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    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第3節 旧スペイン王国の金銀財宝積出港ポルト・ベロへ旅する


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    第14章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る
      第5節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第6節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第8節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


      序章~第9章 | 第13章 第15章 | 第16章~最終章




  パナマでどうしても体験しておきたいことがもう一つあった。それはパナマ地峡を横切ってカリブ海の岸辺に立つことであった。1513年にヨーロッパ人 として歴史上初めてパナマ地峡のジャングルをかき分けて横断し、「南の海」即ち太平洋を初めて視認した人物こそが、スペイン人のバルボアであった。 現代ではわずか数時間かければ、両大洋間を陸路で簡単に横断することができ、二大大洋の海辺に立つことができる。パナマ地峡はまさにその 最適地である。

  当初は、パナマ運河の大西洋側の入り口にある運河・港湾都市コロンを散策し、さらに3連続閘室式で3段の「水の階段」システムをもつガトゥン 閘門を探訪し、船が26メートルほど水階段を昇降するところを見学したかった。だが、コロンの治安はすこぶる悪いこともあって、 事件に巻き込まれるリスクを避ける必要があった。恐らく実際には、事件に巻き込まれることはほとんどないだろうが、万が一巻き込まれ警察沙汰 にでもなると、JICAの内規に触れることにもなり、立場上まずいことになる。関係者に示しもつかないことになる。また、それに伴って、JICAの 安全管理規則が強化され、他の職員や専門家らの私的旅行制度に負の影響が出てしまうことを危惧した。そこで、地峡横断後 の目的地をあっさりとコロンからポルトベロに変更した。そこにはスペイン植民地時代の歴史的な要塞などが残されているという。

  ドライバー付きの車の手配をホテルフロントに依頼した。ドライバーには道案内とともに、「ボディガード」的な役割をも負ってもらうことを期待して、 可能な限りの身の安全を確保したかった。翌日、亜熱帯樹林の生い茂る山間を貫く幹線道路を快走し、カリブ海沿岸の港町ポルトベロ をめざした。歴史上よく取沙汰される「カミーノ・レアル(「王の道」、「スペイン王へ通じる道」の意味)」の一部が残るようであるが、 それを探索することをすっかり忘れてストレートに横断を続けてしまった。ドライバーにその話をしていたとすれば、手際よく石畳の 跡か何かが遺る王の道を少しでも案内してくれていたかもしれない。

  コロン市街地にまもなく入るという頃に、幹線道路を右折して、カリブ海岸沿いに走る支線道路へとそれて、そのまま一本道を ドライブした。海岸沿いには、椰子の木々が茂り、いかにもカリブ海の気候風土にマッチしたハウスが断続的に続いていた。その背後には、入道雲 が湧き立つブルースカイと穏やかなブルーオーシャンが広がり、その境界線が何ともはっきりとしないカリビアン風景があった。車窓からそんなカリブ海の 空と海が椰子の樹間から漏れ見えるのを楽しみながら、ドライブを続けた。急ぐ旅でもないので、途中海辺のレストランの二階テラスで、海の香りと 景色を背景に、ランチを取った。食後はレストランの敷地から長く突き出た板張りの桟橋上に設けられたハンモックで暫しまどろんだ。 カリブ海の香りが漂う青空の下で、最高の贅沢なひと時を過ごした。これぞ旅の醍醐味であった。

  さて、ポルトベロという町は、ヨーロッパ人たちの「大航海時代(地理上の発見の時代)」において、どんな歴史を歩み、またどんな大きな 出来事と関わってきたのか、ほとんど知らなかった。コロンの町よりもポルトベロの方が治安上の問題が少なく、またスペイン統治時代の古い 要塞も巡覧できるらしく、写真の被写体を探すには絶好の地であろうし、また感動の自然風景にも出会えるだろうという軽い気持ちであった。 16~17世紀頃には金銀財宝が王の道を通ってポルトベロへ、さらに本国スペインまで運ばれたが、そんな積出港の町で何か遠い昔の残影でも 見い出したいという思いが強かった。

  もっとも、金銀財宝輸送ルートの「カミーノ・レアル」、ヘンリー・モーガンという有名なイギリス人海賊による「カミーノ・ レアル」を舞台にした襲撃と略奪、ポルトベロやパナマ・シティでの彼による略奪と破壊などについて、俄然興味を抱き、海賊の歴史に前のめり になったのは、ニカラグアへ帰国してからのことである。ニカラグアのエル・カスティージョという、 スペイン植民地時代に築かれた要塞への探訪をきっかけにして、歴史上名をはせた海賊がパナマやニカラグアなどの中米地峡やその近辺を うろつき回り、その足跡を遺して行ったことを学んだ由である。

  さて、ポルトベロにヨーロッパ人として最初に現われた人物はコロンブスであった。コロンブスは第一回航海で、ヨーロッパから地球を西回りで アジアの東、とりわけカタイ (中国)や黄金の国ジパング (日本) をめざした。スペイン・グラナダ県にある町サンタ・フェで、1492年4月17日に カトリック両王との間で、「航海に関する協約」を交わしたコロンブスは、1492年に「新大陸 (カリブ海の島々)」 にたどり着いた。そして、エスパニョーラ島を最初の拠点にして、スペイン人征服者 (コンキスタドーレス)たちは、新大陸の金銀を貪欲に漁り、 また先住民らを隷属的支配下に置きながら、征服と植民の拡大を続けた。

  コロンブスは第4回航海の途中に、ポルトベロの入り江で、探検船団の帆を休めた。その時にポルト ベロと命名したという。入り江は奥深く、「コ」の字のような形をして、三方において小高い山々に取り囲まれている。ポルトベロの町は その後になってパナマ本土側の海岸沿いの、その入り江最奥部に築かれた。奥深い入り江は地形的に見れば、町や港を築くには安全性に優れ、 また湾内は深水を有していた。荒天時にあっても船を安全に停泊させることができたいえる。余談だが、奥行きのある入り江は実は湾でなく、 入り江の最奥に細い水路があって、対岸に見える陸地は島であると思われるが、今もって確信をもてないでいる。

  パナマにやってきた次のヨーロッパ人はスペイン人のバルボアであった。彼がインディオから南に海があると聞いて、パナマ地峡のジャングル をかき分けて南下した。そして、ついに海にたどり着いた。これこそが「地理上の大発見の時代」における、コロンブスに次ぐ第二の歴史的な出来事であった。 パナマ地峡はほぼ東西に伸びる(南北方向ではない)。カリブの海はその北側にあり、彼が辿り着いた海はその南方にあったことから、 彼はそれを「南の海」と呼んだ。現在の太平洋のことである。その視認は西暦1513年のことであった。

  スペイン人コンキスタドーレスや入植者が続々とやってきて、パナマ地峡を横断し、1519年には太平洋岸に初めて町を築いた。それが現在の パナマ・シティの中心部から東へ6㎞ほどの地に遺されている「パナマ・ビエッホ」 (スペイン語のビエッホ(viejo)とは日本語で「古い」という意味) である。現在は廃墟しか遺されていない。

  この最初の太平洋岸の町パナマ・シティーは、「新大陸」、特に南米大陸におけるスペインによる征服・植民のための一つの重要交易中継基地となり、 繁栄を極めた。彼らは、南米大陸において手当たり次第に、先住民インディオから金銀財宝を奪い取り、陸路と海路で、パナマへと集積させた。 ペルーなどのインカ帝国の金銀財宝に加えて、現在のボリビアのアンデス山中のポトシにおいて、1545年頃に銀山を開発した。その銀インゴットを はじめ、ペルーやボリビアを主領域とする「ペルー副王領」の金銀財宝は、カヤオ(現在のペルーの首都リマ近郊の外港)に集積され、 その後ガレオン船でパナマ・シティへと運ばれた。新大陸で開発された金 (ゴールド)の 産出量は意外と少なく、1500年代中頃には激減したという。 しかし、ポトシだけでなく、「ヌエバ・エスパーニャ副王領」(現メキシコを中核とする中米地域)のサカテカスなどでも、重要な銀鉱山などが発見され、 1500年代後期以降には大量の銀が採掘されるようになった。

  因みに、1545年に発見されたポトシ銀山では、「ミタ (強制労働制度)」という制度によって、インディオが過酷な使役にかり出され、銀が 大量かつ安価に生産された。その労働は余りにも過酷を極めたこともあり、100万人の先住民の命が奪われたとされる。 ミタ (mita) とは、スペイン統治下のペルー副王領において先住民のインディオに割り当てられた強制的労役のことである。 ポトシ銀山での強制労役が歴史上特に有名である。他方、ポトシ銀山では水車による鉱石の破砕技法により、また1552年に「水銀アマルガム法」 による精錬技術が開発されたことにより、1500年代後半には 効率よく大量の銀が生産されるようになった。

  ポトシ銀鉱山はアンデス山中の標高4000メートルほどに所在するが、当時のパリと比肩する人口20万人の大都市に成長し、1600年代になると 西半球最大の都市に成長したという。諸説あるが、1660年までに約15,000トンという桁違いの量の銀が、スペイン南西の大都市セビーリャの 「スペイン通商院」へと送り込まれたという。そのうちの約40%がスペイン王室の収入となり、残部はジェノバ商人などの手によってヨーロッパ 中に流通させられた。

  なお、1530年代からメキシコ・シティの南にあるタスコにて銀山が開発された。また、メキシコ・シティの北東にあるグアチナンゴ は1543年に創建され、さらに1552年にはメキシコ・シティの北にあるパチュカ鉱山が発見された。 「旧世界」に向けて開始されていた金銀の陸・海上輸送は、ポトシ銀山の鉱脈の発見と開発によって圧倒的に拡大していった。 

  16世紀以降の植民地時代、金銀財宝はパナマ・シティ(当時のパナマ・ビエッホ)からこのポルトベロまで、ジャングルの中を通る 「カミーノ・レアル」という細い道をロバなどの背に乗せて運ばれたことは有名である。パナマ・ビエッホからジャングルをかき分けて 陸路を辿り、その後はパナマ地峡内陸奥地を源流にしてカリブ海と注いでいたチャグレス川の中流に取りつき、それを水上輸送路として使われ カリブ海へ、さらに海路をもってポルトベロへと運ばれ、海沿いの倉庫に厳重に保管された。ポルトベロはスペイン本国へ金銀財宝を海上輸送する うえでの大西洋側における一大起点・拠点となり、南米本土のカルタヘナとともに、重要な中継交易港へと発展した。再び余談ながら、パナマ・シティとコロンを 結ぶ幹線道路を走ったが、その道路がこの「カミーノ・レアル」を分断しているという。そして、 その分断地点から石畳の道が今でも残されているという。そのことはずっと後で知りえた。

  ところで、歴史をひも解けば、1500年代中期にはスペイン本国と新大陸を行き来するガレオン船の規模は5~6百トンへとますます 大型化した。なかには千トンクラスの大船も就航した。そして、私掠免状をもつかもたずして、金銀財宝の強奪を繰り返すイギリス人らによる 海賊行為に対抗するため、新大陸との貿易を独占していたスペイン通商院は、1543年以降、年2回キューバのハバナから船団を組ませて 大西洋横断の途につかせることが多かった。

  当時、新大陸本土とハバナ間における海上輸送には主に3つのルートがあった。
・ 第一に、アジアからの富を本国に輸送するために、先ずマニラから 太平洋を横断しアカプルコに至り、陸路でベラクルスへ運び、再び海路で集積地のハバナへ、そして本国スペインへ向かうという大西洋回廊ルートである。 このルートには「ヌエバ・エスパーニャ副王領」での富をベラクルスからハバナへ輸送するという船団ルートと重なり合う。
・ 第二に、南米大陸の富を輸送するために、リマから海路でパナマ・シティへ、さらに陸路カミーノ・レアル、チャグレス川とさらに海岸ルートを辿り ポルトベロへ、その後集積地のハバナへ、そしてスペインへ向かうというルートである。
・ 第三に、南米大陸の金銀財宝は、現在のコロンビアの港町カルタヘナなどにも集積されたので、先ず海路でハバナへと運ばれ、そこで本国へ向かう船団が配されるまで、集積・保管された。 そして、そこから船団を組んで本国へ向かうというルートである。 ハバナに集積されたそれらの大量の金銀財宝は、スペイン本国によって年1回あるいは2回仕立てられたガレオン船団に積み込まれ、メキシコ湾流と 南東貿易風を利用して大西洋を海上輸送され、通商院のあるセビーリャへと運ばれた。既述の通り、当時横行していた海賊、特にイギリスなどの 私掠免状をもつ海賊らの襲撃に備えてのことであった。いわば護衛付き大船団を組織して移送された。 1519年にスペイン人によって建設されたハバナは、かくして新大陸の征服や植民のためのゲートウェイとなり、また新大陸とスペイン間の中継基地 として繁栄を謳歌した。

  ポルトベロには、16世紀末には海賊の襲撃などから町や輸送船などを防護するため、第一に、その入り江の入り口やその最奥部など にいくつかの堅牢な要塞が築かれた。現在街中には2つの要塞跡が遺される。一つは入り江入り口近くにある「サンティアゴ要塞」である。 もう一つは、入り江の最奥部にある「サン・ヘロニモ要塞」である。

  後者のヘロニモ要塞には、入り江に向かって睨みをきかせる大砲18門が現在でも遺されている(要塞はユネスコ世界文化遺産である)。 そして、要塞のすぐ近くの海岸沿いには税関倉庫(Royal Customs House of Portbelo)が隣接して建っている。ポルトベロの市街地中心部の一角 でもある。倉庫は現在では税関博物館となっているが、植民地時代当時には金銀財宝などを一時保管するための税関倉庫がそこに築造されていた。 ポルトベロの歴史などについてほとんど予備知識をもたないまま、ヘロニモ要塞を散策した後、その古い倉庫に何気なく立ち寄った。 一部が博物館となっていることを知り、見学することにした。植民地時代に倉庫が果たした機能や海賊との関わりなどについてパネル展示されていた。 倉庫床部がほんの少しが掘り起こされ、ガラス張りにして展示されている。建築された当初の倉庫の床部レンガが遺されている。

  展示パネルの中に、カールした立派な口髭をはやした人物の小さな肖像画コピーと解説記事のようなクリップが無造作に貼られていた。それが ヘンリー・モーガンとか言うイギリス人海賊であった。何も知らない私は、モーガンがこんなこわもての顔をして、パナマ・ビエッホを、 壊滅状態に陥れたり、ポルトベロを部下に襲撃させたりして、カリブ海域周辺で随分派手に「活躍」したらしいことを、おぼろげに知った。 因みに、1668年、ポルトベロの町はモーガン配下の海賊の襲撃を受け、15日間にわたり略奪行為によって破壊尽くされた。それは、 モーガンの悪名をさらに高める一方、スペイン王室を驚愕させ憤慨させたという。

  展示の解説記事などは、文字が小さくて虫眼鏡がいるくらいであった。その記事を読むエネルギーも残っていなく、 モーガンとポルトベロとの関わり合いを十分理解しないまま、取敢えずは写真だけは切り撮っておいて後で読んでみようという程度の興味であった。 彼のことを含めて、カリブ海の海賊全般と彼の「活躍」の歴史などをいろいろ学び始めたのは、既述のとおりニカラグアへ 帰国した後、エル・カスティージョ要塞を見学してからのことであった。スペインの対外的国際文化協力の一環として要塞内の一角に設営された、 ニカラグアの歴史を解説するパネル展示に出会い、目からウロコが落ちる史実を知った時からである。因みに、モーガンが初めてスペイン植民地の町を襲撃し略奪し、悪名を高めたのが、 ニカラグア湖最奥の港町グラナダであったことを知り、驚き、唖然とし、スペイン植民地時代のニカラグアの歴史や海賊との関わりなどを 紐解くきっかけとなった。

  さて、こうしてパナマ運河とポルトベロを探訪する旅は終わった。たった3泊4日の短い旅であったが、思い描いていた沢山の収穫だけでなく、 思いがけない「成果」もあった。心の満足度は100%以上であった。子供じみているかもしれないが、半世紀近く心のポケットにしまい込んでいた思いを成就 したことの結果であろう。ところで、ニカラグア国内におけるプライベートな旅、それも一泊二日の小旅行を始めたのは、何と着任してから 1年ほど経った頃からであった。その後2回目の小旅行、それも二泊三日の旅において、偶然にも、ニカラグアには「ニカラグア運河の夢」 があることを初めて知ることになった。それ以来、俄然にニカラグア運河に前のめりになって行った。「運河の夢」の実現においては、日本や JICAがどのような形で関わることになるのか、興味を深めて行った。だが、赴任後の1年間は、旅の行き先としては圧倒的に海外に向けられていた。


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