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    第23章 ニカラグア運河の踏査と奇跡の生還(その2)
    第2節 オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)


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       第23章・目次
      第1節: 運河候補ルートの踏査(その3)/サン・ファン川と河口湿原
      第2節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)
      第3節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還(その2)
      第4節: コンセッション協定が締結されるも、「ニカラグア運河の夢」再び遠ざかる



  ボラーニョス大統領政権当時の2006年8月に策定された「ニカラグア運河」計画において最有望候補とされるのが「ルートNo.3」である。 同ルートがなぞることになる主要河川がエル・ラマ川とオヤテ川である。その分水嶺を一目なりとも見ようと踏査した。六つの候補 ルートがあるなかで最も踏査したい分水嶺であった。第一回目の下見時には、県道25号線沿いにあるエル・オヤテ村(ニカラグア湖北岸に沿って サン・カルロスへ伸びる県道25号線とオヤテ川との交点辺り)の少し手前から、内陸部へ6㎞ほどの所に位置するエル・サポーテ村 に分け入り、その近傍を流れ下るオヤテ川の岸辺に立った。そして、本番の踏査時に分水嶺へ辿る上で必要不可欠となる2頭の馬の調達 を試みた。

  単独でそんな下見をした後、日を改めて、土木分野の青年海外協力隊のK隊員とともに馬にまたがり、ガイド役のカウボーイに導かれて オヤテ川の源流を求めて探索に出立した。ところが、到達した最奥の地からの帰途、心臓冠動脈の狭窄による心臓 発作に襲われた。まさしく九死に一生を得ての辺境奥地からの奇跡的な生還となった。さらに奇跡的な幸運に恵まれ、ニカラグア でステント留置手術なるものを受けることができ、一命を取り止めた。JICAの総合的な情報力と組織力にも救われた。

  かくしてその後は、職務を全うできず悲運の早期帰国を余儀なくされた。公私にわたり充実していたニカラグアでの日常生活が瞬時 にして暗転してしまった。そして、身の回りの世話のためニカラグア入りした妻に付き添われ、無事帰国を果たした。

  序論はそれぐらいにして、ニカラグア湖に注ぐオヤテ川を遡上し、カリブ海側に流れ出るエル・ラマ川との分水嶺を踏査するという、 ニカラグアでの最後の「冒険譚」へと話しを戻すことにしたい。例の運河調査報告書の中で最有望候補とされる「ルートNo.3」の 分水嶺のことである。実際にオヤテ川を遡上し、どの程度の分水嶺が立ちはだかるのか、自身の目で確かめたかった。 先ず、遡上に必要となる2頭の馬の確保、その他現地下見を兼ねた情報収集のため、週末に片道200kmほど車を走らせて、オヤテ村と その奥地のエル・サポーテ村に赴いた。

  ニカラグア湖北岸沿いに南東方向へ伸びる砂利道の「県道25号線」をサン・カルロス方面に向けて走り、オヤテ川に架かる橋に行き 着いた。何度かこの県道を走ったが、川の様相を知るために車を止めてじっくり観るのは初めてであった。川幅は30メートルほどで、 長雨や集中豪雨でもない限り、水嵩は1~2メートルであろうか。

  橋下では大勢の子どもたちが水遊びをしていた。下流側では川底は岩や石でごつごつしており、緩やかに湖方面へと流れていた。 他方、上流側では川筋が大きくカーブしているためよく見通せず、流れは淀んでいて水嵩もありそうであった。遡上すればどんな 自然が待ち受けるのか楽しみにしながら、県道からそれてエル・サポーテ村へ向かった。途中、木を組み合わせ盛り土しただけの 長さ10メートルほどの橋が現われた。車で通れば崩れ落ちそうな危険すら感じさせた。念のため下車して橋桁などを目視した。 オヤテ川に注ぐ支流の一つである。小川のようなもので、雨期ではあったが水の流れはほとんどなかった。

  エル・サポーテ村の入り口に一軒の簡素な家があった。雑貨屋のようであった。傍に車を止めて、徒歩でオヤテ川の川岸めがけて 歩くことにした。道はひどいぬかるみであった。深みのある泥に足を取られ、難義に難義を重ねながら通過し、ようやく川べりに出た。 次回の本格的踏査時には長靴が必需品と思われた。雨天が続き増水すれば濁流となってすさまじい勢いで流る下るのであろうが、 今は幅15~20メートルほどで穏やかな小川のように流れていた。川底までの深さは数メートルであろう。豪雨にでもなればたやすく氾濫しそうで、 川岸周辺のぬかるみはそんな氾濫がもたらせたものであろう。

  オヤテ川の岸べりでの樹影は薄く、放置された放牧地の様相であった。一般論として、ニカラグアでは治水対策は皆無であり、 雨期に長雨や豪雨ともなれば、河川は想像を絶するほどに増水したり、時に河川流域に大洪水をもたらすので、住民らは日頃の天候 や河川増水に気を配っている必要がある。

  村の入り口の雑貨屋に戻り一息ついた。その時偶然にも、ガウチョ(いわばカウボーイ)と思える壮年の男性が、奥地から村に下りて 来たのか、馬にまたがり2頭の馬を引き連れて通りかかった。これ幸いと思い間髪入れず挨拶を交わし、単刀直入に馬のレンタルについて 話しを切り出した。「オヤテ川の上流の自然環境を観たいので、来月当たりに川に沿って奥地へ分け入りたい。その時に道案内とともに、 馬2頭を拝借したいが、ご都合はどうでしょうか?」と頼み込んだ。

  彼は思案する素振りを全く見せることなく、その場で即了解してくれた。雑貨屋の主人のもつ携帯電話を仲立ちにして、日時などを 連絡することにした。賃借料のことを交渉するのをすっかり忘れていたことを後で気が付いた。ガウチョもそれを話題にすることもせず、 お互いのんびりしたものであった。ニカラグアが大好きになった一つには、ぎすぎすすることなく大らかで、素朴というか純朴なところを 日頃から感じていたからに違いない。

  さて、日を改め、2009年8月下旬にオヤテ川の分水嶺への踏査を敢行した。同行者はいつも運河踏査に参加してくれているK土木隊員で あった。途中フイガルパというそこそこ大きな地方都市で投宿した。翌日カウボーイと約束していた時間に、その雑貨屋の前で落ち合った。 カウボーイが馬2頭に鞍を付けてスタンバイしてくれていた。時間を浪費せず、三人はすぐに馬にまたがり出発し、分水嶺を目指した。

  下見の折に難義した例の超ぬかるみの村道では、やはり馬もひどく難儀した。馬は体重が重く脚は細身なので、人間とは比較に ならないほど深く足をとられた。馬は膝あたりまで食い込んだ前脚を引き抜くのに必死であった。他方の前肢を90度曲げて前かがみ になった馬は、そのまま前方へ倒れ込みそうであった。私は前方へでんぐり返しになって落馬しないように、必死に馬の首筋に食らい ついたり、後方へ反り返ったりせねばならなかった。30分以上かけてようやくぬかるみを通過した。

  その後、オヤテ川の岸から離れたり岸へ近づいたりしながら、平坦な樹林帯や放牧地のようなところを進んだ。時に緩やかな起伏 が続く山中の道なき道を進んだ。オヤテ川支流の小さな川を徒渉したりもした。幸いにも当日は水量が少なかったようであるが、それでも 水はごつごつとした岩の間を縫って勢いよく流れていた。馬は上下左右によたよたしながら何とか徒渉した。大雨で増水し急流とも なれば、恐らくは徒渉渡河はかなり危険で困難となると想像された。

  さらに、背丈をはるかに越える見通しの悪い雑木林の中をくぐり抜け、また時には放牧地のような見通しの良い箇所を通過しながら、 暑さをこらえて突き進んだ。そして、目途にしていた通過点の一つである、オヤテ川とその支流とのT字型合流点を地図上で確認した。 エル・サポーテ村から2時間余り経っていた。付近は雑木林に深く覆われる一方、支流の川幅は5メートルほどしかなく、まるで 流れのない小川であった。オヤテ川の川幅も狭く8メートルほどの小川の様相であったが、水は勢いよく流れていた。さて、そのT字型 合流点付近で、用意しておいたおにぎり弁当をシェアして空腹を満たした。

  さらに源流へと踏査を続け、見晴らしの良い高台に行き着いた。そこから上流を眺望すると、川幅は意外にも広くなっていて、 30メートルくらいはありそうであった。そして、落差数メートルほどの天然の堰が川幅いっぱいに形成されているのが見て取れた。 川幅や流れ具合からしても、分水嶺はまだかなり上流部にあると思われた。だが、オヤテ川の上流域がどのような地形であり、 いかなる様相なのか、目視はできないが粗方推察することができた。

  更に遠方には、標高100メートルほどの山の連なりがあり、川はその裾野で大きく方向を変え源流へと向かっているようであった。 その後高台を下り、その堰近くの川岸に立ち、源流方面をしっかりと眺望した。分水嶺はその山なりの麓からかなりの距離、少なくとも 数kmを駆け上がった辺りから始まっているものと読み取った。

  さて、時計を見るとすでに午後2時を少し回っていた。学生時代にワンダーフォーゲル部で山行した数多くの経験からすれば、 前進を止めてテントを設営する時刻である。今回の踏査では、いわば折り返す時刻であった。陽の高いうちに余裕をもって、その日の 「山行」を終えて帰路に就くことにした。時間的余裕をもって折り返し、少なくとも日が落ちる2時間前には村に帰着したかった。

  ところが、折り返して15分するかしないうちに、急に胸元あたりが変だと、少し違和感を感じた。過去たまに経験すること もあった胸の違和感、重苦しさとはちょっと様子が違うと直感した。だが、暫くしたら治まるのではないかと、馬脚を進めながら 様子見をした。だがしかし、違和感はだんだんと胸への確かな圧迫感へと変わり、次には差し込むような痛みへと変わって来た。

  心臓に針を突き刺すような猛烈な痛みではないが、過去に経験したことがないような、かなり差し込む胸痛に変わって来た。これは大変な事態 になったと直感した。抜き差しならない事態であると意識したのは、その胸痛から余り間を置かずに襲ってきためまいであった。 酷いめまいで、とても馬上に留まっておられず、馬から降りざるをえなかった。まさに馬上から崩れ落ちた。そして、そのまま草むらに 背中を丸めてうずくまってしまった。そして、今度は吐き気が襲ってきた。めまいと吐き気に襲われ、これはただ事ではないとはっきり と自覚した。心筋梗塞ではないかと強く疑った。

  母親がかつて心筋梗塞に襲われたことがあったが、「心臓がえぐり取られ、振り回されるかのような激痛が襲ってきた」と聞かされていた。 全くそれではなかったが、軽い胸痛というものでもなかった。過去一度も経験したことのない「尋常ではない胸痛」で、息をする たびに肺に針が突き刺さるような痛さであった。2009年8月31日の日曜日、現地時間午後2時過ぎのことであった。

  胸痛はそのうちに治まるのではないかという淡い期待を抱きながら、祈るような気持ちで、馬から転げ落ちた時の姿勢そのままに、 草むらにうずくまった。草むらにじっと身を埋め、耐え忍びながら容態を見守る他なかった。吐き気が治まった頃、ふと思い出した ことがあった。母親が24年ほど前に心筋梗塞で倒れ、病院で二週間ほど生死を彷徨ったことがあった。母からその遺伝的形質を受け 継いでいるのではないかと、当時真剣に懸念し始めた。

  そして、九死に一生を得て生還した母親の当時の主治医に頼み込んで、ニトログリセリンをお守り代わりにと少しだけ譲り受け、 いつも財布に入れていた。そのことを急に思い出した。リュックに手を伸ばしそれを取り出して一錠を舌下に入れようとした。 だが、ニトロは錠剤の原形を全く留めず粉末状になっていた。一瞬驚いたが、そんなことは構わず、溺れる者藁をも掴むとの思いで、 粉を指先で何度かつまみ取って舌下へと押し込んだ。

  ニトロは年代物ではあったが、少しは効能が残留しているものと思いたかった。時間の経過とともに、めまいと吐き気は治まって 来たことで少しは精神的に楽になることができた。ニトロの効能によるものか否か、自身では分からなかった。だが、相変わらず 胸痛で息苦しく、息を吸うたびにかなりの痛みが胸に刺し込んでいた。狭心症であれば15分ほどで治まるはずであるところ、 そうではなかった。だから、殆ど心筋梗塞に違いないと推測した。

  冠動脈のどこかでかなり狭窄していて、狭心症の少し強めの発作が長びいている状態にあるのではないかとも邪推した。さらに悪化 するのか、それとも快方に向かうのか不安な思いで、横に伏せった自身の目の前にある雑草と極至近距離で向き合っていた。 時間が経てば狭窄が元に回復するかもしれないと、奇跡が起こることへの期待を持ち続けていた。

  だが、倒れてから1時間ほど経っても胸痛は変わらなかった。冠動脈のどこかでかなりひどく狭窄し、もはや心筋梗塞に近い 状態からの回復はなさそうだと思い始めた。完全に心筋梗塞の容態になり最悪の事態に陥るのか、それとも、事態を脱して何も なかったかのようにほぼ100%正常に戻れるのか、あるいはこのまま現状維持となるのか、草むらにうずくまりながらじっと 我慢していた。

  時々目を開けると、目鼻から10~20㎝ほど先の草むらの中を虫がはい回っていた。そして、ふと空を見上げた。濃密に生える周囲の 草木が覆いかぶさり、見える青空は狭かった。そこに真っ白い夏雲が浮かんでいた。今でもその狭まった夏空に雲が通り過ぎる光景を 思い出す。さて、ふと我に戻り、どうやってこの辺境の奥地からエル・サポーテ村まで脱出することができるのか、真剣に考えねば ならないと意識した。

  「これは夢ではない、現実にわが身に振り掛かっていることである」ということを、本当は思い出したくはないが、しっかりと思い 起こさざるを得なかった。そして、首都マナグアのJICA事務所に連絡すべきか否かを思い悩んでいた。 この危機をどう乗り越えることができるのか、どうやって村まで脱出できるのか、具体的なことはまだ何も思い描けていなかった。

  幸いにも冠動脈の完全な閉塞には至っていないものと勝手に思い込んでいた。何かの拍子に狭窄が解き放たれて、痛みも和らぎ、 自力で馬に乗って村へ戻れるのではないかと、心の片隅でなおも祈っていた。だが、胸痛そのものはほとんど変わらないままであった。 時間の経過と共に胸痛がますます酷くなり、七転八倒の状態へと急変することを最も恐れていた。だが、幸いなことにそれはなかった。 それに、脳内へ行きわたるべき酸素が欠乏し、意識もうろうとなるような気配もなかった。それゆえに、ニカラグア山中で死を 覚悟する瞬間を迎えつつあるのではないかという、死への恐怖心でパニックを引き起こすようなことはなかった。

  心は不思議なくらいに落ち着き払い、平常心に近い精神状態を保ったままで草むらに横たわっていた。何故そうなのか自身でも 理解できなかった。胸痛に堪えながらも呼吸を続け心は安定していた。痛みの具合は発作以来ほとんど変わらなかった。これ以上 悪化するとの気配は感じられなかった。気のせいかもしれないが、時にはほんの少し痛みが和らぎ、回復への期待をわずかに抱かせる 時間帯もあった。そんなことが幸いして、パニックで発狂しそうな気持ちに陥ることなく、心に冷静さを保たせてくれていたに 違いない。胸痛はともかく、めまいと吐き気は治まっていたので、当初のショックから徐々に立ち直り、体力も少しは回復したと感じ られるようになっていた。

  時計を見た。太陽が完全に落ちるまでに村に辿り着くには、どれほどの時間が残されているのか逆算した。何時にはこの草むら から脱し、村に向かう必要があるのか。何の手立ても考えず、また行動も起こさず、このまま山中でひっくり返ったままでいる 訳にはいかなかった。

  発作から1時間ほど経過した時点で、今以上に症状が良くなることはないと諦め、救援を求めることにした。日が暮れるまでに、 物理的にどうやってここから脱出するかが最大の課題であった。樹木が濃く生い茂る山中を、また例の超ぬかるみの湿地帯を、 一人の大人を2時間以上も担いでどうやって村へ抜け出せるものなのか、思い巡らせた。

  救急ヘリコプターによる搬送を最も期待した。在首都マナグアのJICA事務所を通じての軍などへの緊急救援要請について、同行のK隊員に口走って しまった。その報を受けたJICA事務所も日本大使館も、またJICA東京本部も、この一騒動に巻き込まれることを意味していた。 通報は酷い迷惑を掛けることを覚悟する必要があった。

  ヘリでの搬出に当たっては、樹林で覆われた山中での我われの正確な居場所を特定できないこと、またヘリのスタンバイに要する 時間や救援飛行に残された時間などからみて、結局は窮地にある者による無理なお願いであったことは、後で知った。救援を待つ山中は ニカラグアの地であって、日本のそれではなかった。日暮れが刻々と迫まりくるなか、K隊員はカーボーイと相談しながら、携帯 電話の通信が可能と推測される例の高台まで、事務所と連絡を取るために引き返してくれていた。

  脱出方法として思い付いたもう一つは、急ごしらえの簡易担架による搬出であった。2本の丈夫な棒切れか枝切れとベッドシーツで 応急に作ったごく簡易の担架をもって、村まで運んでもらうというアイデアをK隊員に告げた。それには7~8人の担ぎ手が不可欠であった。 カウボーイに村まで戻ってもらい、村人7~8人を連れて来てもらう他ないと、救援隊の派遣をカウボーイに託してくれるよう頼んだ。

  だがしかし、超ぬかるんでいる湿地帯や樹草の生い茂る雑林帯を担架に乗せて、ずぶずぶと足を取られたり、樹草障害に阻まれ ながら通過するのかと想像すると、そのアイデアは現実的ではないことを後になって思い知らされた。それに、村人を急に7~8人も 集めることも現実的ではなかった。とは言え、私のアイデアを聞いたK隊員は、カーボーイと相談してくれ、何らかのよりベターな策を考え、 行動に移してくれるに間違いなかった。

  だが、そんなアイデアの吐露からもう1時間ほどが経っていたが、K隊員もカーボーイも戻ってこないまま、時間が経過して行った。 私的には、それくらいの策しか思い浮かばす、隊員とカウボーイに命運を託し、草っぱらにひっくり返ったままであり、他になす 術はなく時間だけが刻々と過ぎて行った。

  症状は相変わらずで、悪くも良くもならず、息をするごとに針で肺を刺すような胸痛だけは続いていた。脱出のタイム・リミット である午後4時がどんどん迫りつつあることだけは頭にあった。だが、耐えて待つことしかできなかった。そのことが最も無念で情けない 思い出あった。

  現場へ戻って来たK隊員が突然に私の耳元でささやいた。私はてっきり7~8人の村人とともに戻って来てくれたと思った。だが、そんな 気配がなかったので、一瞬理解できなかった。搬出方法につき一生懸命に知恵を出してくれた結果として、K隊員の策を聞いた時には正直 言って一瞬戸惑った。思うに、私の頭はすっかり硬直化していて、最早、簡易担架と担ぎ手による脱出しか念頭になかった。

  かくして、カーボーイが午後4時頃に引き連れて現場にやって来てくれた救援隊とは、彼の仲間であるもう一人のカウボーイと、 もう一頭の馬であった。私とそのもう一人のカウボーイとが二人相乗りし、彼が後ろから私を抱きかかえるというものであった。 私には全く思い浮かばなかった素晴らしいアイデアであった。それを聞いて、果たして2時間も体力的に耐えられるか、一瞬不安になった。 だが、次の瞬間に気付いた。担架に乗せられての脱出こそ全く非現実的であること、そして現時点では相乗りしての脱出しか 現実的方策はないことを確信した。

  息をすれば肺に針を刺すような鋭い痛みは変わらなかったが、めまいも吐き気もなく、幸いなことに体力と気力はかなり戻って 来ていたことが幸いした。後は耐え忍んで、必死に馬にしがみ続けることだけであった。幸いにも、弱弱しくではあるが、息を吸って 吐くことはできた。

  よくよく考えれば、大人一人を担架に乗せて、7~8人の大人が、交替しながらとはいえ、2時間もかけて道なき道を、時に湿地や雑林 の山中を担いで進むのは、やはり土台無理なことであった。これで良かったのだと心底納得し、そのアイデアに感謝した。今となっては、 相乗りにて支えられながら歩を進めるのがベストであり、相乗り以上の策はないと悟るとともに、ついにはそれを敢行する覚悟を決めた。 かくして、力を振り絞って馬の背に這い上がり、リュックを胸元に抱きかかえ手綱をしっかりと握りしめた。 次いでカウボーイが後ろにまたがり、私をだき抱えてくれた。

  丁度午後4時過ぎのこと、正に脱出せねばならないタイム・リミットであった。何とか陽が落ちる前には村に辿り着けそうだ という思いの下、必死に手綱を握りしめた。2時間は耐えねばならないと改めて自身に言い聞かせた。亜熱帯樹林の山中であるが故に、 鬱蒼と茂る樹木の下ではかなり陽光が遮られ薄暗かった。陽もだんだんと落ち、例のぬかるみの箇所を通過する頃にはかなり 暗くなっていた。

  二人を乗せた馬は、湿地帯では可哀そうなくらい脚を取られ、往きの時以上に酷く難義していた。馬脚は膝まで泥に埋まり、前足が なかなか抜けず、馬上の2人は酷く前のめりとなり、馬上から一回転して転げ落ちそうであった。他人から見れば、まるでロディオを 超スローモーションで興じている風であったに違いない。村落に入った時には陽が完全に落ちほぼ真っ暗闇であった。

  かくして、最大の難関を切り抜けることができ、先ずは安堵することができた。さて、私の車を運転してマナグアまで連れて行って くれる別の「カウボーイ」を見つけなければならなかった。エル・サポーテ村には車を運転できる村人はいなくて、カウボーイらが 隣村に探しに行ってくれた。粗方1時間後青年を連れて来てくれた。かくして、村落からの出発に当たって、準備にあれこれと 時間を要し、出立できたのは1時間ほど後のことであった。道中のある集落で、付き添いのを乗せた迎えの救急車と落ち合う 手はずにであったが、真の生還のための脱出までには思いがけない苦難がまだまだ続いた。

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      第1節: 運河候補ルートの踏査(その3)/サン・ファン川と河口湿原
      第2節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)
      第3節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還(その2)
      第4節: コンセッション協定が締結されるも、「ニカラグア運河の夢」再び遠ざかる