間か旅を共にすれば、すぐに読み取れた。何千年も昔の数多くの古代ミイラ、ツタンカーメンの「黄金の マスク」、古代エジプト象形文字が刻まれた石柱など、展示室の幾つかに狙いを定めて駆け足で巡った。5千年以上の歴史的遺物に 息つくことも忘れるほど圧倒された。「一瞬でも垣間見た」ということだけでも、団員の個人的な経験値をアップさせてくれた。

  だが、残念なことに、滞在中スエズ運河を垣間見る機会すらなかった。運河の畔に立って初めてじっくり観ることができたのは、 サウジアラビアに赴任中の2007年4月のことであった。エジプト出張から30年ほど後のことである。 とにかく、トルコ共和国もそうであるが、エジプトという初めてのアラブ・イスラム文化圏への足の踏み入れでもあった。エジプトもトルコも 歴史が濃密に積み重なった国であり、またイスラム世界の一大中核的国家であったことも、私的には旅中常に興奮を惹起させてくれた。

  さて、カイロからトルコ共和国の首都アンカラに2時間ほどで足を踏み入れた。国立鉱物資源開発研究所を訪ね、帰国研修員と地熱 エネルギー探査や開発の現況や課題などについて意見交換した。その後、陸路で西部地方にある地熱開発フィールドを目指した。 途中、同行の帰国研修員が気を利かして、道中にあるパムッカレに立ち寄ってくれた。そこには、ユネスト世界自然遺産に登録される 石灰岩の自然地形があった。石灰岩の融解でできた真っ白なミニプールに、透き通るような淡いブルーの水を湛え、何とも言い難い 神秘さを漂わせていた。そんなプールが何百も棚田状に連なる。自然が創り出した美の芸術作品の代表例のようなもので 圧巻であった。暫し、目の保養となった。

  その後、地熱開発途上のフィールドを視察した。未だ発電プラントはどこにもなかったが、建設済みの大口径の配管からは白煙の 蒸気を轟々と吹き上げていた。見学後は、宿泊予定地のアンタルヤへ向かった。アンタルヤはトルコ南部の地中海沿岸の町で、そこで 初めて地中海らしい風光明媚なリゾート的港景を目にすることになり、さらに目の保養ができた。翌日には、ローマ時代の古代都市 遺跡が残るエフェソスを経て、領事館に報告するために東西文明の十字路と称されるイスタン ブールへと向かった。「世界がもし一つの国であったならば、その首都はイスタンブールである」と、かのナポレオンが語ったと伝え られる。

  「ああ、これが、あのボスポラス海峡か!」。車はアジア側のアナトリア地方から海峡に架かる小アジアと欧州側を結ぶ長大橋を 通過した。車窓から海峡を見下ろしながら心の中で思わず叫んだ最初の感嘆の言葉がそれであった。 橋は1973年に竣工した、全長1,074メートルの「第一ボスポラス大橋」、別名「ボアジチ大橋」である。眼下には海峡が黒海方面に 帯のように細長く伸びていた。「今、海峡をアジアからヨーロッパ側へと横断中」と独り言をつぶやきながら、感激で息つくことも忘れ、 海峡を凝視し続けていた。私的には、国際海洋法の学問領域に足を踏み入れて以来、ボスポラス海峡を一度は見てみたいと、その風景 を想像し続けてきた。イスタンブールはローマ帝国分裂後の東ローマ帝国、さらにビザンツ帝国、オスマン帝国と、3大帝国の都 として繁栄してきた。それらの文化が重層的に積み上げられ、そこにそれぞれの歴史が深く刻まれている。

  東西文明のクロスロードであるイスタンブールに足を踏み入れ、市街地の新興地区にある日本総領事館を訪ねる道すがら、数々の歴史的 建造物を目にした。その中で最も感激し身震いしたものは、ブルーモスク、トプカプ宮殿やオリエント急行の 終着駅舎、グランバ・ザールなどの代表的な歴史建造物ではなかった。釘付けになった第一のものは、現代の国際政治・ 軍事局面においても、また地政学的にも重要なボスポラス海峡そのものであった。

  旧市街地区には、海峡から枝分かれし内陸部へ深く入り込んだ金角湾という入り江がある。その湾口にガラタ橋と 言う有名な橋が架かる。橋のたもとで車を止めて暫し、大小の船がひっきりなしに海峡を縦横に行き交う風景を感激に浸りながら 眺めることができた。橋の中ほどでは太公望が竿を垂れて憩っていた。さて、当時のソ連や現代ロシアにとっては、海峡は死活的に重要な海上交通のチョークポイントである。南はマルマラ海からダーダネルス海峡を経てエーゲ海へと繋がり、さらに地中海からジブラルタル海峡 を経て大西洋へと繋がる。そして、北はボスポラス海峡を経て黒海へと繋がる。

  ロシアなどにとっては、ボスポラス海峡は、黒海から地中海を経て世界の大洋へ出る上で通航しなくてはならない 死活的に重要な要衝である。かつて、海峡の航行権を確保したい帝政ロシアと、それを抑制したいオスマン帝国や西欧列強諸国の間で長く 政治的駆け引きがなされ続けていた。その通航制度をどうするかは、19世紀以来長く軍事上の国際問題となっていた。 現在は、1936年締結の「モントルー条約」により、トルコ領内にあるボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡の通航制度 が定められている。海峡での商船の自由航行、軍艦の通航制限、航空機の海峡上空の通過制限などが定められている。

  航空母艦、ならびに8インチ(20.3cm)以上の口径の艦砲を搭載する「主力艦」は、通過できないものとされている。 また、同時に通過する軍艦の排水量は総計において1万5千トン以下であること、その隻数は10隻未満でなくてはならない。 ただし、「主力艦」はこの限りではなく(空母、8インチ以上の砲装備艦は除く)、1隻までならば排水量に制限はなく、随伴艦も2隻まで 認められた。

  イスタンブールで感涙し身震いしたものの第二は、既に触れた「金角湾」とその入り口に架かる「ガラタ橋」そのものである。 細長く奥行きの深い「金角湾」はイスタンブールの欧州側にあって、新旧の市街地を隔てているように見える。旧市街地は その一方の湾岸に広がり堅牢な城壁に囲まれ、トプカピ宮殿やオリエント急行駅舎などが立地する。 新市街地はその湾をはさんで反対側の小高い丘に広がっている。1453年当時にあっては、ビザンツ帝国はほぼ全領土を失い、コンスタンティノープルという一都市のみの帝国となっていた。 だが、ビザンツ帝国側は、オスマン軍の攻撃に頑強な抵抗を示し、金角湾口の海中に太い鎖を渡し封鎖しようとした。オスマン艦隊の湾内 への侵攻を食い止める作戦であった。

  オスマン軍は、金角湾口から5キロメートルほど北のボスポラス海峡沿いにある海岸地点から、金角湾の少し奥にある 地点に向けて山野を切り開き道を造らせた。山道には丸太を敷き詰め、更にその丸太にたっぷりと油脂を塗らせた。 そして、闇夜に乗じて、ボスポラス海峡から軍船を陸へ引き揚げ、山を越え、金角湾へと運び入れた。 金角湾に突如としてオスマン軍の艦船が浮かぶのを目の当たりにしたビザンツ軍兵士らは、 一気に戦意を喪失したという。コンスタンティノープルは、これによって、1453年5月29日に陥落することとなった。ビザンツ帝国は ここに歴史上から消滅し、キリスト教世界からイスラム教世界へと文明的大転換を図ることになった。

  コンスタンティノープルは、後にイスタンブールと名を変え、500年以上にわたりイスラム文化に染まり今日に至っている。 ガラタ橋の端桁下にあるレストランでは観光客らで賑わい、さらに進むと大勢の太公望が釣り糸を垂れていた。ガラタ橋の欄干に身を寄せながら、ボスポラス海峡を横断する渡し船や、 旧市街地の丘の上にそびえるブルーモスクとそのミナレットなどが遠くに霞む情景を暫く眺めながら、感慨にふけった。 時に、太公望がその足元に置くバケツの中の釣果に目をやったり、金角湾奥に向かって広がる新市街の丘を見上げながら、空前絶後の 山越えの歴史やオスマン艦隊が金角湾に浮かぶ情景を夢想したりしていた。そんな歴史を刻んだ地に一瞬でも佇めることの嬉しさに感涙し 身震いするほど感激していた。海にまつわるその土地土地の歴史を学ぼうという情熱が湧き上り、鳥肌が身体中に立つほどであった。

  余談だが、領事館への報告後の夕暮れ時に例の「グランド・バザール」を調査団全員で足を踏み入れた。余りに広すぎるので、 待ち合わせ場所と時間を決めて、思い思いにぶらつくことにした。私は何か適当なゴールドのネックレスを買い求めようと、半分冷やかしの つもりである店に立ち寄り、その店主と値段の駆け引きをした。 定石通り彼の言い値の10分の1くらいから交渉を開始した。因みに、最も勇気の要ることは、店主が最初に口走った価格に対し、 10分の1というとんでもない低価格を言い出せるかどうかである。これによって、その後の競り合いや駆け引きの着地点がほとんど 決まってしまう。

  店主から振る舞われたチャイを飲んだり、交渉を一旦決裂させて店を出る素振りをしたり、本当に店を10歩ほど出てショーウイン ドウを眺めたり、他の品物に興味を鞍替えしてみたりして、優に一時間の交渉の末に半値くらいまで競り合い 最終決着を見た。時間が十分に取れない場合や、本心として全く買う意思がないことを見透かされた場合などは、駆け引きに負けること になる。押しと根気をもって臨むほかないが、日本人の場合厚顔さや強引さの無さが競り合いを邪魔しがちだ。 それに、とにかく時間がかかり疲れて来る。さて後に団長から教えられたことがある。店主がゴールドの重さを天秤式のはかりで量った訳であるが、それを聞いた団長が 「分銅とゴールドを入れ替えて再度量ってみたか」と私に問うた。つまり、天秤の支点がずれていないかを確認したかを問うたものである。 そこまで徹底できれば、プロの店主を相手に交渉する「勝負師」としての素質は十分であり、その心臓は本物であるに違いない。

  さて、出張の舞台を香港経由のフライトでマニラに移した。フィリピンは、日本と同じく環太平洋火山帯に位置し、数多の火山をもつ島国である。 フィリピンは、その地学的な特性を活かし再生可能な地熱エネルギーを開発できる最有望国の一つであった。同国もまた化石燃料 資源は極めて乏しく、石油のほとんどを輸入に頼ってきた。石油への依存度の軽減、エネルギー源の多様化に早くから真剣に取り組んできた。 地熱開発は、ルソン島南部のティウイ(Tiwi)という地方から1970年に始められた。そして、1970年代後半から1980年前半にかけて、 ルソン島でマク・バン(Mac-Ban)発電所とティウィ発電所などが操業を開始した。その後、1990年代にレイテ島、ネグロス島、 ミンダナオ島などにも開発が広げられて行った。

  我々団員は帰国研修員であるエネルギー省技術者らと共に、マニラから空路ルソン島南部のレガスピー(マヨン火山で有名)に移動し、 その後陸路を取った。椰子の樹林間を縫ってティウイの地熱発電所に辿り着き、稼動中のプラント施設をじっくりと視察した。1977年は 3メガワット級の実証プラント運転に成功していた。その後レイテ島のタクロバンへ移動した。現在ではフィリピンの地熱発電量は膨大で、 世界でも有数の地熱発電国となっており、再生可能地熱エネルギーに対する期待は今後とも大きい。その後、最後の訪問地セブ島に移動し、 翌日開発候補地をヘリコプターから視察して最後のフィールド行程をこなした。

  ところで、セブ市の市街中心地からすぐの対面に、狭い水道をはさんでマクタン島が浮かぶ。空港はセブ本島でなくそのマクタン島に あった。セブ本島と、豆粒のような小さなマクタン島とは、長大橋で結ばれている。マクタン島は史上初めて世界周航を果たしたマゼラン艦隊 のゆかりの地であり、世界的な歴史が刻まれた島であることは知っていた。だが、マゼランゆかりの史跡やスペイン統治時代の遺蹟 などには、出張当時全く縁も関心もなかった。余談だが、友人と連れ立って、セブ島を訪れそんな史跡や遺跡を見て回ったのは、 40年ほど後になってからの事であった。だが、フィリピンでの最後の公務出張の旅程においてマゼラン終焉の地マクタン島にごく短 時間でも身を置いたことは、後々マゼランらの大航海やマニラ・ガレオン船の歴史などへの興味へと広がった。

  さて、コロンブスが1492年からインディアスやジパング(日本)を目指して4回の探検航海を行ないながらも、結局は現在のカリブ海を右往左往 するばかりとなってしまった。他方、バルボアが1513年にパナマ地峡を横断し、「南の海」(マゼランは後に太平洋と名付ける) を視認した。その後、マゼランが、艦隊を率いて大西洋を西航し、その「南の海」へ抜ける通路を求め、かつ香辛料諸島へのルートを 切り拓こうと、スペインから出航したのは、1519年のことである。先ず、現在のウルグアイのラ・プラタ川河口近くに辿り着き、その地を 「モンテビデオ」(現在のウルグアイの首都)と名付けた。マゼランはそこから探検調査隊を派遣したが、結局それは「南の海」 へ通じる通路ではないこと、即ち遡上しても淡水の大河に過ぎないことを確認した後、陸沿いにさらに南下した。

  マゼラン艦隊は止む無くパタゴニアのサン・フリアンで越冬することとなった。翌年に再び航海に出たマゼランは、ついに、 「百万感謝する岬」と後に名付けた岬を発見した。西方へ奥深く続いている現在のマゼラン海峡への入り口の発見であった。 海峡を幾多の苦難を乗り越え帆走した末に、広々とした大洋に出た。彼が後に太平洋と名付けた海であった。後世に置いてその海が 「南の海」であることが明らかとなった。

  艦隊はその後暫く陸沿いに大洋を北上した後、北西へと進路を取った。後に分かることであるが、マゼランは大洋上に散らばる 数多くの島嶼に何一つ視認しぶち当たることなく、大洋を横断することになった。彼が辿った航程線は実に稀有なものとなった。 彼は大洋横断後マリアナ諸島(現在のグアム島とされる)を視認し上陸した。そして、さらにフィリピン諸島のマクタン島に上陸を果たした。だがしかし、 マクタン島にてラプラプ酋長率いる住民との間で戦闘を交え負傷した。マゼランはそれがもとで、その地で1521年4月に永眠するに 至った。

  セブ市街中心地の一角にはマゼランゆかりの十字架の遺構がある。また、その近くには、スペインの征服者がフィリピンで初めて 建築し、その後は築造が重ねられてきた「サンティアゴ要塞」の遺構が座している。また、マニラ近くの海域で発掘された、マニラ とアカプルコの間を行き来したいわゆる「マニラ・ガレオン」の沈船から発掘された遺物などが、マニラの国立博物館に展示されている。 出張当時それらの遺構などは全く知らなかった。それらを訪ね拝観したのは40年も後の私的な旅においてであった。

  ところで、マゼランが他界した後、最後の旗艦「ビクトリア号」の指揮を執ったエルカーノらは、1521年5月セブ島を出帆し、翌年9月 スペインへ帰還した。乗組員のピガフェッタが記録し続けた日記上の月日が、スペインでの実際の日付よりも一日進んでいたことで、 地球が丸いこと、さらに地球を周回したことが人類史上初めて実証された。人類が史上初めて「地球周回の実体験」したのは、今からわずか 500年ほど前のことである。

  余談だが、帰国時マニラ空港のチェックイン・カウンターで荷物の超過料金として300ドルほど請求された。3ヶ国も回ると収集資料が徐々に 増えて荷物が重たくなる。資料を日本に送付するための資料購送費という名目の公金も所持していた。それ故に、エクセス料金をそれで 支払えば事足りることであり何の心配も入らなかった。だが、それをすっかり忘れて口が滑ってしまった。カウンターで料金の値引き を願い出た。値切って200ドルにしてもらった。係員は「OK」と少しだけうなずいた。で、ボーディングパスを渡しながら、係員は 周囲に気を配りつつ、何と50ドルの袖の下を要求した。既に手続きが完了していたので、止むえず人に気付かれないように 手渡した。その直後に50ドルの領収書は入手できないことにはたと気付いた。私金を払って公金をディスカウントしてもらったのである。 最初から300ドルを公金で払っておけばよかった。だが、後の祭りであった。 失敗の経験値を一つ上げることができた。それだけがプラスであった。しかし、後にも先にも経験を生かせる機会は巡って来なかった。

  ところで、出張の過程で、海洋の自然再生可能エネルギー利用開発に関心を高めて行った。海にはどんな再生可能エネルギーがあり、 そのポテンシャルや原理について、また世界や日本のどこで研究開発され、その開発ポテンシャリティーや実用化の現況について、もっと学んでみよう と意欲が湧いた。世界有数の大海流・黒潮の海流発電はどの程度実現性があるのか。有明海での潮汐発電の実現性や採算可能性は どうか。離島での温度差発電の研究開発の行方はどうであろうか。世界や日本での海洋エネルギーの利用開発について触発され、 書物を読み解き学んでみようと知的意欲を一気に高めさせてくれた。今回の地熱エネルギーコース巡回指導調査との関わり合いのお陰 であった。実際、韓国西海岸に建設された潮力発電所を見学するため、隣国まで足を伸ばすほどに熱を入れるところまで、 その関心は「成長」した。もっとも、見学が実現したのはそれから 40年ほど後のことになってしまった。

  かくして、3ヶ国を回り、地熱エネルギー開発の現場を踏査し、帰国研修員と幾つもの懇談会を重ねながら、その探査開発現況など をいろいろ学んだ。彼らの活躍振りを通して、日本の技術協力が「国づくり人づくり」に幾ばくかの役に立っていることを間近で 知ることができた。また、異国におけるさまざまな社会事情、歴史、文化や多様な価値観などを肌で感じ学ぶことができた。 一担当者が関われる研修コースの数には限りがあるが、研修員の学びに役に立てるよう、また友好を深めることができるよう、「プログラム・ オフィサー」としてこれからも最善を尽くそうという決意を新たに帰国の途に就いた。また、私的には、異国を舞台にした歴史的 な出来事と海との接点や繋がりなどにもっと関心を払い学び続けて行きたいとの思いを強くした。3ヶ国では多くの 歴史・文化的場所や史跡などに立ち寄ったり、通りすがりに垣間見ることができ、見聞を広めることができた。 まさに経験値と知的関心を高める機会を得ることができた。

  最後に、研事部での3年間の勤務を総覧すれば、月給と年2回のボーナスをいただきながら、そして日本にいながらにして大勢の研修員と 彼らの異文化に向き合い、研修事業と言う技術協力・国際協力の一端を担い、また友好を増進することに寄与できた。 国際社会への何がしかの社会的貢献という意味では、国連における職務や使命に相通じるところがあった。また、 多少なりとも海と関わり合いをもつ研修コースの運営を担うこともでき、それはそれで望外の喜びとなった。海から遠ざかることは 最小限に抑えられ、海と疎遠化する心配は杞憂に終わった。その上、人生のよき伴侶とも出会う機会までも得ることができ、感謝する に余りあるものとなった。かくして、社会人生活の記念すべき最初の足跡を研修事業部において刻印することができた。



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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第3節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)


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     第6章・目次
      第1-1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その1)
      第1-2節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)
      第2節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第3節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第4節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
      第5節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す