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    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第4節 米国西海岸の海洋博物館巡りの旅


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    第14章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る
      第5節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第6節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第8節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する


  米国西海岸の諸都市巡りと言ってもカリフォルニア州に限ってのことであるが、州内の主な海洋博物館・水族館巡りをしたいと旅に出た。 旅立ちは2008年7月下旬で、期間は2週間ほどであった。国内外を問わずこれまで沢山の旅のことを綴ってきたので、JICAで まともに働いていたのかと、いぶかられるのではと危惧する。既章で多少触れたが、弁解がましく聞こえるとしても、自身の 名誉のために改めて弁明しておきたい。

  国内外を問わずJICAに奉職していた時には、真剣勝負の気概をもって働いていたと、100%自信をもって言える。他方で無類の旅行好きなので、あちこち 非日常的風景などを求め、また「旅は吉を呼び込む」ことを信じて、旅に出た。在職中での全ての旅は、就業規則に則り、特別休暇や 有給休暇などを取得してのことである。3、4日のごく短かい旅では、ほとんど週末の土日や祭日をはさんで出掛けた。2、3週間以上の長旅では、 すべて夏期・冬期特別休暇や有給休暇を利用してのことである。

  海外赴任中での長期の旅は少し事情が違った。任地が在外という特殊事情の下で認められている健康管理旅行制度があった。通常の有給休暇 とは別にである。また、「不健康地」と定義される国への赴任の場合、2年に一度日本へ一時帰国できることに なっていて、30日ほどの特別休暇を取ることができた。それを活用して、日本への健康管理のために一時帰国する替わりに、赴任国での国内旅行か、周辺諸国への旅行に 振り替えることが圧倒的に多かった。JICA奉職中4度、合計10年ほど海外赴任したが、そのいずれにおいても、健康管理のための一時帰国の権利を 使かって日本に一時帰国したことは一度もなかった。他の「健康国」への旅に振り替えるのが多かった。

  アルゼンチン、パラグアイへの赴任の場合には家族同伴だったので、帰国する理由がほとんどなかった。もっとも、何か健康上の特別の理由を 抱えていたのであれば、話しは全く別であったと言えようが。不健康地とされたサウジアラビアの場合は、家族をスウェーデンの「健康国」に呼び寄せ、北欧諸国を散策した。家族サービスにもなった。要するに 折角海外に赴任しているので、「健康国」と位置づけられる別の外国の異文化をさらに学ぶまたとない機会とした方が、人生面白いというのが 理由であった。未だ見ぬ諸国の海辺や港を散策したり、自然や文化に触れたり、海洋博物館などを訪ねたり、その土地の美味しいものを食し、 家族と共に、あるいは一人で心身のリフレッシュを図ることを選んできた。

  国内勤務にあっては、毎年有給休暇日数を30日近くも余らせ、翌年度に繰り越していたが、繰り越し可能なのは最大20日間だけで、いつも10日間 ほど余らせた有給休暇日数をJICAに「寄付」していた。サウジから帰国後ポストオフで正式に退職した時には、有給休暇を30日以上余らせた ままで、そのすべてをJICAに「寄付」した。もちろん自慢するような話ではなく、見方によれば変わり者のレッテルを張られたかもしれない。 当然ながら、未使用の休暇日数の買い取り制度などはなかった。内心では「買い取ってほしかった」と言う気持ちを擁していた。だが、それは冗談 としても、時を振り返って見てみると、よくぞこれほど多く国内外へと旅に出かけたものと、自身でも驚きである。

  2008年1月のパナマ運河への旅から半年にして、米国西海岸への旅を思い切って敢行した。まだ体力と気力を失ってはいなかった。 50歳代前半に米国東海岸沿いに、帰国に換えて健康管理休暇として30日近く、米国・カナダ国境近くからフロリダ・キーウェストまで、モーテルを 渡り歩きながら3,000kmほどドライブ旅行をした。大西洋岸の港町のウオーターフロントで潮風を浴びながら散策したり、また毎日必ず海洋博物館や 水族館を見学した。実質25日ほどそんなことを繰り返した。

  今回は、還暦に近づきつつあるので、無理をしないでのんびりと、路線バスや電車をうまく乗り継ぎながら、先を急がない旅をすることにした。 とはいえ、米国はモータリゼーションの先進国であり、また意外と辺ぴな田舎町にも 海洋博物館などの文化施設があるので、探訪するには時にレンタカーを活用するのが最適な場合もあろうと、カーレンタルとドライブの心の準備だけはして でかけた。ワシントン州シアトル、オレゴン州ポートランドへの探訪は今回の旅では日程上到底無理なので、カリフォルニア州内のみをほっつき歩くことにした。

  さて、単身赴任していたニカラグアから一人サンフランシスコへ向かった。空港からは20人ほどの相乗りワゴンハイヤーでダウンタウンにあるモーテル式 ホテルにチェックインした。午後遅くの時間帯であったので、その日は、フォート・メイソン地区の西側に隣接するマリーナを めがけてぶらぶらと散策に出た。マリーナからはゴールデン・ゲート・ブリッジをよく眺めることができた。 ほどなくして日没となり、茜色に染まった空をカンバスにして、ブリッジの美しいシルエットが浮かび上がってきた。それを遠景に、そしてマリーナ港口 の小型灯台や林立するヨットのマストを近景にして、素晴らしいウォータフロント風景をカメラで切り撮った。

  いつも旅して思うのだが、つい朝方まである国の「素朴で牧歌的な発展途上国の世界」にいた自分が、午後一には全くの異空間に身を置き、 目の視線が定まらないまま、時間を過ごしていることに、心の整理ができないことが多かった。 実に妙な時空感覚に陥るという経験を幾度となく体験してきた。それはそれで、いつも新鮮にして奇妙な感覚を楽しんだ。 ウォータフロントで潮風に吹かれ海景を眺めながら、明日から始まる10日間ほどの放浪の旅のプランについて思い巡らしながら、未だ 見たことのない土地を探訪することを楽しみにして足取り軽く、宿泊先のモーテルに向けて帰路に就いた。

  サンフランシスコの地に最初に足を踏み入れたのは、1977年7月の新婚旅行の時であった。それ以来30年振りであった。ダウンタウンに「ランバート 通り」という、ヘビのようにくねくねと曲がりくねり、両側に美しい花壇が施された急坂の通りがあった。 最も印象に残っている風景である。当時、借りたレンタカーでわざわざその急坂を下って思い出づくりをした。市内では、それ以外に見物らしい見物 をほとんどすることなく、グランドキャニオンのあるヨセミテ国立公園方面へと向かった。

  フリーウェイを1時間ほど走行したところで、急にエンジンの調子がおかしくなり、そのままエンストしてしまった。 夕闇も迫り来るなか、途方に暮れていた時、通りがかりの地元の年配者の方が、親切にも車を脇に寄せて声をかけてくれた。結局、彼にも車の修理は 手におえなかった。万事休す状態の中、彼から、普通ならありえないような親切なオファーがなされた。何と、彼が所有するアパートの一室に一晩泊めてくれるという。 これほど有り難いことはなかった。

  翌日レンタカー屋のレッカー車がやってきて、我々二人もそれに同乗してダウンタウンへ引き返したと 記憶する。レンタカー屋に事情を説明し交渉した結果、全額払い戻ししてもらった。ハネムーンでのドライブプランはこのハプニングですっかり狂って しまったが、交通事故を起こし警察沙汰になったわけでなく、気を取り直して、次の目的地のシアトルに向かった。後でよくよく考えて見ると、 日程上キャニオンなどへ遠出するのはもともとすごく無理があり、エンストで引き返す結果となって逆に幸いであったと思った。

  休題閑話。翌日真っ先に、メイソン地区にある有名な「サンフランシスコ海洋歴史国立公園」に向かった。「サンフランシスコ海洋博物館」はその公園の 中核をなす施設である。「改修工事のため休館中」であるというのは、ネット情報で事前に知っていたが、本当にそうなのか、仮の 展示室が設営され展示品の一部でも陳列されていないか探ろうと、博物館を訪ねた。だがしかし、残念ながら長期の大規模修復工事のため完全に閉館されていた。いつしか戻って拝観 できることを楽しみにして、出直すしかないと諦めた。あれから10年ほど経つが、再訪の機会はないままである。

  海洋歴史公園のその他の施設をじっくりと探索しようと気を取戻し、先ず同公園ビジターセンターに立ち寄り、有益な情報を得た。 博物館以外では海洋公園の中心地区とも言える「ハイド・ストリート・ピア」を探訪した。そこでは、数多くの歴史的な船舶が係留され一般公開されている。 ピア周辺一帯は海と船にまつわる歴史と文化の香りで満ち溢れ、海や船ファンならずとも、家族で楽しめる一大海洋性レクリエーションエリアと なっている。一船一船じっくりと見学した。

  同ピアの桟橋に博物館として係留される主な歴史的船舶を拾い上げると、例えば、蒸気機関タグボートの「ヘラクレス号」がある。 同号は、燃料の補給なく、30日間あるいは約13,000kmも蒸気で航行することができた。因みに、1908~1924年において、帆船・航行不能となった蒸気汽船 ・丸太の筏・バージなどを、ジャクソンビルやフロリダなどに曳航した。1924~1962年には、ウェスターン・パシフィック鉄道会社のために就役し、 サンフランシスコ湾内のオークランドとフィッシャーマンズ・ワーフ間において鉄道車両バージの輸送に従事した。

  同桟橋には、その他、両舷外輪車式のフェリー「ジュリカ号」、3本マスト帆船の「バルクルーサ号」、3本マスト全縦帆式帆船「C.A.サイヤー号」 などが公開される。また、桟橋入り口には、サンフランシスコとペタルーマ (サンフランシスコ湾の最奥部から 北へ10kmほど川を遡った内陸部にある町) との間58kmほどを1万回以上往復し、旅客と貨物を輸送した船尾外輪式の川船の 「ペタルーマ号」の船尾外輪が屋外展示されている。外輪の直径は5.5メートルほどもある。同号は1950年に引退し、1956年に焼けて沈没してしまった と記される。

  その後フィッシャーマンズ・ウォーフ地区へと足を伸ばし、数隻の船が博物館として公開される「ピア45」へ至った。岸壁には第二次世界 大戦で活躍した長距離潜水艦「USSパンパニート(SS383)」が 係留され、早速艦内を見学した。魚雷の発射装置、司令塔直下の司令室装備など を興味深く見学した。岸壁のその先には、「リバティー・シップ」と呼ばれる貨物船「SSオブライエン号」が係留される。第二次世界大戦中に おいては、デザインの異なる貨物船を時間をかけて建造している余裕がなく、とにかく一日でも早く効率よく輸送船を建造することが要求され、 標準船型のそれが大量に建造された。船首・船尾それぞれに、効率的な貨物の積み降ろしのための門型の船上起重機が目立つ存在となっている。 ピア45の先端にはカリフォルニア・アシカのルッカリー(生息繁殖地)があり、沢山のアシカが寝そべり、人々に束の間の愛嬌を呈している。

  更にウォーフ地区を進むと「ピア39」という桟橋がある。桟橋のゲートウェイには「アクアリアム・オブ・ザ・ベイ」という 水族館がある。立地条件が良いこともあって活況を呈していたところ、絶好の機会であると覗いてみた。総ガラス張りの水中トンネル内では、カタクチ イワシの統制のとれた大群が右へ急発進移動、次には左へ、さらに上へ下へと、すばしっこく動き回り、とどまることを知らぬ集団的行動を見せていた。 見学者は物珍しそうに見上げて、移動の度に歓声をあげていた。 イワシ魚群は24時間繰り返すのであろうか。だとすれば、疲れて死んでしまいそう である。 水族館でイワシの群れが静止して寝ている姿を見た記憶がない。夜間消灯になれば、じっとして寝るのであろうか。

  さて、フィッシャーマンズ・ウォーフへのゲートウェーに一軒のベーカリーがある。旅先では時に「えっ」と目が釘付けになるような風景に 出くわすことがあるが、「Boudin Sourdough Bakery & Cafe」という名のパン屋の店先で一瞬驚いた。 パン棚に並べられたカニの形を模したバカデカいパンに目が奪われ立ち止まった。その大きさが半端でなかった。何十人ものゲストに供することが できそうな巨大さであった。巨大カニパンをパーティにでも供したら、さぞかし驚かれ、会も盛り上がるに違いない。「カニパンをでっかく作り、 アメリカン・ドリームを大きく育もう!」と言いたげな、店主の心意気が伝わって来そうであった。

  海洋歴史地区をこうして丸一日気の済むまで歩き回った。この歳にして初めてサンフランシスコの海洋歴史文化の香りの中に身を 置くことができ、ハッピーであったが、シスコに来たもう一つの重要な目標地があった。それはモントレーであった。モンテレーは、サンフラン シスコの南200kmほどに位置する、太平洋岸沿いの名高い開放感溢れる海洋性リゾート地である。そこには「モンテレー海洋歴史博物館(Monterey Maritime and History Museum)」や「モントレー湾水族館 (Monterey Bay Aquarium)」などの文化施設がある。 クジラ・ウオッチングのメッカでもある。いつしか機会を捉えて一度は訪れてみたいとずっと何十年も想い描いてきた。

  レンタカーを前日に借り上げ、近くのパーキングロットに駐車させておいた。早起きして午前4時頃、まだ暗いうちにモンテレーを目指した。 サンフランシスコのダウンタウンはまだ静まり返っていた。途中から海岸線に沿ってドライブすることになり、海を垣間見ながらルンルン気分で快走した。 途中見晴らしの良い高台にぽつんと建ち、営業ランプを灯すカフェテリアで車を止めた。そして、海を眺望しながら朝のカフェにあり付き暫し リフレッシュした。その後、時に見渡す限りのイチゴ畑が広がる田園を走り抜けながら、南へと快適なドライブを続けた。海岸沿いのドライブであり、天気にも恵まれ、 めざすは風光明媚なリゾート地と思うと、心は自然とは弾んだ。

  モントレーに着くと、モントレー湾に突き出した埠頭があって、その入り口で小さな木造平屋のレストランを見つけた。そこで窓越しに海を眺め ながらブランチをいただくことにした。パンケーキと、芳ばしい香りが漂うハーシュ・ブラウンに、目玉焼き、ソーセージを食し、コーヒーをいただきながら、 ゆったりとした時間を過ごした。青い海と空をバックに、美しい弓なり状に伸びる湾景がそこにあった。その後早速、童心に帰ってモントレー水族館 を見学することにした。同水族館は、見上げるばかりの「ジャイアント・ケルプ・フォーレスト」の水槽で有名である。 実物の巨大ケルプの森を再現した、世界でもユニークな展示がなされ、水族館のシンボル的存在となっている。

  水族館は開放感に溢れていた。ガラス張りの館内からも、また海沿いの板張りデッキからも、カリフォルニアの陽光に溢れる素晴らしいオーシャン・ ビューを堪能することができた。水族館もまた緩やかな弓なり状のモンテレー湾に面していた。そして、デッキの真下には自然のタイド・プールが 広がり、館外の自然の海と館内の人工の海が融合したような情景を楽しむことができる。そして、デッキのすぐ地先の海には、 天然のジャイアント・ケルプが繁茂する「樹海」が広がる。海面が深緑に染まったところには、海底から長く生い茂った ジャイアント・ケルプが波に揺られ漂っている。そんなケルプ・フォーレストの「藻海」というか「樹海」で、パドルを漕ぎ カヌーイングを楽しむ人たちがいた。暫しカヌーイストたちに視線をやり、その海景に見惚れていた。

  「モントレー海洋歴史博物館」は水族館からさほど離れていなかった。展示品を一つ一つ記す余裕はないが、印象深かったのは、捕鯨に関する 展示が充実していたことである。各種の銛打ち道具、銛先、鯨油製造用大鍋、スクリムショー(鯨の歯などに彫刻するという、船乗りの慰み・芸術)、 鯨捕りの銛打ちボート模型など。米国帆船軍艦「コンスティテューション号」などの船模型など数多く展示する。その他日本の海女の潜水漁ジオラマ。 ある陳列ケース内には、中国・日本などで用いられた昔のコンパス。ジャンク船や千石船などで使われたのであろう。磁針を納める円形ガラス ケースの周りには、十二支プラスαの24方位を刻む和式コンパスや、何百と言う方位などを書き込んだ中国式円盤型コンパスなど。日本では ほとんどお目にかかったことがなかったので、物珍しく閲覧した。さて、早朝から深夜までの日帰りドライブで少々疲れたが、充実した楽しい 一日となった。

  次いで、サンフランシスコを後にして、30数年ぶりにサンディエゴへと向かった。宿はダウンタウンにあるYMCAのドミトリーで、若者で埋め尽くされた 簡素な宿であった。トイレ・シャワーは共同でその分格安であったが、屋根裏部屋のような狭い部屋であったのには少々がっかりした。 すぐさま荷物を投げ出して、玄関前の目抜き通りの「ブロードウェー大通り」を真っ直ぐ小走りして、ウォーターフロントにある「サンディエゴ 海洋博物館」へと急いだ。

  ワシントン大学留学時代の1975年にシアトルからこの地に旅したことがあった。お金に余裕のない生活だったので、それが留学中に 遠出したほぼ唯一の旅のであった。岸壁に出て見ると帆船の「スター・オブ・インディア号」が係留されていた。当時のままであり、約30年ぶりに 再会できて嬉しかった。とは言え、当時海洋博物館なるものが存在し、同号はその一部であったのか、あるいはそれ他の船舶も岸壁に 係留展示されされていたか定かでない。今ではフェリーの「バークレー号」、ソ連の潜水艦「B-39」などの歴史的艦船が、船舶博物館として 岸壁に横付けされおり、時間の許す限り艦内を見学した。博物館といっても、展示は係留される実物の船舶だけであり、海洋博物館の陸上展示メイン ホールのようなものはなさそうであった。

  今回はじっくり見学する時間があった。「インディア号」の他に5隻ほど係留されていた。船内に最も長居したのは、1890年代後期にサンフラン シスコ湾で旅客フェリーとして長く就航した「バークレー号」である。船内展示として、有名なヘレフォード・マッパ・ムンディ/Hereford Mappa Mundi(復刻版)の他、地理的発見時代の 歴史、地図、航海用具など、さらに英国軍艦「チャレンジャー号」による科学探検調査などについても陳列される。その他の船としては、 冷戦時代のソ連の攻撃潜水艦「B-39」、帆船「HMSサプライズ号」、1904年建造のレジャー用 豪華ヨット(小型艇)の「メデア号」、パイロットボートなどである。その後、近傍の大埠頭に横付けされ公開される「ミッドウェー空母博物館」へ 足を向けた。

     退役空母「ミッドウェー」では、ジェット戦闘機やヘリなどを楽々と搬出入できる巨大な舷門に吸い込まれて、その巨大な艦内に入り、 多くの見学時間を割き見学した。艦内にはジャンボジェット機がすっぽり納まるような大空間であった。上から下へと迷いながらも内部をじっくり 観て回った。艦の巨大さと内部装備の重厚さには圧倒される。飛行甲板にはトムキャットなどの数多くの新・旧型の戦闘機やヘリが、甲板から こぼれ落ちそうなほど所狭しと並べられていた。飛行甲板に立てば360度の視界が広がる。強風でも吹けば、素人見学者は飛行甲板から吹き飛ば されそうで、怖くて立っていれそうもない。全速で航行するミッドウェーの甲板上でパラセールを広げ疾走すれば、軽く大空に舞い上がれ そうである。私史としては、その昔、ニューヨークのウェストサイドのピアに、同様に船舶博物館として係留展示される退役空母「イントラピッド」 に次ぐ米国空母の艦内見学となった。

  空母「ミッドウェー」の反対舷側にはもう一つの大埠頭がある。そこには公園やフィッシュマーケットなどが広がっている。その公園から 巨艦正横をフルに見上げると、遮るものがないこともあって、その凄い威圧感が伝わってくる。岸壁際には、空母のジャンボサイズに合わせて、馬鹿でかい 男女の人形が据えられている。長期航海を終えて母港サンディエゴに帰還した空母の若い水兵と、彼を迎えに来た恋人の巨大な二人立像である。 それとも、これから航海に出る水兵を見送りに来た恋人なのか。二人は他にはばかることなく固く抱きしめ合い、ディープ・キスを交わしている。 「ビクトリー・キス」と称されている。これぞ若いアメリカン・セーラーと恋人との再会、あるいは別れのシーンを描く、感動ものの巨大実像である。 ウォーターフロントを南へ辿ると、シーサイド・コマーシャル・ヴィレッジが整備され、レストランやショップが軒を連ね、市民や観光客の憩いの 場となっている。そこでカフェしながら明日からの旅のプランを想い描いた後、帰途に就いた。

  今回も市街地はずれにある有名な「バルボア公園」へと路線バスで足を伸ばし散策した。緑豊かな公園にはスペイン・コロニアル風建物がたくさん 配され、イベリア・ラ米ムードに満ち溢れた、素晴らしいの一言に尽きる公園である。 留学当時何気なくこの公園を訪れ散策したが、人生で初めてラテン風、スペイン・コロニアル風の文化的様相に触れ、そのエキゾチックな香りに 大感激をした。メキシコ側の国境の町ティファナに向けて国境を越える日の前日のことであった。散歩した当時の印象が脳裏に 深く焼き付き、今でもその時の感激が蘇るくらいである。数多の熱帯植物を展示する総ガラス張りで、十文字プラス蒲鉾形をした 大グリーンハウスも健在であった。前回は叶わなかったが、今回は公園内の「サンディエゴ自然史博物館」を訪れ、鯨などの海生哺乳動物、魚貝類の各種標本 や化石などを巡覧することができた。

  サンディエゴ訪問のもう一つの目的は、カリフォルニア大学サンディエゴ校の「スクリップス海洋学研究所」のキャンパスを散策することであった。 初めての訪問時もそうであったが、今回も路線電車やバスを乗り継ぎ、ラ・ホヤまで足を伸ばした。留学当時にサンディエゴに旅した時も、同研究所訪問が 目的であった。1975年当時、海洋博物館を見学するためにサンディエゴを訪れた訳ではなく、その南数10kmにあるラ・ホヤの同海洋 学研究所を訪ねるのが目的であった。太平洋に向けて全長数百メートルの一本の長い桟橋が昔と変わらず突き出ていた。海洋研究船が横付けされる大桟橋である。 桟橋から急な斜面に沿ってキャンパス広がり、講義・管理棟、研究施設や図書館、カフェテリアなどが配置され、ほとんど変わっていない風であった。 かつて、海洋生物ラボで研究調査船がもち帰った海底軟泥の柱状サンプルを見せてもらったりした。最後に立ち寄ったのは、すっかりリニューアルされ 近代的な施設に生まれ変わっていた研究所付属バーチ水族館である。

  水族館正面前庭には深海潜水艇の「スターIII」が鎮座していた。水族館のテラスからは斜面眼下に広がるキャンパス全景を、その先に伸びる桟橋や180度 広がる太平洋を一望できる。まさに海についての学究に勤しむ意欲を湧き立てる海景そのものと言えよう。館内を一通り見学後 玄関ホールから出ようとした時、側壁にフレミング博士の研究を讃える銘板に気付いた。

  ワシントン大学でフレミング博士の「海洋学」の講座を履修した。同教授がこの研究所を退職しワシントン大学へ迎え入れられたことは知っていた。文系の世界に生き、社会科学分野のなかの法学系諸学しか学んで こなかった私には、人生で初めて自然科学系講座、即ち海洋学という自然科学系の正真正銘のサイエンスを、大学院レベルになって初めて履修した。 私の学究史に革新的な一ページを開くことになった。海洋学の面白さに感銘を受け講義が楽しかったことを思い出す。それを機に自然科学系の海洋系諸学に抵抗感なく入り込めた。 そして、海洋関連の他学諸学にのめり込むきっかけとなった。

  フレミング教授は確か初回の授業から自ら灰皿をもち込んで、喫煙しながら海洋学の講義を始めた。それにはさすがに椅子から仰向けにひっくり 返ってしまいそうな衝撃を受けた。今では到底考えられない授業風景であろう。おおらかな時代であったのだろうか。それとも他者に口外してはならない受講生だけの秘密であったのだろうか。 何と自由な国なのかと思いながらも、何と理解すればいいのか、分からずじまいであった。誰も問題にする者はいなかった。私も灰皿をもち込んで 喫煙しても許されるのではと、錯覚を起こしそうであった。喫煙すれば、他の同僚から非難の集中砲火を浴びそうだし、不謹慎のそしりを 免れまいと、自己抑制しぐっと我慢をした。今でも、温和で親しみやすく、いつもスマイルを絶やさなかった、巨体にして白髪姿の教授のことを 思い出す。

  ところで、何故スクリップス海洋学研究所に二度も足を伸ばし散策したのか、自分でも不思議に思うことがある。青少年の頃海が大好きで船乗り に憧れていた。神戸商船大学の受験を諦めざるを得なかったことはすでに綴った。船乗りになれなくとも、海や船に関わる仕事は 沢山あったはずなのに、何故に海や船に関われる他の道を模索しなかったのか。今に思えば、日本にも海洋学部、水産学部や海洋研究所など を擁する大学がある。米国にもロードアイランド大学やマイアミ大学などの海洋学部、スクリップスやウッズホールの海洋研究所など学ぶ場所は 山ほどある。何故に、海や船と生涯関われる海洋学者、海洋生物学者、海洋工学、船舶設計者などを目指すことがなかったのか、それが自身でも ずっと不思議でならなかった。

  その答えを見つけたいという潜在意識がどこかにあったのかもしれない。青年の頃、柔軟性がなく、思い込みが激しかったのであろうか。 船の運航ではなく、海を舞台に海を対象としての海洋学や水産学的な研究を志せば、海と生涯関われたかもしれない。だがしかし、船乗りとして、 世界の諸国、諸港、異文化に触れたいことにこだわっていた結果なのであろうか。海の世界に回帰できたのは、船乗りを諦めてから6年後であり、 それも意図せず偶然のことであった。運命の不思議ないたずらというか、ある見えない糸による導きに驚くばかりである。バルボア公園を再訪したのは、 JICAに奉職して30数年も経た2008年であった。遠い回り道をしたかもしれないが、海に回帰していることを自己確認するため、サンディエゴとバルボア に戻って来たという思いであった。

  再び休題閑話。その後ロサンジェルスへと向かった。ロスには何度か訪れ、町を散策してきたことがあるが、海や船にまつわる海洋関連文化 施設への訪問を主要テーマにしたのは、今回が初めてであった。再訪したのはロング・ビーチにある「クイーン・メリー号」だけであった。かくして、今回の ロス訪問では、ロス近郊にある幾つかの海洋博物館や水族館を探索したかった。先ずダウンタウンの投宿ホテルから向かった先は、路線電車で ロング・ビーチの入り江のレインボー・ハーバーへ。ハーバーのウォーターフロントにはマリーナの他にスポーツ・フィッシングや湾内遊覧の船が 発着する桟橋が並ぶ。ハーバー北側にはアクアティック・パーク、南には洒落たレストランやカフェが並ぶショアライン・ビリッジがある。 先ずはハーバー界隈の海辺をのんびりとたむろした。

  その後、ロス市営の無料巡回バスで「クイーン・メリー号」へ向かった。メリー号はニューヨークと英国ササンプ トンなどを結ぶ大西洋横断旅行の黄金時代を代表する定期豪華客船であった。ニューヨークに櫛の歯のように突き出たピアに多くの 豪華客船が停泊する当時の風景写真がメリー号の船内に展示されている。今では当時の大型豪華定期ライナーは全て姿を消し、模型になって博物館に 陳列されているが、かつて同号は旅行客の憧れの的であった。メリー号はそのよき黄金時代の優美な姿を遺しており、そんな船内のプロムナード・ デッキや航海船橋などを歩き回った。

  1977年新婚旅行でメリー号の船内で一泊した思い出がある。以来、ほぼ40数年の歳月が流れていた。同号は今でもホテル兼展示館でもある。 新婚旅行時にサンディエゴでもらった祝いのレッドワインがスーツケースの中で割れていて、衣類などがワインレッドに染め抜かれ凄惨な状態となっていた。それが二人の最初の 口論の元になり、新婚旅行中気まずい思いを引きずってしまった。今回、客室通路を歩きながらそんな苦い経験を したことを思い出してしまった。「成田離婚」に至らずケガは小さく済んでよかったと今更ながら思う。

  翌日再びロングビーチへ戻り、路線バスで西方のサン・ペドロ地区にある「ロサンジェルス海洋博物館」に出かけた。館内には昔の帆船 から近代船・軍艦まで数多くの船模型(クイーン・メリー号の大型模型を含む)、船大工用具、潜水用具など展示する。 博物館からすぐ南のウォータフロントにある魚市場・レストラン街で、ロス港のメイン・チャネルを行き来する船風景を眺めながら 、奮発してそこそこまともなシーフードランチを堪能した。その後、ロング・ビーチに戻り、近代的で大型の「ベイ・オブ・ザ・パシフィック 水族館」を見学した。

  その翌日、もう一つの大きな探訪目標地であるサンタ・バーバラへ向かった。ロスの北西150㎞の太平洋岸にある有名な海洋リゾートシティである。 借り上げておいたレンタカーで暗いうちから出掛け、途中ヴェントゥーラ郡にあるチャネル・アイランド・ハーバーに立ちより一休みした。 その美しいマリーナの一角にある「ヴェントゥーラ郡海洋博物館」に立ち寄ったが、早朝過ぎてまだ開館せず、やむなく帰途に見学することにし、 先を急いだ。サンタ・バーバラは、想像にたがわず美しい白砂ビーチと異国情緒な街並みに抱かれた海洋性リゾートであった。「サンタ・バーバラ海洋 博物館」内のレストランで、絵に書いたように美しいマリーナ風景を最高の「食事」にして、軽めの質素なバーガーランチをもって腹ごしらえした。 その後、やおら館内を見学した。

  館内では数多くの帆装戦列艦、フリゲート艦、クリッパーなどの船舶模型、船体構造模型などを巡覧した。棒と貝で作られたポリネシア・マーシャル諸島 の「スティック・チャート」と呼ばれる海図を初めてお目にかかった。その後、一時間でもよいから見学したいと、ベントゥーラ郡の博物館へ と急いだ。狭い館内には、ドイツ・Uボート模型をはじめ、数多くのいろいろな船模型の他、航海計器、潜水具、難破船関連などの展示品が所狭し と陳列され、閉館まで時間の許す限り見学した。

  次いで翌日のこと、再びレンタカーでフリーウェイを走り、ロング・ビーチから南東50㎞ほどにある太平洋岸の海洋性リゾートタウンのニュー ポート・ハーバーへ出向いた。美しい白砂ビーチが続き、バルボア・ピアという大きな桟橋が太平洋に突き出ていて、その先端部にはレストラン などがある。ピア近傍のウォーターフロントにはマリーナや海洋性リゾート・ビレッジが広がり、その一角には小さいながら「ニューポート・ハーバー 海事博物館」があった。これが、今回の旅の最後の海洋博物館見学となった。館内には昔の捕鯨船の船乗りが暇にあかして鯨の歯や骨に彫り込んだ スクリムショーと称される、船乗りの慰みもの(芸術的作品)、捕鯨船の模型などが数多く展示される。

  旅の最終日の前日はいつも予備日に当てていた。何か事故事件に巻き込まれると、思いの他対応に時間がかかることがある。結局、帰国日を 延ばさざるをえなくなるリスクがある。予めそれを可能な限り回避するために、帰国する前日一日くらいはフルに予備日として余裕をみておく のは、いつもの自己流のやり方である。何かちょっとした事故に巻き込まれた場合でも、被害届や事故調書の作成などのための時間が必要にな ろう。帰国日を延長しなくとも何とかやりくりし、当初予定の期日に帰国できるようにするための配慮であり、旅の知恵でもあった。 さて、その余った予備日を利用して、地下鉄でハリウッド地区へ出向き、界隈をそぞろ歩いた。そして、最新作のアクション映画を観賞したりもして、 のんびり過ごした。

  その後ダウンタウンに戻り、ワインを飲みながらステーキを食しプチ贅沢をすることにした。今回の旅では、テーブル・クロスを敷いた レストランでの夕食は初めてであった。10日ほどの旅が事件事故なくほぼ計画通りで無事終わりを迎えられ、そのことへ感謝しながら、また 失敗への反省を綴りながら、一人静かにワイングラスを傾け、もう少しだけプチ贅沢な夕食を楽しんだ。不思議とこれでぐっと心も落ち着いた。 今回の旅での小さな失敗は一つ。モンテレーの市営駐車場で身体障害者マークの付いたところに、そのことを知りながら車を駐車させた。 案の定、博物館見学を終えて戻ってみると、違反切符がワイパーに挟まれていた。ATMで髙い罰金を支払い、宿泊先のネットを使って本人登録をした。 市側の受領を確認をしようとしたが、ついに電話がつながらず、それっきりにしたまま帰国した。何か釈然としないまま現在にいたる。

  翌日メキシコ経由でニカラグアへ帰国した。足代だけはフルに使ったが、宿泊と食事は質素にしながらのいつもの旅であった。ところで、パナマ、 米国西海岸と旅し、ここまでは予定通りの赴任国外への旅であった。さて、次回国外に週末数日でも旅に出るとすれば、いずれの国にするか、 思い浮かべてみた。どうしても探訪したい国は近場のキューバであった。しかし、ビザ取得の手続き面でハードルが高いこともあって、 メキシコのカリブ海側にある港町ベラクルスへ旅するのはどうかと、半ば決めていた。

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    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第4節 米国西海岸の海洋博物館巡りの旅


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     第14章・目次
      第1節: ニカラグアでの「国づくり人づくり」とプライベートライフ
      第2節: 青少年時代に憧れたパナマ運河の閘門とクレブラカットを通航する
      第3節: 旧スペイン植民地パナマの金銀財宝積出港ポルトベロへ旅する
      第4節: 米国西海岸(カリフォルニア州)沿いに海洋博物館を巡る
      第5節: コスタリカ、そしてメキシコへの旅 - ベラクルスの海事博物館やウルア要塞などを巡る
      第6節: 「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて
      第7節: 国内の協力最前線、その現場を駆け巡る
      第8節: ニカラグア湖オメテペ島やエル・カスティージョ要塞へ旅する