国際協力事業団(JICA)への就職が内定したのは1976年の盛夏の頃であった。同年の11月1日から勤務することになった。
遅咲きの人生ではあるが、いわば「ピカピカの社会人一年生」となって出直すことになった。通勤ルートは渋谷までは同じであったが、
今度は山手線に乗り換え新宿まで通うことになった。前月までは所長とたった二人の事務所であったので、勤務での緊張感は
ほぼないのも同然であった。今度は千数百人が働く職場であり、いかにも社会の第一線で勤務するという緊張感を体中に
漂わせての出勤であった。否が応でも濃厚なサラリーマン風情を体中に充満させていた。かくして、心機一転して新社会人として
の第一歩を踏み出すことになった。「国際協力」や「技術協力」の職務といっても実際にどんな仕事をするのか、丸で見当も
つかなかった。宝石箱でも開けるかのようで、JICAという組織内部を知る楽しみにわくわくしていた。
他方、大組織に勤務し実務に就くのは初めてのことであり、仕事をしっかりこなしていけるのか一抹の不安もあった。
当座の関心事は最初の配属部署であった。そこでどんな仕事をこなすのかということであった。他方、JICAの仕事を通じて、どれほど海との接点
をもつことができるのかも大いに気掛かりであった。JICAに奉職しながら、組織の内や外において、海との関わりをどれほど持ち続けて
行けるのか、あるいは能動的に続けて行くのか。それが、もう一つの当面の個人的な関心事であった。JICAの業務を通じて何がしか
海との関わり合いをもてることを内心期待していた。だが、最初から期待を膨らませ過ぎると、失望も半端でなくなるので、過剰な期待を
抱かないように自分に言い聞かせた。今後おいおいと見えて来るはずのことであり、じっくり待てばよいことであった。
JICAに入団できただけでもこの上なくハッピーであり、偶然と奇跡がもたらした人生最大の幸運に先ずは感謝であった。
11月1日、時間に余裕をもって初出勤した。採用試験受験時の休憩時間中に紫煙を揺らしながら暫し言葉を交わしたことから、
わずかに見覚えのある者の顔もあった。入団した20人ほどの中途採用組のいわば「同期の桜」たちが勢揃いし、緊張した面持ちで入団式に
臨んだ。総裁名が印字され、そこに総裁の実印が押されたB5サイズの「採用兼辞令書」を有り難く受け取った。そこには配属部署も記されていた。
その後全員揃って、1週間ほど続くオリエンテーションへと流れ込んだ。
ところで、事業団の社会的使命を最も適格に表わす標語は、「国づくり人づくり心の触れ合い」であろう。もっとも、その標語は
入団時にはまだ採用されていなかったもので、ずっと後に創作されたものである。その「国づくり人づくり」のためにさまざまな部署
が配されていた。発展途上国からの技術研修員の受入れ、途上国への技術専門家の派遣、農林水産・鉱工業・医療などの技術協力プロジェクト
の運営、さまざまな分野での開発調査や無償資金協力、海外へ移住する日本人への支援事業、海外青年協力隊(JOCV)による
ボランティア活動などに従事するこれらのいわゆる「事業部門」の他、「官房部門」と称される総務、企画、人事、調達、経理などの部署、
世界30か国以上に配された在外事務所、また国内主要地域に設置された支部や国際研修センターなどがあった。そしてJICAの各事業部門は、
ざっくりと言えば、霞が関の中央省庁別の縦割り構造となっていた。
さて、最初の配属先は「研修事業部研修第二課」という部署であった。研事部は西新宿の超高層ビルの一つである「新宿三井ビル」48階にあり、
ビルの南側半分の広々としたフロアを占めていた。因みにJICAは同ビルの45階から48階までの4フロアを占有していた。当時、超高層ビルといえば
京王プラザホテルなど数本しかなく、多くのサラリーマンが羨むかのような「天空のオフィス」であった。
オフィスの全面ガラス張りの窓越しに明治神宮や新宿御苑の森や緑地、国立競技場などの他、原宿や渋谷界隈の街並みなどを眺望できた。
オフィスの三方が総ガラス張りであったので、オフィス内を歩き回ると、まるで空中散歩しているかのような
気分であった。鳥瞰的パノラマ・ビューを前にすると、気分はいつも爽快であった。三井ビルを下から見上げるとブラックと
シルバーのツートーンカラーのシックな趣きを呈し、重層感と落ち着きのあるビルであった。勤め始めた頃は、田舎者丸出しであった。
内心では田舎に暮らす親たちに一度はこのパノラマ・ビューを見せてやりたいと思ったほどで、その思いは私だけではなかったはずである。
研修事業部の使命と業務をざっくり言えば、日本政府が「政府開発援助(ODA)」の一環として、世界中の発展途上国から招聘
する技術研修員のために、2週間から6か月程度の研修プログラムを作成し、実施することである。それによって、途上国に技術的
ノウハウなどを移転することで、人材育成を図り、その国の経済社会的発展に役立ててもらうこと、そして日本との友好関係の
増進に繋げることである。その実施には、国内関係省庁の行政・研究機関、地方自治体、国公立大学、公益法人、民間企業など、あらゆる
関係機関と関係者からの協力を得ることになる。その研修対象分野は、「農業から原子力まで」と称され、ありとあらゆる分野に
及んでいた。
研事部内の組織建ては省庁別の縦割りになっていて、そんな縦割り構造の見本のような存在であった。研事部には管理課の他に、研修第1、2、
3課の四つの課があった。そこには全体で60名ほどの職員や嘱託らがオフィスに詰めていた。私はその研修第2課のなかの第2班に
所属した。第2班は、通産省(現在の経済産業省)とその外局に当たる資源エネルギー庁や工業技術院、その他文部省(現在の文部科学省/文科省)、
および科学技術庁(現在は文科省に吸収合体)が所管している業務内容に合わせながら研修プログラムの作成と運営管理に当たっていた。
第3課は、研修の現場で技術研修員の監理や通訳業務に従事する「コーディネーター」(研修監理員)と称される職員や嘱託などで
構成されていた。
コーディネーター(研修監理員)は、JICA職員や常勤・非常勤嘱託のなかでも技術研修員に最も身近な存在である。監理員は、数多ある研修コース
に最初からずっと張り付いて、技術研修員をはじめ、研修員の受け入れ機関の講師や事務方などの関係者、研事部の
プログラム担当者の三者間を繫ぐ役割を果たした。研修員にとっては、研修の現場でいつも自身に寄り添ってくれる、最も有り難い
存在である。間違いなく、そんな監理員は、滞在中最も頼りとなるJICA職員あるいは関係者ということになろう。そして、その監理員らは、
「プログラムオフィサー」と称される研事部第1、2課のプログラム担当者と二人三脚で研修コースを運営する。監理員は講義や実習での
通訳業務もこなすが、平たく言えば、研修現場で研修員のために多種多様な「お世話」をする。英語通訳が最多であるが、
研修コースによっては仏語、スペイン語などを専門に通訳する監理員も配置される。
技術研修には、「集団研修コース」と「特設研修コース」があった。前者には何百ものコースがあった。前者はいわば出来合いの
「セットメニュー」的なプログラムである。毎年定期的に実施される。10数か国から各国1名程度の技術研修員が選ばれ、コース全体で
10数名が招聘され、通例半年間ほど学ぶ。時には、研修員の割当対象国の入れ替えや受け入れ人数の見直しなどがなされる。
研修は東京・大阪を中心に全国の主要地域に分散して実施されるが、JICA所有の国際研修センターが存在する場合は、そこを宿泊施設に
して滞在してもらう。オリエンテーションや若干の座学もそこで可能である。センターの職員がプログラムオフィサーとして、地元の監理員と
共に各コースの運営に当たる。
JICA本部のプログラム担当者は、外務省の技術協力課や他省庁の国際協力課などの窓口機関をはじめ、研修の実際の受け入れ
機関や関連公益法人などとの通信連絡や正式文書のやり取り、その他いろいろな調整機能を果たす。因みに、研修第2課第2班
での研修分野としては、例えば、通産省関連では、金属加工、繊維技術、機械工作や旋盤技術、品質管理(Quality
Control=QC)、電気工学や電子工学、鋳造や冶金技術、石油化学工業、プラスチック成型技術などである。資源エネルギー庁関連では、
沿岸鉱物資源探査、火力発電など、工業技術院関連では計量標準化などである。科学技術庁関連では、原子力研究、防災技術など。
文部省関連では国公立大学の教育学部での理科教育担当教員の養成、工学部での地熱エネルギー探査技術などがあり、それらはほんの一例である。
「特設研修コース」は、発展途上国からの特別の研修ニーズに応じて、いわばオーダーメードの研修プログラムを作成し、
要請国に提供するものである。1名から10名程度が招聘される。
例えば、事務機器や精密機械製造における品質管理(QC)に関する理論を学び、民間製造工場でその実習を行ない、
製品の品質向上や生産性の向上のための実際を学ぶという、メキシコ向けの特設研修コースを担当したことがある。
その他、多国籍の技術研修員を対象とする特設コースとして「石油化学工業」という研修が何年かにわたり実施されていた。
1973年の世界的オイルショックを経験した日本は、中東・湾岸諸国などの産油国だけを対象にした技術協力の一環として、
「石油化学工業」コースという特別メニューが特設されていたが、たまたまその担当者になった。石油化学工業プラントをオペレーションする
上級技術者などが、イラン、クウェート、ア首連、カタール、バ-レーン、サウジアラビアなどから、
毎年10数名招聘された。いずれも準高級研修員待遇で受け入れた。日本でいえば、中央省庁の課長級に相当する研修員ばかりで、ましてや当時「泣く子も黙る」
産油国のハイレベルの石化工業技術者たちなので、飛びぬけてエリート意識とプライドが髙かった。
研修開始後暫くして、全員から「何故通勤用に車を用意してくれないのか」と詰め寄られた。宿泊ホテルから受講先まで移動する間、
ラッシュアワー時のすし詰め電車に乗ることに相当強い拒否反応を示していた。少なくともマイクロバスなどの専用車両の手配を強く要望し、
研修をボイコットする勢いであった。彼らのプライドがすし詰め電車通勤を許さなかったらしい。彼らに如何様に向き合い説得すべきか、
返答を模索した。
JICAは車両を手配する予定がない理由を次のように説明した。ハイヤーやマイクロバスを用意するのは全くもってもやぶさかではないが、
都内の最近の交通渋滞は酷く、通勤に大変な時間を浪費してしまうことになる。時間を読めないことも多く、「朝食も取れないままに、
今以上に朝早くホテルを出発することになる。都内の酷い交通渋滞に巻き込まれ、毎日ゆとりのない生活と研修が常態化すること
になるが、それでもいいでしょうか」と、少々ハッタリめいた理由を説明した。
産油国のエリート技術者のプライドの高さと鼻息の荒さに翻弄され胃が痛くなっていたからである。結果、全員が顔を見合わせ、
それ以上の切り返しの言葉は漏れてこなかった。内心ほっとしながら講義室から出たところで、大きなため息をついた。
産油国では、原油を輸出するだけでなく、原油を精製して経済的付加価値を付けた形で世界市場に売り込みたいという意識が
当然のこととして強まっていた。当時、石化プラントを国内に建設し稼動させるための取り組みが旺盛であった。石油化学工業製品を作る基礎原料である
ナフサ(粗製ガソリン)だけでなく、ナフサを原料にエチレンを作ったり、さらにそれを加工して合成樹脂(ポリエチレン、ポリプ
ロピレン、塩化ビニール樹脂)を製造できるようになれば、産油国の産業上の立ち位置が飛躍的に向上させられるという思いが強かった。
翻って、原油のほとんどを輸入に頼る日本は、石化工業製品の製造プラントのオペレーション技術を産油国に移転し、
日本の技術協力をアピールし、て彼らとの外交・経済的パイプを太くしようと努力していた。その真意は、技術協力の見返りに安定的な
原油供給への熱い期待であった。
さて、研事部での研修員受け入れの起点となる業務は、集団研修コースでは、先ず「研修員募集要項」(General Information; GI)
を作成することであった。毎年、研修の実施を引き受けてくれる受託機関との間で、昨年度の要項をベースに見直しを図りながら、
次年度向けの新しい研修プログラムと実施要項(案)を作成する。外務省担当者を交えて、割当対象国の見直しや要項案の最終
確認を行なう。問題なければ、外務省担当者は時宜を得て割当対象国の在外公館に要項を送付する。在外公館は、相手国の窓口機関
に対し研修員の募集や第一次スクリーニングを依頼する。
「A2・A3フォーム」と称される、OECDの「開発援助委員会(DAC)」作成の共通フォームにて提出されてきた公式要請書や履歴書などが
在外公館から本省へ送付されてくる。そして、研事部担当者は、受託機関の全面協力をえて、技術的観点から候補者の合否判定を行なう。
受け入れの可否は外務省経由で在外公館へ、さらに先方政府へと正式回答される。
募集要項作成もそうだが、プログラムの実施自体もその受託機関の全面的協力なくしては成り立たない。研事部担当者は、この受託機関
を研修事業の要に据えてその運営に当たる。その他、各省庁の国際協力担当課や関連部局、省庁傘下の研究機関、省庁認可の関係公益法人、さらに同
法人の会員である民間企業などの協力を得る。通例では、各省庁認可の公益法人に研修を委託する形をとることが多い。カリキュラム
の作成、その講師の選定、実習の受け入れ企業の選定も一任される。また同公益法人からコースリーダーが
選任され、専門的見地からコース全体の運営の取りまとめを担う。全研修員や主要講師陣の参加の下で開催される研修評価会からの
次年度プログラムへのフィードバックなども、コースリーダーを中心になされる。研修の受託機関はそのような公益法人ではなく、
政府の研究機関や大学学部事務局、地方自治体やその研究機関が担うこともある。
研事部担当者は英語では「プログラムオフィサー」と称されていたが、研修コースの運営実施に関わるさま
ざまな実務をこなし、数多の関係機関や関係者との業務調整を図る「司令塔」のような役割を担うことになる。
特にプログラム開始に先だって、雑多な実務をこなすことになる。関係省庁の部局長、研修受託機関の長、実習の受け入れ先や講師派遣先の
企業代表者などへの正式協力依頼文書の作成・発出、講義を担当する各講師へのそれなど、漏れがないように発出する必要がある。
当時ワープロもパソコンもなく、総務部のタイプ室に依頼する他なかった。タイプ室に願い出て、和文タイプライターにて正式文書を作成
してもらうか、印字済のプロトタイプの様式に送付先の組織名称・肩書・氏名を自筆で書き込み、その後は総務課で事業団の捺印と割り印
をもって完成した後、さらに総務課経由で封書の郵送を依頼した。1976年から79年頃のことである。現在からすれば、全く想像もつかない
ようなアナログ式事務作業におけるのんびりとした世界がそこにあった。
和文タイピングは午後定時で終了となる。終業時間を超える場合、事前にタイプ室長に電話を入れて了解を得てからでないと
取り合ってもらえず、翌日回しにされた。事前了解を怠ると急ぎの処理が滞りことになり、焦りとストレスが溜まる。残業時間に食い込む
エキストラ業務の依頼に備えて、日頃からのタイプ室との意思疎通が物を言う世界である。私的には理解しがたい非合理的な仕事のやり方
であったが、現実にはそれを笑って済まされないような緊張感が張りつめていた。もちろん、その数年後に社内でもワープロが普及し、デジタル化の大波は
タイプ室を激変させた。タイプ室の嘱託人数が大幅に縮減される一方で、旧弊もまた除去される感があった。だが、
担当者による事務処理スピードはアップしたが、その業務量は増大し別の精神的負荷がかかるようになった気がする。
集団研修コースのほとんどは既に敷かれたレールの上をなぞいながら運営管理するので、これと言った苦労もエネルギーの無駄遣い
もほとんどなかった。簡単なルーティンワークで済ませられたといえば誇張し過ぎだが、慣れてくれば緊張感も新鮮味も少なくなる
のはやむ得ないところであった。だがしかし、新たなコースを一から築き上げるのであれば、大きなエネルギーが伴うことになる。
だが、零から積み上げるという圧倒的な面白さもあった。
特に新規の集団コースの研修プログラムの作成・実施には多くの労力が伴う。研修受託機関を探すのが研修プログラム作成の
起点となろう。同機関と座学・実習の内容や研修員の選定条件を検討したり、また割当対象国を予備的に検討したりである。
研事部に在籍中、そのような集団コースの新設は残念ながら経験できなかった。だが、個別研修コースにおいては貴重な経験に
あやかることができた。国際機関や発展途上国からの単発的な個別の要請に応じてのオーダーメードの研修プログラムの作成である。
それも、何と深海底のマンガン団塊などの鉱物資源に直接的にかかわる個別コースを新設するというものであった。
そのエピソードについては次節に譲ることにしたい。
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