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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第4節 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する


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     第6章・目次
      第1-1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その1)
      第1-2節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)
      第2節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第3節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第4節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
      第5節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す



  JICA入団後のこととして、海との関わり合いや繋がりを維持することに関心を払い、またその最大限の強化に情熱を燃やしていた。それもJICAの 内と外の両面での海との接点を模索していた。JICAの内にあっては、研修事業部での職務として研修員と真剣に向き合い、 技術協力の一端を担いつつも、出来る限り海との接点をもてるチャンスを広げられないか、アンテナを髙く張っていた。 JICAに奉職して給金をいただく訳であるから、生業である国際協力業務に邁進するのは当然の務めであった。 そしてまた、国際協力の一端を担うことは、大きな遣り甲斐そのものであり、また日々の楽しみでもあった。だがしかし、 JICAでの仕事に邁進する余りと言っては誤解を招きかねないが、海との関わり合いから再び遠ざかることを内心恐れていた。 再び疎遠になれば、もう二度と海へ回帰できないのではないかという危機感を抱いていた。

  他方、JICAの外にあっても、海との関わりや繋がりをしっかりと保っておきたいと願っていた。意識を確かにもって、 海洋法制・政策の研究などとの関わりを継続し、それらとの距離を縮めることはあっても、距離を離すことがないように自助努力を惜しまなかった。 とにかく海洋法制や政策に関し独学を続けようと心掛けた。それらを専門にする学者や研究者らとの関係を築き維持しようとも心掛けた。 米国留学によってようやく本格的に海に回帰して以来、「海との接点を絶やすまい、二度と海から遠ざかるまい」とずっと思い続けてきた。 JICAへの奉職によって経済的に安定したからには、海洋法制・政策のことにこれまで以上に関心をもち続け、その専門性を高めていかなけ ればという思いは、いつも頭から離れることはなかった。

  何故、JICAの内外においてそれほど頑なに専門性の維持向上にこだわったのか。二つの大きな理由があった。 海洋研究の継続は、国連海洋法務官への志願に繋がっていたからである。国連への応募を真剣に心する限り、当該分野における キャリア形成を積み重ね、自らの専門性の向上に絶えず自ら叱咤激励しておかなければならないという事情があった。ある日突然採用試験 のチャンスが巡ってきたり、再度履歴書の提出を求められた時などに、よりよいキャリアを差し示したいからである。採用してもらえる 可能性を少しでも高めておく必要があった。当時未だ30歳そこそこの頃であり、JICAを「最終の地」とすることには完全に腹をくくる までの境地には達していなかった。現代に当てはめて言えば、転職の機会を諦めずにプロフェッショナルとしてステップアップする ことへの希望をもっていたということである。国連法務官への道になおも強い希望を擁していた。

  それともう一つの理由があった。一年半にわたる渡米は全くの私費留学であった。その経費全てを家族に負担してもらっていた。 そうでありながら、JICAに奉職できたからと言ってすぐさま海との縁を断ち切り、海洋法制・政策にまつわる専門性をかなぐり 捨てることには、絶対的な抵抗感を抱いていた。JICA入団したての頃には、職員は自身の専門性を捨てて技術協力プロジェクトを マネッジメントするためのの「ジェネラリスト」になることが、研事部の職場内でまことしやかに囁かれていた。だが、そんな訳にはいか なかった。私的にはむしろ専門性を捨てないという決意を固めていた。自身で沈考の末、「海洋法制・政策のスペシャリスト」と 「JICAの求めるジェネラリスト」の両立性を目指す決意をしていた。

  海への回帰を頑なに推し進め堅固なものにするために、その時々にできることに貪欲に取り組んだ。大阪出身の私にとっては、 関東エリアには海洋法制・政策の研究のために気軽に集い情報交換できるような親しい学究仲間はほとんどいなかった。既に潮事務所を 離れていたことからして、何らかの学術的研究サークルに参加しなければ、社会一般やJICAの赴く流れに身を任せてしまい そうであった。そこで、海洋法制などの研究に熱心な若手の大学助教授らで作るオープンな研究会を模索した。幸いにもそんな 研究会に参加させてもらうことができた。 更にまた、ある教授との縁があって、「国際海洋問題研究所」という、海上自衛隊幹部OBらが中心になって組織する研究団体の学術会合 に誘われ、それをチャンスに積極的に繋がりを求めた。同研究所主催の定期的な講演会などに毎回末席を汚し、最新情報や達見に接し、海洋法制・ 政策研究への刺激や励みにしていた。潮事務所勤務時代は、事務所顧問の浅野長光氏(東京水産大学の国際海洋法講師)との距離は それほど近いものではなかったが、JICAへ就職してからは逆に距離が縮まった。頻繁に会合を重ねるようになったのは、丁度このような 状況下にあった頃であった。

  留学中にはいろいろなテーマの下にターム・ペーパーを作成していたが、よくよく考えてみると、日本でも米国でもこれまでずっと学術 定期刊行物に自身の学術論文を掲載する努力をほとんどしてこなかったことに気付いた。 既に触れたことであるが、母校の関大大学院が発行する学術誌編集委員からの誘いをチャンスに、留学時代に作成したターム ・ペーパーなどを見直し、邦語にて幾つかの論文を執筆し積極的に投稿することにした。また、国際海洋問題研究所からも投稿の誘いを受け、そのチャンス を生かした。お陰で、国連へ送付済みの履歴書を更新するとすれば、潮事務所での海洋調査研究の実績や、JICAでの海洋関連研修プログラム の運営経験にプラスして、海洋法制関連の学術論文執筆の実績を追加記載することによって、自らの専門性を高めることに繋げられ そうであった。

  また、思いもよらず学術的実績を積み上げられたことがあった。留学中の指導教授であったウィリアム T. バーク教授が、1978年頃に、日本海と東シナ海に おける境界線画定問題に関する私の論文を、米国の「Ocean Development and International Law Journal」という学術誌に掲載する ために骨を折ってくれた。大変有り難い「プレゼント」であり、感謝のしようもないほどに感涙であった。お陰で、同誌第6巻1号に掲載され、それも一つの重要な実績となった。

  かくして、JICAでの技術協力という生業への真剣な取り組みと、海洋法制・政策などの専門性の向上を追及する「課外活動」のいわば 二足のわらじは、私の日常を構成する二大車輪であった。JICA奉職当初から猛烈に忙しい日々を送ることになった。だが、全く苦にもならなかったし、 遣り甲斐に満ち満ちていた。30歳になるかならないかの年齢であったので、睡眠時間をかなり削りながらも走り続けることができた。 私的には、二足のわらじを履いて、国際協力の生業も海にまつわる学究も日々楽しむことができた。 海への回帰を堅固なものにすべく「真の道(トゥルー・ロード True Road)」をまっしぐらであった。その道がいつの日にか、 国連海洋法務官へと繋がって行くことを信じて歩み続けた。

  そんな中、留学から帰国後初めてのこととして、ワシントン大学海洋研究所(IMS)との嬉しい関わり合いが生まれた。最初はシンプルなこと の照会であった。1976年11月にJICAに勤める少し前のこと、IMSのエドワード・マイルズ所長からレターを受け取った。北太平洋に おける海洋水産・鉱物資源管理や海運、その他の海洋法制・政策にかかわる諸課題について、日米加3ヶ国の研究者がシアトルに 集まって討議し、政策提言などを行ないたい。そのための資金を「日本財団」に求めることを検討している。 ついては、そのことについてどう思うか、率直な個人的意見を訊きたいというものであった。早速、沈想の上、メリット・デメリットを 取りまとめ率直な所感をしたためて返信した。

  その数か月後、IMS所長から米国の「ロックフェラー財団」から研究資金を得られることになったとの連絡を受けた。「北太平洋プロジェクト (North Pacific Project)」と称して実施される運びとなった。私は既にJICAに籍を置く身であったので、潮事務所長らに実質お任せ せざるをえなかった。かくして、プロジェクトの日本側のオーガナイザーとしての役目を潮事務所が引き受けることとなった。例えば、 プロジェクトに参画する日本側研究者の人選、会合に提出されるべき研究論文やその他実務的な取りまとめなどである。 東京水産大学の国際海洋法講師の浅野長光氏(潮事務所の顧問でもある)をはじめ、同大の織田教授(海運)、吉田教授・田中教授(水産)、新日鉄OBの今井さん、 麓所長らが参画した。

  私に関しては、JICA宛てにプロジェクト会合への招待状を発出してもらい、上司の許可を得てシアトルでの研究会合に参加した。 私は、結婚式を2週間前に済ませていたが、新婚旅行のタイミングを少しずらしながら会合の開催時期とうまく調整し両イベントをこなす ことができた。研究会の開催は1977年7月27日-29日であった。 振り向けば、IMSとの接点の始まりはマイルズ教授からの一通の手紙であった。JICAに奉職しても、IMSや潮事務所との関係がうまく繋がり、 またプロジェクトに関わることができ、二足のわらじは順調に推移していた。国連への履歴書の更新時には、そのキャリア欄にプロジェクト との関わりを一行付け加えることもできそうであった。

  ところで、1976年初めに国連人事局に履歴書を送付してから一年ほど経た頃のことであったと思うが、実は、国連本部の「海洋法事務局 (The Law of the Sea Office)」の局長から一通のレターを受け取った。局長の署名入りで、「現在、海洋法務官ポストは空席が ないことを連絡します」としたためられていた。わざわざポスト空席状況を知らせていただいたのは、恐らく、私の履歴書を見て 私がバーク教授の下で学んでいたことを知ってのことに違いないと勝手な推察をした。留学中バーク教授に国連への就職希望について時折 話しをしていた。当時、日本人の海洋法担当法務官が当該事務局でなおも活躍 されていたことを頭の片隅においていたので、「空席なし」には驚くことはなかった。むしろ、担当局長自身に気遣いを いただいたことに大変恐縮した。適時に礼状をしたためるべきであったが、その機会を逸してしまい後々ずっと後悔した。 礼状をしたためていれば、その接点が線になり、さらに太くなり、新しい扉が開かれていたかもしれない。人生航路において レターがもつ重みを何度か経験してきたにもかかわらずである。

  他方で、直近の過去一年間、国連に送付済みの履歴書を更新してこなかったことにはたと気づいた。局長への礼状と共に、 データを更新した新履歴書を送るべきであった。それも怠ってしまったのは酷くまずかった。これまでの人生においては節目節目で 手紙による通信連絡が幾つかの幸運を届けてくれていた。そのことを忘却し、一通の礼状さえも、さらに履歴書更新の通信も怠って しまった。それがなされていれば、私の運命は違ったものになっていたかもしれない。勿論そうでなかった かも知れないが、そんな無作為を後々ずっと悔い恥じ続けた。

  さて、ワシントン大学との繋がりで、さらに別の海洋法研究機関との繋がりが生まれた。ハワイ大学の「海洋法研究所」主催の 海洋法シンポジウム(同所の年次総会)がハワイで開催され、報告者の一人として招待された。時期は1977年11月12日-19日であった。 それはキャリアアップには願ってもないチャンスに違いなかった。報告の機会を得たのは「海洋法条約と東アジアの地域主義」についてのセッションで あった。

  シンポジウムでは報告者が次々と所定のテーマに沿って講演を行い、討論と質疑応答が繰り広げられた。それらが進むにつれて議論は 白熱する一方で、それらの内容にしっかりとついていけなくなっていた。自身が「海洋法条約と地域主義」について報告する段になっても、 それまでの議論の詳細につき消化不良のままであった。自身のスピーチ内容をそれまでの議論とかみ合わせられずに パニクッてしまった。結局、日本周辺海域の海の境界線画定問題や日本の海洋政策などについて言いたいことだけをスピーチする ような、自論の展開が中心となってしまった。要するに、それまでの議論と整合性のとれていないスピーチに陥ったに違いなかった。 今でもそれを思い出すたびに、どこか穴があれば消えてしまいたい衝動に駆られる。今更ながら、自身の英語能力のレベルを思い知らされた。推薦して くれたワシントン大学の教授らの面目をつぶしてしまったに違いないと恥じるばかりであった。ただ、幾つかのシンポジウムなどへ の参画は、自身の国連への応募履歴書上ではキャリアアップの一つになったことは事実である。だがしかし、その逆に、 国連専門官として要求される高度な語学能力について大きな不安を抱くことになってしまった。それは自身を落ち込ませるに十分な ことであった。

  ところで、数度にわたるアメリカでの研究会やシンポジウムへの参加は、ある重要なことを気付かせてくれた。 国際場裏においては、200海里EEZに反対していた日本の立場や利害についてはかなり理解されていた。だがしかし、それ以外の海洋法制に 関する見解や立ち位置、海洋水産・鉱物資源開発・管理、海運などの最近の政策や動向、その他の海洋重要課題に対する立場や取り 組み状況について余り知られていないことを感じていた。そして、世界の共感や理解を得るためには、海外に向けてもっと 多くの情報を発信する必要性を痛切に認識するようになっていた。そして、この頃に得た一つの閃きがあった。

  日本の海洋法制・政策動向などに関する英語版のニュースレターを定期に発刊してはどうかというアイデアである。英語・日本語 版の日本の「海洋白書(あるいは年報)」のような類いの刊行物の可能性についても想い巡らせた。もっとも、いきなり英語版の ニュースレターの発刊は荷が重たく感じられたので、先ずは日本語版のニュースレターの発刊に集中することを考えた。 JICA入団2年目の1977年の年末に近い頃のことであった。

  余談だが、財団法人の「日本海洋協会」が1977年(発足月日不詳)に設立された。法人・個人の賛助会員制であり、私はそれを 知った段階ですぐさま会員になった。日本が新海洋法秩序の時代へと円滑に移行することを側面支援し、海洋法制・政策の諸問題を 調査研究することを目的として、外務・運輸・通産省の三省が所管する公益財団法人として設立された。 海洋法制や政策にまつわる講演会が時折開催され、それに積極的に参加しするように努力した。また、その設立当初には、国連での海洋法制の審議状況 などのホットな情報をダイジェスト形式で提供するニュースレター(日本語版)が会員に配布され、私的には大変重宝していた。
(注)1994年(平成6年)11月に国連海洋法条約が発効し、日本も新海洋法秩序時代に移行した。そして、(財)日本海洋協会は、その 設置目的は達成されたとして、1998年(平成10年)3月31日に解散するに至った。ほぼ20年間の活動をもってその幕を閉じた。

  海洋協会の活動や情報提供は年々拡充して行った。年1~2回海洋法制・政策をテーマにした講演会が外務省協賛の形で 開催され、大勢の会員らが参加した。海洋法制・政策などを専門にする学者や研究者、行政官らと人的つながりを築くチャンスでも あったので、時にJICAから半日有給休暇を取得し積極的に参加した。また、まもなくニュースレターに代わって「季刊海洋時報」という、 海洋法制・政策、国連海洋法会議の審議動向、深海底資源開発レジームなどについての学術的論稿や資料を収めた定期刊行物が 発刊された。

  因みに、1984年11月に「季刊海洋時報」第35号が発刊されている。合併号がいくつかあるので、海洋協会が1977年に設立されて間もなく 創刊号が発刊されたものと考えられる。
また、特定のテーマの下に深く掘り下げた学術的研究の成果が盛り込まれたレポートが、不定期ながら会員に配されていた。いずれも当時 の日本国内では、このような海洋法制・政策情報の提供はこの協会によるものがほぼ唯一であったので、大変貴重かつ有益なものであった。

  私的には、海洋協会の活動はいろいろな面で参考になるところが多く、いろいろ刺激を受け触発された。何故なら、 海洋法制・政策に関するニュースレターの発刊に着手していた時期と重なっていたからである。だがしかし、協会と肩を並べて 「海洋時報」や研究報告書などに類する刊行物を発行したり、講演会を開催するような事業を手掛けることなどは、JICAに奉職する身に あっては不可能なことであった。協会と競合するような取り組みについては全く念頭になかった。そもそも、私が閃いたことは、 協会と同じ土俵に上がって何かことをなすというアイデアではなかった。

  海洋協会は、外務省などの認可公益法人であり、その財政基盤(予算額そのものはそれほど多くはないが)とネームバリューを バックに、その信頼度や情報量などの面で他の社団・財団公益法人を寄せ付けない存在であった。 因みに、協会の運営を考えると、理事長や専務理事、事務員数名の人件費、事務所賃貸料、定期刊行物(季刊)の年4回の発行、研究報告書などの出版費・郵送料、 講演会開催の諸経費など、ざっと見積もっても少なくとも年間5,6千万円の予算的裏付けがあったはずである。

  休題閑話。海洋協会を横目に、私は先ず、海洋法制・政策、海洋開発動向などにまつわる日本語版のニュースレターを、 「海洋開発と海洋法ニュースレター」と題して創刊したのは、1978年1月のことであった。 JICA研事部勤務の2年目の時期であった。四半期ごとに号を重ねることを目標にしたが、年平均3回くらいの発刊となった。 1978年1月から1981年1月までの3年間で、通算8号を発刊した。因みに、研事部時代末期の1979年12月までは、通算3号分を「潮事務所」名の下で、 その後水産室時代初期の1980年1月からは「海洋法研究所」の名の下で発刊した。 テーマは、韓国の領海、日韓の大陸棚問題、北朝鮮の領海・200海里経済水域、非核三原則と国際海峡通航問題、日ソや日中漁業問題 などであった。

  その他には、1978年11月から翌1979年10月にかけて、英語版ニュースレターを通算4号まで「潮事務所」名の下で発刊した。 そのタイトルは、「Ocean Development and Law of the Sea Newsletter」であった。その後水産室時代になって、1980年5月から翌 1981年1月にかけて、通算2号分を「海洋法研究所」名の下で発刊した。因みに、 それらのテーマは、韓国と領海に関する最近の動向、北朝鮮の領海・200海里経済水域および軍事境界線、1979年日ソ北西太平洋サケ漁業交渉、 日本政府の非核三原則政策と5つの国際海峡での特別通航制度であった。 自費で簡易印刷を行ない、印刷物として、米国をはじめな世界の主要な海洋法制・政策研究所などに送り届けた。

  少部数ながら邦語・英語版の2種のニュースレターを2年間ほど発行し、国内外の海洋法研究機関や研究者らにボランティアベースで 送付してみて、いろいろ学ぶことがあった。また、幾つもの課題も抱えることになった。 簡易印刷費、郵送代などの経費がけっこう嵩張るようになった。何がしかの財政基盤の充実を図ること、また組織的な強化を図る必要が あった。特に初期にあっては、「潮事務所」名の下での発行であった。そのため、潮事務所は一体いかなる組織であり、いかなる使命 をもって発刊するのか、他者にはなかなか理解されないことに気付かされた。

  如何なる組織名の下で発刊すれば世界や日本で受け入れてもらい易いのか、いろいろと思い巡らせた。そこで、誰にでもすぐ さま理解され得る組織体の下で発刊することを着想し、それなりの具体的アイデアをしたためて、潮事務所顧問であった浅野長光氏 に相談することにした。

  そのアイデアの主眼は、非営利の民間任意団体「海洋法研究所」の創設と、その中核的事業としての「英語版ニュースレター」 の発刊、および将来的には英語版「海洋白書(または年報)」の編集・発行であった。海洋協会との基本的差別化をなし得るとすれば、 英語版のそれらによる世界への情報発信であると考えた。それこそが「海洋法研究所」のアイデンティティーそのものであり、 その存在意義を具現化するものであると着想した。さて、「海洋法研究所」の創設については次節に譲ることとしたい。かくして、 JICAでの動きとして、その創設企画とほぼ時期を同じくして、1980年1月に研事部から水産室へと人事異動した。

[参考資料] 「JICAへの奉職と海洋雑学の10年の歩み(略史)(1976年~1980年)」



西暦年         海洋関連学術刊行物の発刊略史

1975 潮事務所 勤務(1975.10~1976.10)
1976 国際協力事業団 (JICA) 入団、研修事業部 勤務(1976.11.1~1979.12)
1977 
1978 → 日本語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」発刊(第1号~/1978.1~1979.12/
   潮事務所名での和文ニュースレター)
   → 英語版「Ocean Development and Law of the Sea Newsletter」(ODLOS Newsletter)
  (No.1~4/1978.11~1979.10/潮事務所名での英文ニュースレターの発刊)
1979 
1980 林業水産開発協力部・水産業技術協力室(通称・水産室)勤務(1980.1~1984.3)
   1980年初め頃「海洋法研究所」を創始する。所長・浅野長光氏
   → 日本語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」発刊(~第8号/1980.1~1981.1/
   海洋法研究所名での和文ニュースレター)
   → 英語版「Ocean Development and Law of the Sea Newsletter」(ODLOS Newsletter)
   (No.6~8/1980.5~1981.1/海洋法研究所名での英文ニュースレターを継続発刊)
1981 → 日本語版「海洋レヴュー」発刊(No.2~21/通算12号分/1981.3~1982.12/海洋法
   研究所名での定期刊行物)
1982 
1983 
1984 「アルゼンチン国立漁業プロジェクト」 勤務(マル・デル・プラタ)(1984.4~1987.3)
1985 
1986 
1987 農林水産計画調査部・農林水産技術調査課 勤務(投融資業務)(1987.4~1989.4)
1988 
1989 → 英語版「Japan Ocean Affairs: Ocean Regime, Policy and Development」(6th edition,
   pp.166, 1989.9/7th edition, pp.188, 1989/海洋白書・年報の類い)
1990 


日本語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」発刊(第1号~/1978.1~1979.12/潮事務所名での和文ニュースレター)

    No.1 1978年11月 「韓国とその領海に関する最近の動向: 領海の12海里への拡大、領海基線、対馬海峡と3海里主義、 竹島と12海里領海、領海における通航について」 潮事務所発行
    No.2 1979年1月 「北朝鮮の領海、200海里経済水域および50海里軍事境界水域について」 潮事務所発行
    No.3 1979年6月 「1979年日本ロシアの北太平洋サケ漁業交渉について」 潮事務所発行
    No.4 1979年10月 「日本政府の比較原則と5つの国際海峡における特別な通航制度について、1977年5月制定の領海法に ついて」 潮事務所発行

日本語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」発刊(~第8号/1980.1~1981.1/海洋法研究所名での和文ニュースレター)

    No.5 1980年1月 「海洋法研究所」設立趣意書、その概要、創刊号
    No.6 1980年5月 「1975年8月書名の日中漁業協定について」 海洋法研究所発行
    No.8 1981年1月 「日韓南部大陸棚共同開発区域に関する協定について」 海洋法研究所発行
    だがしかし、アルゼンチンに年に3回公務出張(1983年)、アラブ首長国連邦・水産増養殖センター建設施行監理など、水産室業務が 多忙となり、ニュースレター資料収集・編集などの取り組みが極めて難しくなった。英国・アルゼンチンのマビーナス紛争 勃発により赴任が1年ほど延びたものの(再びJICAからの借りができた)、アルゼンチン赴任の準備なども重なった。 1984年4月ブエノスアイレスに向け単身出立した。


(注)英語版「Japan Ocean Affairs: Ocean Regime, Policy and Development」(6th edition, pp.166, 1989.9/7th edition, pp.188, 1989/海洋白書・年報の類い)はワシントン大学図書館にも保管されネットで閲覧できるはずである。 UWで検索、ログインは「Library」から[Kiyofumi Nakauchi]で検索。所蔵図書リストにも保管される。



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