Page Top


    第30章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第3節 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く(その1)


     Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


       第30章・目次
      第1節: 日本国内のウォーターフロント、海洋博物館や海の関連施設を探訪して(総覧)
       [参考資料]国内の旅のリスト(博物館巡覧を含む)
      第2節: 東京・関東地方の海洋関連施設を巡覧する
       [資料編(追記録)]: logchapt30-2shiryou.html
      第3節: 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く(その1)
      第4節: 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く(その2)
      第5節: 地方の海と港、海洋関連施設を訪ね歩く
      第6節: ウォーターフロントや海洋関連施設巡りの「旅と辞典づくり」は続く [作成中/Under Construction]


  2011年3月にJICAから完全に離職したことから、本腰を入れて取り組みたいことが幾つかあった。その1つは、 国内の目ぼしい海洋関連施設・史跡などを巡る旅にもっと時間を割くことをしたかった。 現役時代にはほとんどできなかったことである。また、時間に拘束されないフリーの身の上を最大限に生かして、海洋 関連のシンポジウムや講演会をはじめ、海洋資源開発や海底考古学的遺物発掘などの海にまつわる各種の展覧会にもっと頻繁に 参加して、海の学び直しをしたかった。

  二つ目は、離職して数年後のことであるが、5月の田植えと10月の稲刈りの農繁期に1~2週間ほど大阪・茨木 に帰省して、実家の農事を手伝う傍ら、機会を捉えて大阪をはじめ関西圏の海洋関連施設に足を運ぶことができるようになったことである。 少しでも実家や親せきの役に立ちたいとの思いで手伝い始めたことが、毎年の恒例行事となって行った。 実は、小学6年生の時に父親が交通事故で突然他界した頃から、祖父の兄弟繋がりで親戚関係にある3軒の間で農作業の協働が 始まった。大黒柱がいなくなった我が家を助けるための協働であった。そんな作業がそれ以来半世紀にもわたって連綿と続けられてきた。

  昔の田植えにあってはほとんど全てが手作業であり重労働であった。田んぼを耕し、水を引き込み、農地を均(なら)し、田植え の下準備をするのも大変であったが、苗を手で植えるのも重労働であった。例えば、広さ1反(991平方メートル; 縦横約30メートル) の田んぼに苗を植えるのに5~6人掛りで半日近くかかった。秋には5、6人ほどが総出で刈取りをし、さらに刈り取った稲束を天日 乾燥のための稲木に架ける作業にも半日以上かかった。稲が十分に乾燥できた段階で、さらに半日かけて1反分の稲を脱穀した。 その後樅を持ち帰り、再び庭先で天日乾燥を続けた。そして、別日に脱穀・精米するのにまた半日ほどかかった。 こうして合計10反分ほどの秋の収穫期を乗り越えるのに家族・親戚総出で1か月近くの時間を要していた。。

  だが、最近では農地を大型トラクターで一人耕し均す。田植えも、補助者がいればより効率は上がるものの、昨今では一台の田植え 機で一人で植えてしまう。因みに1反の広さ田んぼにつき、1人で数時間ほどの作業で植え終わってしまう。機械化のお陰で、 殆どの田植えはかつての5、6分の1ほどの農作業に省力化されている。体を酷使することは殆どなくなっている。

  稲刈りについても同様に機械化されている。コンバインでたった一人で一反分を1~2時間で刈込み、同時に脱穀も済ませる。 その後乾燥機に樅を投入し、夜中に自動乾燥しておく。翌日精米機にかけ1、2時間ほどで精米し、 同時に袋詰めも済ませ、いつでも出荷できる状態となる。実質1日で1反分の刈取り・脱穀・精米までやり終える。省力化の見本の ようである。

  それでも、コンバイン・精米機などを3軒で共同所有していることもあり、繁忙期ににおけるそれらの一連の作業 について協働をやり続けてきた。これほどに省力化されてはいるが、農事には人手があった方が助かると思い、毎年恒例のように帰郷しては 手伝ってきた次第である。実質的には人手の「数合わせ」のためと自笑している。

  従って、農事の手伝いと言っても、機械植えのための専用容器に事前に育成された苗をはじめ、肥料などを田んぼまで運ぶのが主な 仕事である。稲刈りでは、コンバインで刈りやすいように田んぼの四隅などを予め手刈りしたり、コンテナ搭載の軽トラックで樅を 運び乾燥機に投入するくらいのことである。翌日には脱穀・精米することになるが、精米機が順調に稼働すれば、一反分を2時間 くらいで精米・袋詰めにし、さらに冷蔵キャビネットに保管できてしまう。昔に比べれば、田植えも稲刈りも想像できないくらいに機械化され、 肉体的には圧倒的に楽になり、特に腰周りへの負荷も大幅に軽減されている。昔の農作業は想像以上に辛いものがあった。田舎の高齢者 は、田畑での腰の酷使のためなのか、腰が随分前かがみになっていることが多い。その訳がよく分かる。

  余談だが、わずか数反の農地所有では、田植え機、トラクター、コンバインや精米機への投資、肥料代、人件費に見合う経済的 リターンは全く期待できるものではない。農業専用地区内の環境を保持するために農業を続けているようなものである。農業放棄すれは 草が茫々と茂り周囲の農地にも悪影響を及ぼすことにつながるからである。とはいえ、最近兄が突然他界し、そんな協働関係を維持 することが難しくなり、さらに親戚のお世話になる破目になってしまった。それ故に、余りに心苦しいので同じ村の知り合いに一部 の田んぼを預けたりして、何とか遣り繰りする状況にある。

  休題閑話。農作業は古来から天候と相談しながらのことである。特に稲刈りのその日の進捗はもろに天候に左右される。雨の日 には作業の中断・中止を余儀なくされる。そんな時には作業服を着替えて、博物館などを日帰りで訪ね歩いたりしてきた。 稲刈り時期に運悪く少し長雨にでもなれば、丸1日あるいは複数日何の農作業もできないこともある。 そんな時のために博物館巡りのための幾つかのプランを温めておくのが常である。雨天は雨天でそれなりに楽しみ様がある。

  さて、大阪府内だけでなく、近隣諸県のウォーターフロントや海洋関連施設を訪ねる多くの機会を得てきた。 大阪、神戸、京都やその少し先まで足を伸ばし、海洋博物館、歴史文化自然系施設をはじめ、琵琶湖疏水(運河)やインクライン施設、 木造の旧い灯台などをアトランダムに訪ね歩いた。雨が降って稲刈に支障があっても、それらの館内見学には何の難儀も生じない。 屋外の史跡であっても、余程の強風下の雨でない限り、傘を傘を差せば済むことであった。「晴耕雨読」ならぬ 「晴耕雨訪」をモットーに探訪した施設・史跡は数多い。

  大阪市内をはじめとする府内や近隣諸県内で訪ねた博物館などのうちで、総体的または部分的に海に関連する歴史文化自然系の 施設についてざっくりと類型化してみると次のようになろう。
・ 総合的な海洋博物館: 海洋・船舶・港湾などに関して総合的に展示する博物館がある。例えば「なにわの海の時空館」(大阪 海洋博物館)、「神戸海洋博物館」、「神戸大学海事科学部 海事博物館」、「神戸築港資料館(ピアしっくす)」など。
・ 社会科学系博物館(歴史・文化関連): 吹田市の「国立民俗学博物館」の他、「大阪歴史博物館」、「堺市立歴史博物館」など。 また、神戸市の「戦没した船と海員の資料館」や「旧海外移住センター」、兵庫県淡路島の「高田屋嘉兵衛顕彰館・歴史文化資料館」、 赤穂市の「市立歴史博物館」。その他、大阪の「住吉大社」境内の古代船のはにわ碑・髙灯籠などの史跡、幕末に勝海舟 も通った「海軍操練所」跡に立つ石碑など。
・ 自然科学系博物館: 「大阪市立自然史博物館」、西宮市の「貝博物館」、滋賀県立「琵琶湖博物館」「市立海洋科学館・塩の国」など。

・ 旧灯台施設関連: 旧堺港の旧堺灯台、神戸市東灘区の大手酒造会社敷地内にある灯台としての常夜灯など。
・ その他、淀川・琵琶湖の舟運関連施設: 京都市内の「琵琶湖疏水博物館」、大津~京都間や京都~伏見間の疏水やインクライン施設、 京都伏見の「三栖閘門資料館」、枚方市の「市立枚方宿鍵屋資料館」、国土交通省淀川河川事務所の「淀川資料館」、京都市街地を 流れる髙瀬川沿いの船溜り史跡、その昔(豊臣秀吉の時代や江戸時代)大坂・伏見・京都市中を結ぶ内陸河川舟運の中継港として栄えた 伏見港跡など。

また、古くから琵琶湖と敦賀(日本海)とを結ぶ運河構想があったが、それとの関連で琵琶湖北西部の滋賀・福井県境 にある「深坂峠」の北側に位置する疋田集落(福井県側)には、「愛発舟川の里展示室」がある。同室では、江戸時代に構想された 、同峠の地中を貫通するトンネル式運河関連の資料などが陳列される。

  さて、府県別に海洋博物館やその他の海洋歴史文化自然関連施設などを手短に俯瞰したい。先ず、大阪府についてであるが、実家は 大阪府茨木市にあるので、大阪市内に出向くことが多かった。だが、農事の手伝いを目的に初めて帰郷した折、真っ先に見学に 赴いた先は、「国立民族学博物館」であった。実家からわずか4㎞ほどの距離にある「万博記念公園」(住所上は吹田市に所在するが、 茨木市との市境に位置する)の中にあり、最も気軽に訪問できる博物館であった。過去3回ほど訪ねた。 世界中の民族・民俗関連の展示物で溢れている。ポリネシアの木組みの海図や、実物の巨大アウトリガーの展示、星座の 目測や波・風などの長期の自然観察に依拠する航法をもって行なわれてきた大洋航海術に関するパネル展示、日本の多種多様な 伝統的漁具の展示など、何度訪ねてもその度新しい発見があり興味は尽きない。

  「大阪海洋博物館」として親しまれた「なにわの海の時空館」。大阪湾を見渡せる大阪市住之江区南港洲地区に立地する。 博物館は、総ガラス張りの巨大な半球形ドームが海に浮かんでいるように見える、奇抜・独創的なデザインの海洋構造物である。 本土陸地側から幻想的なイルミネーションが施された海底トンネルを通って、ドーム型の海上構造物の本館へと誘われる。 入館すると最初に、実物大の巨大な千石船(弁財船・べざいせん)の「浪華丸」が迎えてくれる。可能な限り当時の材料と工法で 復元されたという。江戸時代に大坂から江戸へ物資を運んだ千石積みの「菱垣廻船(ひがきかいせん)」であるが、江戸時代の 「樽(たる)廻船」とともに、大坂・江戸間を往来した定期船でもある。その復元船の他、構造図・部材、和船の船大工用具、「浪華丸」 に用いられた「松右衛門帆」、北前船用滑車 、各種の船磁石、いろいろな和船絵図なども展示される。

  大阪城の近くに「大阪歴史博物館」がある。そこに2種類の船形埴輪が展示される。数多く発掘される埴輪の中でも、 船形のものは非常に珍しい。大阪市平野区の「長原遺跡・高廻り(たかまわり) 1、2号墳」で発掘された古墳時代中期(4世紀末~ 5世紀初)の埴輪である。その説明書きによれば、 船形埴輪は5世紀前半の例が多く、いずれもが船底に丸木舟を用い、舷側に板材 を組み合わせた準構造船となっていた。そして、 船の両端が二股に分かれる「二体成形船」(高廻り2号墳例)の埴輪と、船底の突出 をなくした「一体成形船」(高廻り1号墳例)の埴輪とが存在した。因みに、「なにわの海の時空館」のエントランスビル正面の屋外 広場には、その埴輪をベースにして復元された古代船「なみはや」が展示される。

  大阪は古来から難波(なにわ)と称され、その難波は瀬戸内海の海路の発着点であった。だが、西日本地域だけでなく、 朝鮮半島や中国大陸からさまざまな人や物が難波の地に集まった。 また、「上町 (うえまち) 台地」(現在の大阪城のすぐ南側に 広がる台状の地形)の東側には「草香江(くさかえ)」と呼ばれた波穏やかな水域が広がり、難波は水上交通の要として繁栄していた。 高廻り古墳群の船形埴輪はそれを象徴するものである。1989年は大阪市が成立して100年を記念して、高廻り2号墳から見つかった 埴輪を基に、古墳時代の木造古代船「なみはや」が建造されたことは既述の通りである。そして、大阪から韓国・釜山までの実験 航海が行なわれたことも紹介されている。

  ところで、「なにわの海の時空館」内にはその他に様々な展示がなされている。例えば、
・ 遣唐使の出港想像図の展示。7~8世紀の難波は大陸文化の窓口であった。難波を出航した7~8世紀の遣隋使・遣唐使は22回、 遣新羅使は32回に及んだ。また、海外からの使者も、隋・唐から10回、新羅からは66回も来着した。難波津には外交施設である「客館 (むろつみ)」も立ち並んでいた。難波の湊の発展なども解説される。
・ 海洋航海・探検の歴史。船の発展を時系列に示す模式図。
・ 「海のシルクロード」の歴史と、世界との海上交易の歩み。

・ 実物大の船首像、例えば、日本丸、海王丸、サグレス号(ポルトガル)、エスメラルダ号(チリ)、リベルター号(アルゼンチン) などの国家を代表する帆船のフィギュアヘッドのレプリカ。実物の櫓櫂船。
・ 古代から近世・近現代に至るまでの港の発展史。古代の航路(7~9世紀頃)、奈良時代の「難波津(なにわづ)」、江戸時代の町を あげての川浚え(浚渫)、江戸時代の主要な航路(東廻り航路など)と北前船が運んだニシンや海産物などの特産品、 北前船・菱垣廻船についての解説(上方~江戸間航路 江戸時代の廻船の仕組みなど)、築港による発展(第一次大阪港築堤工事など)。
・ 船や大阪港の発達史。大阪港は、港の整備と産業の近代化により、昭和14年(1939年)には日本一の取扱貿易量を誇った。 「世界に活躍する大阪商船(株)」のポスター。日本と北米、NY、南米、欧州などとの間で定期航路をもつ大阪商船の活躍などを示すもの。

・ 「海御座船(うみござぶね)」(「御召関船(おめしせきぶね)」)とは、江戸時代の将軍・大名が所有した関船の一つで、 特に豪華に 装飾された航海用の船。御座船の系譜・図面や航海についての説明。参勤交代の大名を乗せた御座船、その他大小の和船などについて、 パネルで紹介する。
・ 「川御座船(かわござぶね)」。航海用の「海御座船」に対して、河川専用の将軍・大名の豪華な御座船。
・ その他、葦船、ジャンク、アラブ・ダウ船、カラック船など多数の船模型。ボトルシップ。

  また、大阪湾に流れ出る淀川やその河口域に発展してきた「大坂港」の発展史をさまざまなパネルとジオラマをもって 紹介する。江戸末期の大坂みなと図、江戸末期に沢山の千石船で賑わう淀川河口付近の「大坂湊」のジオラマ、澪標の解説、住吉大社の 高灯籠(たかどうろう)(高灯籠は常夜灯であり、航路の目標となっていた)の模型、現在の大阪港周辺図などが展示される。

  その他、帆走の仕組みについて、風向きと帆との位置関係を示す図式を用いて解説される。ヨットは風が吹いて来る方角に向かって、 即ち風に逆らってどこまで進めるか。いくら何でも風にまともに逆らっては進めない。しかし、風向きに対して30度くらいの方角に向けて、 風に逆らいながら進むことはできる。斜め方向にジグザグを繰り返して進むことで、逆風の中を前進できる。風向き、帆の角度、 ヨットの進む方向について、子供たちにも分かりやすく説明している。

  航海術は大航海時代以降どのように発展してきたか、その発達についても解説する。大洋を航海する船乗りにとっての最大の 関心事の一つは、地球上における自船の正確な位置であり、 自船の進む方角と距離であった。それを知るためのさまざまな器具が 発明されてきた。それは、星などの高度を測る器具であり、船脚を測る道具(測程器、パテントログなど)、経過時間を知るための 時計など(砂時計、クロノメーターなど)である。

  方角を知る磁石、羅針盤は言うに及ばず、「海の時空館」では、多くの航海用具・計器が展示され、 それらの発展の歴史や仕組みに関する図解式説明や、「天球と星の運動」の図式などを通じて多くを学ぶことができる。 例えば、クロノメーター(航海中の気温変化にも正確な時間を表わすための仕組みは、現在の機械式時計にも受け継がれている)の他、 トラバースボード、ノクターナル、クロススタッフ、バックスタッフ、セクスタント(六分儀)、オクタントなどの航海用具の原理を知り、 さらにその幾つかの使い方を体験できるように工夫されている。

  「海の時空館」ではまた幾つかの著名な世界の古地図が紹介されている。「プトレマイオスの世界図」ではまだアフリカ大陸の南端・ 喜望峰を回航できる図にはなっていない。「ヘンリックス・マルテルスの世界図」ではまだ太平洋の記載はない。 「カンティーノの世界図」にも太平洋はなさそうである。紅海はその名の通りまさに赤く塗られている。 「パティスタ・アグネスの世界図」では、南北アメリカ大陸が鮮明に描かれ、太平洋も描かれている。

  「海の時空館」を訪問する際には、大抵安治川河口の「天保山(てんぽうざん)」にも足を運んだ。昨今にあっては、かつて関西汽船 による瀬戸内海航路の運航が絶頂期にあった頃の面影は殆ど残されていない。今では再開発されモダンとなったウォーターフロントに 近代的な水族館「海遊館」やショッピングモールなどが立ち並び、人々を楽しませてくれる。近傍にある「天保山公園」の入り口 には、江戸時代に天保山の海辺風景を描いた4、5枚の浮世絵のタイル製レリーフが壁面に飾られている。公園隅には「日本一低い山 ・天保山」の碑が建つ。江戸時代、安治川河口の浚渫などを行なった際の土砂を積み上げたもので、そこには三角基準点が設置されている。

  ところで、「なにわの時空館」は2000年に開館した近代的で総合的な海洋博物館であったが、2013年3月に閉館となった。 閉館が取沙汰されていることを知ってからも3度ほど訪ねた。大阪市の財政が持ちこたえられず、わずか13年の歴史に幕を閉じた ことは残念でならない。東京の「船の科学館」もほぼ同じ運命を辿りつつあった。

  時には趣向を変えて、淀川水系の舟運との関わり合いが深い大阪中之島のウォーターフロントにある「八軒家浜 (はちけんやはま)」を訪れた。「八軒家浜」には古くから船着き場があり大いに賑わっていた。 淀川の上流部を顧みると、京都市街地またはその近傍を流れ下る鴨川・桂川が、京都・大阪府境辺り (大山崎) で 宇治川や木津川と合流して大河川となる。それが現在の淀川(新淀川)である。

  その淀川から分岐した「大川 (旧淀川)」 が、八軒家浜や中之島を経て、安治川となって大阪湾に注ぎ出る。家浜のリバーサイド には、 雁木(船荷を揚げ降ろしするための水辺の階段)が復元されている。安治川川口の突端にあるのが「天保山」である。 1950~70年代の日本の高度経済成長期には瀬戸内海において数多くの定期客船航路を運航していた関西汽船の乗降桟橋があったところである。

  再開発された中之島近傍の八軒家浜のウォーターフロントには、その昔大阪~京都間の舟運のために利用された船着き場が 再現され、そこに常夜灯が建つ。その台座には浜の歴史について記されている。7~8世紀頃この辺りに「難波津」があり、遣隋使・ 遣唐使がここから旅立った。明治以降に交通手段が陸上へと移るまでは、この辺りは水上交通のターミナルとして賑わっていた。 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」 や司馬遼太郎の「竜馬がゆく」、浪花節「森の石松三十石船」にも八軒家が登場する。

  「八軒家」は、中世以来、京都~大坂を結ぶ淀川の河川交通の起点であり、旅人や運送関係者で大いに賑わった。 11~15世紀頃のこと、現在の「天神橋」(八軒家浜の下流数百メートルにある)付近は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれ、港として 熊野参詣に利用されていた。そのため、「熊野古道」(ユネスコ世界遺産登録される)の起点として有名であった。 熊野古道には 幾つものルートがあって、特に紀伊路、中辺路においては渡辺津から熊野三山までの間に百ヵ所近くの熊野権現を祭祀した九十九王子 があった。

  また、江戸時代のこと、八軒家浜には「三十石船(さんじゅっこくぶね)」をはじめ、野崎参 (のざきまいり)や金毘羅参 (こん ぴらまいり) のためのさまざまな船が発着し、淀川流域の船着場として随一の賑わいを見せていた。三十石船は、 八軒家と京・ 伏見との間の11里余り(約45㎞)を、枚方 (ひらかた) を経て上り一日・下り半日で運航し、江戸時代を通じて貨客 輸送の中心を担っていた。

  さて、1870年(明治3年)に蒸気汽船が就航すると、三十石船は衰退して行き、明治期に入って浜の風景は一変した。 両舷に外輪推進器をつけた「川蒸気」(いわゆる外輪蒸気船)が黒煙をもくもくと吐きながら、大川(現在にいう旧淀川、または 土佐堀川)を行き来した。川蒸気は大阪・京都をも結んで運航されるようになった。だが、1910年(明治43年)に京阪電気鉄道が 天満橋~京都五条間に開通したこともあって、八軒家浜は淀川舟運の貨客輸送ターミナルとしての役目を終えることになった。

  ところで、時改めて大阪城近くにある「大阪歴史博物館」を何度か訪ねた。古代における「難波津」の港と舟運、江戸時代における 淀川河口周辺や淀川水系における舟運発展の歴史を学べる。同博物館には、江戸時代後期(天保期)の頃、航海安全を祈って神社に 奉納された北前船模型が展示されている。北前船とは、江戸時代後期から明治30年代にかけて北海道をはじめとする日本海沿岸の港と 大坂の間を往復し、さまざまな物資を売買しながら航海した商船である。大坂に魚肥や昆布などをもたらし、その経済的発展を支えた。

  同博物館では、「安治川口(あじかわくち)」と呼ばれた河川港において、菱垣廻船と小舟との間で船荷を積み下ろしする情景を 表わすジオラマを展示している。また、安治川河口突端の天保山地先水域の澪筋(みおすじ) を通って、安治川口から遡って行く 多くの菱垣廻船の遡上風景を描いた図絵を見ることができる。説明パネルには、「安治川口: 大坂に諸国から大きな船で運ばれてきた さまざまな物資は、河口からさかのぼった安治川口や木津川口(きづかわぐち)の港で小さな船に積み替えられ市中に向かった。 川沿いには船宿などが建ち並び、船頭や荷物の積み下ろしをする人々などで賑わった」と記されている。

  繰り返しになるが、琵琶湖などに源を発する淀川は、現在ではその本流がそのまま「新淀川」となって大阪湾に注ぎ込む。 他方、大阪市内の北区・天神橋辺りで「大川」が本流から枝分かれしている。その大川こそが旧淀川(かつての淀川本流)である。 現在では大川は中之島を経て安治川となって大阪湾に注ぎ込むが、その突端にあるのが天保山のある「築港」地区である。かつて 大阪湾に向かって突き出す長大の桟橋が築かれていた。1903年(明治36年)7月に竣工された。桟橋の幅員は22メートル、長さ455 メートルにも及んだ。港湾施設であったが、魚釣りなど庶民のリクレーション の場としても賑わったという。同博物館では、1925年 (大正14年)頃の築港大桟橋風景の写真を見ることができる。

  時改めて、堺市の「市立博物館」を訪ねた。南蛮船が堺の港に出入りした頃の歴史をも紹介する。堺港近傍には古い 六角柱の木造の「旧堺灯台」が建つ。1877年(明治10年)に建設され、現存する洋式の木造灯台としては最古である。その帰途、大阪市 東住吉区長居公園内に立地する「大阪自然博物館」に立ち寄った。クジラの全身骨格標本の他数多くの魚類剥製標本や、淀川河口周辺の 生態系などの自然環境について各種模型とパネルでもって詳細に紹介している。

  また、別日には、大阪市内の住吉神社に出向いた。境内には寄進された巨大な灯籠、船絵馬、遣隋使船と難波津を描いた絵図、大阪市内で 出土した船形埴輪を模して建造された船「なみはや」を模した埴輪記念碑を見ることができる。大阪湾に通じる神社参道の中ほどには、 その昔堺港に出入りする船が頼りにした、見上げるような髙塔の灯籠が建つ。


このページのトップに戻る /Back to the Pagetop.


    第30章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第3節 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く(その1)


     Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


       第30章・目次
      第1節: 日本国内のウォーターフロント、海洋博物館や海の関連施設を探訪して(総覧)
       [参考資料]国内の旅のリスト(博物館巡覧を含む)
      第2節: 東京・関東地方の海洋関連施設を巡覧する
       [資料編(追記録)]: logchapt30-2shiryou.html
      第3節: 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く(その1)
      第4節: 大阪・神戸・関西地方の海洋関連施設を巡り歩く(その2)
      第5節: 地方の海と港、海洋関連施設を訪ね歩く
      第6節: ウォーターフロントや海洋関連施設巡りの「旅と辞典づくり」は続く [作成中/Under Construction]