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    大阪商船「あるぜんちな丸」。
    ブラジル・サントス港湾博物館
    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2節 家族との船旅は船乗りへの夢を育む原点であった


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     第1章・目次
      第1節: 船乗りへの夢を追いかけた少年と神戸商船大学長との出会い
      第2節: 家族との船旅は船乗りへの夢を育む原点であった
      第3節: 父の突然の他界で生活は激変、商船高専諦め普通高校へ進学
      第4節: 神戸商船大学の受験ならず、船乗りへの夢消える




  少年時代から海や船が大好きであった。大好きであることに理由などは要らないと思うが、果たしてどうなのであろうか。 過去をたどっても一度たりとも、そのことに自問自答したことなどなかった。ところで、2011年(平成23年)3月、62歳にして国際協力機構 (JICA)から完全にリタイアしてからは、「海洋総合辞典」づくりに没頭できるようになった。 時に過去のことを思い起こし、エピソードなども綴るようになった。そして、大好きであったことの背景などをあれこれ思い巡らせ、自問自答する 機会も増えた。後付けの理由ということではないが、海や船に心を奪われ、大好きになって行ったいくつかの背景を思い起こした。 明々白々とした背景ではないが、それしか思い当たらないので、そのことを綴ってみたい。

  先の太平洋戦争終焉後暫くして、連合軍総司令部(GHQ)によって被せられていた日本の海運界への重しと呪縛が解き放たれた。 1950年代には日本商船隊は飛躍的な復興を遂げつつあった。そして、世界中の海に日の丸の旗を掲げた外航船がどんどん就役し、 海上運輸において活躍するようになって行った。その中に南米移民船として就航していた 大阪商船の「ぶらじる丸」や「あるぜんちな丸」があった。両船は姉妹船であり、私的には惚れ惚れするような、流線型にして華麗な 「脚線美」をもつ貨客船であった。船乗りの夢を追いかける一少年にとっては、まさに航海士としてブリッジに立つことに憧れを 抱かせるに十分な外国航路船であった。

  日本が誇るそんな船で、「水の階段」である閘門を昇り降りしていつしかパナマ運河を通過し、さらにクレブラカットと称される 有名な狭水路を通過したかった。カリブ海を横切り、アマゾン川河口の港町ベレン、コーヒーの積出港として名高いサントス港、 さらに世界三大美港の一つと詠われるリオ・デ・ジャネイロ港、更に南下してタンゴの国アルゼンチンのブエノス・アイレス港へ と航海してみたいと一心に憧れていた。

  パナマ運河を出て北へ針路を取り、「自由の女神像」が立ち、エンパイア・ステートビルをはじめとする超高層ビルの摩天楼が そびえるニューヨークへと航海してみたいと、その夢は尽きることがなかった。マンハッタン島南端部の両岸には数え切れないほどの 突堤が櫛の歯の如く張り出していた。当時の港景を写す空撮写真には、大西洋横断の豪華定期客船がそんな埠頭を埋め尽くす光景が 写し出されていた。いつしかそんな埠頭に接岸し、ホーサーを岸壁のクリートに固縛して、時にマドロス姿でブロードウェイなど を闊歩してみたいと思い描いていた。

  ところで、家族はみんな旅することが大好きであった。少年の頃、恐らく小学生3,4年生の頃に経験した船旅が記憶に残る 最初のものであった。祖父母と兄の4人で大阪から四国へ渡った時のことである。関西汽船で大阪港の天保山から夜行便で、紀淡海峡を経て徳島の 南西80kmほどにある甲ノ浦(かんのうら/現・東洋町)へ海渡した。当時港がまともに整備されていなかったのか、船は陸岸には 接舷できなかった。5,6百トンの客船が着岸できる桟橋もないようであった。未だ夜の明けない真っ暗闇の中を、小型 のポンポン船で岸まで送り届けられた。何故だか、当時のそんな情景が薄っすらと脳内スクリーンに映し出される。その後ボンネット型の路線バスに乗り込み、未舗装 のでこぼこ道を何時間か揺られて室戸岬へと向かった。室戸岬灯台を目に焼き付けた後、再びバスに揺られて高知へと旅した。不思議にも 、桂が浜に立つ坂本龍馬像を見上げたことを記憶に留めている。これが生まれて初めての船旅体験であった。

  海や船への特別な思いがこの船旅をきっかけに芽ばえたという訳でない。とはいえ、田舎育ちで、船に乗ったことのない私には 印象深いものであった。当時甲ノ浦は明かりもろくに灯っておらず、ほとんど真っ暗闇の状態にあった。岸沿いにほんぽんと街灯 が灯っていたと思うが、まるで灯火管制が敷かれているかのようにも見えた。ろくに明かりもないこんな辺ぴな片田舎の港に船は ピンポイントできっちり辿り着けるものだと、子ども心に痛く関心したことを妙に憶えている。

  その後の少年期においても家族と何度か船旅で出た。船旅と言えば関西汽船の船とほぼ決まっていた。同汽船のほとんどの客船は 瀬戸内海での行き来であった。小学校の5、6年生ともなれば、いろいろ家庭の事情も理解できたし、また船旅の楽しさや何ともいえない海の 開放感をストレートに味わうことができた。 父が関西汽船の株式を少し保有していたことは当時でも十分理解していた。当時株主への配当はもっぱら乗船優待券であった。 それをもって乗船切符を買うことがほとんどであった。株式の保有はその優待券を目当てにしたものと、子ども心に理解していた。父親は 大阪・天保山から四国や九州方面への旅行の足代が助かるものと買い求めていたに違いない。

  父母と兄の家族4人で、また時には親戚家族と一緒に船旅をすることもあった。家族との最も思い出深い旅は大阪から九州・ 別府や阿蘇山へのそれであった。昭和35年(1960年)の小学校6年生の夏休みに、家族4人で別府へ船旅した。関西汽船の船体の 特徴は緑と白のツートンカラーで彩られていた。シンプルだが美しい色合いをしており、ツートンのバランスもよかった。さて、 別府航路は遠距離ルートなので、関西汽船でも最も大型の客船を就航させていたが、それに初めて乗船することになった。私には それはそれで大興奮の出来事であった。

関西汽船「くれない丸」
  乗船時のクラスは例外なく普通二等船室で、そこには大空間が広がっていた。ビルでいえば地下一階に押し込められるクラスであった。 船側には丸窓が並んでいて、まだ最下層でも船底でもないと安心できた。窓から外を覗き込むと間近に海面が迫り、手が届きそうであった。船客は 一方の舷から他舷へと、2つの狭い通路をまたぐことで行き来できた。二等クラスのそんな大部屋で雑魚寝することがほとんどであった。

  家族旅行は大抵は我々子供らの夏休み期間中だった。大部屋はいつも混雑していて、雑魚寝するにも先ずその場所取りに一苦労 することが多かった。長蛇の列の最後尾に並んだりすると、乗船するのに出遅れてしまい、陣取りがうまくいかなかった。母親が ボーイさんにチップをそっと手渡しして、親子4人が何とか足を伸ばして横になれるくらいのスペースを確保してもらうことも 度々であった。横になれば舶用ディーゼルエンジンの振動がリズミカルに床から伝わって来た。 気にもならなかった。振動は船がしっかりとした足取りで順調に航海していることの証くらいに思っていた。だが、それにしても 当時の船の振動音はかなりうるさかった。

  我々子どもは甲板に出たり船内をあちこち動き回ることが多かった。神戸港に立ち寄った後、明石海峡を通過する頃には、明石の街明かりを眺めるためにデッキに 駆け上がった。深夜に高松港の浮き桟橋に接岸するとか、松山の外港である高浜港に着岸するだの、間もなく名高い狭水道の「来島海峡」 を通過するだの、何かはしゃぎ回る理由を見つけては、甲板へと駆け上がった。寝苦しく感じると、デッキに出て吹き抜ける潮風に 涼むことも多かった。船首の水切りによって泡立った白波がどんどん後方へ流れ去る。飽きもせずそんな泡立つ白波を後方へと、首を左右にゆっくり振りながら 見送り続けたものである。首も振るのもいい加減疲れてくると、自然とそれを止めた。だが、暫くしてまた流れを追いかけた。

  別府港に上陸後すぐに日豊本線の列車に飛び乗り、水郷の町・日田へ急いだ。九州の地でも当然のごとく、列車は蒸気機関車に引 かれていた。さらに路線バスで湯煙が立ち昇る杖立温泉郷へと向かった。 渓谷にばりつくような温泉郷であった。清流が清々しい音を奏でながら流れていた。その岩場の淀みで兄と一緒に筏遊びをした。兄は中学2年生であった。 翌日には、再び路線バスで深い渓谷の谷底をはうようにして進んだ。谷が深いために、陽光はまだまだ車内には届いていなかった。 両岸には杉や檜などが鬱蒼と茂り、バスは薄暗い谷間を砂埃を巻き上げ ながら疾走した。大観峰からの阿蘇山と大カルデラ地形の雄大な景色を目に焼き付けた。その後、バスは阿蘇山の草千里を縫うように駆け上がり、 展望台を目指した。そこから徒歩で、噴煙を立ち上げる火口を見下ろすために急いだ。火口の縁沿いに足をすくませながらたどった。 火口の遥か下方にある地球の裂け目を覗き込んだ。身体が宙に浮いて吸い込まれそうであった。観るべきものは観たという訳で、 直ぐに下山した。そして阿蘇駅から汽車に飛び乗り別府へと急いだ。別府航路の深夜便に間に合わせるためであった。

  別府から乗船した便は何と「くれない丸」であった。往路では在来船であったが、復路では違った。この乗船機会がいつの日かやって来ようと ずっと心待ちにしていた、3,000トン級の最新鋭の「くれない丸」であった。同船は姉妹船の「むらさき丸」とともに、当時、関西汽船では最新鋭にして 大型豪華客船であった。両船とも、後部最上甲板に円筒形のガラス張りの展望塔が突き出てていた。展望塔の階下には豪華ラウンジがあった。 そこには快適なソファやテーブル、止まり木風の椅子が設備され、そこでカクテルなども楽しめた。当時としてはそんな洒落たラウンジ 設備は大人気であった。翌朝に神戸港の中突堤で下船した。桟橋から何度もくれない丸を見上げ、その優美な「彼女」をバックに何枚かの写真を忘れず 切り撮った。

  家族とともに、その他小豆島や高松航路などの船旅を何度か楽しむうちに、自然と海や船への憧れを育み、船乗りになりたいという思いが芽生えたでのあろう。 「くれない丸」に乗船した小6の頃には、船乗りへの強い憧れと夢を抱いていることをはっきりと自覚するようになっていた。 かくして、間もなくやって来た神戸商船大学長との出会いは、そんな思いをさらに大きく膨らませることになった。

  今にして振り返れば、子ども心に何となく、農村社会や田舎暮らしの息苦しさを感じていた。村での昔ながらの因習やしきたりに縛られ 、子供ながらに煩わしく感じていた。自身が村の伝統や因習の重圧や束縛に直接的にがんじがらめになっていた訳ではないが、だが元々 都会育ちであった母親を見ていると、村のしきたりや風習、村人や親戚との濃密な付き合い、義理人情の村社会に耐え忍び、 苦労しているように感じていた。

  翻って、船乗りになれば、そんな田舎での因習や社会的束縛、煩わしさから離れ、自由な世界に 雄飛できると思い込んでいたのかもしれない。船乗りへの憧れや夢はそんな深層心理の裏返しで増幅されたものであったかもしれないと、 今になって思う。断じることはできないが、田舎暮らしの圧迫感がそんな深層心理を形づくった背景としてあったに違いない。

  海を通じて世界中の国々や人々とつながっている。船乗りになれば世界中の異国に行くことができる。そして世界中の異文化や人々と触れ合うことも できると純粋に思い込んだ。それはそれで船乗りへの憧れを抱かせたもう一つの重要な背景であった。そんな諸々の背景について はっきりとした自覚も持ち合わせず、船乗りへの道を進むことを固く決意だけはしていた。そして、その進路の先にある未来は 前途洋々であると思い込んでいた。



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    第2節 家族との船旅は船乗りへの夢を育む原点であった


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