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    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第3節 ブータン不正事件、天と地がひっくり返る


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     第11章・目次
      第1節 職務の醍醐味、それはトラブル・シューティングとの向き合い
      第2節 海を相手にする漁港建設の難しさ
      第3節 ブータン不正事件、天と地がひっくり返る
      第4節 世界の全発展途上国、JICAの全事業部・事業形態に向き合いフォローアップ業務を担う



  JICA無償資金協力業務部(無業部)の業務第二課に配属されたのは1997年(平成9年)5月のことであった。そして、わずか2年間在職し ただけで、翌々年5月には異動した。何故そんな短期の在職となったのか、それには二つの事柄が絡んでいたと思われる。一つは、 インド亜大陸北部のヒマラヤ東方にあるブータン王国を舞台にした政府開発援助(ODA)の不正事件。もう一つはJICA組織の大改革による ところが大きい。 在職中どういう訳か、南西アジア諸国の無償資金協力(二国間贈与)プロジェクトで度々頭を悩ませるトラブルが起こり、 そのシューティングに追われていた。JICSから復帰後一年余り過ぎて、日常業務にはすっかり慣れていた1998年6月7日のこと、人生を狂わす かのような衝撃的な事件のマスコミ報道の真っ只中に身を置いてしまった。暫くは精神的に追い込まれもした。そして、憂鬱な冴えない日々が 何か月か続いた。頭髪には白いものが目立つようになり、抜け毛も多くなったような気がした。

  ブータン王国で実施されていた「国内通信網整備計画プロジェクト」をめぐるものであった。ブータン側の通信公社、 日本側のコンサルタントや機材調達業者の三者が同プロジェクトを舞台に裏取引をするという不正事件を引き起こした。事件は外務省とJICAを直撃し、天と地がひっくり返って しまったようであった。私的には、頭をハンマーで殴打されたかのような衝撃を受け、人生の大きな試練に立たされた。事件の核心的部分の多くは、 当時の日刊全国諸紙において、特に特ダネとしてスクープした朝日新聞紙(1998.6.7付)において、大々的に報道されてしまったので、 もはや秘密ではなくなっている事項も多い。誰の手によって何ゆえに、朝日新聞社に不正の核心的部分がリークされ、結果特ダネとして スクープされるに至ったのか、JICA内部の取扱注意情報が表に出てしまったのか、今でも謎として残されている。そして、今でも公言口外することが はばかれ、墓場まで持って行かざるをえない事柄も幾つかある。いずれにせよ、ODAを巡る不正事件が大々的にマスコミ報道がなされてし まったので、世間の知るところとなった。今後の教訓とするため、事件の顛末について少し振り返っておきたい。

  朝日新聞の特ダネ記事として最初に報道される数ヶ月前のこと、ブータンのJICA駐在員から最初の国際電話を受けた。 彼の話を聞いた時は半信半疑で、「何かの間違いではないか、そんなことはありえない」と正直なところ真正面から捉えられず、 軽く聞き流そうとさえした。 何故ならば、彼は青年海外協力隊(JOCV)の隊員から受けた話を軽く伝えるかのようであったので、私は軽く受け流し、その対処に 消極的な反応を示してしまった。だがしかし、その後何度か電話が掛かって来た。「通信公社の幹部がランドクルーザーを乗り回している と言ううわさがあり、騒がれている。それも1台や2台の話ではない。 ランドクルーザーがブータンに通信網整備プロジェクトを通じて無償贈与されたものか否か調べてほしい」と、語調は真剣みを帯びた ものであった。その後のJICA本部担当課での対処情報について、隊員からせっつかれているような強い気配を感じた。私は真摯に受け 止めざるを得ず、抜き差しならない状況を感じ取った。そして、それ以来業務第二課では、内情調査に真剣に立ち向かうことになった。

  該当のプロジェクトとは、当時ブータンへ協力していた無償資金協力(二国間無償贈与)の事業である「ブータン王国国内通信網整備計画」プロジェクトであった。 それは全国的規模での電話通信網の整備事業であり、1991年度からすでに足掛け8年近く実施され、 当時の1998年度は第3期目が実施されていた。同整備事業には初年度第1期から既に総額60億円以上にのぼる国費が投入されていた。 ブータン側の援助受け入れ機関は、日本のNTTに相当するブータン通信公社であった。その公社の幹部が、何台ものランドクルーザーを公私にわたり乗り回して いるとの報であった。当時の無償援助における一般的仕切りとしては、汎用性のある車両については、要請があったとしても供与対象 にしないことになっていた。果たして当該プロジェクトを通じて何台もの四駆車両が供与されたのは事実なのか否か。

  当該整備計画プロジェクトの基本設計(B/D)調査を行い、ブータン通信公社の代理人として、施行監理を担ってきたコンサルタントは、 NTT傘下の「日本情報通信コンサルティング(NTC)」であった。そのプロジェクト・マネージャー(プロマネ)から直接真実を確認するため、 何度も業務第二課にお越し願った。数名の課員と共に会議室に閉じこもってヒアリングを何度も行なった。だがしかし、プロジェクトではそんな四輪駆動 車両は供与されてはいないと、一貫して否定するスタンスを取り続けていた。

  2、3週間ほど時が経った頃のこと、我々は権限をもつ取り締まり官でもないことから、もはや真相を掴むことはできそうにないと、ヒアリングの 限界を感じながら、最後の聴き取りに臨んだ。その日、「告発も視野に入れざるを得ないが、それでもプロジェクトでは一切車両を供与して いないと言うことですね」と、最後の念を押すべく、またそれなりの覚悟をもってプロマネに問うた。 翌日、ヒアリングの打ち切り方針を胸に秘めて、再びプロマネと別室に閉じこもった。いつもと違う重々しく緊張した空気が張りつめる中、 プロマネが「実は、、、、」と話しを切り出した。

  プロマネは当時進行中であった第3期目の整備計画において、車両を機材に含めて供与したことを認める発言をした。 我われは唖然とし、頭をハンマーで殴られたような痛撃であった。「ついに招かざる客がやって来た」と思った。そこで、 我われは「まさか」と思いつつも、畳みかけてさらに事実確認を求めた。第2期目でも同じように四駆車両を供与したことを吐露した。 では、「1991年度の第1期においてはどうなのか。まさかプロジェクトの最初からではないですよね」と問い正した。愕然とする 答えが戻ってきた。プロジェクトの初年度から車両の供与がなされていたことが明らかとなった。天と地がひっくり返えり、動悸が高まった。 正直、耳を塞いで聞こえなかったことにでもしたい心境であった。聞きたくなかったことを聞かされてしまった。真実が吐露されたその日以降、 プロジェクトで何が行なわれたのか、さらにもう一歩踏み込んで行かざるを得なくなった。

  業務第二課でヒアリングを重ねるにつれ、不正の構図の輪郭が見えてきた。四駆が不正に供与されたことを起点にして、 他の通信関連機材が削除されたり、それに替わるグレードの異なる機材に置き換えられたり、建設材料の質が変更されたりして、次々と 玉突き状態で、連鎖的に機材の出し入れ(差し替え)が行われ、帳尻が合わせが繰り返されたことが分かった。過去の主要な公式機材 リストなど関連資料を書庫から掻き集め、プロマネと共に、大まかにもせよ出し入れされた機材をマークして行った。車両や他の機材の 入れ替えはざっと確認してみても、膨大な品目数と金額に上った。操作は1期から3期までの全てにおいてなされていた。 当時の初期段階での確認においては、供与車両は6台であった。後日になって、出し入れがなされたという 全機材の価格をおおまかに単純加算して見ると、その総額は、全3期を通して、6.4億円相当にのぼると見込まれた。 かくして、不正操作の大まかな構図が明らかになった。

  今後機材の出し入れの詳細な検証が、その機能の質量的変更の有無や程度も含めて、続行される必要があった。因みに第3期では、ブータン政府 からの「援助要請書」には四駆車両は含まれていなかったが、いつの時点でどのような背景やプロセスの下で実際に供与されたのかを問うた。 ブータンはヒマラヤ東部の山中にあり、数千メートル級の急峻な山ばかりに囲まれる山岳国である。落雷などで 通信施設に障害が発生した場合、嶮しい山岳道を長距離にわたり急いで駆け付け、緊急対応が求められる。だから、山岳道を難なく 踏破できるランドクルーザーは必要不可欠であるとプロジェクト関係者は考えた。だが、無償贈与機材としては認められないという 大原則があったので、入札後に機材調達業者(三井物産)と話を付けて機材を入れ替えた契約を取り交わし、シッピングしたというものである。 ブータン側の承諾がなければ、車両の調達も、またそれを起点とする数多の機材の出し入れはなしえないことであった。

  最初の援助要請段階において、またプロジェクトの実施途上においても、設計変更をJICAに申し込んでも、車両と他の通信機材との入れ替え など承認されるはずもなかった。コンサルタントは十分それを知っていた。だから、入札で機材調達業者が決定された後、三者で同意したうえで、 この不正措置が実行されたものである。ざっくりと言えば、そういう不正操作がなされた。

  他方、機材につき一点一点詳細な検証なくして、どれだけの不正がなされたのか、無断変更の詳細内容や通信機能へのプラス・マイナスの 影響は検証できなかった。しかるに、機材の出し入れの詳細、その金額、通信機能への質的影響などの全貌掌握は、課員だけでなしうる範囲を遥かに越えていた。 かくして、全貌掌握は後の詳細な検証作業を待たざるをえなかったが、先ずは贈与資金を用いてランドクルーザーを起点にして機材の出し入れがなされたことが 真実か否か、ブータン公社側はそれを承諾していたのか、確かめる必要があった。

  私は、ブータン公社にそのことを確認するため現地に出向くことになり、ビザの緊急申請を行った。バンコク経由で国際空港のあるパロへと向かった。 空港は首都ティンプーではなく、そこから20㎞ほど離れたパロというところにあった。パロは、川沿いの平野部に立地していて、 高い尾根筋が四方八方から迫まっていた。 100人乗りくらいの小型旅客ジェット機にもかかわらず、両翼に2基ずつのロールスロイス社製ジェットエンジンを備えていた。同機は普通の 旅客機のそれとは異形で、まるで軍用重量物輸送機のようであった。河川本流に向け張り出す尾根筋を幾つか飛び越えながら、ホバリングするかのようにゆっくりと 高度を下げて行った。遠くには真白い冠雪を抱くヒマラヤの峰々が舷窓の視界一杯に広がっていた。緊張の面持ちの中で、機はパロの谷筋にある滑走路に ゆっくりと着地した。こうして、「桃源郷」とも称されるブータンに初めて、張りつめた面持で第一歩を踏み入れた。 出迎えてくれた事務所駐在員らと合流し、ティンプーの町に向けて、まるで信州の深い渓谷の川筋を行くが如く、蛇行を繰り返しながら 先を急いだ。1998年4月のことであった。

  翌日、宮殿のような伝統的な建物内にオフィスを構える外務省を訪ねた。単刀直入に、四駆車両の調達のことや、それに伴う機材の出し 入れについてリストをもって例示しながら説明した。重苦しい、つらい面談であった。通信公社代理人であるコンサルタントのプロマネが 明かしたように、公社幹部が乗るランドクルーザーは、本プロジェクトの機材として供与され、それに伴って幾つもの機材が入れ替えられた のか否か、またそれらを通信公社は承諾していたのか否か、公社関係者に事実確認をお願いしたいと申し入れた。そして、 3日後に再訪するので回答がほしいと依頼した。その間、幾つかの整備済みのアンテナ用鉄塔や通信機器が収められた中継所小屋などを踏査 する予定であった。

    翌日先ずは、事務所駐在員と一緒に、ティンプーからそう遠くはない地にある、髙い尾根筋に設置された中継所に出向いた。電波を送受信する丸い 大きなお椀形のパッシブ・アンテナなどが取り付けられた高い鉄塔の傍には、頑丈な石造りの建物が建てられていた。その中には中継関連機器 とおぼしき精密通信機器類がラックにびっしりと収納されていた。当初は日本から購送のプレハブ製小屋を建て、そこに収納する計画で あった。だが、現地ではよくある堅牢な石造りのそれになっていた。プレハブよりも価格をずっと低く抑えられる、とプロマネから説明を 受けていた建物である。それくらいの機材の出し入れは、全くの素人でも見れば分かる。だが、それ以外の出し入れされた通信機材名を指し示され ても、何用でそうなっているのか理解できないし、ましてや、入れ替えによっていかなる機能上の違いが生じているのか、それはどの程度の ことなのか自立的に判断することなど不可能である。しかも、数多の機材の入れ替えであれば、素人には全くお手上げである。

  さて、2日かけてさらに東方にある地方都市に足を踏み入れた。川沿いの深い渓谷の急斜面を切り裂いて建設された狭い道路を何時間も 駆け抜け、5~60㎞先のプナカという町へ、さらに130kmほど東のトンサという地方中核都市に赴いた。少しは平野部のある谷間に広がる トンサには、大きな通信施設があった。その近辺の髙い尾根筋には幾つかの鉄塔とアンテナ、通信機器を収蔵する中継所が建てられていた。中には それらを建設するために新たに急斜道が切り開かれ、普通車では登りづらい尾根上にあった。大型鉄塔に電線を空中髙く張って行くのではなく、 髙い尾根筋ごとに建てられた中継所の鉄塔上のアンテナから次のそれへと電波を送受信する。中継所では電波が増幅され、次に送信される。 将来のインターネット通信も視野に入れた最先端の通信施設がそこに現存していた。何か障害が起これば、修復作業に 駆けつけるのにもそれなりの労苦が伴うことだけはよく理解できた。余談だが、ブータンでは、この通信網のお陰で、数年ほど後には、ヒマラヤ山岳国 でありながらインターネット通信の供用が開始された。画期的な情報通信技術の導入・普及の先駆けがここにあった。

  ティンプーに戻り事実確認の回答を得るために再び外務省を訪れた。結果は「四駆車両の調達も、また事例として示した機材の出し入れも 事実である」という回答であった。公社側は承諾していた訳である。外務省は「事実である」と述べたものの、それ以上のことについて 何のコメントを付すことはなかった。答えはおおよそ見えていたものの、内心ではその回答に愕然とし、屋外に出てからため息をついて、タバコを 一本ふかした。通信公社とその代理人であるコンサルタント、そして機材の調達業者の3者は、外務省とJICAそして国民の知らないところで、 プロジェクトの最初からそのような不正操作をしていたと言うことであった。出るのはため息ばかりであった。ブータン政府側には 覚悟があるようであった。先ずはブータンの協力姿勢に感謝して、在インド日本大使館に報告するためにニューデリーに向かった。

  さて、ブータン・プロジェクトを巡る不正操作のことが、朝日新聞朝刊のトップと社会面でセンセーショナルに報じられた。 実は前日の1998年6月6日に、明朝の新聞に掲載されることがサイド情報としてもたらされていた。翌朝、夜が明け切らないうちに玄関まで朝刊を取りに行き、ベッドに潜り込んで トップ面を見た。その瞬間、頭をなぐられた。とっさにベッドから飛び起き、新聞を卓上に大きく広げて見直した。 朝食を急いで取ろうとしたが、ほとんど喉を通らないままに、家を飛び出しJICAに向かった。頭の中は 真っ白になっていた。何故なら、内々に取りまとめた不正についての諸事項もいろいろと記事にされていたからである。 そんな事こんな事までも朝日新聞はよくぞ情報を得ていたものだと驚愕するばかりであった。1998年6月7日の朝のことである。

  一週間ほど後のJICA内部では、「査問委員会」なるものが設けられた。日頃からの取扱い注意の情報の管理の在り方と情報漏 えいについて、課員ら関係者一人ひとりに対するヒアリングが始まった。他方で、機材の出し入れの詳細を徹底的に照合し、不正内容を検証するため、 無業部内に特別調査タスクフォースが設置され、連日連夜コンサルタントや業者に「協働」作業を求め、第1-3期の3回の 機材の出し入れが一品目ごとにどうなされたのか、その結果通信機能に質的低下などを引き起こして来なかったか、特別会議室で 集中的に照合作業が行なわれた。かつて課員数人で小部屋に閉じこもり膝を突き合わせて取り組んだが、とても手におえるものではなかった。 それに、機材入れ替えと機能への影響との関係はほとんど理解できなかった。私も課員らも、通常のルーティンワークがあったのでタスクフォースの作業にはほとんど関与しなかった。

  照合対象の機材リストは数多くあった。ブータン政府から提出された最初の「供与要請時の機材リスト」、コンサルタントが「基本設計 した時に作成された機材リスト」、政府代理人となったコンサルタントがブータン政府同意の下で作成した「入札図書の中の機材リスト」、 さらにブータン政府と調達業者の間で交わされた「機材調達契約書に付随する機材リスト」、実際に船積みされた機材であることを 示す「船積証券の機材リスト」という、5点の文書につき、品目ごとに変更、価格差、機能への影響(機材のスペックダウンや機能の 質的変化など)など照合されることになった。しかも、その照合は3期分もあった。

  調査結果については、調査が完了した段階で外務省からマスコミに公表されることになっていた。何故8年もの間、このような裏 操作が見過ごされてきたのか。ざっと見ても延べ6億円以上におよぶ機材の出し入れは、極めて複雑であった。 特にコンサルタントへの半強制的な協力が得られなければ、解明は事実上不可能と思われた。タスクフォースでの関心事は、機材の出し入れに おいて機材数量やその金銭面での過不足はないのか、また通信機能面での質的影響はないのかということであった。内部的に重大な関心が 寄せられていたのは、何故朝日新聞社に初期段階の調査途上の一部の内部情報が漏洩したかという情報管理上の問題であった。対外的に はODAに対する不正の構造や原因究明および今後の不正防止策についてであった。

  照合の結果何がどうなったか。コンサルタントがブータン側の要望を受け入れ、機材業者は恐らく致し方なくそれに協力し、日本政府・ JICAに無許可で工事内容の変更や何千点もの機材の出し入れなどの不正操作が行われ、四駆車両を16台も調達したという(新聞報道)。そして、公社への 現金の受け渡しもなされたことが報告された。不正支出のうち、事業には全く関係のないものに使われ、不正が裏付けられた 当該車両の購入費や使途不明分約4,000万円分について、機材業者は国庫への返納を求められ、厳重注意を受けたという。コンサルタント は9か月間のJICA入札指名停止処分を受けた(結局その後、NTCは自発的に無償資金協力にかかるコンサルタント業務から撤退した)。 ブータンへのODAは無期限の見合わせ措置が執られたが、その後確か数年くらいして援助再開となった。

  ODA事業でのこの不正事件は極めて残念なものであった。だが、整備された通信施設の所定の機能には、何の不具合について報告されることも なく、通信機能が正常に維持されてきたとされる。多くの機材が入れ替えられたりしたが、実際的には「正常に」機能するので、その点 問題なしとの最終結論になったようである。不正操作はひどいものであったが、全国通信網整備は現地では非常に感謝されていたことは 否定されないであろう。電話やファックス通信が障害なくスムーズに行なえるお陰で、中央・地方行政機関間の業務通信や、病院の医療関連の 通信も大いに助かっているとの声は多数聞くところであった。ブータン出張中、機能不具合やその他悪い評判を聞くことはなかった。むしろ全国規模での通信網整備で通信 事情が飛躍的に改善したという髙い評価を受けていた。また、ブータン国民から日本の援助につきすこぶる喜ばれていたといえる。 地方都市から徒歩で数日もかかる山岳奥地にあっても、安定してファックス送受信でき行政機能が大幅改善したとか、医者も診療面で 患者へのケアを手厚くできるようになったと感謝しきりであった。

  第二課においては私は、取り扱い注意情報の第一義的管理責任者であった。朝日新聞社にJICAの内部情報がスクープされ、世間を騒がせる結果を招き、 JICAにも迷惑をかけてしまったと思い、一度は辞表の提出を先ず次長に申し出た。だが、その思いは揺れ、そして留まった。家族を支える家長としては、ここで 辞職し失職するには至らなかった。

  誰が内部情報をリークしたのか。JICA業務部や第二課の仲間を100%信じていた。さりながら、事実として、部内では一時期疑心暗鬼が 呼び起こされた。内部情報をいとも簡単にリークできる立場にありながら、リークを全く疑われない者、それは誰なのか、 推察だけでは到底語れない。誰なのか、その推察はほぼ間違いのないことと確信している。だが、その推察は墓場まで持っていく他ない。 彼は、自分自身の正義から不正がお蔵入りすることに我慢ならなかったのであろうか。それとも、一個人の日頃の私的な特別の思いを 遂げるために行為に及んだのであろうか。

  もう一つ気になることがあった。あの時、JICAがコンサルタントを正面切って「告発」していたとすれば、どうなっていたであろうか。 コンサルタントと業者はどれほどまで真剣に弁護士を立てて論駁していたであろうか。JICAは3回にもわたり機材調達契約書を事前審査と認証を 行なっていたではないかと、法的に争ったであろうか。8年近く外務省・JICAの多くの関係者が、四駆車両供与や幾多の機材の出し入れ に気付かず、事実上見過ごしてきたことになる。 JICAは契約書の事前認証審査の任務にあることから、歴代の関係者にとっても大きな見過ごしとなってしまった。 だとしても、3者は、日本国民と外務省・JICAに「気付かれなかったこと」、あるいは「気付かれずに認証されたこと」を良いことにして、 故意にうそを上手くつき通し、ODA全体に対する信頼を裏切り続けて来た。その責任はまさに重大至極であった。

  遠い過去の事であるから、これ以上触れないが、個人としてブータン事件は何だったのか。私に何を残し何を学ばせてくれたのか。 窮地に陥った時、誰がどう寄り添ってくれるのか。そんな期待はすべきでないのか。誰が遠ざかろうとするのか。人間ドラマを見せられた。 個人の人間観や人生観はどう変わったのか。組織と個人の距離の取り方、関係性を考えさせられた。 組織と個人のベクトルの合わせ方も考えさせられた。過去にも別の部署でそんなことを考えさせられる経験をしたことがあった。 二度考えさせられたが、未だ納得しうる「正答」を得てこなかった。複雑な思いが続いてきた。「何をどこまで信じるのか」という思いは、その後 増すばかりであった。そして、個人は組織が持ち合わせない自由意思をもち、独立した個人でありたいと願うので、組織と心中するような ことはできそうにないという思いを抱いてきた。

  最後に、海洋辞典づくり、ホームページづくりについて触れておきたい。辞典づくりは、いわば黎明期にあったが、その未来は 輝かしいものであるとの思いは些かも変わりなかった。事件の渦中に身を置いていたものの、止めることはなかった。確かに、その ペースと効率はかなり落ちてしまったが、それは問題ではなかった。辞典づくりを通して、沈み込んだ心をリラックスさせ、多少は テンションを上げることができた。毎日とはいかなかったが、ほんの短時間であっても、それに集中することで、ブータンのことから 心身を解放させ、脳内に新鮮な酸素を送り込み、自身をリフレッシュさせられた。ストレスを緩和させる清涼剤、「明日からまた頑張ろう」と 心を盛り上げる滋養剤、そして精神的安定剤となった。かくして、2000年春に13年ぶりに南米の地に赴任するまで、辞典づくりに向き合い、 牛歩ながらもその足を前に出し続けつつ、その前進を楽しむことができた。

[資料] 無償資金協力業務時代の海外出張履歴: JICA~健管センターまで

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