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ニカラグア着任当初は、通勤の足となる自家用車もないし、何をするにも勝手が分からないので、目的の事柄や事物に向けて一直線にアプ
ローチし、最短時間でやり過ごすことができず、気が付けば半日、一日掛りとなっていることが多かった。着任後数か月を経てようやく
仕事にも慣れ、少しは先々を見通しながら仕事に取り組めるようになった。
ニカラグアで仕事をこなすための知恵や慣れだけでなく、「生きる」ための私生活上の知恵や慣れも徐々に蓄積され、仕事と生活の両面で格段と
落ち着つくようになった。仕事や生活面で余裕が生まれてきたその頃、近隣国への私的な旅行のことが頭をよぎり始めた。ニカラグアから国外へプライベートな旅に出るのであれば、何を差し置いても真っ先にパナマに
出掛けようと固く心に決めていた。
青少年の頃、南米航路やニューヨク航路の船乗りになることに憧れていたことは何度か述べた。パナマ運河を通過し、南に針路を取って、
世界三大美港の一つと謳われたリオ・デ・ジャネイロ、ブラジルコーヒー積出港として名高いサントス(サンパウロの外港)、そして南米のパリと称されるブエノス・アイレスへ、
あるいは北上して摩天楼がそびえるニューヨークに入港し、エンパイアステートビル界隈のビジネス街を闊歩し、アメリカ文化を肌で感じることに、
全くもって単純ながら憧れていた。だが、夢は破れ去り船乗りになリ損ねた。しかし、いつの日にかこの目でパナマ運河を見てみたいという思いをずっと
心の引き出しにしまい込み、いつしかそのチャンスがやって来る日を待ちわび続けていた。子どもじみていることかもしれないが、運河探訪には
そんな思いがあった。少年時代から既に45年ほどの時を経て、運河探訪が現実のものとなるその日がついにやってきた。ニカラグア着任から
5か月を経た2008年1月に旅を敢行した。週末をはさんでわずか3泊4日の旅であった。たとえ数時間であっても、運河をこの目で見ることができれば
本望であった。ニカラグアからパナマの首都パナマ・シティーへのフライトは短かった。日本を起点にした空旅だと往復に最短3日間もかかるだろうが、
首都マナグアからだと、ほんの2時間足らずであった。
パナマ・シティーのホテルにチェックインした後、すぐさま外出の身支度を整えて、一目散にホテルのロビーへ下り、タクシーに飛び乗った。向かったのは
ミラフローレス閘門である。車窓を流れる市街地の景観を子どものように興味津々に眺めた。パナマ運河建設以来アメリカ的繁栄の香りがぷんぷんと
漂っていることが見て取れた。市街地を過ぎて緑豊かな亜熱帯ジャングルに足を踏み入れた頃、ミラフローレス閘門の気配を肌で感じた。
気持がどんどん高揚し、心臓の鼓動が飛び跳ねてくるのを抑えきれなくなった。
前方正面を眺めると灯台のようなタワーが見えた。閘門に向かってアプローチして来る船が航行目標にするライト・ビーコンに違いなかった。
車窓を流れる樹林の隙間から、運河や閘門の姿を捉えようと目を凝らした。
かくして、閘門を擁する広大な空間の中へ、タクシーは滑り込んだ。そして、4階建てくらいのビジターセンターの前で下車した。そして、周りの
景色をやおら見渡し、オゾンに溢れた新鮮な空気を何度も大きく吸い込んだ。写真では何度もお目にかかってきたミラフローレス閘門の地に
立っていると思うと、感激で武者震いしそうな心境で、暫し佇んだ。そして、やおらセンター屋上へと向かった。
屋上からは閘門エリア全体を視野に入れることができる。見学者のためのいわば「特等席」である。屋上空間に出てまずは閘門全体を見渡した。
目には視界180度のダイナミックなパノラマビューが飛び込んできた。閘門全体の風景が超大型映画スクリーンに映し出されたようであった。
その映画スクリーンには、閘門を通過中の巨大船が大きくズームアップされているような感覚を覚えた。しかも、スクリーンから船首尾がはみ出して、
船体中央部がズームで映し出されているような迫力満点のパノラミックビューであった。「これだ! まさにこれを見たかったのだ!」と、
心で叫ぶ少年の自分がそこにいた。感激がこみ上げてきて、踊り跳ねたくなるような衝動を覚えた。
思い憧れてきた風景を目の前にして涙が溢れて来そうであった。生きているうちに一度は見たいという積年の思いがついに実現した瞬間であった。
「諦めなくてよかった」。夢をもち続ければ何時かは実現する日もやって来ると確信をもてた瞬間でもあった。その後、時間の経つのを忘れて、眼下で
繰り広げられる船舶通過のオペレーション風景と向き合い続けた。
屋上から眺めると、ミラフローレス閘門には船が往復通航できるように2本の航行レーンがあった。向こう側のレーンには、カリブ海からやってきて
太平洋へ抜ける大型クルーズ客船や車両運搬船などが通過していた。手前のレーンでは、太平洋からカリブ海へ向かう大型貨物船、コンテナ船などが
閘室で暫く留まり、その後微速前進で移動して行く。さながら、船舶通過シーンをスローモーション映像で眺めているようであった。
閘門は連続した3つの閘室からできているが、そのいわば2段からなる「水の階段」を通過する船をじっくり観察した。
太平洋側から一隻の大型タンカーが、アプローチ水路をゆっくりと閘門に向けて進んできた。何隻かのタグボートが舷側に張り付いたままである。
何やら作業をしている。多分、巨船を最初の閘室へうまく収容するための事前調整をしているのであろう。
閘門の端からは一本の細長いコンクリート製桟橋が突き出ていた。最初の第1閘室へ寸分の狂いもなく巨船を平行に導き入れるためのものであろう。
タンカーは、その桟橋沿いにゆっくりと第1閘室へ進入してきた。船の舷側が閘室の側壁に接触しないように、丸で定規で測るように平行的に、
一定隙間を保ちながら無言無音のままゆっくりと慎重に滑り込もうとしていた。だが、それは想像してみただけのことである。どんな細かいオペレーションが行なわれているのか、遠くのことだし、
またタンカーは低い位置にあるので隠れている部分も多く、はっきりと見て取れなかった。閘室側壁とタンカー舷側との間にどの程度の隙間が
残されているのかも、屋上からは全く分からなかった。
タンカーは第1閘室に滑り込むと、間もなく船尾側の観音開き式のゲートが閉じられたようだ。第2閘室から第1閘室へ水が自然落下(重力式)
方式で注入され始めたと思われる。タンカーの船体が徐々に浮き上がって来たことで、その注入が進んでいることを想像できた。それまで船の
舷側はほとんど見えなかったが、少しは見ることができるようになっていた。両閘室の水位がしっかりと平衡になったのであろう、
第1閘室の船首側の観音開き式ゲートが開かれ、船はゆっくりと前進し、次の第2閘室へと音もなく滑るように移動してきた。
船はビジターたちの眼前で止まった。
次いで、巨船の船尾側の扉がゆっくりと閉じられていく。そして次の第3閘室の水が第2閘室に注ぎ込まれ、タンカーは再びゆっくりと浮き上がり
、フルに巨大な船体全体を見せ始めた。第2閘室と第3閘室の水位が平衡となったところで、前方の扉が開かれ、船は再び前進し、第3閘室へ滑り込んだ。
後方の扉が閉じられ、次に第3閘門の前方扉が開かれ、すべてのロープが解き放たれ、船はゆっくりとガトゥン湖に向けて
進んで行った。こうして「水の階段」を2段分18メートルほどを昇り切った。
次に目指すのは、数キロメートル先の正面に見える連続2閘室からなる一段昇降式のペドロ・ミゲル閘門である。大型タンカーの昇降と通過の様子を
丸で子供のように飽きもせず眺めていた。
ところで、ビジターセンター内には運河に関する展示館が備わっていた。パナマ運河建設当時の工事の様子を紹介するパネル写真、ガトゥン湖や
3つの閘門システムと航行レーン・航路標識などを含む運河全体の大きなジオラマ展示などを通して、建設の歴史、運河周辺の自然環境、閘門システム
の基本構造、建設に用いられた開削技術などを学ぶことができる。建設労働者がマラリアや黄熱病などの熱帯感染症に悩まされ、多くの犠牲者が
出たことは有名な話である。
フランスのレセップスは、かつてスエズ運河建設で培った経験を活かして、パナマ運河を建設しようとしたが、その努力の甲斐なく、彼の運河会社は
ついに財政破産に追い込まれた。完遂することなく工事を途中で放棄するに至ったのは、マラリアなどの熱帯特有の病気による犠牲者の続出に
よるところが誠に大であった。展示でもその史実に一つの焦点がおかれていた。
紆余曲折の末、1904年に建設を引き受けた米国は、先ずは建設現場の衛生環境改善を図り、当時原因不明であった熱帯病を克服しようと闘った。
その闘いは困難を極めたが、蚊の発生の抑制対策にはそれが有効と考えられ、徹底的に水溜り除去などの措置が執られた。その結果、蚊の発生は
徐々に減少したという。
米国は、運河水面と海水面とを同じ高さにするという海面式(水平式)構造設計を取り止めて、「水の階段」をもって昇降する閘門式
を採用した。当然、海面式とは比較にならない近代技術が必要とされた。他方、開削工事のなかでも、クレブラカットと呼ばれる岩山の開削は
難航を極めた。展示を通して、建設当時におけるさまざまな開削上の障害を克服するためにチャレンジがなされた技術開発の歴史を学ぶこと
ができる。特に新しい技術を備えた大型浚渫船の建造と投入は注目される。
海面式でなく閘門式の運河の場合、船が「水の階段」を昇降するたびに大量の水が必要とされた。その水源として「カトゥン湖」
という人工湖が建設された。大西洋に注ぎ出てるチャグレス川が堰き止められ、閘室扉(ゲート)の開閉オペレーション用の巨大な水源とされている。
陸地の開削によって建設される水路だけでなく、人工湖内の航路を浚渫するためにも、近代技術を駆使した大型浚渫船の新たな開発と
投入が行なわれた。そのことを、浚渫船の模型とパネルで学ぶことができる。また、閘室扉の開閉に使用されている観音開き式の扉を復元したかのような
実物大に近い模型を通して、閘室扉の基本構造や油圧式駆動技術などを学ぶことができる。
さて、陽が落ちる前にペドロ・ミゲル閘門を一目だけでも見ておきたいとセンターを後にして、数キロメートル先にある閘門へと急いだ。だがしかし、どうも
一般見学できる施設はないらしく、ガトゥン湖畔から遠目に眺めただけであった。とはいえ、運河散策の感激はまだ続いていた。
ミラフローレス閘門をじっくり探訪できたことは大満足ではあったが、実はまだ心残りのことが一つあった。遊覧船で運河を半日クルージング
するツアーが週一回の割合であることは事前に知っていた。それ故、半日コースへの参加を予め想定し、週末をはさんでの今回の旅であった。
せっかくの機会であるから、半日遊覧ツアーに参加すべく、早い段階で旅行代理店と掛け合ってきた。幸いにも
半日遊覧ツアー船の乗船券を手に入れることができた。因みに、一日かけて太平洋側から大西洋側まで3つの閘門全てを通り抜ける
というツアー、即ちパナマ・シティからコロンまでの運河クルーズツアーもあるが、月1回しかないらしく、最初から諦めていた。
さて、遊覧当日は運よく最高の晴天に恵まれた。小型遊覧船に乗船し、ミラフローレス閘門を通過し、さらにペドロ・ミゲル閘門やクレブラ
カット、チャグレス川がガトゥン湖に注ぎ込む河口域などを経て、同湖岸の町ガンボアで下船し、その後貸切バスで帰投するというものである。
現在のパナマ・シティ中心街の西方に「カスコ・ビエッホ」という旧市街地区がある。スペイン植民地時代には街の中心部であった。今でも
コロニアル風の建築物が遺され、当時の面影を偲ぶことができる。その沖合いにパナマ屈指の週末向けのリゾート地となっている島嶼が浮かぶ。
カスコ・ビエッホの少し先にあるアマドール地区から海に突き出したコーズウェイを伝って、それらの島嶼に渡ることができる。遊覧船の発着場はその島嶼の一つであるフラミンゴ島
にあった。島嶼の地理的位置としては運河入り口の沖合にあることから、島嶼は運河へのゲートウェイ、あるいは物標のような存在であった。
そして、コーズウェイは運河の入り口まで誘導してくれる導堤のような存在であった。翌朝、旅行エージェントが手配した迎えの大型バスに乗って、
別ホテルの別客を次々と拾いつつ発着場へと向かった。
ツアー船客で鈴なりになった遊覧船は港を出て、そのコーズウェイに沿って運河入り口へと向かった。やがて大きな橋が視界に入って来た。
そこで初めて知った。運河入り口を象徴する真のランドマークは、南北両大陸に架けられた「アメリカズ・ブリッジ」であった。
大橋をくぐると、右舷側にバルボア港が見えた。港を通過するとその前方に、ミラフローレス閘門を遠望することができた。
遊覧船の前方には一隻の大型貨物船が先行し、閘室直前のアプローチ水路上に停まっているようであった。豆粒の
ように見える手漕ぎボートが、貨物船の船尾辺りに漂っていた。そして、ボートは貨物船から投下された
ホーサー(太綱)を拾い上げ、何か作業をしているように見えた。
貨物船の左舷側には、閘門の端からこちら側に向けて細長い桟橋のような構造物が突き出していた。桟橋は数百メートルもあろうかと
思われた。貨物船はその桟橋に対して船尾を少し離して斜めに停泊していた。目をよく凝らして観察した。最初の閘室へ貨物船を導き入れるに当たって、
船体舷側と閘室側壁との隙間を平行均等に保てるように誘導するための桟橋であり、長い定規のような役目を果たすものであると、はっきり気付いた。
やがて、何隻かのタグボートによって船尾や舷側中央部を押されて、その桟橋に対して平行になるよう押しつけられていた。ただ遠くにあり過ぎて、
船体舷側と桟橋側壁との隙間はどれくらいなのか、50㎝なのか1mなのか全く見当がつかなかった。
桟橋上では、日本製といわれる電動車(ミュール)が、そのホーサーを受け取って、船を定位置に停めようとしていた。即ち、桟橋側壁に
船体を引き寄せ、均等の隙間を保って船体を停め置くための準備が進められているようであった。だが、遠くのことなので、
どんな細かい作業が行われているのかは判別できない。兎に角、遠くから見れば、隙間は全く無く、船体と桟橋はくっついているようにしか見えなかった。
最終的には、船首・船尾両舷に配されたミュール4基に各ホーサーが結び付けられ、ロープの張り具合などが調整され、貨物船は桟橋側壁と平行に均等
隙間を開けながら停め置かれた。そして、貨物船は桟橋側面に擦れないようにそろりそろりと微速前進し、第1閘室の中へと引き込まれて行った。
我われの遊覧船はその間、アプローチ水路上でホバリング状態で待機していた。
貨物船が第1閘室に完全に入り切ると、遊覧船は間髪入れずその船尾めがけて同じ閘室へ滑り込んだ。私は遊覧船のブリッジ直下にあるオープンデッキの
最前列の見通しの良いところにいた。貨物船にくっつくと、その船尾がそそり立っていた。貨物船のすぐ後方にあってホバリング中の遊覧船からは、
貨物船の左舷舷側と閘室側壁との隙間が垣間見えた。貨物船は全長200m以上ほどあったので、その隙間の最奥部まで覗き込もうとしても、
奥は真っ暗なだけで全く見通せない。両舷側は側壁にぴたっとくっついているかのように見えた。船尾付近での隙間は、何と50㎝あるかないかの
狭さであり、200m先まで均等に隙間が保たれているはずであった。
それにしても、第1閘室への手際の良いオペレーションを遠目であったが観察できた。さすがプロフェッショナルたちのやる神業的なオペレーション
には脱帽するばかりであった。巨体を側壁に擦りつけることなく、わずかな隙間を残してよく押し込められるものだと、その熟練の作業技に驚嘆する
ばかりであった。間もなく、遊覧船のすぐの後方で、巨大な観音開き式の鋼鉄製扉がゆっくりと閉じられた。
遊覧船から見上げる第1閘室の側壁は随分と高かった。アプローチ水路の海水面から第1閘室の天頂までは10メートルほどの高さがあり、鉄壁で囲まれた巨大な
プールの底に閉じ込められたような圧迫感があった。鉄壁が覆いかぶさってくるようで、閘室内の最低水位から見上げる空は随分と狭く感じた。
ここから先ず最初に9メートルほど上昇する必要があった。と言うのも、ガトゥン湖の水位は海抜26メートルほどあるゆえである。やがて、
前方の第2閘室から第1閘室へと、重力落下方式で水が注ぎ込まれ出したようだ。遊覧船の周りの水の動きが激しくなり、水面がかなり
泡立ち始めた。水位が徐々に上昇し遊覧船もゆっくり浮き上りつつあることは、閘室の側壁がせり上がってきたこと、そして狭かった空が徐々に
大きく広がってきたことで分かった。水嵩がどんどん増えて、船が持ち上げられてきた証左であった。今まで高く見上げていた閘室側壁がどんどん
低くなって行った。
先行する貨物船の前方は全く見えないが、第1閘室前方の観音扉が開かれ、貨物船はミュールに付き添われてゆっくりと自力で
微速前進した。渦巻と泡を発生させながら、次の第2閘室へと音もなく滑るように入り込んで行った。遊覧船は再びその船尾を
追いかけてくっついた。その後、第2閘室の後方扉が閉じられた。そして、今度は第3閘室の水が第2閘室に注ぎ込まれ、水嵩がどんどん増し、
船が再びゆっくりと持ち上げられた。第2閘室の底にあってなおも髙い側壁に囲まれ、空がかなり狭まく感じていたが、
船が再び9メートルほど昇り切った。すると、デパートの屋上階に出たかのように、360度広々と開けた地上階の閘門全体を見渡せた。
昨日まで陣取っていたビジターセンターの屋上がすぐ眼前にあった。地底から地上に昇り詰めたかのように、見慣れた地上風景に戻ることができた。
今度は、第2閘室後方の扉が閉じられ、第3閘室の水が引き込まれた。そして、両室の水位が平衡となって間もなく、第3閘室前方の扉が開かれた。これで、
第2閘室の水位はペドロ・ミゲル湖と同水位となった。かくて、ミュールからすべてのホーサーが解き放たれ、貨物船はゆっくりとミラフローレス湖
へと船足を速めた。こうして「水の階段」を18メートルほど昇り切った。閘門通過の巧み技のオペレーションに見惚れて、声も出ない素晴らしい
初体験であった。
貨物船が次に目指すは、4、5km先の正面に見えるペドロ・ミゲル閘門である。ここでは「水の階段」を一段だけ昇る。閘室に入ると後方の扉が
閉め切られ水が注入された。船は徐々に上昇し、閘室内の水位が人工湖のガトゥン湖のそれと平衡になったところで、前方扉が開かれ前進した。
ミラフローレス閘門での上昇分と合わせて、遊覧船は海抜26メートルまで持ち上げられた。
その後、遊覧船が狭い水路を辿って行くと、間もなくクレブラカットといわれる有名な狭水路へと進入して行った。建設当時、ここが開削上の最大の
難所であった。両岸の岩山の削り跡を見れば、いかにも硬い岩盤のような地面が開削されたことがよく分かる。特に右舷側には
削り取られた、高さ100mほどの小高い山が岩肌をむき出しにしている。人工的に削り落とされたことは一目瞭然であった。自然のままの山とはいか
にも異なり、岩肌むき出しの岩壁が高くそそりたつ。遊覧船のデッキからそんな岩山を見上げ感無量の思いであった。開削工事では、
巨大な石炭露天掘りのように、水路の底辺から段丘状に地面が上段へと削り取られ、各段丘テラスには軌道が敷かれ、トロッコを
走らせ、削り取った岩石などが運び出された。ビジターセンターには、そんな建設当時の現場写真が展示されている。
クレブラカットを通り過ぎてもなおも狭水路が続く。反対方向から大型クルーズ客船がやって来た。狭水路でそんな大型船とそれなりの全速力
ですれ違うのは刺激的であった。狭水路で一度はそんなすれ違い体験をしてみたいと思いつつ、前方を眺めていた矢先のことであった。正面の遠くから大型
クルーズ客船が近づきつつあった。徐々に船影が大きくなるなか、ずっと目を凝らしていた。
おもちゃのような遊覧船からすれば、全長200メートル以上で、10階建てビルのような、見上げるばかりのクルーズ船が、高速で目の前をあっという間に
あっけなく通過して行った。鳥肌が立った。しかし、それもわずか10秒ほどの瞬間的すれ違いであった。その後、ガンボアに到着する少し手前で、
チャグレス川がガトゥン湖に注ぎ出る川口にさしかかった。そこにはパナマ地峡横断鉄道の鉄橋が架かる。さて、ガンボアで下船し、待機していた迎えのバスで
パナマ・シティへの帰途に就いた。
ところで、物語は少し戻るが、遊覧船がミラフローレス閘門手前のアプローチ水路上でホバリングをしていた折のこと、左岸斜め前方の岸近くの水中に
建てられた櫓のような構造物に気付いた。実は、パナマ運河竣工以来最も大規模で歴史的な運河拡張工事、すなわち第3レーン建設工事が既に
着工されていた。見かけたその構造物は、その拡張工事の一環として、第二のミラフローレス閘門や、そのためのアプローチ水路の建設のための
調査用櫓と見受けられた。海底地質調査をするための小型の四脚式掘削リグに違いなかった。
ところで、運河通航量の増大と船舶の大型化に対応するため、パナマ運河の代替や拡張方法について70年代から検討されてきた。現状では
約65,000トンまでの船舶しか通航できなかった。また、年間14,000隻ほどが約2億7900万トンの貨物を運んでいたが、いずれは通航需要の限界を
迎えることが予測されていた。
運河地帯は当初条約により、運河を竣工させた米国の支配下にあったが、1977年にオマル・トリホス将軍がカーター米国大統領と
運河返還などを定めた新条約に調印し、1999年末に運河地帯は米国からパナマへ返還される予定となった。そして、
運河施政権がパナマへ返還される見通しを得たパナマは、米国と日本の協力を得て、将来の運河需要に応えるための運河計画案をあらゆる角度から
検討することになった。そして、日米パナマの三ヶ国で運河代替案を検討する国際委員会が1985年に設置され、その後「パナマ運河代替案調査委員会」
は2000万ドルの経費をかけて、8年間調査する至った。
実は、JICA契約課に勤務していた当時、日米パナマ運河代替案国際委員会から要請で、運河のあらゆる代替案の比較検討と最適案の提示を担う
コンサルタント、即ち「パナマ運河代替案調査」を請け負うコンサルタントを国際的に選定するために必要とされる国際入札図書を作成すると
いう業務に携わった。いわば、代替案調査の最も初期段階の調査事業での関わり合いであった。国際入札でのコンサルタント選定基準、調査実施条件、調査内容、技術仕様書、契約書案などの日英西語の入札図書一式を
作成するものであった。1996、7年の頃である。委員会はそれを基に国際入札を実施し、マッキンゼーなどの国際的コンサルタントを選定した。そして、
通航量の限界が見え始めた現行運河に対するあらゆる代替案の比較検討に着手した。
調査は紆余曲折を経た後、現行の2レーンをもつ閘門に平行して、新たに往復通航が可能な第3のレーン(3閘室連続式)を新規に建設するという
運河拡張計画案が作成された。そして、パナマでは、同拡張計画案の是非を問う国民投票が実施された。パナマ選挙裁判所(選管)の中間集計
(開票率97.5%)によると、国民の8割近くが賛成し、反対は22%弱で、拡張計画プロジェクトが承認された。
1914年の運河利用開始以来最大規模となる歴史的な拡張工事が2007年に着工され、開通100周年の2014年に工事は完了する予定とされていた。
代替案調査のための国際入札図書作成に関わってからほぼ10年目の2007年に拡張案が実施に移された。2007年にニカラグアに赴任し、翌年1月に
パナマ運河探訪の旅において、偶然にも眼前で、その拡張工事が運河沿いのあちこちの地点において実施に移されていているのを目にした。
その着工を目の当たりにして胸に熱いものが去来するのを感ぜずにはいられなかった。拡張工事は計画よりも2年遅れて、2016年6月に9年をついやして
竣工し、開通した。当時の計画として、拡張によって貨物量は年間約6億トンに倍増する見込みであった。当初の工事費は総額52億5000万ドル
(約6200億円)と見込まれていた。
従前の運河では通航できる船舶のタイプとサイズに制約があった。閘室の制約上から、全長294.13メートル超、幅32.3メートル超の
船は通航できなかった。また、熱帯淡水満載吃水線は12.04メートルを超えることができなかった。この最大限界ぎりぎりの船は
「パナマックス船」と呼ばれた。そして、この限界を超える船は「ポストパナマックス船」と呼ばれていた。
拡張閘門、すなわち第3レーンとその新閘室が完成した現在では、新閘門を通航できる船舶の大きさの上限は、全長366メートル、幅49メートル、
喫水15.2メートルである。その最大限界ぎりぎりのコンテナ船は「ネオ・パナマックス船」と呼ばれる。そして、
その新閘室は、コンテナ船について言えば、20フィートコンテナ積載換算で、14,000個のコンテナを積載する船舶をも通航させることができる。
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新旧閘門の大きさと通航可能最大船舶の大きさ。
* 「パナマックスサイズ」の船舶(既存の閘門を通航可能な最大の船):
長さ294.1m、幅32.3m、喫水12.04m
なお、既存の閘室の大きさ: 長さ304.8m、幅33.5m、深さ12.8m
* 「ネオ・パナマックスサイズ」の船舶(新閘門を通航可能な最大の船):
長さ366m、幅49m、喫水15.2m
なお、新閘室の大きさ: 長さ427m、幅55m、深さ18.3m
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新旧閘門の大きさと通航可能最大船舶の大きさ。 [拡大画像: x27488.jpg]
* パナマックスサイズの船舶(既存の閘門を通航可能な最大の船): 長さ294.1m、幅32.3m、喫水12.04m
なお、既存の閘室の大きさ: 長さ304.8m、幅33.5m、深さ12.8m
* ネオパナマックスサイズの船舶(新閘門を通航可能な最大の船): 長さ366m、幅49m、喫水15.2m
なお、新閘室の大きさ: 長さ427m、幅55m、深さ18.3m
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余談だが、青山士(あきら)という青年技師が、かつて若くして日本人で唯一パナマ運河の工事現場に立ち、その設計作業などに携わった。
彼は帰国後、荒川放水路建設の責任者となり、それを開削し水路を完工し、「赤水門」(現在は
「青水門」に取って代わっている)を建設した。荒川の水の一部は、現在水門を経て隅田川へと流れ下る。他方、本流は荒川放水路を流れ下り、東京湾へと注がれる。
地元の川口を流れる荒川の堤防からその水門がよく見える。青山技師の運河工事での活躍のことを知ったのは、ニカラグアから帰国して暫く後の
ことであった。運河を通して何かと不思議な縁を感じる。
さて、運河遊覧を終えた翌日、もう一つ体験したいことのために出掛けた。それはパナマ地峡を横断してカリブ海を目指して陸路を辿る
ことであった。ガトゥン湖のなかったスペイン植民地時代には、数多のスペイン人がチャベス川を遡り、ジャングルをかき分けて南の海へと
向かった。そして、カミーノ・レアルという「スペイン王の道」やパナマ・シティという町を築きあげた。パナマ・シティーは南米大陸征服の拠点
であり、交易中継基地でもあった。船でペルー、アンデス方面へと南下し、ついにインカ帝国を滅亡させ、南米の金銀財宝はペルー・リマ、パナマ
・シティー、さらに王の道を経て大西洋岸のポルトベロを経由し、キューバのハバナへ、そして王国派遣のガレオン護送船団にてスペインへと
運ばれた。その足跡が今でも遺るというポルトベロへ辿ることにしていた。
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