「国際協力事業団(JICA)」からの完全離職の結果、人生で初めてのこととして「自由の翼」を背負うことになった。仕事から解放
されて正真正銘の自由人となり、いよいよ「ウェブ海洋辞典」づくりにエネルギーの多くを注ぎ込める身の上になった。先ず、辞典の
コンテンツの総棚卸しというか、トータルレビューに着手した。辞典の多くのページには言い訳がましく「作成中」という
注釈が付けられていたので、先ずそれらを一通り完成してそんなレッテルを取り払おうとした。
また、コンテンツの「選択と集中」の視点をもって、その取り組みを押し進めた。辞典のビジュアル化をどう進めるかも重要なテーマで
あった。過去に切り撮った膨大な量のデジタル画像を加工処理し、「一枚の特選フォト 海と船」と題するギャラリー
に精力的にアップし、ビジュアル化を推し進めるだけでなく、辞典に「潤い・明るさ・楽しさ」をもたらす、いわば「遊び心的な要素」
を添えることを目指したかった。
自由人となって少しは思い通りに時間を割くことができるようになったもう一つのことがあった。海外への旅だけでなく、国内
各地のウォーターフロントや海洋関連施設巡りであった。思い描いてもかつてはなかなか実現できなかった国内外の海洋関連施設巡り
のための旅も、恒例行事のように実現機会をもてるようになった。海辺の自然と触れ合うことが多くなる一方、多岐にわたる海洋関連施設への
探訪も計画的に楽しめるようになった。そして、辞典のビジュアル化も格段に押し進めることができた。特にJICAからの離職以降、旧友の東さんに声を掛け、月例会のようにして、1か月に一度くらいのペースで二人して東京都内や地方のウォーターフロントや海洋関連施設の他、様々な
史跡の探訪に足を運んだ。時には足を海外へと向け、中国、台湾、韓国などの近隣諸国のウォーターフロント散策の他、歴史・文化・
科学系博物館などを巡り歩いた。
さて、海にちなむ博物館やその他の施設をテーマ・ジャンル別に類型化することは後回しにして、先ず関東エリアでの総合的な
「海洋・海事博物館」を俯瞰してみたい。離職して暫くは、館名に「海洋」や「海事」、あるいは単に「海」という文字
が付けられた、比較的規模が大きく海にちなむ総合的博物館をターゲットにして探訪することが多かった。日本には幾つものそんな名称を
冠した博物館あるいはそれに準じる博物館がある。
例えば、千葉県館山市内の「千葉県立安房博物館」では、その昔、「房総の海と生活」をテーマに、地域
漁民の生活・文化・歴史を紹介し、漁具・漁撈船・丸木舟・万祝などを展示していた。だが、現在(2022年)は、「館山市立博物館分館
渚の博物館」となっている。「千葉県立中央博物館分館」としてJR外房線・鵜原駅から徒歩15分ほどにある「海の
博物館」では、名称的には総合的な海洋博物館を連想させられるが、実質的には「房総の海の自然」をメインテーマとした自然系
の博物館である。近くに「勝浦海中展望塔」がある。
茨城県大洗町には「大洗海洋博物館」(大洗磯前神社付属の博物館)があり、海洋生物標本、
漁具漁法の模型、船舶模型などが展示される。
首都圏において海・船・港などを総合的に展示する海洋博物館で忘れてはならないのが、お台場の近接地区に立地する「船の科学館」である。海洋の名称を冠してはいないが、れっきとした日本を代表する総合的海洋博物館である。
その「船の科学館」には、千石船の大型模型の他、いろいろな船舶模型、船の内部構造模型、船模型の実験用水槽、
各種航海計器、ガントリークレーンやコンテナ積み下ろしの仕組みを学べる港湾ジオラマ、捕鯨砲と銛先、以西底引き網漁業、
母船式サケマス漁業などの漁法紹介パネル、古代エジプトの船から1940年代の豪華客船「浅間丸」までの世界と日本の各時代を
代表する船模型、船の発展史を紹介するパネルなどが展示されていた。
また、青函連絡船として活躍した実物の「羊蹄丸」が係留・公開されていた。船内には昭和30年代の青森駅構内や駅周辺、
連絡船への乗船風景などを実物大で再現した「青函ワールド」という展示があった。また、南極観測船 「宗谷」が係留展示されている。
屋外には調査用潜水球「たんかい」、対馬海域で引き揚げられたロシア帝政時代の巡洋艦「ナヒーモフ」の主砲、海底居住実験室
などが展示されていた。
だが、「船の科学館」は何時の頃からか長期休館となっており、2012年頃には事実上閉館されてしまった。「海洋国家・日本」の一国民
として残念至極で寂しい限りである。来館者数が減少し経営的に厳しい状態が長く続いたのが最大の要因と推察される。
現在は本館における一般公開は全て取り止めになっている。ただし、ミニ展示館が別館として併設され、こじんまりとオープンしてきた。
再開スケジュールが見通せないまま、同館が休館することを知った2011年当時、急いで3~4回足を運んでじっくり隅々まで見学し、
多くの画像を切り撮った。今もって(2022年12月現在)再開の目途が立っていない。その後、2024年になって、新聞紙上で取り壊し
に着手が公表された。
2000年に開館した大阪の総合的海洋博物館である「なにわの海の時空館」も、「舩の科学館」を追い駆ける
ように完全に閉館されてしまった(2013年3月閉館)。時空館についても見納めするために数回大阪に足を運んだ。海洋国家の
日本を代表する二つの海洋博物館が閉館に追い込まれてしまったことは残念極まりないことと、声を大にして訴えたいくらいであった。
他方日本とは真逆の風景を中国・台湾・韓国・シンガポールなどでお目にかかった。日本とは対照的に総合的で近代的な大型海洋
博物館がそれらの国々で続々とオープンしていた。例えば、中国・上海の「航海博物館」や韓国・釜山の「国立海洋博物館」、台湾・
基隆の「国立海洋科技博物館」、シンガポールの「セントーサ島」のレジャーランド内の「海洋博物館」などが相次いで完成し
オープンしていた。2011年からJICAを離職した後に順次訪ねて、それらの博物館展示に感動を覚えた。他方、それら諸国が放つ
国勢の上昇気運や国威発揚の息吹を目の当たりにした時は、深いため息をつきショックを隠し切れなかった。やはり、東京と大阪の
二大都市における斜陽傾向は個人的なことにしろ余りの寂しさに打ちのめされた。
横浜にも、かつては「横浜マリタイムミュージアム」と呼ばれる博物館があった。漢字に置き換えれば「横浜海洋博物館」である。
旧運輸省所属の航海訓練船「日本丸」と共に、総合的な海洋博物館であると理解していた。だが、「日本丸」については何の
変更もないが、本館は現在は「帆船日本丸・横浜みなと博物館 」へと名称変更され、かつ展示内容も総合的に展示する構想から横浜
開港や港湾関連のそれへとシフトしたような印象を受ける。現在はその名の通り、港湾や開港に展示の重点が置かれているといえよう。
さて、都内や関東エリアにも、総合的海洋博物館の他に、船舶、港湾、灯台、漁業・養殖、運河、内陸舟運などに特化した博物館や
資料館、あるいはそれらに関連する展示室やコーナーを重要な構成要素にするユニークな施設がある。
例えば、これまで都内や関東圏にある数多くの船舶博物館を訪ねた。それを大きく分ければ、退役した実物の船舶、あるいは実物大の
復元船(レプリカ)を展示する博物館がある一方で、船模型をメインに展示する博物館がある。もちろん、船模型の展示は、
「海洋」「海事」「海」という名称を冠する博物館だけでなく、海にまつわる何らかの展示室やコーナーを擁する殆どの施設で見られる。
また、海洋関連施設とは思われない歴史・文化・科学系の博物館や資料館・郷土館であっても、多少の船模型を散見することができる。
深い印象と驚きを隠せなかったのは、鉄道をメインテーマにする「交通博物館」にも数多くの船模型が陳列されていたこと
である。同博物館はかつて都内のJR秋葉原駅近くに所在していた。2003年に一度訪れた(現在は埼玉県さいたま市大宮区の「鉄道博物館」
に引き継がれている)。鉄道に特化した博物館であったが、多数の船模型、例えば、丸木舟、竹筏や皮袋の筏、木の枝で骨組みを編んで
動物の皮を張って作られたアイルランドの「獣皮舟(コラクル)」、日本の千石船、縮尺50分の1の「咸臨丸」(かんりんまる)など。
咸臨丸はオランダから購入された汽帆船(きはんせん)で、練習船として使われ、日米和親条約の批准書を携えた遣米外交使節(勝海舟・
福沢諭吉などを含む)を乗せて日本船として初めて太平洋を往復渡海した。なお、大宮の「鉄道博物館」では今ではそれらの船模型は
陳列されていない。
その他、交通博には「明治丸」、義勇艦「さくら丸」、大型木造汽船「小菅丸」、関西汽船の「くれない丸」、「山陽丸」、戦艦「武蔵」、
旧運輸省の航海訓練帆船「日本丸」、海外との貿易に熱心であった豊臣秀吉が鳥羽の領主に命じて造らせた軍船「日本丸」
(当時としては特別の大型船で、100丁の櫓と1枚の帆 を備えていた)、近代船「剛邦丸」、「しらはま丸」、その他米国のロバート・
フルトン(Robert Fulton)が1807年に建造・実用化した最初の蒸気船「クラーモント号」(ハドソン河のニューヨーク~アルバニー間
を定期航行した客船)なども展示されていた。
横浜の「日本郵船歴史資料館」が船模型主体の展示館であったとの印象をもつ。展示模型は主に日本郵船が実際に
所有していた船舶の精巧な模型が多い。同館ではまた、日本郵船自身の発展をたどる資料とともに、近代日本海運の発展史を学べる多くの
資料を一般公開している。
ところで、首都・関東エリアでの海洋関連施設をジャンル別に振り返ると次のように概観される。先ず、
実物の船舶が岸壁やドックに横付けされ係留・展示されたり、陸に引き揚げられ陸泊展示される「船舶博物館」といえるものがある。
例えば、「船の科学館」には南極観測船「宗谷」が、また明治天皇の北海道行幸に際して帰途乗船された「明治丸」が東京海洋大学
(旧東京商船大学)越中島キャンパス内に展示される。
また、「横浜みなと博物館」に併設展示される旧運輸省の初代航海練習帆船「日本丸」が、また横須賀にはロシアのバルチック
艦隊との間で日本海海戦を交えてきた軍艦「みかさ」が陸泊展示されている。同艦は旧日本連合艦隊・東郷平八郎提督が乗艦した
旗艦でもある。開戦に当たり「Z旗」を掲げたことでも知られる。艦内には両国の主要艦艇による同海戦での洋上展開を模した大型ジオラマ、
東郷司令長官の遺品、両国艦艇の記念品などが陳列される。余談であるが、当時のアルゼンチンがイタリアに発注していた2隻の軍艦
を日本が譲り受けて、連合艦隊に加えられた「日進」「春日」の模型も展示される。アルゼンチン海軍士官学校などでは現在も日本海
海戦での作戦について教授されているという。
その他、都内で実船が展示される博物館としては、「都立第五福竜丸展示館」(江東区・夢の島)がある。1954年ビキニ
環礁での米国による水爆実験で「死の灰」を浴び被爆した遠洋マグロ漁船の「第五福竜丸」が展示される。
被曝後、日本政府によって買い上げられ改造されて、当時の東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」となった。その後廃船となり、
ある業者に売船された。船からエンジンだけが取り外され他者に売却された。そして、船体自体は「夢の島」(当時は東京都のゴミ処分場
であった)へ捨てられた。
「第五福竜丸」のエンジンを据え付けた船が、1996年三重県熊野灘の海底で発見され引き揚げられ、1998年3月に同展示館へ寄贈された。
現在では同館に実物の船体とエンジンが共に保存されている。無線長・久保山愛吉氏が使用した無線機や、同氏が打鍵した電文の
受信記録、当時の当直日誌、シンチレーション計数管やガイガー計数管、「死の灰」の標本、福竜丸の廃棄から展示に至るまでの
十年史を写真で辿るパネル、福竜丸の出航から被曝・帰港までの航海図などをじっくり巡覧すれば、その史実の重みを知ることになろう。
また、同漁船が廃棄されてから展示に至るまでの関係者の長い努力の跡を垣間見ることができる。
横浜港にも幾つかの船舶博物館がある。先ず、山下公園の桟橋に係留されている日本郵船の「氷川丸」。昭和5年~35年まで
北米航路の定期船として活躍した客船である。船内では当時をしのばせる豪華な特等船室の他、ブリッジやその航海運用の計器類、
エンジンルームなどを巡覧できる。また、「赤レンガ倉庫」近くの海上保安庁「海上保安資料館」には、日本の巡視船と激しい実弾銃撃戦
を繰り広げた末に鹿児島沖で自爆・沈没した「北朝鮮の工作船」が、後に日本側で引き揚げられ、その船体と搭載武器などが生々しい
姿で一般公開されている。
また、さすがに漁業王国だけあって、漁業や養殖に特化した博物館・資料館も多く存在する。例えば、東京海洋大学品川キャンパス
(旧東京水産大学)には、「水産資料館」(現・東京海洋大学「マリンサイエンスミュージアム」)がある。
同館には海洋生物の膨大な数の剥製標本や漁具漁法に関する模型などが展示される。例えば、捕鯨用器具 (手投げ銛など)、
捕鯨用ボンブランス式手投げ銛、ノルウェー式捕鯨砲、一艘旋きのイワシ旋網 (巾着網) 漁業の模型、
マグロ延縄漁具の構成(ボンデン、枝縄(えだなわ)、せきやま、ち元ワイヤー、針など)の展示など。
さらには、マグロ延縄用ロープ、流し網・流し刺網・桝網(ますあみ)・二重落し網・張網・網魞・大敷網・四艘張網・
八ツ手網・かけひ網・四ツ手網・巻き網・底刺網・浮き刺網などの模型が所狭しと展示される。さらに、木錨、結索の見本、
ダウ船模型などもある。また、学内にはセミクジラやコイワシクジラの全身骨格標本を陳列する特別館「鯨ギャラリー」も
併設されている。
東京・太田区にはのり(海苔)養殖に特化した資料展示館「大森海苔のふるさと館」がある。かつては大田区の地先海域では
海苔の養殖が盛んであった。品川区・江東区などの地先でも江戸前ののり養殖が盛んであったが、都内で主にのり養殖に特化して
展示するのは同館だけである。大森のり養殖場でののり養殖生産をメーンテーマに据えて、実物の「べか船」(のり養殖などのために
用いられた一人乗りの小型平底舟)や養殖生産工程のパネル展示、のり養殖に関する多岐にわたる生産道具などが展示される。
既に触れた通り、千葉県館山市にはかつて「千葉県立安房博物館」があった。「房総の海と生活」をテーマに、地域漁民
の生活・文化・歴史を紹介するものであった。漁具・漁撈船、丸木舟、万祝などの文化財を展示した。例えば、房総半島における
様々な漁業(潜水漁・捕鯨漁・突きん棒漁・網漁など)の紹介の他、それらの漁具、船模型などが展示されていた。また、漁民
生活、鰹節・海苔・干鰯の生産過程、船霊・絵馬、万祝の紹介の他、江戸時代後期の漁師の民家が復元展示されていた。さらに、
地曳網漁、打瀬網漁、見突き漁などのために房総沿岸にて使用された和船や、九十九里浜の地曳網漁で使用された七丁櫓船
などが展示されていた。生態観察室(水族館)では南房総の海に生息する魚類などが飼育・展示されていた。
だが、2021年時点では、「館山市立博物館分館 渚の博物館」へと組織替えされ、展示内容も部分的に縮小化
されたうえで引き続きオープンしている。特に2020年~2022年の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックにより、
その展示館の一部につき非公開措置が執られていた(2021年10月時点)。
その他、千葉県南房総市(旧和田町和田浦)には、「鯨資料館(勇魚文庫)」があり、鯨や捕鯨業の歴史、捕鯨文化・技術などについて
学ぶことができる。同館の前庭には超巨大なシロナガスクジラの全身骨格標本(レプリカ)が屋外展示されその威容を誇っている。
その他、漁業・養殖関連博物館として、香取市佐原の「千葉県立中央博物館 大利根分館」では、主に内水面での漁業関連資料が
多数紹介されている。また、数多くの魚貝類標本も陳列される。「かすみがうら市郷土資料館」では、霞ヶ浦での帆引き船発展の
歴史、その操業メカニズムや帆引き漁業などについての資料展示がある。近傍の「かすみがうら市・歩崎公園」内には、帆引き船発祥の地
記念碑が建てられている。また同公園ビジターセンター駐車場敷地内には、実物の数艘の帆曳き船が展示されている。
未だ訪問は実現していないが、茨城県には「北茨城市漁業歴史資料館「よう・そろー」」があり、5年に一度の御船祭の大祭で町内を
巡行する船なども展示されているという。
港に関する博物館としては、既述の「横浜みなと博物館」が筆頭であるが、関東エリアでも港湾に特化する博物館は意外と少ない。
「横浜のみなと博物館と日本丸」では、開港の歴史や港湾をメインテーマにし、また総合的な準海洋博物館としての
要素を併せてもつ。また、都内江東区青海(東京・お台場近傍)には港関連の展示館「東京みなと館ミナトリエ」があり、
東京港の成り立ちと発展史をテーマに陳列し、また東京港でのコンテナ貨物取扱現況などを紹介する。その他、横浜・関内の「みなと
みらい地区」において「日本丸」が係留される石造りの「三菱ドック」は、かつての三菱重工業の造船所跡の一部である。また、一般
公開はされていないが、浦賀湾沿いに立地する民間造船所敷地内にも石造りの旧ドックが遺されている。
灯台やそれに併設される資料館の幾つかを見学した。灯台の歴史や技術などを紹介する、現役の灯台に付属する資料・
展示館としては、例えば、銚子の「犬吠埼灯台」には「灯台資料展示館」が併設されている。また、房総半島先端にある「野島埼
灯台」にも「灯台資料展示室・ぎらりん館」がある。いずれも日本全国の灯台全般のことについても学べる。野島埼灯台は、
1866年(慶応2年)に江戸幕府と米国など4か国との間で結ばれた「江戸条約」によって建設することが約され、1869年(明治2年)
12月18日に竣工し初点灯となった。日本での洋式灯台としては、東京湾口の神奈川県側に建つ「 観音埼灯台」に次いで2番目のものである。
1869年の建設当時における野島埼灯台はフランス人技師ヴェルニー氏の設計によるレンガ造りであった。
余談だが、野島埼灯台のすぐ傍には「白浜海洋美術館」がある。 イワシの大漁をはじめとする祝時に船主や
船頭・水主(かこ)などの漁撈関係者たちが羽織る半纏(はんてん)など、海や漁にまつわる 伝統的な民俗工芸品などを展示する、
日本でも珍しいユニークな美術館である。
さて、都内には数多くの区立の博物館・郷土館・資料館がある。ジャンル的には、海洋土木、海防、舟運、運河・水路
の開削、のり養殖、海の関所(番所)などの範疇に属する展示室やコーナーを擁している。海や船に特化したものでないが、それらの
ジャンルに関する歴史・文化的展示物に出会い、思いがけない発見につながることも多い。旧友の東氏とそれらの区立歴史・文化
施設をアトランダムではあるが、探訪することを恒例化してきた。事例を挙げてみたい。
・ 「中川船番所資料館」: 小名木川の東端に建つ江東区立の博物館で、中川船番所の実物大の復元の他、江戸時代に
おける船番所の仕組みや出入りする船荷の検査・取り締まりの詳細な史実、利根・江戸川水系における川蒸気船「通運丸」による
舟運の発展史、その他関東周辺における舟運の発展史などを学べる。なお、小名木川西端では、パナマ運河閘門システムと理論
上は同じ施設、即ち2つの高低差のある水域間の航行を可能にする閘室(チャンバー)を擁する運河閘門(いわば「水のエレベーター」)
を見ることができる。
・ 「足立区立郷土博物館」: 下肥運搬船(「葛西船」、「汚わい船」と呼ばれた)を展示する。
・ 「江戸川区郷土資料室」: 江戸川区と海や川との関わりを示す展示もある。例えば、「通運丸」模型、荷足船の模型、漁具、
のり養殖・加工用具などを展示する。
・ 「江東区深川江戸資料館」: 常設展示室では江戸時代末期(天保年間)における深川佐賀町の町並みを実物大で
復元している。また深川船宿と猪牙舟(ちょきぶね)の展示もある。
・ 「葛飾区郷土と天文の博物館」: 葛西舟(「オワイ(汚穢)舟」ともいう)の模型がある。
・ 「港区立郷土歴史館」: 港区白金台の「ゆかしの杜」敷地内にあり港区の郷土歴史を展示する。
・ 「品川区立品川歴史館」: 隅田川河口における海防のための砲塁建設、モース博士(米国)による貝塚発掘での貢献など。
「モース博士と大森貝塚」は展示の大きなテーマの一つとなっている。
・ 「すみだ郷土文化資料館」: 向島船庫復元模型の展示など。
・ 「浦安市郷土博物館」: 都内ではないが、江戸川をはさんで千葉県浦安市猫実にある郷土館には、「べか舟」などの
平底舟作りの実演を見ることができる工房や、各種の船大工道具の陳列コーナーがある。
その他の関東諸県市町村においても、同じような郷土資料館がある。例えば、既述の茨城県かすみがうら市の「かすみがうら市
郷土資料館」では、霞ヶ浦での帆引き船やその漁業の発展史・メカニズムなどを紹介する。
海や船などとは直接的な関わりがない小規模な資料館・郷土館であっても、訪れると何がしかの予期しなかった発見がある。時に、
思いがけない展示に出合いびっくりし、「目からうろこ」的な感動もある。地域漁業や内陸舟運などについての学びが一杯詰まって
いる展示に出会うことがある。海洋専門の博物館でなくとも、また地域限定の歴史・文化的展示が主体
であっても、海、舟、海の生物や環境・文化などに何がしか関係のある陳列品がある。
例えば、丸木舟、鯨・イルカなどの骨格標本(全身あるいは部分的)、川崎舟・伝馬船・べか舟などの模型や実船、川蒸気の
「通運丸」の模型、ローカルな漁具、港湾施設や船の古写真、魚肥などを作る道具や工程解説パネルなどの展示がなされる。
博物館が許せば、展示品やそれらの説明書きを全て切り撮る。一通り巡覧するのに3~4時間かかることはざらにある。
時に昼食をはさんで撮り続ける。後日パソコンに画像データを取り込み、それを拡大のうえ
じっくり読み解き、どんな展示コンテンツであったのかを納得いくまで精読したりする。
社会・歴史・文化などの総合的な博物館も幾つかある。社会人文科学系の総合的博物館の筆頭は、上野の「国立博物館」であろう。
その他、千葉県・佐倉の「国立歴史民俗博物館」では、近世・江戸時代における北前船の西回り航路の
開拓や海運の発展史にまつわる展示もなされる。また「千葉県立博物館」では、内陸舟運の手段としてかつて活躍した川蒸気船
「通運丸」の模型も展示される。
「東京江戸博物館」では、江戸時代の千石船による海運発展史の一端を学ぶことができる。「天下の台所の大坂と
大消費都市・江戸との間で定期就航した「菱垣廻船」の大型模型が展示される。それは文化期(1804~17年)に描かれた1500石積みの
菱垣廻船図を基に 復元されたものである。上方(かみがた)から木綿(もめん)、油、紙などの大量の生活物資を江戸へ運んだ。
菱垣廻船は酒などを運んだ「樽廻船(たるかいせん)」と並ぶ重要な輸送手段であり、その廻船名の由来は船の側面に菱組の格子が
取り付けてあったことによる。神奈川大学では、江戸時代の千石船の海運発展史、その造船技術や船大工用工具などを紹介する
ユニークな展示館を擁している。
自然科学系の総合的科学館としでは、都内では「国立科学博物館」が名実ともに筆頭である。海洋生物標本コーナーでは、
魚・貝・甲殻類・軟体動物・サンゴなどの標本展示も充実し見応えがある。「深海」と題するかつての特別展では、当時注目を
浴びていた「スケーリー貝」という体表が鉄で覆われている希有な海洋生物を見て目がしびれた。また訪問当日には、古代人の海上
移動を研究するための、葦舟や丸木舟による台湾~沖縄間の海洋横断実験プロジェクトについて、同館の関係スタッフが、資金
ファンディングを兼ねて総出でその広報に努めていた。また、同館では「海のハンター ホオジロザメ展」「深海生物の謎」などの
企画展もかつて行われ、見学する機会を得たりした。
社会科学と自然科学の両系博物館と銘打つ横須賀市のユニークな「自然人文博物館」には、社会文化系の展示に加え、
海の生物(魚類・海岸生物・貝など)の標本、各種の漁具漁法の模型やパネル展示、捕鯨関連資料、その他の海洋関連資料が
展示される。また、小田原市の「神奈川県立生命の星・地球博物館」は地球誕生から現代にいたるまでの地球の歴史と生命の歩み、
生物進化を辿ることができる。
開港関連の展示を主体にする博物館も幾つかある。横須賀市久里浜のペリー公園内にある「ペリー来航記念館」にはいろ
いろな来航関連資料の他、「ポーハタン号」などの黒船4隻の浦賀への来航を示すジオラマも展示され、また同公園内にはペリー上陸
記念碑が建つ。横浜では開港にまつわる史料を展示する博物館が多い。「神奈川県立歴史博物館」では開港と近代化などに
関する資料が多く展示される。「横浜開港資料館」は、日米和親条約が締結された場所である。その建物は旧英国総領事館
として利用されていたもので、開国・開港史の資料などが展示される。また、横浜市中区山手町の外国人墓地入り口にある
「横浜外国人墓地資料館」を訪ねて初めて知ったことであるが、米国ペリー艦隊の水兵ロバート・ウイリアムを葬ったのが
同墓地の始まりであるという。彼の墓地が遺されている。
運河・水路や内陸舟運に関連する博物館・資料館・史跡がある。隅田川は都内北区の志茂辺りで荒川から分流して東京湾へと流れ下るが、
その流頭に通称「赤門」と呼ばれる大型水門が遺されている。現在は「青門」が築造され水門としての機能を果たしている。
赤門の近傍には「荒川知水資料館 ・アモア 」がある。青門の下流は現在の隅田川となり、現在の荒川は「荒川荒川放水路」として
東京湾に流れ出る。同館アモア訪問時改めて学んだことがあった。同放水路の建設では青山士技師が責任者となって深く関わったが、
彼は中米パナマにおけるパナマ運河建設の現場で測量・設計などに従事した唯一の日本人であった。
また、埼玉県さいたま市東内野には、パナマ運河と構造的には同じである閘門式の水路が復元されている。即ち、芝川がその低地
を南北に流れ、それと並行するように芝川よりも少し高いところを2つの用水路が流れる。それが「見沼代用水路(東線・西線)」
である。築造は江戸時代に遡るが、芝川と用水路東線との間における舟の行き来を可能にするために、木製の閘門で堰き止められた
閘室が築造された。その閘門式水路が「見沼通船堀」として現在復元されていて、年に1回程度実物の平底船による通航
の実演が行われてきた。通船堀への最寄駅はJR武蔵野線「東浦和」駅である。
その他、現在は利用されていないが、利根川と江戸川との間を結ぶ「利根運河」がある。かつて鉄道が未発達であった関東
平野の南域において、「通運丸」などの蒸気船が東京湾と霞ヶ浦や銚子の間を定期就航していた。同運河は両河川間での行き来をかなりショート
カットさせることができた。
隅田川、江戸川などの河川に面する行政区に所在する区立資料館や郷土館には、江戸・明治・大正時代
におけるそれら両河川水系での運河・水路の整備、舟運の歴史、河岸の整備などを紹介する展示コーナーを擁する
ものが幾つかある。運河・水路の開削による整備と舟運による産業・流通の栄枯盛衰、陸路における交通機関やそのネットワークの
台頭と発展の変遷、河岸の発展(荷揚げ場と倉庫・問屋街の発展、商業活動の変遷)、漁業・のり養殖の発展と東京湾岸の海面埋立て
などによる衰退などを知ることができる。
例えば、「千葉県立中央博物館」には「通運丸」(両舷に外輪車をもつ川蒸気船)の模型、その導入によって飛躍的に発展
した舟運などに関する展示がある。同館の「大利根分館」では、漁具の展示の他、内陸舟運関連の展示もある。また、千葉県立
「関宿城博物館」では、利根川などの付け替え工事 (利根川の東遷事業など) の歴史の他、浚渫・治水事業、
運河開削、水閘門建設、利根川とその支流を舞台にした高瀬船や 蒸気船「通運丸」による内陸舟運の発展などについて
多面的に学ぶことができる。また、館内には高瀬船の大型模型が展示される。さらに、千葉県「松戸市立博物館」には、松戸の河岸の
ジオラマ風復元模型や新河岸川の河岸風景の古写真なども展示される。松戸は江戸時代、江戸と水戸を結ぶ「水戸街道」の宿場町であった。
江戸川沿いに金町関所が、その上流には松戸河岸があり、松戸は江戸と舟運で結ばれていた。
その他、歴史的人物にまつわる文化施設や史跡をあちこち訪ね歩いた。例えば、都内墨田区の「回向院」は、江戸時代の17世紀
中期以降、無縁仏を葬り供養してきた由緒ある寺院である。その境内には海難の遭難者を供養するための幾つかの供養塔石も建立されている。
帆掛け船型をした極めて珍しい舟形の墓碑がある。 石塔の裏側には「俗名 光大夫」という名も刻まれている。
即ち、漂流してロシアに渡った「大黒屋光太夫」の名である。 また、東京・豊島区南池袋の「都立雑司ヶ谷霊園」には、
江戸幕末期から明治文明開化期の、日本の黎明期を駆け抜けた漂流少年・中濱萬次郎(別称、「ジョン萬次郎」)が眠っている。
茨城県の利根川堤にほど近い所に立地する「間宮林蔵記念館」(間宮が暮らしていた住まいも移築されている)では、カラフト探検で
「間宮海峡」を実地視認した彼の業績、探検ルートなどを詳しく解説する。また、香取市佐原にある「伊能忠敬記念館」では、
伊能が家業から引退した後江戸に出て天文学・測量学などを学び、その後日本の各地を実測し正確な日本全図を製作したが、
その彼の測量技術や業績などを知ることができる。その近傍には彼が実際に商いを行ない、生計を営んでいた屋敷が一般公開されている。
横須賀の「ヴェルニー展示館」では、「横須賀製鉄所」(後に横須賀造船所、海軍工廠などと改称される)の建設に責任者
として着任・従事したフランス人フランソワ・レオン・ヴェルニー技師による製鉄所建設の詳しい歴史や彼自身の歩みの他、江戸幕府
の幕臣としてその創建を取り仕切り建設に多大な貢献を果たした「小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ ただまさ)」の功績なども
学ぶことができる。製鉄所の建設は慶応元年に開始された。なお、同館に展示される絵図には、いずれも石造りの3つのドライドック、
即ち旧製鉄所1号ドライドック (1871年・明治4年竣工)、2号ドライドック (1884年・明治17年竣工)、 3号ドライドック (1874年・
明治7年竣工; 旧2号ドック) を見て取れる。そのうちのドックの一基が現在でも昔の姿を留めており、今でも現役として利用されて
いるという。
また、JR横須賀駅の裏手の山中にある公園内には、徳川家康に重用された航海士「三浦按針 (ウィリアム・アダムス)」
の宝筐印塔が建つ(埋葬墓ではなく供養塔と見なされている)。按針は日本に来航した初めての英国人である。1600年(慶長5年)に、
オランダ船「リーフデ号」の航海長であったアダムスは、九州豊後(現・大分県)に漂着した。徳川家康の下命により外交顧問として仕え、
俸禄は220石が与えられ、三浦郡逸見村に居住した。また江戸日本橋にも屋敷を有していた。慶長年間、英国とオランダは日本との
通商が許され、商館が平戸に設置されたが、按針は1613年(慶長18年)から平戸にも住み始め、平戸の英国商館長コックスの下で活躍した。
1620年(元和6年)に平戸で病死した。
今後は、東京都をはじめ千葉、神奈川、茨城、埼玉県の海洋関連施設に関する情報を少しずつアップデートや増補したり
して「資料編(追記録)」の拡充を図りたい。
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