1961年(昭和36年)1月26日の真冬のことであった。遅い夕食を終えた頃に、居間でやけに大きな電話音が鳴り響いた。その電話連絡に家族
全員が凍りついた。祖父・清一と母・敏子は着の身着のまま、とにかく砂利道4㎞の道のりを急ぎ、病院へと駆けつけた。小学6年生
であった私は何することもできず、いつものように祖母・ヨリが用意してくれた豆炭入りのこたつを足元に潜ませて床に就いた。真夜中になって、
中学二年生の兄に叩き起こされた。兄は自分の自転車を漕ぎ、私は従叔父(いとこおじ; 父の年下の従弟)の自転車の後部荷台に
乗せてもらい、病院に急いだ。雪が降りしきる寒々しい夜であった。真っ暗闇の中を自転車の
発電式ライトだけを頼りに、従叔父は必死に漕ぎ続けた。当時は市街地までまだひどい砂利道のままで、路肩に盛り上がった砂利
に車輪が取られ、よたよたと進んだ。
父・茂男は、市役所にほど近い小さな病院の入り口ホール脇の待合室の床にマットレスが敷かれ、その上に布団がセットされて
寝かされていた。激痛で暴れに暴れる父を大人4,5人で必死に抑え込むためで、ベッドでは邪魔になるだけでとても抑え込めなかった、
と後で聞かされた。何故か大人たちはみんな無言であった。父の枕元に座っていた母は、私を
見て枕元に招き寄せ、「まだ温かいよ」といいながら、私の手を布団の中へ差し入れた。父の上腕辺りに触れてみると、まだ温かみがあった。
その時になってようやく事情を呑み込めた。父は既に息を引き取っていたのだ。父の頭と顔には包帯がぐるぐるに巻かれていて、誰だか分からない
くらい痛ましかった。
父が毎日通勤に乗っていたバイク(単車ともいわれていた)は当時「スーパーカブ」という愛称で親しまれ、一般庶民の足
として人気があった。夜運転して帰宅途上にあった父の単車が大型ミキサー車の最後部へ
激突したという。我われ家族が住む安威村へ通じる府道(茨木から京都府亀岡市へ通じている)と、国道171号線との交差点の、少し市街地寄りに
ある緩やかなカーブのところで、そのミキサー車は無灯火で駐車していたという。単車はミキサー車の後部車体の下にすっぽりと潜り込み、
父の上半身がまともにその車体に激突した、と後で聞かされた。
家族にとってこれ以上の悲劇はなかった。悲劇的出来事はこうして突然襲いかかってくることを初めて体験した。私が中学校に入学する
2か月前のことであった。家族4人そろって別府・杖立温泉経由で阿蘇山へ旅し、憧れの「くれない丸」へ乗船できた、あの楽しかった夏の日々からわずか半年
しか経っていなかった。神戸商船大学へ祖父と共に招かれたのは、父の他界後4か月ほど経ってのことであった。
こうして一家の大黒柱を突如失ってしまった。父は茨木市役所に奉職していた。地方公務員としての父の給金が途絶えるのは時間の問題であった。
祖父はその当時、世帯主を息子の茂男に譲り渡し、割りと若くして「隠居」暮らしをしていた。だが、「現役復帰」する他選択肢はなかった。我々子
どもが高校か大学を卒業して社会で働けるようになるまでは、まだ5年から10年も先のことであった。5人家族が生計を立てていくには、
家族全員が必死に力を合わせ野良で百姓仕事を精一杯こなす他に選択肢はなかった。わずかな田畑ではあったが、そこで米と野菜を
作ることができたので、飢え死にすることは免れそうではあった。
食べることについては何とかなったとしても、果たしてどれだけの現金収入が得られるか。近い将来覆い被さってくる子ども2人の
教育費は馬鹿にならなかった。二人は未だ全くの子どもゆえ、先々の生活不安に深刻に病むような重圧はかからなかった。だが、祖父母や母には
半端のない重圧がのしかかり、発狂しそうであったに違いない。とにかく、
家族の生活状況や家計はその後激変した。失意のままいつまでも茫然と立ち尽くしている訳にはいかなかった。
実はその事故は週末に起こった。たまたま台風が関西を通過したために、父は臨時に市役所へ駆けつけていた。事故はその帰宅途上
で起きたものであった。それ故に、労災保険が認められることになったのは唯一の救いであった。
とはいえ、葬儀が終われば、厳しい現実を乗り越えて行かねばならなかった。
ずっと後のことであるが、母親がひと言漏らしたことがあった。母は祖父から人生の大きな選択を迫られ、断腸の思いで覚悟を決めた
という。子ども2人を引き連れて実家に戻り、そこで当面居候をすることにするのか。それとも、嫁ぎ先である中内家に残って、百姓仕事を一から始め、
祖父母らと生計を共にし、子供を育てて行くのか。都会育ちの母親は百姓仕事は全くの未経験であった。他方、母の実家には高齢の父親、兄夫婦と大学生や
高校生の子ども3人がいた。その実家に身を寄せても、居心地は良いはずもなく、うまくやっていけるかどうかは全くの未知数であり、
大きな賭けであったに違いない。二つの家族が遠慮や仲たがいをしながら、貧しくひもじい生活を余儀なくされるか、あるいは共倒れ
になるかもしれなかった。
母は清水の舞台から飛び降りた。母の決断は、夫に代わり中内家を継ぎ、祖父母と共に3人でずっと百姓仕事で生計を立てて行くという
ことであった。青果市場へ商品として出荷するに堪えうるような野菜を育てることができるのか、それはどれほどの労苦を伴うことなのか。
母がそのことに悩み過ぎたとすれば、早々にそんな決断はできなかったはずである。むしろ、先々百姓仕事でどれほどの労苦を
背負い込むことになるのか、考えている余裕などなかったに違いない。実家に戻るは辛い人生、残るもまた辛い人生、その狭間で母は子どもの
将来を第一に見据えて、後者を選択したはずである。救いは、母は根性が座っているというか、とにかく負けん気が強く、気丈夫で
あったことである。時に父と大喧嘩をすることもあったが、たとえ涙を溜めてもいつも徹底抗戦を貫き、負けて引き下がるような
ことは滅多になかった。
私は、父が他界した1961年(昭和36年)の4月から、茨木市街中心部にある市立養精中学校に通った。中学生時代をひと言でいえば、
「雨にも、風にも、雪にも負けず、4㎞の砂利道を自転車で通学し、田畑に出てしっかり農事を手伝いながら、勉学に励みてなおも船乗りへの夢を追いかけた」
ということである。ひどい雨の日も大雪の日も、強風が吹こうが、真夏の炎天下であろうと、3年間めったなことで休むこともなく
通いに通いつめた。中学校の終業ベルが鳴り終わるや否や、兄も私も一目散に家路に就いた。何の部活もしなかった。兄も同じであった。二人には仲間と部活をするほどの余裕はとても
なかった。
農作業の手伝いについて言えば、できることは何でもした。「手伝いが楽しい」という思いを一度も抱くことはなかった。だが、
「辛くて嫌だ」という思いも一度も抱くことはなかった。農事から逃げ出すことなどありえなかった。農事を真剣に手伝い祖父母
や母を助けることは、二人の息子が背負った運命そのものであった。子どもであってもできる仕事を
こなしていかねば、生計は立ち行かない、と十分認識していた。農事を手伝えば手伝うほど、祖父母や母がわずかでも楽になるはずであった。
口には出さなかったが、子どもながらそんな思いで少しは家を支えていた。
残された家族が最初に乗り切らねばならなかったのは、父の4か月後にやってきた田植えであった。牛で田んぼを耕すこともした。牛は畦の草を
食べようと真っ直ぐ進もうとしない。私は牛の鼻輪をもって無理やり力づくで直進させようとした。だが、牛に振り切られ仕方なく草を
食べさせたこともしばしばであった。その後、オモチャのような一馬力程度の耕耘機で田んぼを耕し、土を均し、水を引き込み田植えの
準備をした。季節ごとのいろいろな野菜を植えるために畑を耕し、数え切れないほどの畝を作った。そこに野菜の種を播いたり、苗を移植したりした。施肥はもちろんのこと、
水を運ん来ては苗に潅水せねばならなかった。除草や畝そのものの手入れもあった。
収穫や出荷作業は朝暗いうちから始めることが多かったが、午後の4時や5時頃も多かった。学校から帰宅後カバンを放り投げ、収穫のため畑に向かうのが日課であった。そして、
その日の夜のうちに町の中央卸売市場へもち込み、少しでも良い値を付けて競り落してもらえるよう野菜を見栄えよく並べた。
トマト、キュウリなどを箱詰めにしたり、ホウレンソウやネギは消費者が買い易いように束ねてロットにして出荷した。栽培した
野菜は何十種にも及んだ。初期の頃は自転車の後方にリヤカーを取り付け、4㎞先の市街地の青果卸売市場へ運び込んだ。
その運搬は母と子供2人にとって重労働であった。その後、耕耘機にトレーラーを取り付けて運ぶようになった。それによって、肉体的に随分楽することができ、
ありがたかった。とにかく、季節ごとに年中休む暇なく多種多様な野菜を育て、出荷し、生活費と学費を稼ぐことに真剣に向き合った。
出荷の売り上げが雀の涙くらいにしかならない時もあり、労働に全く見合わない現金収入にショックを受けたこともあった。
田んぼや畑でやる仕事は季節に応じて何だかんだと湧き上って来た。農作業が最も繁忙期になるのは、もちろん5、6月の田植えや10月期の稲刈り
の頃であった。村のはずれを流れる安威川や、裏山の裾野に点在する溜池から、農業用灌漑水が用水路を伝って流れて来る。その用水をさらに
各戸の田んぼへと引き込む。引水の時期は村の農業役員によって決められる。その時期に合わせて田植えのすべての段取りを遅延なく進めなくてはならなかった。
田植えは人海戦術で、腰をかがめて朝から晩まで素手で植える。他方、10月の収穫では、天候を見定めながら、素手で刈り取り、束に縛り、稲木に架けて
天日干しにする。それから脱穀作業があり、さらに精米作業が待ち受ける。脱穀も精米も、かつてより少しはパワーアップした数馬力の
耕耘機をうまく動力源に仕立て上げて遣り繰りした。
ところで、忘れてはならないことが一つある。同じ集落に暮らす親戚2軒が田植えと稲刈りの農作業を手伝ってくれた。繁忙期には親戚
3軒が総出ですべての農作業を協働してこなすことになった。祖父は同じ村の吉田家の出自であり、その長男であった。だが、事情で中内家へ養子に出されてしまった。
吉田家は祖父の実弟が継いでいた。祖父の妹は同じ村の塚家に嫁いでいた。兄・弟・妹とその息子たち(亡父からすれば従弟らに当たる)
の3軒の家族が、繁忙期には全ての労働力を出し合い、田植えや稲刈りのすべてを協働してくれた。
親戚の大人たちが集まればいつも10数人にもなり、田んぼでの農作業は賑やかにして活気に溢れていた。寄り添ってくれたお陰で我が家は孤立せず、
孤独感を抱くことは全くなかった。希望喪失に陥ることなく、いつもそれなりに明るく過ごすことができた。最も意義深かったのは、
3軒の協働が一過性でなく、毎年継続したことである。繁忙期の農作業におけるそんな協働は
1961年の5月以来ずっと長く、私たち息子の代になるまでも続き、優に40年以上の時を経てきた。協働は我々中内家の精神的な支えとなってきた。今から
思えば驚くほど長きにわたる助け合い精神と伝統を築き上げてきたものである。
この3軒の親戚同士の協働は、2014年頃には事情で解消されたが、その後中内・吉田家2軒での協働が何年か続けられた
(実兄が2017年6月に突然他界して以降、その協働は少し形を変えていったが、曲がりなりにも続いている)。祖父から母の代へ、さらに
我々息子・孫の代へと時代は変遷しても、わが家にとっては、この長年の寄り添いへの恩を決して忘れることはない。
中内家には何物にも換え難い希望の灯明であった。当初の困窮時に親戚2軒が寄り添ってくれていなければ、わが家はどうなっていたことか。没落の憂き目
に陥っていたかもしれない。救いの手を差し伸べ続けてくれた親戚の恩は海よりもはるかに深いものであった。
さて、母は、真冬の農閑期には和裁の技術を活かして、和服の仕立て直しの内職をして、少しでも現金収入を得ようと努力した。
農事でこき使った手の甲は、冬場になればしもやけで赤く膨れ上っていた。まるでお餅を焼いて膨らませたようであった。
そこに酷いあかぎれを患い、痛々しかった。そんな手で和服の布地を扱うのは大変だと時々愚痴をこぼしていた。
日が落ちる頃には、五右衛門風呂に水をはり、藁と薪を燃やして風呂を沸かすのが当時中学・高校生であった私に課せられていた
もう一つの役目であった。夕食後には、宿題を片付け、教科書とにらめっこをして予習や復習に励んだ。
船乗りになる夢を実現するために国立の商船高校に進学したいというのであれば、勉学に励む他なかった。商船大学を目指すのであれば
なおさらのことであった。先ずは商船高校を目指していた。勉学の時間は限られていたので、何よりも学習に専心集中することを第一に心掛けた。
ずっと後のことになるが、通算して年間5、6か月も田んぼに出て実際の農作業に従事すると、農業協同組合の組合員として正式に
加入することが認められた。学生にもかかわらず、農地を売買する資格の他、農協から融資を受けられる資格も付与されるまでになっていた。
農作業にそれほど従事していたことの証といえた。母は後に語っていたが、片親であるために、子どもがぐれて不良少年になってし
まうことを最も恐れていたという。兄もそうだが、祖父と母が、日がとっくに暮れるまで土まみれになって必死に働き、
子どもを何とか養育しようともがいていた。その後ろ姿をいつも見ていた。だから、ぐれて不良少年になれるはずもなかった。
船乗り、ましてや外国航路船の船乗りや航海士を目指すなら、商船高校であろうと商船大学であろうが、学業をしっかり修めること
なくして夢は実現しえず、という自覚だけは十分あった。中学3年生になっても、神戸商船大学長とは文通を続け、
船乗りへの志を「宣言」し、夢を追い続けていた。私にとっては、小谷学長はいわば父親のような存在であり、また夢に向かって
前に進む勇気を与えてくれる存在でもあった。「母子家庭」という生活環境にめげることなく、将来への志
を胸に学業に励むことができた。だが、その頃には、広島県弓削や三重県鳥羽にある商船高校に進むべきか、それとも府下の普通校に
進学するべきか、進路に思い悩んでいた。
結局いろいろ思い悩んだ末、商船高校を受験しなかった。家族の一人が土地を離れて4、5年も寄宿舎生活をしてしまうと、残された家族への
農作業負担は大きくなるのは目に見えていた。働き手が一人欠けることの大変さは身をもって分かっていたつもりである。
結局土地を離れることを先送りにした。
それに、もう一つ別の大きな理由があった。受験するにも身体的にはチビのままであったことから、
受験に課される厳格な身体検査において篩にかけられ落とされてしまう懸念が多分にあった。学長には普通高校へ進学するとの思いと、将来商船大学
を目指し頑張りたい旨報告した。そして事実、商船高校を受験せず普通高校へ進学することにした。
運よく大阪府立春日丘高校(普通科)に入学できた。中学校と同じく、市街中心部にある地元の高校である。
1964年(昭和39年)は「東京オリンピック」の開催年であった。その年の4月から、再び市街中心部へ自転車で通った。農事も兄と共に、これまで
と変わらず、手伝いを何でもした。公立高校ゆえに授業料はずっと安く、家計的に大いに助かった。しかも、大阪府から交通遺児らの
ための「母子家庭向け特別奨学資金」を3年間も授受できることになった。授業料のほとんどをカバーすることができ、実にありがたかった。
兄も府立の高校に通っていたので、同様に授業料は随分安上りとなり、家計はダブルで助かっていた。
さて、1960年代初めから中頃にかけてなおも、大阪商船の「あるぜんちな丸」や「ぶらじる丸」が南米移民船として、日本人移住青年や家族らを送り届けるべく
南米航路で活躍していた。岸壁に別れの五色のテープが華やかに舞うなか日本を後にして出航する移民船の雄姿がテレビ画面にしばしば
映し出されていた。それを見ながら、神戸商船大学への進学に熱く燃え、決意を新たに高校生活を送り始めていた。この頃には高度経済
成長の恩恵が我が家にもひたひたと及んでいた。だから、人並みに、青春時代の第一ステージとしての高校生活を謳歌できそうであった。
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