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    第14章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第3節 ブータン不正事件、天と地がひっくり返る


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       第14章・目次
      第1節: 職務の醍醐味、それはトラブル・シューティングとの向き合い
      [資料] 無償資金協力業務時代前後における海外出張履歴
      第2節: 海を相手にする漁港建設の難しさ
      第3節: 人生を変えたブータン不正事件、天と地がひっくり返る
      第4節: 世界の全発展途上国、JICAの全事業部・事業形態に向き合いフォローアップ業務を担う



  JICAの「無償資金協力業務部」(通称・無業部)の業務第二課に配属されたのは1997年(平成9年)5月のことであった。そして、わずか2年間ほど在職し ただけで、翌々年の5月には異動した。何故そんな短期の在職となったのか。それには二つの事柄が絡んでいた。一つは、 インド亜大陸北部のヒマラヤ山脈東方にあるブータン王国を舞台にした政府開発援助(ODA)の不正事件。もう一つはJICA組織の大改革による ところが大きかった。

  在職中どういう訳か、南西アジア諸国の無償資金協力(二国間贈与)プロジェクトで度々頭を悩ませるトラブルが起こり、 そのシューティングに追われていた。JICSから復帰後一年余り過ぎて、日常業務にすっかり慣れていた1998年6月7日のこと、人生を狂わす かのような衝撃的な事件と、そのマスコミ報道の真っ只中に身を置いてしまった。暫くは精神的に追い込まれもした。そして、 憂鬱で冴えない日々が何か月も続いた。頭髪には白いものが目立つようになり、抜け毛も多くなったような気がした。

  ブータン王国で実施されていた「国内通信網整備計画プロジェクト」を巡るものであった。ブータン側の電信電話通信公社、 日本側のコンサルタント、機材調達業者の三者が同プロジェクトを舞台に裏取引するという不正事件を引き起こした。事件は 外務省とJICAを直撃し、天と地がひっくり返ってしまう様であった。私的には、頭をハンマーで殴打されたかのような衝撃を受け、 人生の大きな試練に立たされた。

  事件の核心的部分の多くは、当時の日刊全国諸紙において、特に特ダネとしてスクープした朝日新聞社の紙面(1998.6.7付) において、大々的に報道されるに至ったので、もはや秘密ではなくなっている事項も多い。誰の手によって何ゆえに、朝日新聞社に不正の核心的部分がリークされ、結果特ダネとして スクープされるに至ったのか。また、JICA内部の取扱注意情報が表に出てしまったのか。今でも謎として残されている。そして、 今でも公言口外することがはばかれ、墓場まで持って行かざるをえない事柄も幾つかある。いずれにせよ、ODAを巡るブータン不正事件が 大々的にマスコミ報道されるに至ったので、世間の知るところとなった。今後の教訓とするためにも事件の顛末について少し 振り返っておきたい。

  朝日新聞社の特ダネ記事として最初に報道される数ヶ月前のこと、ブータンの首都ティンプーに勤務するJICA駐在員から最初の 国際電話を受けた。知らない仲ではない彼の話を聞いた時は半信半疑であった。「何かの間違いではないか、そんなことはありえない」と正直なところ真正面から捉えられず、 軽く聞き流そうとさえした。何故ならば、彼は「青年海外協力隊(JOCV)」の隊員から受けた話を軽く伝えるもので、悲壮と深刻さを 余り感じられなかったので、私は軽く受け流し、その対処に消極的な反応を示してしまった。だがしかし、その後何度か電話が掛かって 来た。

  「通信公社の幹部がランドクルーザーを乗り回していると言ううわさがあり、国内で騒がれている。それも1台や2台の話ではない。 ランドクルーザーはブータン通信網整備プロジェクトを通じて無償贈与されたものか否か、その事実関係を調べてほしい」と、語調 は前回とは違ってかなり真剣味を帯びたものであった。駐在員の語調から察するに、JICA本部担当課はその後如何様に内部調査を進めて いるか、駐在員に訴えた隊員から強くせっつかれているような気配を感じた。私は真摯に受け止めざるを得ず、現地では抜き差しならない 状況にあることを感じ取った。そして、それ以来業務第二課では、内情調査に内密かつ真剣に立ち向かうことになった。

  さて、問題のプロジェクトとは、当時ブータンへ協力していた二国間無償援助事業である「ブータン王国国内通信網整備計画」 のことであった。それはブータン東部地域における電波によるデジタル電話通信網の整備事業であり、1991年度からすでに足掛け8年近く実施され、 当時の1998年度にあっては第3期目が進捗していた。同整備事業では初年度の第1期から第3期にかけて既に総額60億円以上にのぼる国費が投入されていた。 ブータン側の援助受け入れ機関は、日本のNTTに相当する「ブータン電信電話通信公社」であった。その公社の幹部が、何台ものランドクルーザー を私的おいても乗り回しているとの報であった。当時の無償援助における一般的仕切りとしては、汎用性のある車両については、要請があったとしても供与対象 にしないことになっていた。果たして当該プロジェクトを通じて何台もの四駆車両が供与されたのは事実なのか否か。

  当該整備計画プロジェクトの「基本設計(B/D)調査」を行い、ブータン通信公社の代理人として施工監理を担ってきたコンサルタントは、 NTT傘下の「日本情報通信コンサルティング(NTC)」であった。そのプロジェクト・マネージャー(プロマネ)から直接事実を確認するため、 何度も業務第二課にお越し願った。数名の課員と共に会議室に閉じこもってヒアリングを何度も行なった。だがしかし、プロジェクトではそんな四駆 車両は供与されてはいないと、一貫して否定するスタンスを取り続けていた。

  2,3週間ほど時が経った時のことであった。我々は権限をもつ「取り締まり官」でもないことから、もはや真相を掴むことはできそうにないと、ヒアリングの 限界を感じながら最後の聴き取りに臨んだ。その日、「我が部では告発も視野に入れざるを得ないが、それでもプロジェクトでは 一切車両を供与していないとおっしゃるのですね」と、最後の念を押すべくそれなりの覚悟をもってプロマネに問うた。 翌日、ヒアリングの打ち切り方針を胸にしまい込んで、再びプロマネと別室に閉じこもった。いつもと違う重々しく張りつめた空気が 室内に漂う中、プロマネが「実は、、、、」と話しを切り出した。

  プロマネは当時進行中であった第3期目の整備計画において、車両を機材に含めて供与したことを認める発言をした。 我われは唖然とし、頭をハンマーで殴られたような痛撃にあった。「ついに招かざる客がやって来た」と思った。そこで、 我われは「まさか」と思いつつも畳みかけてさらに事実確認に及んだ。第2期目でも同じように四駆車両を供与したことを吐露した。 では、「1991年度の第1期においてはどうなのか。まさかプロジェクトの最初からではないですよね」と問い正した。愕然とする 答えが返ってきた。プロジェクトの初年度から車両の供与がなされていたことが明らかとなった。天と地がひっくり返えり、動悸が高まった。 正直、耳を塞いで聞こえなかったことにでもしたい心境であった。聞きたくなかったことを聞かされてしまった。真実が吐露されたその日以降、 プロジェクトで何が行なわれ続けてきたのか、さらに詳細を掴むべく一歩も二歩も踏み込んで事情聴取せざるを得なくなった。

  業務第二課でヒアリングを重ねるにつれ、不正の構図の輪郭が見えてきた。四駆が不正に供与されたことを起点にして、 他の通信機材が削除されたり、グレードの異なる代替品の通信機材に置き換えられたり、建設材料の質が変更されたりして、 次々と玉突き状態となって連鎖的に機材の出し入れ(差し替え)が行われ、「帳尻合わせ」が連綿と繰り返されてきたことが分かった。

  第1期からの過去6年以上に及ぶ公式機材リストなどの資料を書庫から棚卸しを行い、プロマネの同席の下大まかにもせよ 出し入れされた機材をマークして行った。車両や他の機材の 入れ替えをざっと確認してみても、膨大な品目数と金額に上った。操作は1期から3期までの全ての局面においてなされていた。 当時の初歩的な確認作業では、供与車両は6台であった。そして、出し入れがなされたという 全機材の価格をおおまかに単純加算して見ると、その総額は全3期を通して6.4億円相当にのぼると思われた。 かくして、不正操作のごく大まかな構図と規模が明らかになった。

  今後各期各局面での機材の差し替えの詳細な検証が、機能上の質量的変更の有無や程度も含めてなされる必要があった。因みに第3期では、ブータン政府 からの「援助要請書」には四駆車両は含まれていなかったが、いつの時点でどのような背景やプロセスを経て実際に供与されたのかを問い 正した。ブータンはヒマラヤ山脈東部の山中にあり、数千メートル級の急峻な山ばかりに囲まれる山岳国家である。落雷などで 通信施設に障害が発生した場合、嶮しい山岳道を長距離にわたり急いで駆け付け緊急対応が求められる。だから、山岳道を難なく 走破できるランドクルーザーは必要不可欠であるというのが、プロジェクト関係者の言い分であった。だが、無償贈与機材としては認められないという 大原則があり、コンサルはそれを知っていた。それ故に、落札後に決定された機材調達業者(三井物産)を巻き込み、機材を差し替え た契約書を取り交わしシッピングしたというものである。ブータン公社側の承諾がなければ、車両の調達も、またそれを起点とする 膨大な数の機材の差し替えはなしえないことであった。

  コンサルの説明によれば、ブータン政府による最初の援助要請書作成段階において車両を潜り込ませ要請しても、またプロジェクト の施工段階においてJICAに対し設計変更を申し入れ、車両と他の通信機材との差し替えを求めたとしても承認されるはずもなかったという。コンサルタントはそれを 十分知っていた。だから、入札を経て機材調達業者の決定がなされた後、ブータン政府・コンサル・機材納入業者の三者で話し合い 同意したうえで、 この不正措置が実行された。ざっくりと言えば、そういう不正操作がプロジェクトの初めから企てられ実行されてきた。

  他方、機材につき一点一点詳細な検証なくして、どれだけの不正がなされたのか、無断変更の詳細内容や通信機能へのプラス・ マイナスの影響などについては検証できなかった。しかるに、機材の出し入れの詳細、その金額、通信機能への質的影響などの 全貌を掌握するには、ごく限られた数名の課員による作業能力を遥かに越えていた。 かくして、全貌の掌握は後の「検証作業委員会」による大規模で詳細な機材照合作業を待たざるをえなかったが、先ずは日本政府・ JICAの知らないところでランドクルーザーを起点にして機材の差し替えがなされたことが真実であるか否か、あるいはブータン公社 側の承諾の下でなされたものかを確かめる必要があった。

  私は、ブータン公社にそのことを確認するため現地に出向くことになり、ビザの緊急申請を在京ブータン大使館へ行った。 バンコク経由で国際空港のあるパロへと向かった。空港は首都ティンプーではなく、そこから20㎞ほど離れたパロという盆地地形をなす 地方都市にあった。パロは、川沿いの細長い平野部に立地していて、高い尾根筋が河川本流に向け四方八方から迫まっていた。 100人乗りくらいの小型旅客ジェット機にもかかわらず、各主翼に2基ずつのロールスロイス社製ジェットエンジンを備えていた。それ故に 同機は、普通の旅客機とは違う異形を擁し、まるで軍用重量物輸送機のようであった。

  河川本流に向け張り出す尾根筋を幾つか飛び越えながら、ホバリングするかのようにゆっくりと 高度を下げて行った。遠くには真白い冠雪を抱くヒマラヤの峰々が機窓の視界一杯に広がっていた。緊張の面持ちの中で、 機は胴体を左右に揺らしながら、パロの谷筋に伸びる滑走路にゆっくりと吸い込まれ着地した。こうして、張りつめた面持ちをもって、 「桃源郷」とも称されるブータンにその第一歩を踏み入れた。出迎えてくれた事務所駐在員らと合流し、ティンプーに向けて、 まるで信州アルプスの辺境地にある谷深い峡谷筋を辿るが如く、車両は数多の蛇行を繰り返しながら先を急いだ。1998年4月のことであった。

  翌日、伝統的な様式をもつ宮殿のような建物(現地ではゾンと呼ばれる)内にオフィスを構える外務省を訪ねた。当初の援助要請書には記載のなかった四駆 車両が、ブータン通信公社が納入業者と交わした契約書の付属書や「船荷証券(B/L)」には含まれ調達されていることや、それに伴う 機材の差し替えに関する例証リストを示しながら単刀直入に説明した。重苦しい、つらい面談であった。通信公社代理人である日本 のコンサル(NTC)のプロマネが明かしたように、現在公社幹部が使用するランドクルーザーは本プロジェクトの機材として供与され、 それに伴って幾つもの機材が差し替えられたのか否か、またそれらを通信公社は承諾していたのか否か、公社関係者に事実確認をお 願いしたいと申し入れた。そして、3日後に再訪するのでその時に返答がほしいと依頼した。その間、幾つかの整備済みの通信 アンテナ用鉄塔や通信機器が収められた中継所施設などを踏査する予定であった。

  翌日先ずは、事務所駐在員と共に、ティンプーからそう遠くはない地にある、髙い尾根筋に設置された無人の中継所に出向いた。 電波を送受信する丸い大きなお椀形のパッシブ・アンテナなどが取りけられた高い鉄塔の傍には、頑丈な石造りの構造物 (小屋)が建てられていた。その中には中継用機器とおぼしき精密通信機器類がラックにびっしりと収納されランプを点滅させながら 作動していた。当初は日本から購送され設置されるプレハブ製の小屋に収納される計画であった。だが、現地では一般的である堅牢 な石造りのそれになっていた。「プレハブよりも価格をずっと低く抑えられる」とプロマネから説明を受けていた小屋である。 小屋のような建築物の差し替えについては、全くの素人であってもその変容ぶりからして気付くかもしれない。 だが、それ以外の差し替えられた通信用機器や機材が眼前にあっても、何用で差し替えられてそのように設営されているのか、素人には 全く理解できない。ましてや、差し替えによって品質や機能上いかなる差異が生じているのか、自ら判断することなど素人には全く 不可能である。

  さて、2日間をかけてさらに東方にある地方都市に足を踏み入れた。川沿いの深い渓谷の急峻な斜面を切り裂いて造られた 山岳道路を何時間も走り抜け、5~60㎞先のプナカという町へ、さらに130kmほど東のトンサという地方中核都市に赴いた。谷間にあって 少しは平野部が広がるトンサには大きな通信施設が設置されていた。中核的通信機能をもつと思料された。その近辺の髙い尾根筋 には幾つかの鉄塔とアンテナ、通信機器を収蔵する中継所が建てられていた。中には中継所を新たに建設するために急斜道が切り開かれ、 普通車では登りづらい尾根上にあった。

  大型鉄塔に電話回線を尾根から尾根へ張るのではなく、髙い尾根筋ごとに建てられた中継所の鉄塔上のアンテナから次のそれへと 電波を送受信する。中継所では電波が増幅され、次の中継所へと送信される。 将来のインターネット通信も視野に入れた最先端の通信施設が網の目のように東部地域に展開されていた。落雷などで何か障害が起これば、修復作業に 駆けつけるのにもそれなりの労苦が伴うことはよく理解できた。余談だが、ブータンでは、この通信網のお陰で、その数年後には、 ヒマラヤ山中の国でありながらインターネット通信が開始された。それを見越して必要な機器・設備が設計されスタンバイされていた。 画期的なインターネット情報通信機能を導入できる下地が当時から組み込まれていたのには驚きであった。

  ティンプーに戻り事実確認の返答を得るために再び外務省を訪れた。結果は「四駆車両の調達も、また事例として示した機材の 差し替えも事実である」という回答であった。公社側はそれらの機器・機材の差し替えを容認していた訳である。ブータン外務省は 「事実である」と一言返答したものの、それ以上のことについて何のコメントを付すことはなかった。短文の返答はおおよそ 予想していたものの、内心その素っ気ない返答に改めて愕然とした。屋外に出てから大きなため息をついた。そして、タバコを続けざまに 何本かふかした。通信公社とその代理人であるコンサルタント、そして機材の調達業者の3者は、外務省とJICAそして国民の知らないところで、 プロジェクトの最初からそのような不正操作をしていたことがはっきりとした。出るのはため息ばかりであった。ブータン政府側には 事実を語る覚悟があるようであった。先ずはブータンの協力姿勢に感謝しつつ、ブータンを兼轄する在インド日本大使館に報告するためにニューデリーに向かった。

  さて、ブータン・プロジェクトを巡る不正事件のことが、朝日新聞の朝刊トップと社会面でセンセーショナルに報じられた。 実は前日の1998年6月6日に、明朝の新聞に掲載されることがサイド情報としてもたらされていた。翌朝、夜が明け切らないうち に玄関まで朝刊を取りに行き、ベッドに潜り込んで先ず トップ面を開いた。その瞬間、頭をなぐられた。とっさにベッドから飛び起き、新聞を卓上に大きく広げて見直した。 朝食を急いで取ろうとしたが、ほとんど喉を通らないままに家を飛び出し、JICAに向かった。頭の中は 真っ白になっていた。何故なら、内々に取りまとめていた不正に関する諸事項もいろいろと記事にされていたからである。 内部でいろいろ調べた諸事項を朝日新聞社は随分入手していたことに驚愕するばかりであった。1998年6月7日の朝のことである。

  一週間ほど後のJICA内部では、「査問委員会」なるものが設けられた。日頃からの取扱注意情報の管理の在り方と情報漏 えいについて、部長・課長をはじめ課員ら関係者一人ひとりに対するヒアリングが始まった。他方で、機材の出し入れの詳細 を徹底的に照合し、その不正内容を検証するため、無業部内に「特別調査タスクフォース」が設置され、連日連夜コンサルタント や業者にも「同席と協働作業」を求め、第1~3期にわたる機材の出し入れが一品目ごとにどうなされたのか、その結果通信機能に 質的低下などを引き起こすことはなかったのか、特別会議室で 集中的に照合作業が行なわれた。かつて課員数人で小部屋に閉じこもり膝を突き合わせて取り組んだが、とても手におえるものではなかった。 それに、機材の差し替えと機能への影響との関係は素人では到底理解できるものではなかった。私も課員らも、通常のルーティンワークがあったのでタスクフォースの作業にはほとんど関与しなかった。

  照合対象の機材リストは数多くあった。ブータン政府から最初に提出された「援助要請時の機材リスト」、コンサルタントが「基本設計 調査」を手掛けた時に作成した機材リスト、政府代理人となったコンサルがブータン政府と共に作成した「入札図書の付属書としての 機材リスト」、さらにブータン政府と調達業者の間で交わされた「機材調達契約書付属の機材リスト」、実際の船積みに際して作成 された「船積証券付属の機材リスト」という、5点の文書につき、品目ごとの変更の有無、その価格差や機能への影響(機材のスペック ダウンや機能の質的変更など)などが照合されることになった。しかも、その照合は3期分もあった。

  調査結果については、調査が完了した段階で外務省からマスコミに正式に公表されることになっていた。何故6年以上もの間、このような裏 操作が見過ごされてきたのか。ざっと見ても延べ6億円以上におよぶ機材の出し入れは、極めて複雑であった。 特にコンサルタントがJICAから半強制的に協力させられることがなければ、解明は事実上不可能と思われた。タスクフォースでの最大の関心事は、 機材の差し替え(品目の変更)に伴って金銭面でいかなる増減が生じたのか、また通信機能面でいかなる質的影響が生じたのか ということであった。そして、JICA内部で重大な関心が 寄せられたのは、何故内部調査の初期段階に得られていた一部の内部情報が朝日新聞社に漏洩したのかという情報管理上の問題であった。 対外的にはODAに関する今回の不正の構造や原因の究明および今後の不正防止策についてであった。

  照合の結果何がどうなったか。コンサルタントがブータン側の要望を受け入れ、四駆車両を購入することにし、それを主な基点に して他の機器・機材に変更を加え、かつ数量の調整を行った。機材納入業者は恐らく致し方なくそれに協力し、日本政府・ JICAに無許可で、当初計画されていた工事の設計・内訳の変更や、何千点もの機器・機材の差し替えなどの不正操作が行われ、四駆車両 16台も調達されたという訳である。そして、公社への現金の受け渡しもなされたことが報告された。不正支出のうち、事業には関係のないものに使われ不正が裏付けられた 当該車両の購入費や使途不明分約4,000万円分について、機材業者は国庫への返納が求められ、厳重注意を受けた。コンサルタント (NTC)は9か月間のJICA入札指名停止処分を受けた(結局その後、NTCは自発的に無償資金協力にかかるコンサルティング業務から撤退した)。 ブータンへのODAは無期限の見合わせ措置が執られたが、その後何年かして外務省は援助再開の決定を下した。

  ODA事業でのこの不正事件は極めて残念なものであった。だが、整備された通信施設の所定の機能には、何の不具合も報告されること なく、通信機能が正常に維持されてきたとされる。実際的には多くの機材が入れ替えられたりしたが、「正常に」機能するので、その点 問題なしとの最終結論になったようである。不正操作はひどいものであったが、全国通信網整備は現地では非常に感謝されていたことは 否定されないであろう。電話やファックス通信が障害なくスムーズに行なえるお陰で、中央・地方行政機関間の業務通信や、病院の 医療関連通信も大いに重宝されているとの声は多数聞くところであった。ブータン出張中、通信機能の不具合やその他悪い評判を聞く ことはなかった。むしろ通信網整備で国内通信事情が飛躍的に改善したことで髙い評価を受けていた。また、ブータン国民から日本の援助につきすこぶる喜ばれていたといえる。 地方都市から徒歩で数日もかかる山岳奥地にあっても、安定してファックス送受信ができ行政機能が大幅改善したとか、医者も診療面などで 患者への適切なケアをできるようになったと感謝しきりであった。

  業務第二課において私は、取扱注意情報の管理上の第一義的責任者であった。朝日新聞社にJICAの内部情報がスクープされ、世間を騒がせる結果を招き、 JICAにも迷惑をかけてしまったと思い、一度は辞表の提出につき無業部次長に申し出た。だが、その思いは揺れた。家族を 支える家長としては、辞職し失職することを踏みとどまった。

  誰が内部情報をリークしたのか。JICA無業部や第二課の仲間を100%信じていた。さりながら、部内では一時期疑心暗鬼の 空気が蔓延した。「内部情報をいとも簡単にリークできる立場にありながら、リークを全く疑われることはないJICA内外の者」、それは誰なのか。 推察だけでリーク者の名を口外することは到底ばかれる。リーク者について、当時ごく少数の関係するJICA仲間うちで密やかに推察された。 「その者」とは誰のことか。JICA仲間うちではほぼ「彼」に間違いないものと確信されていた。だが、その推察は墓場まで 持っていく他ない。リークしたと推察される「彼」は、自身の正義感からか、不正がODA関係機関内にお蔵入りしてしまうことに 我慢ならず、義憤をもってリークに及んだのか。それとも、一個人の日頃の私的な特別の思いを晴らすために行為に及んだのか。私には両方のように 思えてならない。

  もう一つ気になることがあった。あの時、JICAがコンサルタントを正面切って「告発」していたとすれば、どうなっていたであろうか。 コンサルと業者は弁護士を立ててどれほど真剣に法的論争に挑んだことであろうか。JICAは整備計画の第1~3期にわたり 機材調達契約につき事前の審査と認証を行なっていたではないかと、法的に争ったであろうか。6年以上も外務省・JICAの多くの関係者が、 四駆車両供与積み出し・贈与や幾多の機材の差し替えに全く気付かず、事実上見過ごしてきたことになる。 JICAは契約書の事前審査・認証の任務にあることから、歴代の関係者にとっても大きな見過ごしとなってしまった。その過失を厳しく問い 正したかもしれない。それは仮定の設問であるが、少なくとも3者は、日本国民と外務省・JICAに「気付かれなかったこと」、 あるいは「気付かれずに認証されたこと」を良いことにして、故意に上手くうそをつき通しODA全体に対する信頼を裏切り続けて来た。 その責任はまさに重大であった。

  遠い過去の事であるから、これ以上触れないが、個人としてブータン事件は何だったのか。私に何を残し何を学ばせてくれたのか。 人が窮地に陥った時、誰がどう寄り添ってくれたのか。あるいは自身はどう寄り添うことができたのか。 そんな期待はすべきでないのか。事件では大勢の仲間に支えられた。逆に突き放した者もいた。いろいろな人間ドラマを見せられた。 個人の人間観や人生観はどう変わったのか。組織と個人の距離の取り方、関係性を考えさせられた。 組織と個人のベクトルの合わせ方も考えさせられた。過去にも別の部署でそんなことを考えさせられる経験をしたことがあった。 二度考えさせられたが、未だ納得しうる「答」を得てこなかった。複雑な思いが続いてきた。「何をどこまで信じるのか」という思いは、 増すばかりで減ることはなかった。個人は組織が持ち合わせない自由意思をもつ。独立した個人であり続けたいと願うので、「組織と心中 するようなことはできそうにない」という思いを抱いてきた。

  最後に、海洋辞典づくり、ホームページづくりについて触れておきたい。辞典づくりは、いわば黎明期にあったが、その未来は 輝かしいものであるとの思いは些かも変わることはなかった。事件の渦中に身を置いていたものの、辞典づくりを止めることはなかった。確かに、その ペースと効率はかなり落ちてしまったが、それは問題ではなかった。辞典づくりを通して、沈み込んだ心をリラックスさせ、多少は テンションを引き上げることができた。毎日とはいかなかったが、ほんの短時間であっても、それに集中することで、ブータンのことから 心身を解放させ、脳内に新鮮な酸素を送り込み、自身をリフレッシュさせられるようにしたかった。ストレスを緩和させる清涼剤、 「明日また頑張ろう」と心を盛り上げるエネルギー補給剤、そして精神的安定剤にもなった。かくして、2000年春に13年ぶりに 南米の地に赴任するまで、牛歩ながらも辞典づくりに向けて自身の足を前に出し続けた。

[資料] 無償資金協力業務時代の海外出張履歴: JICA~健管センターまで

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