さて、兵庫県の海洋関連施設について綴りたい。南米航路の船乗りに憧れていた青少年の頃、大阪天保山を起点にする関西汽船で
瀬戸内海を家族らとよく船旅をした。その帰途の終着港はたいてい神戸港であり、ポートタワーが高くそびえる中突堤であった。
結局船乗りになれなかったが、外国船を眺め異国の香りに浸りたいとメリケン波止場や中突堤をはじめ、多くの貨物船が横付けになる、
櫛の歯のように何本も海に突き出た突堤をあちこち散策するためによく出掛けたものであった。
神戸は私の原点とも言えた。
船乗りへの夢が破れてからは、以前ほど神戸のウォーターフロントに足が向かなくなった。だが、その昔三宮センターアーケード街の
一角にあったタンゴ喫茶へはよく通った。アーケード通りから地下へ潜る狭い階段があり、それを降りるとタンゴを専門に聴かせて
くれる、まさに昭和時代を代表するかのような喫茶店があった。薄暗い店内にはタンゴがいつも流れていた。大学生の頃神戸に出向くと
先ずはその地下のタンゴカフェテリアに潜り込んだ。そして、タンゴに酔いしれながら、卒後就職した暁には海外へと飛翔したい
と心に描いていた。
話しは現代に戻るが、農事の手伝いのため帰郷するようになった頃、農作業のできない雨天日には神戸の海洋関連施設を
巡覧すべくぶらっとよく訪れた。そして、その度にそのタンゴ喫茶店を探し回った。アーケード街のあちこちを尋ね歩いた。
だが、何度トライしても店には辿り着けなかった。
40年も前の店などもう店じまいしているに違いないと頭では分かっていても、何とか見つけ出そうと捜し歩く愚かな「自分」
がいた。恐らく1995年(平成7年)1月の「阪神淡路大震災」のために閉店してしまったものと想像していた。
アーケード通りのどこかの角辺りで営業を再開しているのではないかと、淡い期待を抱いて通りなどを縦横に行ったり来たりした。
だが、店じまいしたはずのものは見つけられるはずもなかった。
神戸ではこれまで、海・船・港とゆかりのある博物館や史跡など多くの歴史文化施設を散策した。「神戸海洋博物館」には、JICA離職
後に3,4回は訪ねた。ヨットが真っ白な帆をはらませて海を滑りゆくようなイメージのパビリオンがひと際目立つ。
入館すると巨大な帆船模型が迎えてくれる。館内では船舶模型のオンパレードである。関西汽船の「くれない丸」、深海調査潜水艇「しん
かい6500」、戦列艦・菱垣廻船・御朱印船・千石船など多くの船舶模型の他、「ビクトリー号」の大型輪切り船体構造模型、マンガン
団塊の実物標本、和船の錨・磁石・船箪笥、船首像、曳航測程器・測深器・羅針儀などの航海計器や測定具、船の推進原理を示す図式パネル、
船首部・プロペラ・舵の模型、船で働く乗員の役割・江戸時代の沿海航路や海運の他、パナマ運河、航海の歴史などについてのパネル
説明など、盛りだくさんに展示される。実物の葦舟やベニスのゴンドラも陳列されている。
屋外には、実物の超電導電磁推進船「ヤマト1」、揚力式複合支持船型をもつ実海域用のテクノスーパーライナー「疾風」
(はやて)、コロンブスの「サンタ・マリア号」(船種: ナオ)の復元船などが展示される。
企業博物館として「カワサキワールド」が併設され、川崎重工業が開発した当時としては最新鋭の艦船をはじめ、陸海空の科学技術
の粋を結集した乗り物の発展史を学べる。
神戸東灘区の深江には、神戸大学海事科学部付属の「海事博物館」がある。かつては神戸商船大学付属の博物館であった。
正門からキャンパスに入ると真正面に管理棟が建つ。50年余年前のこと、当時中学一年生の時に商船大学長と文通を始めて暫く
経った頃、初めてこの管理棟にある学長室を祖父に付き添われて訪問したことがある。その管理棟は当時のままにある。同博物館は正門
を入ってすぐの右手にある。船模型をはじめ、航海・機関・通信などに関する何千点にも及ぶ陳列品が整然と並べられている。
その他、船と港に所縁の深い神戸には、東日本の代表的港町・横浜と並んで、幾つもの海洋関連施設がある。例えば、
・ 「戦没した船と海員の資料館」: 日中全面戦争から1945年8月の無条件降伏まで、幾万の船員とともに大量の民間船が戦時動員され、
日本周辺や南方海域で犠牲となった。戦時中徴用され戦没した一般民間船は7,000余隻ともいわれる。それらの戦没民間船の写真資料をはじめ、船員手帳、復原模型などを所蔵・展示する。会館は「全日本会員組合」によって運営管理される。
・ 「神戸築港資料館(ピアしっくす)」: 国土交通省近畿地方整備局神戸港湾事務所敷地内にある。神戸港の発展の歴史、昔の神戸村
の絵図などが展示される。勝海舟などが参画した「神戸操練所」の創建当時の古写真が展示されていたのにはびっくり仰天した。
・ 「神戸市立博物館」: フランシスコ・ザビエルの肖像画のオリジナルが所蔵される。博物館にはその複製が展示される。茨木市音羽
地区のある民家から発見されたものである。同地区にはザビエル関連の資料館が建つ。ザビエルの肖像を今に伝える、世界でも唯一の
ものとされる絵(ポートレート)である。
・ 「神戸税関広報展示室」: 密輸船・乗組員などから押収された数々の禁制品が展示される。神戸税関業務の歴史や任務なども
解説している。
・ 「中華華僑歴史博物館」: メリケン波止場入り口斜め対面にある博物館。マッチ製造業をはじめ、開港以来の華僑らの経済社会産業文化
面における活躍を紹介する。
・ 「海軍操練所」がかつて所在したことを示す跡碑が建つ。近傍において操練所の遺構が近年発見されたことが新聞で伝えられている。
・ 「メリケン波止場跡」にも石碑が建つ。
・ 「旧神戸移住センター」: 現在は、「海外移住と文化の交流センター」として内部公開され、1950~60年代に活躍した「ぶらじる丸」
「あるぜんちな丸」などの移民船の模型をはじめ、南米移住関連資料などがパネル展示される。
・ 昔江戸へ千石船(樽廻船)などで酒を回漕した、灘の大手酒造会社「大関」の敷地内には古灯台が建つ。また、西宮市に所在する
「今津灯台」は摂津今津村(現・西宮市今津港)に1810年に創建された。幕末に再建されて現存する古灯台である。
・ 西宮市の「貝類博物館」: 膨大な数の貝標本がぎっしりと展示される。また、海洋冒険家・堀江謙一氏が1962年に世界初の
単独無寄港太平洋横断を達成した小型ヨット「マーメード号」などが展示される。
「旧神戸移住センター」についてもう少し触れたい。かつて海外へ移住者を送出するに先だって、語学研修や移住先の社会文化事情の
オリエンテーションなどを提供していた研修施設である「旧移住センター」(現在は「海外移住と文化の交流センター」として公開
されている)には、幾つかの移民船模型の展示の他、移住関連歴史資料が展示される。1976年に当時の「海外移住事業団」と「海外技術協力
事業団」とが統合され、「国際協力事業団(JICA)」となり、さらに現在の「国際協力機構」へと改組されているが、
かつてJICAの所轄であった「海外移住センター」の前身が「旧移住センター」である。神戸市街地の北野地区(六甲山の裾野)に
向かって南北に伸びる「トーアロード」と平行する「鯉川筋」という緩やかな坂道を真っ直ぐ登ると、その交流センターに行き着く。
ブラジルへの最初の日本人集団移住者781人が、神戸港から出発する前にこの「旧移住センター」で寝泊まりしながら出発の
準備を整えた。出航当日、「移住坂」と呼ばれた鯉川筋を下り、埠頭で待つ「笠戸丸」に乗船した。
笠戸船は1908年にブラジル・サントス港の「第14番埠頭」に着岸した。これがブラジル移住の最初であった。ブラジルへの同胞移民の原点
といえる。その後も多くの移住者が南米へと海を渡って行った。「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」などの流線型の華麗な貨客船
が南米航路に就航していた。彼らの多くもその移民坂を下って、神戸港の埠頭から日本を後にして新しい人生を歩んで行った。
さて、ある時には茨木から少し遠出して、兵庫・淡路島にある歴史文化施設の「高田屋嘉兵衛顕彰館・歴史文化資料館」に出掛けた。
江戸時代、嘉兵衛は最初の持ち船として「辰悦丸」を調達し、北海道を拠点にする商いで成功を収め、順次持ち船と交易圏を拡大して
行った。また、北海道の国後・エトロフ間航路を拓き、漁場などの開発にも尽力した。
1811年のこと、ロシア軍艦「ディアナ号」の艦長ゴローニンが国後島に上陸し幕府官吏に捕らえられた。翌1812年高田屋嘉兵衛と彼の
手船「観世丸」がディアナ号の副艦長リコルドにより拿捕され、ハバロフスクへ連行され、長く拘留されるという経験をした。紆余曲折があるが、嘉兵衛はゴローニンの解放のための交渉を買って出て奔走した。結果長年捕らわれの身であったゴローニンは無事釈放され、帰国した。
同館内には「辰悦丸」の1/2縮尺のレプリカが展示される他、千石船の多くの模型、嘉兵衛の航海・交易・生活関連の史料、また
いわゆる「ゴローニン事件」関連史料などが展示される。
別日にさらに遠出して、兵庫県立赤穂海浜公園内に立地する「赤穂市立海洋科学館・塩の国」という海と塩のテーマ館に足を
運んだ。同館には揚げ浜式塩田、流下式塩田などの実物大製塩装置が屋外に展示される。また、海の科学だけでなく自然科学にまつわる
展示がなされる。また、帰途に「赤穂市立歴史博物館 塩と義士の館」にも立ち寄った。同歴史館では赤穂の塩俵を江戸や大坂方面に海送
した千石船の1/3縮尺模型、製塩用具、その他製塩業に関する古資料を幅広く展示する。
再び別日のことであるが、神戸市兵庫区南部に所在する「兵庫運河」の海岸沿い(大輪田地区、清盛塚の地など)を散策した。
訪ねた年のNHK歴史大河ドラマの主人公は平清盛であった。清盛がかつて新都を開こうとしたこの兵庫の地に臨時の「NHK歴史展示館」
が開設されたというので、同館をも訪ねた。清盛は、「兵庫の津」を埋め立て人工島を作り、津(港)を整備し、中国・宋などとの海外
貿易を振興させようと尽力したが、その足跡を求めて訪ね歩いた。清盛が人工島や津の築造の基礎にしたという、「兵庫運河」沿いに
据えられた巨岩「古代大輪田泊まりの石椋」も一見に値する。なお、当時には開設されていなかった「兵庫県立兵庫津ミュージアム・
初代県庁館」がオープンしたところ、新型コロナのパンデミックが十分終焉した2024年になって訪ねてみた。
さて、京都やその周辺のウォーターフロント散策や、海洋ならぬ河川関連歴史文化施設の訪問などにも触れてみたい。
京都や滋賀の琵琶湖は内陸部にありながら、意外と河川を通して海(大阪湾や日本海)と深いつながりがあったことを発見した。
京都と琵琶湖を結ぶ運河「琵琶湖疏水」やインクライン (傾斜鉄道、急勾配鉄道) 方式による舟運、近世における大坂と京都・伏見を結ぶ
淀川舟運について、またその舟運関連史料や川舟の模型などを展示する枚方(大阪と伏見の中ほどにある河岸のある町)
の「市立枚方宿鍵屋資料館」や「国土交通省淀川河川事務所・淀川資料館」などにも探訪する機会をもった。
運河に関心があったところ、閘門式とは全く異種の「インクライン方式の運河」が京都市内にあることを知り、
稲刈の合間を縫って、南禅寺近くにある「琵琶湖疏水記念館」とインクラインを訪ねた。蹴上(けあげ)のインクラインにはレールが
斜路に沿って遺されており、また船を載せる台車もレール上に展示されている。
ケーブルがレール中央に敷設され、大きな歯車に接続された電気モーターでそのケーブルを回転させる。歯車の一部が「蹴上船溜り」
に遺されている。電気はその「蹴上船溜り」に設けられた水路から自然落下させた水力でもって発電された。
蹴上の船溜りから斜路を伝って下方にある「南禅寺船溜り」まで歩くことができる。また、今では遊覧ボートで琵琶湖から疏水を伝って
「蹴上船溜り」まで辿ることができるが、インクラインをもって上り下りすることは体験できない。なお、同記念館では、疏水建設
の歴史やインクラインの技法などを学ぶことができる。疏水にはその昔蒸気船すらも通航していたという。
疏水の歴史をもう少し辿りたい。明治維新後の1869年 (明治2年) に都が京都から東京に移された。この東京遷都により、京都では人口が減少し活気を失っていた。
その活力を取り戻そうと、時の知事(第3代)・北垣国道によって建設が進められたのが、琵琶湖と京都を結ぶ運河「琵琶湖疏水
(びわこそすい)」である。 建設工事を任されたのは、東京大学工学部の前身である東京工部大学校を卒業したばかりの
青年技師・田邉朔郎である。 彼の大学卒業論文は琵琶湖疏水の工事に関わるものであった。
(1) 1885年(明治18年)に始められた琵琶湖疏水の建設は、1890年(明治23年)に、①琵琶湖の取水口(大津)から京都市内を流れる
鴨川との合流地点までと、 ②蹴上(けあげ)から分岐して北の方角に流れる「疏水分線」(当該水路上には彼の有名な「水路閣」
(南禅寺境内) が完成した(いわゆる「琵琶湖第一疏水」の完成である)。なお、当該分線の北には「哲学の道」が続く。
大津の琵琶湖疏水取水口から京都蹴上までの距離は約8.4kmであり、幾つかのトンネルが刳り抜かれた。
疏水の水は、舟運のみならず、 水車の動力源、灌漑・防火用水としても使われた。さらには日本初の事業用水力発電の
エネルギー源にも用いられた。 電力によって工業振興がなされ、また日本初の電気鉄道が開通するなど、京都に活気を
取り戻す源となった。
繰り返しになるが、疏水は、大津の取水口から始まり、長等山(ながらやま)の下を貫通するトンネル内を流れ、山科盆地を経て
京都市内に至る。その後、蹴上で二つに分かれ、一つは「鴨東(おうとう)運河」となり鴨川と出会う。もう一つは「疏水分線」となり
小川頭に達する。 疏水の総延長は20㎞、取水量は毎秒8.35立法メートルであった。
(2) 鴨川と疏水との間には約36mの高低差がある。この水位差を電気仕掛けの「インクライン (傾斜鉄道、急勾配鉄道) 」という
システムで克服した。因みに、船は鴨川から「鴨東運河」を通って、南禅寺傍の「南禅寺船溜り」にいたる。
そこでインクラインの船架台車に載せられ、582mの距離(当時世界最長)を 「蹴上船溜り」まで引き上げられた。
その後は運河を伝って琵琶湖まで遡って行った。このインクライン・システムによって乗客の乗り替え・貨物の載せ替えを行なうことなく、
大阪湾~淀川~宇治川(三栖閘門)~鴨川運河~鴨東運河~南禅寺船溜り~インクライン~蹴上船溜り~琵琶湖第一疏水~琵琶湖
(大津)の間を行き来することができた。
(3) 蹴上には、日本初の商業用水力発電所 (蹴上発電所) が、1891年(明治24年)に建設され、送電が開始された。その電力がインクラインの
動力源として使用された。日本初の電気鉄道への電力供給として貢献した。当時としては革新的な技術導入であった。インクラインの運転
当初にあっては、水車の動力でドラム式巻き上げ機を回転させインクラインを駆動させる仕組みであった。蹴上発電所の完成により、
電力を利用した電動機によって巻き上げ機を回転させ、インクライン軌道上の船架台車を上り下りさせた。なお、1894年(明治27年)には、
鴨川と琵琶湖疏水の合流地点から京都伏見に至る「鴨川運河」が舟運目的で完成した。
(4) 鴨川運河はその開通時は客船や貨物船による利用が盛んであったが、鉄道輸送の発展などによって1930年代に衰退し、
伏見インクラインの運転は中止 されるに至った。なお、電力需要の増大などにより、1912年(明治45年)に「第二疏水」が完成すると共に、「夷川(えびすがわ)発電所」、
「伏見発電所」が完成した。現在でもこれらの蹴上・夷川・伏見の三つの発電所が稼働している。
蹴上船溜りに建つ案内板には「インクライン運転の仕組み」と題して概略次のように記されている。
「このインクラインは第3トンネルを掘削した土砂を埋め立てて造られた。蹴上船溜から南禅寺船溜までの延長は 約582m。
落差は約36mあるため、この間はどうしても陸送となった。インクラインはレールを4本敷設した複線の傾斜鉄道である。
両船溜に到着した船が旅客や貨物を載せ替えることなく運行できるように考えられたもの。建設当初は、水車の動力でドラム
(巻上機)を回転させ、ワイヤーロープを巻き上げて台車を上下させる設計であったが、蹴上水力発電所の完成により電力使用に
設計変更された。
ドラムは、最初は蹴上船溜にあったが、後に南禅寺船溜北側の建物に移転し改造された。台車を上下させる仕組みは
直径3.6mのドラムを35馬力(25kw)の直流電動機で回転させ、直径約3㎝のワイヤーロープを巻き上げて 運転していた。蹴上船溜の
水中部には直径3.2mの水中滑車を水平に設置していた。また、レールは 当初イギリスから輸入され、軌道中心には直径
約60㎝の縄受車を約9m間隔に設置し、ワイヤーロープが地面に擦れるのを防ぎ円滑に巻き取れるようにしてあった。
ちょうどケーブルカー(鋼索鉄道)のような仕組みで2段変速できるようになっていて、片道の所要時間としては10~15分かかった」。
琵琶湖-京都間の運河(疏水)の開削の経緯、運河の概要、革新的な技術導入、琵琶湖と鴨川との水位差を克服したインクライン
などに触れたが、インクラインについての説明をもう少し続けたい。
蹴上と南禅寺の両船溜のほぼ中間地には船架台車と木造船が展示されるが、この船(三十石船)は琵琶湖疏水で
使用されていた運搬船が復元されたものである。 当時は、鴨川と疏水との間の水位差36mを克服するために、船ごとインクライン
の台車に載せ急坂を昇降させていた。 展示の傍に建つ案内板には、「インクライン (傾斜鉄道)」と題して次のように記されている。
大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物運搬にとって悩みの種であった。琵琶湖から
水を引き、その水路を利用して舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代からの願望として
伝承されてきました。 明治2年(1869年)の東京遷都以降、衰退する京都経済の復興策として京都府3代目知事・北垣国道、
青年技師・田邉朔郎、測量師・嶋田道生ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民の力で明治18年(1885年)、水車動力、
舟運、灌漑、精米水車などの 多目的な効用をはかるため、疏水掘削工事に着工しました。
インクラインは、蹴上船溜や南禅寺船溜に到着した船から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に載せて昇降させる目的で
建設された。 当初蹴上から分水した水車動力 (20馬力、15KW) によって水車場内のウインチ (巻上機) と水中の滑車を回転、
ワイヤーロープで 繫いだ軌道上の台車を上下する構造を考えていた。その後、明治21年(1888年)、田邉技師、高木文平調査委員が訪米し、 アスペン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては我が国初の 蹴上発電所を建設することになった。 この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)、時計会社に1馬力(0.75KW)など産業用、電灯用として活用された。
明治27年(1894年)には伏見区掘詰町までの延長約20㎞の運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疏水を通じて結ばれ、
北陸や近江、 あるいは大阪からの人々や物資往来で大層賑わい、明治44年(1911年)には渡航客約13万人を記録した。しかしながら、
時代の流れで大正4年(1915年)には、京津電車、京阪電車が開通、旅客数が3万人台 に激減したのに加え、国鉄(JR)の方でも
東山トンネルが開通して大正10年に現在の山科駅が開設されたために、京津間の 足としての疏水の機能は実質的に失われることになった。
一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925年)には、史上最高の22万3千トン、一日約150隻を記録した。やがて、陸送化がどんどん進み
昭和26年 (1951年) 9月、砂を積んだ30石船が最後に下り、疏水運河60年の任務を終えた。こうして、琵琶湖疏水・インクラインは
文明開化以降における画期的な京都再生の役割を果たした。平成8年(1996年)6月、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた
遺産として 後世に永く伝えるために形態保存している。
着工: 明治20年(1887年)5月/竣工: 明治23年(1890年)1月/運転開始: 明治24年(1891年)11月 (蹴上発電所営業運転開始)
幅: 約22m/勾配: 10~15分/電動機直流: 440V, 70A/ドラム工場: 南禅寺船溜北側。
大阪・京都の間に立地する茨木市に25歳まで暮らしながら、京都・伏見の街を一度もゆっくり散策したことがなかったが、
「琵琶湖第一疏水」という疏水(水路・人工運河)と舟運を知ってからは、更に興味は広がった。京都から伏見を経て、さらに淀川を通じて
海へと繋がる舟運に大いに興味がそそられた。また、海にも湖にも面しない内陸都市・京都の市内にも幾つか見るべきものがあることに
初めて気付いた。京都市内を流れる鴨川から取水され、かつ鴨川と平行的に流れ下る「高瀬川」も人工運河の一つである。その運河を遡ると
櫓櫂船のための幾つもの「舟入」と呼ばれる船着き場・船溜りがあったことを示す跡がある。
その運河の最北端には、最終の積み降ろし場・船溜まり(一之舟入)がある。
京都市内から伏見まで通じる運河は「角倉了以」によって開削された。かつて、秀吉が伏見に城を築造した頃、その城下町の整備に合わせ
て、宇治川の治水や伏見港の整備が行われた。運河は宇治川を経て淀川に繋がり、大阪湾にいたる。琵琶湖と京都市街地、さらに市街地
と伏見港(いわば京都のため内陸港)とが運河で結ばれ、さらに淀川を通じて大阪湾の海に繋がっている。
旧伏見港近傍にある「三栖閘門資料館」を訪ね、運河と舟運についていろいろ学んだ。その昔高瀬舟、三十石船、過書船などが
淀川水系の舟運を支えた。旧伏見港は大坂~京都を結ぶ中継基地として発展し、明治には蒸気船も大阪・中之島と伏見の間で
往来した。だが、鉄道、道路の発展につれ蒸気船による舟運も次第に衰退して行った。
またある時は、滋賀県の草津市まで足を延ばし「滋賀県立琵琶湖博物館」を訪ねた。同館は琵琶湖とその周辺水系の生態系をいずこの
博物館よりも詳しく丁寧に展示している。さらに、湖西線で琵琶湖最北西端の高島市を経て
敦賀へ出向いた。高島市の塩津と敦賀の間には、鉄道でいえば「北陸トンネル」を擁する山地が横たわる。古くからその山地のなかの
適地にトンネル式人工運河(水路)を開削して、日本海(敦賀)と琵琶湖(塩津)側とを結ぶという構想があった。
福井・滋賀県境にあって両県の分水嶺をなす「深坂峠」の福井県側の山間にある集落・疋田(ひきだ)には「愛発舟川の里展示室」という
資料館がある。同室では、江戸時代に構想された深坂峠下を貫通するトンネル式水路建設概略図などの資料などが陳列される。
江戸時代中期から明治初期にかけての北前船輸送が盛んなりし時代に、極小規模であってもトンネル式運河開削と閘門建設技術、財政力を
もち合わせていれば、日本海~琵琶湖~京都~大阪湾が繫がり、三十石積み船が頻繁に往来していたかもしれない。
とはいえ、殆どの廻船は湖と大河川では帆と艪櫂を利用し、日本海・琵琶湖間の人工運河の要所では多くは櫓櫂と人馬による曳船と
なっていたに違いない。
さて、最近では、2024年に友人と連れ立って琵琶湖北部や福井県および若狭湾(主に京都府)へウォーターフロント散策と歴史文化
施設の探訪に出掛けた。主な訪問先は、九頭竜川河口の北前船寄港地・三国の「みくに龍翔館」( 弁才船「三国丸」の
模型などの北前船関連資料の展示など、また三国港には明治初期にオランダ人が造った「エッセル堤」(重要文化財)がある)。
「北前船主の館・右近家」(福井県南越前町河野)。北前船関連史料の展示もある「福井県立若狭歴史博物館」(小浜市遠敷)。
その他、京都府・舞鶴の「舞鶴引揚記念館」の他、宮津、伊根方面にも足を伸ばした。伊根は。1階が漁船の係留場所で、2階が漁師の住まい
となっている住居が海辺に数百軒へばりついている集落である。その他、琵琶湖北端の湖岸の集落・大浦(長浜市西浅井町)の「北淡海・
丸子船の館」を訪ねた(全長17mの実物の丸子船などを展示する)。それらのエピソードについてはいずれ追記したい。
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