Page Top


    [作成/Under Construction]
    第23章 パンデミックの終息後の海外渡航を夢見る万年青年
    第2節 「ニカラグア運河」を追いかけて再訪を夢見る

      第1節 新型コロナウイルスによるパンデックの終息を待ち焦がれて
      第2節 「ニカラグア運河」を追いかけて再訪を夢見る
      第3節 カナダ東部海岸諸州の海・運河・船の風景を探し求めて
      第4節 中国の京杭大運河(揚州など)を再び訪ね歩く
      第5節 アフリカ大陸最南端の喜望峰と「ガーデンルート」の海を訪ねて
      第6節 インドネシアのモルッカ諸島(香料諸島)、スパイスと古要塞を 訪ねて


         Top page | 総目次(全章全節) | ご覧のページ


    序章~第21章 | 第22章  最終章


      「ニカラグア運河の夢」はあれからどうなったのだろうか。ニカラグアから帰国後10年以上の時が過ぎた。首都マナグアや地方 都市の古都レオンやグラナダなどの今の様子を見てみたい。 それは紛れもなくノスタルジックな思いである。勿論何ら卑下するつもりはない。赴任中、首都・地方の技術協力プロジェクトや 海外青年協力隊員の現場を公務としてたくさん訪ねたし、また運河の候補ルートを沢山踏査した。平日や週末を問わず、 たくさんの日帰りや宿泊を伴う出張のみならず、私的な旅も数多くした。あの町あの村は今どうなっているだろうか、懐かしい 思いに駆り立てられる。それにはそれなりの背景がある。赴任途上で突然心筋梗塞を患い、任期半ばで帰国となり、いろいろなこと をやり遂げられず、また彼の国に置き忘れてきたと思えることが幾つもあるからで、後ろ髪を引かれてきた所以であるに違いない。

      首都マナグア市内の外務省のすぐ傍を通る国道から、近郊の古都グラナダに向けて車を数km走らせると、国道沿いに一つの複合 商業施設があった。専門店・映画館・レストラン・スーパーマーケットなどが集積していた。日本の都市のどこでもあるような ショッピングモールそのものである。夜、JICA事務所からの帰路、そこに立ち寄って夕食を済ませたり、よく買い物をして帰った。 週末には必ず一週間のまとめ買いのためにそこに出向いた。それなりの気晴らしにもなった。また、「007シリーズ」などの新作 アクション映画などが封切られると、暇つぶしに銀幕鑑賞を楽しんだ。

      その商業施設の数㎞先にある住宅地区で住まいを賃借していた。5軒ほどの一軒家が集合する敷地の中の家で、 敷地内には樹林が生い茂り緑に溢れていた。裏庭にはマンゴウの一本の巨木があり、季節になると足の踏み場もないくらいに マンゴウの果実で敷き詰められた。屋外の受水塔(水道水を高さ3~4mのタンク塔に一旦揚水し、屋内へと配水する施設)が頻繁に 不具合を起こし、水がタンクからじゃじゃ漏れとなりよく悩まされた。水量感知器と揚水ポンプとの相性がよくなかった。 あの家はどうなっているだろうか。

         さらにほんの少し先の国道沿いにあるレストランで焼肉(アサード)をランチに食べるのが楽しみであった。 ほぼ毎週末には、一人静かに至福のランチタイムを過ごした。子牛のある部位のアサードが最高に美味かった。レストランは 樹林に覆われた、閑静で広い敷地内にあった。今でもあるのだろうか。そのさらに数km先には、心筋梗塞発症から8時間ほど経て ようやく担ぎ込まれた、あの「メトロポリタン病院」がある。病院はどうなっているのだろうか。懐かしく思い出される場所は あり過ぎるほどある。

      JICA事務所は帰国後暫くして移転したことは聞かされてきたが、マナグアでは数少ないあの「近代的」ビル はあのままだろうか。1970年代に発生した大地震によってマナグアは壊滅的打撃を受け、今でも市街地はどこかと探しても存在しない 状態にある。ずっと廃墟になったままのあの大聖堂や、そのすぐ傍の国立博物館はどうなっているだろうか。本当に懐かしい気がする。 あれからもう10数年、日常見慣れていた風景は今ではどうなっているのか見てたい。大病後は病院や自宅で治療・療養していたせいで、 エネルギッシュに社会生活を過ごしていた大病前の日常的風景が一時的にかすれてしまっていた。だから今になって、 その風景のことを思い出すと余計に懐かしくなってしまうのであろう。

      首都圏内だけでなく地方にも業務出張や、またプライベートにも、日帰りや泊りがけでよく出掛けた。マナグアから数10km、 あるいは150km離れた遠距離の地方の町や田舎の村々は、あれからどうなっているだろうか。ニカラグアの素朴で牧歌的な田舎の 農漁村風景が大好きであった。マナグアの南数10kmにあるニカラグア湖畔の古都グラナダや北西域にある古都レオンには、 週末思い立ってはよくドライブに出掛けた。コロニアル風町並みを色濃く遺す街中をのんびり散歩したり、小鳥たちがさえずる緑深き スペイン風プラザ(街中公園)の一角に面するオープンテラスのあるカフェで一服したりして、中米での赴任生活の一コマを心往く まで楽しんだ。あのプラザやカフェ、歴史を刻んできた由緒ある幾つものカトリック教会、近年ユネスコ世界文化遺産に登録された あの大聖堂はどうなっているだろうか。

      グラナダはイギリス人海賊ヘンリー・モーガンが、海賊業にのめり込んで以来最初に本腰入れて襲撃し略奪した町 としても知られる。インディオからニカラグアのグラナダの繁栄ぶりを聞き及んでいたモーガンは、1665年に、全長190kmの サン・ファン川を一週間かけて遡上し、 ニカラグア湖を5日間かけて北上し、グラナダを3日間にわたり略奪した。その戦利品・ 分捕り品として 50万ポンド貨を略奪した。カヌーで遡上したので嵩張る財宝は余り持ち帰れなかったが、ジャマイカに戻った モーガンは一躍有名になった。モーガンはその書に次のように書き残した - 「グラナダは英国ポーツマスのように大きく見事 な町である。7つの教会と一つの大聖堂があり、数多くの学校、修道院がある」と。湖に面する港町といっても、赴任した当時には 全長100mほどの桟橋が一本あるだけであった。マナグアとグラナダの中程にあるマサヤもコロニアル風の街並み風景が溢れる、 伝統的工芸品作りで有名な町であった。そのすぐ近傍にあるマサヤ火山は今も大噴火口から白煙を上げているに違いない。

      太平洋岸沿いの幾つかの地方都市や沢山の小さな漁村にも、週末思い立ってはすぐに車を走らせて散策を楽しんだ。 いくらドライブしても往復数100㎞の道のりであり、マナグアを出れば信号機が数えるほどしかなく、交通渋滞もありえず、国道では 平均80kmで走行すれば数時間でそれらの地に辿り着けた。早朝発てばホンジュラスやコスタリカの国境まで日帰りで辿れる。 北にはホンジュラスやエルサルバドルとの3ヶ国で分界する「フォンセカ湾」(3ヶ国が分け合う内水)がある。突端には幾つかの 小さな漁村がある。 ニカラグアには近代的な港らしい港はないが、唯一コンテナ積み降ろし用の大型ガントリークレーンを装備する貿易港が太平洋 北西沿岸にある。岸壁に1万トン級の大型船が停泊し積み降ろしする風景を見て、小国のニカラグアにも外貿港があることに 何故かほっとした。それがコリント港の第一印象であった。

      太平洋岸沿いに沢山の小漁村があり、週末はよく訪ねた。漁民が漁に勤しみ子どもらが海辺で戯れる風景を飽きることなく 眺めた。漁村風景を眺めるのが大好きで、赴任中時に陥る孤独感をまぎらわせてくれた。 コスタリカとの国境に近いサン・ファン・デル・スールは太平洋側での最大の漁港であり、また庶民が夏のバケー ションを楽しめるニカラグアの唯一の海浜型リゾート地であった。思いついたら、そこへ午後からでもドライブに 出掛けた。途中、ニカラグア湖上に「オメテペ島」という双子の円錐形火山を擁する島が浮かぶ。同国で最も風光明媚な風景がそこにある。 その辺りはニカラグア湖と太平洋との間の最も狭まったところで、「リーバス地峡」と言われる。 「センティメンタル・ジャーニー」と揶揄されるかもしれないが、太平洋岸沿いのそれらの地方都市や漁村に足を再び踏み入れ、 途切れてしまった風景の記憶を繫ぎ合わせたい。

      当時多くの技術協力プロジェクトが首都や地方にて実施されていた。また、70名ほどの海外青年協力隊員が首都とその 近郊、および地方都市にてボランティア活動をしていた。そこに慰問ではないが、出来る限り隊員の活動現場へ足を運ぶように 努めた。隊員からの月報を通じての現況把握だけでなく、首都・地方を問わず、その活動現況について理解を深めるためであった。 時にランチを共にしつつ、課題や悩みに耳を傾けたり、今後取り組みたい事業へのJICA事務所による財政的支援の可能性を 探ったりした。それによって隊員活動への理解の深化につながると期待した。

      さて、2年目に入って公私に渡り充実した日々を送っていたところ、確か3月に「セマーナ・サンタ」というスペイン文化圏では 最も重要な宗教的行事がなされる聖週間の大型連休が巡って来た。その機会を捉えて、仲間と一緒に「エル・カスティージョ」という 歴史的史跡のある大河沿いの人里離れた集落を探訪した。ニカラグア湖はサン・ファン川という唯一一本の大河で大西洋に通じている。 湖水が流れ出でる流頭にサン・カルロスという地方都市がある。そこまで飛行機でニカラグア湖を縦断した後、路線水上バスの 乗合スピードボートで50~60km下流にあるエル・カスティージョ(スペイン語で「要塞」という意味)という川岸の村へ旅した。 そこには歴史的な要塞 (スペインの国際協力で修復された砦) があった。

      余談だが、ニカラグアはスペインの植民地支配下にあったが、英国がジャマイカから駐屯部隊を派遣し、 要塞を占拠しようとした。同部隊には、後に英国海軍提督となるホレーショ・ネルソン少尉がいた(第14章第8節参照)。彼は重い病気を 患い戦線からの離脱を余儀なくされた。「上官が彼をジャマイカに送り返さなければ、その後の彼の人生はなかった」と後に回顧している。 なお、英国海軍はフランス・スペイン連合艦隊との「トラファルガー海戦」で勝利したが、彼自身はその海戦中に狙撃され1805年に 戦死した。

      さて、同要塞には展示室が設営されていた。室内を何気なく巡覧して、あることを知りびっくり仰天、目からうろであった。 数10枚の展示パネルでもって、ニカラグアのプレ・コロンブス時代の歴史、スペインによる植民地支配から近現代に至るまでの 歴史などが解説されていた。その中に、「ニカラグアの運河の夢」と題する数枚のパネルを通読して驚かされ、パネルに 暫く釘付けとなった。植民地化を推し進めたスペインも、その後ニカラグアに領土占拠の楔を打ち込もうとした英国、さらには 米国をも巻きこんで、ニカラグア地峡に運河を建設するためのいいろいろな調査や研究がなされてきた。パネルには、米国企業による実際の 運河開削工事の着工(ごく部分的な掘削に終わった)、米国とニカラグアとの協定に基づく米国による運河建設の約束、米英間の 運河建設にかかわる外交的駆け引きと約束などが語られていた。かくして、「ニカラグアの運河の夢」につながる数々の歴史的経緯 を知ることになり(その経緯や夢の詳細は、第15章第3節を参照)、運河への関心が一気に惹起された。 その後、俄然と運河のことをひも解き続け、運河ルートの踏査を始めることを思い付いた。正にエル・カスティージョへの探訪とその 展示パネルとの出会いは、「ニカラグア運河の夢」を自身の事として追い駆ける起点となった。

      その後、早速5万分の1の地図をニカラグア国土地理院で買い求めた。そして、ニカラグア政府が、2006年8月に「ニカラグア 大運河計画概要書」なるものを発表したことを知った。 同書は、運河建設に関するいわばプレ・フィージビリティ調査 (実現可能性に関する事前調査) の結果を 取り纏めたものである。建設に関する技術・工学、法律、環境、財務の観点からの分析を扱っている。また、その中で6つの有望な 運河候補ルート(ルートNo.1~6)を挙げている。かくして同書をネットで入手し、それを通読し、候補ルートを学んだ。第15章第4~6節参照。

      ルートNo.1は、カリブ海に注ぎ出るエスコンディード川とその支流を遡上し、さらにエル・ラマ川という別の支流の中流域 に取り付くルート。ルートNo.2は、エスコンディード川の下流域で合流するクリークを遡り、エル・ラマ川の中流域に取り付く。 そしてルートNo.3は、カリブ海に注ぎ出るククラ川河口から遡り、同じくエル・ラマ川の中流域に取り付く。 これらの3ルートは、エル・ラマ川の中流域から源流へ、さらにはニカラグア湖に注ぎ出るオヤテ川を辿って同湖へと至る。 即ち、エル・ラマとオヤテ両河川の間にある分水嶺(標高100~200m)を共通して越える。このことは 同分水嶺越えのルートが最も合理的であることを示しているといえよう。

      他方、ルートNo.6は、隣国コスタリカとニカラグアとの国境(部分的に)にもなっているサン・ファン川をほぼなぞるルート である。ルートNo.5は、サン・ファン川河口周辺の「中米の肺」といわれる亜熱帯樹林地帯を避けて、同河川の北側を流れ カリブ海に注ぎ出るプンタ・ゴルダ川を辿り、その中流域で南下してサン・ファン川へと合流するルート。 そして、ルートNo.4は、プンタ・ゴルダ川を遡った後に西進し、ニカラグア湖に注ぎ出るトゥーレ川上流域に取り付き同湖へと 辿るルートである。ルートNo.4には、プンタ・ゴルダ川とトゥーレ川の源流に横たわる標高100~200mほどある分水嶺を越えることになる。 なお、6つのルートのいずれも、リーバス地峡では共通するルートを辿ることになる。即ち、オメテペ島南部水域を経て、 ニカラグア湖に注ぎ出るラス・ラハス川の河口から太平洋に注ぎ出るブリット川の河口へと辿り、同地峡を横断することでは共通している。さて、同概要署は6ルートのうち最も有望な候補ルートとして 同概要書では最有望候補ルートとしてはルートNo.3を挙げている。

      余談であるが、サン・ファン・デル・スールの少し北方で太平洋に注ぎ出るブリット川の河口が太平洋側での運河入り口 (運河へのアクセス通路)になることは、地峡の地理的観点からすれば誰の目にも明らかであろう。そして、地峡でのNo.1~6の 共通ルートは果たしてどの辺りになるか、5万分の1の地図を片手に20㎞ほどの距離の地峡を実際に踏査すれば、自ずと絞られてくる。 米国カリフォルニアで1848年にゴールド・ラッシュが起こった頃、米国の会社がサン・ファン川とニカラグア湖を小船を運航し、米国東部 から西部へ向かう人々を水上輸送し、その後リーバス地峡の陸路を馬車でもって何万人もサン・ファン・デル・スールへ輸送した。 そこからは汽船でカリフォルニアへ送り届けたという歴史がある。地峡におけるその馬車道と運河共通ルートとは、その辿るコースは かなりずれるようである。

      さて、赴任中の2009年のセマーナ・サンタ過ぎに、運河に関心のある土木分野などの青年海外協力隊員に声をかけ、週末や、 時に有給休暇を取得して、6つの候補ルートの幾つかの重要河川を船外機付き伝統的ロングボートで、またその河川周辺を四駆車両や 徒歩で少しずつ踏査した。そのことは既に第15章で述べたとおりである。 主には、エスコンディード川、エル・ラマ川、サン・ファン川、ククラ川など、少なくとも延べ500km以上遡上した。また、 エル・ラマ川とオヤテ川の源流・分水嶺近辺や、ブリット川河口周辺、リーバス地峡などを踏査し、実際の地形と1/50,000地図を 重ね合わせながら、運河開削コースや閘門・人工湖の建設サイトなどを想い描いた。サン・ファン川河口のラグーンでは、その昔米国 の運河建設会社が開削のために用いた浚渫船が沈没したままに放置されていた。それに遭遇し歴史の一駒をみる思いであった。 累計何十日にも及ぶ熱量の多い踏査は実に楽しいものであった。数10枚の5万分の1の地図を壁面に貼り付け、ルートNo.1~3の閘門建設 推察地を図上にプロッティングしたり、その実現可能性などを探った。それはそれで楽しい思索であった。心の底では遠い将来、業務にも つながると信じていた。余談だが、帰国後セミナーで踏査のことを講演したりもした。ロシア大使館からの情報と見解を求めるアプローチ もあった。

      2009年8月踏査中深刻な出来事に見舞われた。、エル・ラマ川とオヤテ川との分水嶺を目指して、馬にまたがり道なき道を辿る 途上でのこと、突然心臓発作に襲われた。亜熱帯ジャングルの山中から8時間ほどかけて首都の病院に辿り着けた。ニカラグアに 二人しかいない心臓外科医の一人が偶然米国からたまたま帰国し、手術に当たっていることが分かり、奇跡的に心臓の幹動脈への ステント留置手術を受けることができた。その後は仕事の継続を断念し、帰国を余儀なくされた。私のニカラグアでの業務も、 運河踏査も、私生活もそこで終わった。後ろ髪を引かれながら、妻に付き添われて帰国した。まさに奇跡の生還という他ない。 多くのものをニカラグアにやり残し、置き去りにして来たような思いが心の片隅に残されている。 出来れば、その思いに区切りを付けたい。その思いを少しでも和らげ、最後には心の精算をしたいと願ってきた。大病発症から ニカラグアを離れるまでの間にニカラグアでのたくさんの良き風景の記憶がひどく薄れてしまった。その記憶を取り戻したい というノスタルジックな思いである。

      さて、帰国後何年かして、インターネットや新聞で運河に関するビッグニュースを知った。オルテガ大統領が、香港系通信関連 企業が設立した「香港ニカラグア運河開発投資会社 (略称 HKND Group)」との間で、運河建設に関するコンセッション契約を交わした 。期間は50年間で、さらに50年間延長可能という。その後、同社は、フィージビリティ調査を実施し、レポートを公表した。 即ち、2014年7月に、運河ルートの選定を含む計画の概要を、①「ニカラグア大運河総合開発プロジェクトに関する設計計画報告書」、 および ②「ニカラグア大運河、2014年7月、HKND & ERM」をもって公表した。結果、社会自然環境への諸々の配慮などから、 ニカラグア政府・HKNDは、2006年8月に既公表のルートNo.4を若干修正したルートを選定した。即ち、太平洋側ブリット川河口→ リーバス地峡→  ニカラグア湖→ 同湖東岸トゥーレ川→ カリブ海側プンタ・ゴルダ川河口(カリブ海沿岸には集落プンタ・ゴルダがある)である。

      新ルートNo.4の総延長距離は278kmという(ニカラグア湖を通過する区間の105kmを含む)。運河の計画幅員は230~520m、 計画水深は27.6~30mである。25,000TEU積載コンテナ船(20フィート長コンテナが1TEU)、40万トンのばら積み船、32万トンの 石油タンカーの通航を可能とする。年間通航可能量は、5,100隻が計画される。船舶の運河通過の 所要時間は30時間が予定されるという。

      運河には2つの閘門が建設される計画である。太平洋側では「ブリット閘門」(リーバス県内の村落リオ・グランデ近く)、 カリブ海側では「カルニーロ閘門」(プンタ・ゴルダ川とカーニョ・エロイサ川の合流地点近く)が建設される予定である。 閘門は一つのレーンからなり、また3つの連続した閘室、即ち3つの連続した「水の階段」によって標高差32メートルを昇降する ことになるという。閘門での水消費量 (閘門操作に伴う排水量) を節減するため、各閘室につき3つの節水槽が設けられる。

      カリブ海に注ぎ出るプンタ・ゴルダ川をカーニョ・エロイサ川の合流地点辺りで堰き止めることで、パナマ運河の「ガトゥン湖」 と同じような人工湖として、「アトラナタ湖」と称され、湖水面積395平方km(約20×20㎞の広さ)を擁する湖を築造し、 運河オペレーションのために同湖水を利用するという。人工湖の水位はニカラグア湖のそれと同じ32メートルに維持される。

      ニカラグアへの再訪問によって、その新ルートNo.4をできるかぎり踏査したい。特にニカラグア湖とカリブ海との間のルートを 辿ってみたい。だが、結論としてそれは事実上不可能である。新ルートに沿っての道路も、それに近づく道路すらない。 プンタ・ゴルダ川河口までニカラグア湖から行き着く道路はなく、サン・ファン川河口の町サン・ファン・デル・ノルテから船外機 付きスピードボートを借り上げ、カリブ海岸を沿航する他ないであろう。河川遡行用の平底ボートで7、80km以上先の河口まで 海洋を航行するのは危険極まりない。一般人がそれを試みるのは無謀である。例え河口まで行き着いても、その先に大きな難関が待ち受ける。

      プンタ・ゴルダ川を「カルニーロ閘門」まで遡り、さらに上流に向け遡上するには、まさに重装備の本格的な「探検」大部隊 が必要とされよう。一般人が気軽にボートで遡航できるところではない。地図には河川がプロットされていても、上流域へ辿るに つれ、樹木が濃密に覆いかぶさり伐採しながらの遡航となろう。河川は途中で途切れ、亜熱帯ジャングルを手探りで進むようなもの となろう。500km以上河川の遡上やサン・ファン川河口地域での平原や湿地帯などでの踏査経験からして、その難路がいかに厳しいものか おおよその想像がつく。当該探検部隊をもってしても、プンタ・ゴルダ川とトゥーレ川との分水嶺まで辿り、峠越えするには、 何週間もかけての決死の冒険となろう。

      では、新ルートへのアクセスは不可能なのか。ニカラグア湖とプンタ・ゴルダ川河口の間のルート上には、基本的に亜熱帯樹林の平原・湿地帯 には河川しかなく(分水嶺付近の数10kmだけは数百メートルの山岳地帯)、辿れる道路は皆無である。だが、ヌエバ・ギネアという 最奥の町を経由して、さらに奥地へと道なき道を辿り(雨期には未舗装の道路は悪路となり四駆でも前進を阻まれる可能性が高い)、 新ルートNo.4の計画開削中心線の5、60km近くまでなら、なんとか踏査できるかもしれない。そして、プンタ・ゴルダ川上流域の 小川のような支流のある一地点のジャングル風景を見上げられるかもしれない。5万分の1の地図上で自身の居場所をプロッティング 出来なければ、意味のない踏査という結果に終わる。内陸部への踏査も覚悟の要る大仕事であろう。 後はヘリコプターかセスナ機による新ルート周辺上空から俯瞰するほかない。陸上からの一般人による生半可なアクセスでは踏査は 危険過ぎよう。高精度凹凸地形図を描ける機器を搭載しての航空測量は夢のまた夢物語である。

      再訪時にはどこをどう訪ねたいかのアイデアは今の所ない。10日間ほどの旅程ならば、訪問地はすぐに埋まってしまう。
    ・ 太平洋沿岸沿いの漁村を北から南までもう一度散策してみたい。
    ・ かつて踏査した運河ルート上の地方都市や集落などを再訪してみたい。例えば、ルートNo.1-3や5-6上にあるエスコンディード川 河口の港町ブルーフィールズ、エル・ラマ、フイガルパ、サン・ファン川流頭の町サン・カルロス、エル・カスティージョ要塞、 サン・ファン・デル・スール、リーバス地峡のブリット川河口周辺など。また、エル・ラマ川とオヤテ川の分水嶺近傍と国道との十字路(カリブ海側のエル・ラマ川上・ 中流域の地形を最も遠望できる地点)。ブリット川河口は運河工事上最も着手しやすい場所であるが、どこまで開削した形跡があるのか 踏査したい。
    ・ 古都グラナダ、レオン、マサヤ、ユネスコ世界遺産の旧レオン(レオン・ビエッホ)。
    ・ オヤテ川源流に向かう最初の集落オヤテ村。
    ・ サン・カルロス近郊のサンタフェ橋。JICA無償資金協力約20億でもってサン・ファン川に架橋されたもの。赴任当時同橋の基本設計 調査団長を務めた。道路はコスタリカとの国境につながる。第二パンアメリカン・ハイウェイとして、どう利用されているのか是非 見てみたい。同橋まで150kmほど砂利道の悪路であったが、橋の建設に合わせて米州開発機構(BID)が舗装化した。その道路も一度は 走行してみたい。
    ・ 5万分の1の地図のうち未取得の地図が国土地理院に在庫があればで購入したい。

         マスコミ報道では間もなく運河建設が着工されるとかつて大々的に宣言されていた。だが、実質的な工事は一向に開始されず 進展のないまま推移してきたのが実情である。社会的反対、建設資金難、中国企業の経営難など、その頓挫理由は不明だが、 開削の痕跡も観られないまま現在に至るらしい。最新の運河建設状況を知るため関係先をできるだけ多く訪ねてみたい。 元運輸大臣や元JICA牧畜関連技術協力プロジェクトのカウンターパート機関の元国立大学畜産学部長(大統領の指名で運河建設にかかる政府スポークスマンとしての職務についた)など。 大使館・JICA事務所などを表敬訪問して、建設の現況や中断・頓挫の事情、今後の展望などを訊ねてみたい。 その他、「ラ・ナシオン」などの新聞社の運河に詳しい担当記者、ニカラグア一般庶民とのインタビューで、運河への思いや最新情報 などを探りたい。中国企業や運河建設会社の代理人を務める事務所は既に閉鎖されていようが、その情報。ニカラグア政府の運河 建設事項はオルテガ大統領直轄下にあろうが、その実務を司る事務所はあるか、いろいろ探りたい。

      さて、思いつくままに、インタビューでの質問として基本的な事項を用意してみた。
    ・ 建設工事は全く中断・頓挫しているのか。何か実質的な工事は行われたのか、どこでどの程度。
    ・ 中断・頓挫は何故か、その背景・理由。中国企業の経営破たん、行き詰まり、あるいは政治的理由なのか。
    ・ コンセッション契約はまだ生きているのか。
    ・ 国民反対の主な理由は何か、支持はどの程度か。社会・環境への深刻なマイナスインパクトが関係するのか。
    ・ 工事関係事務所はあるのか、政府の運河建設所管・推進する役所は。その統轄実務責任者は。建設に詳しい担当者、記者、学者は 誰か:名前と所属情報。
    ・ 建設関連重要法令、指示文書は何か。
    ・ 建設工事内容に関する最重要の政府・企業発表の報告書情報(FS・詳細設計、EIAの文書など)。

      今後、最新情報を積み重ねて日ごとのより具体的旅程案を模索することとしたい。



このページのトップに戻る /Back to the Pagetop.



    [作成/Under Construction]
    第23章 パンデミックの終息後の海外渡航を夢見る万年青年
    第2節 「ニカラグア運河」を追いかけて再訪を夢見る
      第1節 新型コロナウイルスによるパンデックの終息を待ち焦がれて
      第2節 「ニカラグア運河」を追いかけて再訪を夢見る
      第3節 カナダ東部海岸諸州の海・運河・船の風景を探し求めて
      第4節 中国の京杭大運河(揚州など)を再び訪ね歩く
      第5節 アフリカ大陸最南端の喜望峰と「ガーデンルート」の海を訪ねて
      第6節 インドネシアのモルッカ諸島(香料諸島)、スパイスと古要塞を 訪ねて


         Top page | 総目次(全章全節) | ご覧のページ


    序章~第21章 | 第22章  最終章