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    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第4節 ネットサーフィンと海洋語彙集づくりの輝く未来


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     第10章・目次
      第1節: 食糧増産援助(2KR)は優れもの
      第2節: 調査団員の人繰りに明け暮れる
      第3節: インターネットの世界を熱く語る「M」さんとの出会い
      第4節: ネットサーフィンと海洋語彙集づくりの輝く未来
      第5節: 自作ホームページに鳥肌が立ち感涙する



  ニカラグア出張から帰国後のことである。JICSの職場内で調査団員であった森さんと何度か「ニカラグア簡易機材調査」の件で打ち 合わせの機会をもった。そのたびに、「インターネットのデモンストレーションを用意するのでいつでも見に来て下さい」とのお誘いを 受けていた。森さんの会社「TASK」は、私の通勤経路上にあり、途中下車すればほんの3,4分で訪問できることろにあった。 帰国後既に2週間ほど経っていたが、ようやく、ニカラグアの太平洋岸の海浜で撮った私的な写真を整理する機会を捉えて、帰宅途上に会社に 立ち寄り、ネットサーフィンを体験させてもらうことにした。

  森さんは早速、ノートパソコンを開くや否や、すぐ傍の机の上にあった電話器から通信回線を引っこ抜いて、パソコンのポートに差し込み、 キーボードを操作して電話をかけ始めた。パソコンからはっきりと電話の発信音が聞き取れた。暫くして、パソコンとプロバイダーのサーバー とが繋がった。当時最もポピュラーな閲覧用ソフトであった「ネットスケープ」というブラウザーを立ち上げ、ある企業のページにアク セスした。そして、そのトップ画面に映し出したパソコンをくるりと180度回転させ、その画面を見せてくれた。森さんはその後も、 政府機関や有名企業の幾つかのポータルサイトを次々と見せてくれた。

  余談だが、1996年当時にはまだ「グーグル」のような検索エンジンが存在していなかった。だから、ターゲットのホームページにアク セスするには、電話帳のような分厚い「ディレクトリー」と称される、ジャンル別にサイトを寄せ集めたカタログ帳をネットサーフィン の座右の書にせざるをえなかった。そこには国内外の名の知れた組織のホームページの、「http://www......」で始まるアドレス(URLアドレスやドメイン とも称される)とその概要が記載されていた。現在では訪問したいサイトのアドレスが分からなくとも、 組織名はもちろんのこと、その他適当なキーワードを「グーグル」などの検索用ボックスに入力し、条件を絞り込んでいけば、目途のサイト をヒットさせ簡単にアクセスができる。だが、当時は、訪問したいサイトのアドレスが分からないと、ページに辿り着けなかった。 森さんはブラウザーをあれこれ操作しながら、ネットの仕組み、サーフィンの方法や楽しみ方、利便性などを目いっぱい説明してくれた。

  さて、デモンストレーションは目からウロコが落ちそうな驚嘆の連続であった。一回の実演は10回の熱弁をふるう説明よりも効果的 であり、インターネットが何たるものか、その概要と意義をストレートに理解できた。私は、米国の「ウッズホール海洋研究所」や「船の科学館」 などの海に関する研究所や博物館その他の幾つかのホームページへの接続を試み、初めて自身でネットサーフィンを楽しんだ。 それを体験するなり、「これだ!」と内心で叫んだ。そして、これまで海の語彙を拾い、パソコンに少しずつ入力して蓄積してきた例の 海洋語彙集を、ネットを通して国内外に供し、関心ある人々にフリーに閲覧してもらい、役立ててもらえると確信をした。 是非ともそうしたいと願った。これまでの努力が少しは形となって報われると直感し、天にも舞い上がるかのような高揚感に鳥肌が立った。 かくして、「オンライン海洋辞典」づくりへのステージアップと、ネットを通しての情報発信・一般公開を実現しようと決意した。 海の語彙集づくりの起点・始点はアルゼンチンにあった。既にパソコン内で10年ほど眠ってきたような語彙集であったが、ようやく 陽の目を見る千載一遇のチャンスが巡ってきたのだと確信した。

  今回の初めてのデモンストレーションのお陰で、インターネットが海洋語彙集とどのような関わり合いをもちうるのか、ネットが 語彙集にいかなる可能性をもたらしうるのか、私の脳内の電気回路の中を閃きが電光石火のごとく駆け巡った。そして、私にとっての ネットのもつ画期的意義、無限大の発展性を明確に認識することができた。語彙集のホームページを立ち上げれば、 世界の人々に広く情報発信ができ、いつでもどこでもシェアすることができる。語彙集は1985年以来ほとんど利用されることなく、いわば「死蔵」 状態にあったと言える。だが、情報通信技術の飛躍的進歩のお陰で、ネットを通して世界に供することができる、そのことを 理解した瞬間であった。

  私的には、長く待ち望んでいた情報通信技術の現代的進歩とは正にこれであったと、全身に鳥肌が立つ思いで歓喜の声を上げたかった。 森さんの強引ともいえる熱烈な導きに深い感謝をすべきことでもあった。確かに、早晩インターネットに向き合い、いつしかそれが何たるかを 深く知ることになり、ネット上での語彙集の発信の可能性について気付かされるとしても、ネット時代の幕開けの早い段階に気付かせて もらったことの意義は大変大きかった。先ずはそのことに感謝であった。脳内の電気回路を駆け巡った閃きの衝撃は凄まじいものであった。 アルゼンチン赴任中に語彙拾いを思い立った1985年のあの日以来、ずっとモヤモヤ感に苛まれてきた。だが、その全てが吹き飛んだ。 脳内は晴れ渡り、今後向かうべき方向性が狙い定められたお陰で、意気揚々と「TASK」から帰宅の途に就いた。

  森さんが私に幸運を運んで来てくれた。JICSでの森さんとの出会い、そしてニカラグアへの出張を共にしなければ、オンライン海洋語彙集 づくりへの挑戦はずっと遅れていたに違いない。振り返って見れば、そのタイミングも重要であった。ニカラグアへ出張した折、森さんから ネットのことを熱く語ってもらったのは、1995年のネット元年からわずか1年ほど後のことであった。タイミングが良かった。何故ならば、 その出張から1年そこそこ経た1997年4月には、JICSからJICAへ復職したからである。 そして、復帰してまもなく、全く不本意にも、ブータン国を舞台にしたある衝撃的な不正事件に巻き込まれ、ホームページづくりどころ ではなかった。ブータン事件のために1年間ほどは精神的に意気消沈状態を送ることになった。私を知る関係者は、私が飛び降り自殺でも するのではないかと心配していたという。さらに、2000年には南米パラグアイへ海外赴任となった。オンライン辞典づくりへの取り組みは、 何年にもわたり出遅れていたに違いなかった。だがしかし、幸いなことに、森さんとの出張をきっかけに、ネット元年後の早い段階で ネットの世界へ誘ってもらっていた。

  JICSへの出向人事がなかりせば、恐らくJICA復帰後に「無償資金協力業務部」への横滑り的配属はなかったであろう。JICSでの無償 資金協力の経験と知見を見越して同部に配属されたことは想像に難くない。更に言えば、ブータン事件に直撃されることもなかったであろう。 森さんと遭わなければ、ネットとの接点はずっと遅れ、ブータン事件の直撃のために語彙集のホームページづくりどころでは なくなり、その本格的取り組みはパラグアイから帰国後の2003年以降となっていたことであろう。恐らくは5、6年以上遅れていたことと 思われる。

  JICSへの出向と海との繋がりについては全く想像も、また期待もしていなかった。だが蓋を開けて見ると、オンライン海洋語彙集 づくりに繋がる出会いと出来事に恵まれたことは仰天の思いであった。森さんとの出会いとデモンストレーションは、オンライン語彙集 づくりという新しい挑戦や志の起点となった。JICS勤務を通して海と繋がることはないどころか、海とのさらなる強固な繋がりへと 導いてくれた。私的には、人生に新しい目標をもたらしてくれた画期的なターニングポイントになるというほどの大きな意義を有していた。 活用される目途もなく陽の目を見てこなかった、いわば「死蔵」状態にあった海洋 語彙集を、ホームページを通して世界に発信しシェアできるという夢物語のようなチャンスに巡り会った。

  繰り返しになるが、生涯を懸けるに値する本格的なオンライン海洋辞典づくりと、ネットを通じての一般公開への扉が一挙に開かれた。 最高の賜わり物をいただいたと感謝である。当時の語彙集に眩しいほどのスポットライトが浴びせられたという思いであった。 語彙集の未来に究極的な意義をもたらしたと思えた。

  ところで、JICSの3年間は、無償資金協力についての経験と知見を豊かにしてくれ、また自身の人間力や社会的生活力を養い高める機会を 与えてくれた。無償資金協力に関する知識だけでなく、何度かのプロマネ経験を通じて、仕事や人への向き合い方そのものについても 多くを学んだ。一言でいえば、出向人生を通して、全人格と全人間力をもって事に向き合うことの大切さを見た。

  JICS出向は、私的には、アルゼンチン赴任との関係で、人事上の借りを返すという別の意味もあった。最初のお返しの第一号として、 JICAへの大きな借りをほとんど返すことができた。だがそれは独りよがりな思い込みであった。ずっと後になって、その借りの返済は 不十分であったことを知ることになった。だがしかし、そのお返しに優れるとも劣らないものをJICSでの勤務を通じて得た。

  再び得たものは、JICS勤務は人生の「回り道」でも「遠回り」でもなかったということである。 当初は「遠回り」の人生も止む無しと割り切る思いの他なかったが、しかし全く杞憂であった。回り道してよかったと思えた。 JICAだけに勤務していれば出会えなかった多くの知遇、学びえなかった数多の体験と知恵を得させてもらった。また、私的な語彙拾い と語彙集づくりに限って見れば、未来の「オンライン海洋辞典」づくりにとってむしろ近道であった。JICS時代においてオンライン 語彙集の作成とその発信への扉を開かせてくれた。新たな人生目標が切り拓かれたことに、感謝の言葉もない。大袈裟かもしれないが、 「オンライン海洋辞典」づくりは、国連海洋法務官への志に取って代わるかもしれないほどの大きな意義を有していた。 そのことをずっと後になって理解することになった。人生何が回り道であり、そこで何に遭遇し、そこで人生の逆転の近道となりどんな 運命を辿るか、摩訶不思議であるとつくづく思う。

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