Page Top


    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第3節 父の突然の他界で生活は激変、商船高専諦め普通高校へ進学


              Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


     第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
      第1節: 船乗りへの夢を駆り立てた神戸商船大学長との出会い
      第2節: 家族との船旅は船乗りへの夢を育む原点であった
      第3節: 父の突然の他界で生活は激変、商船高専諦め普通高校へ進学する
      第4節: 神戸商船大学の受験ならず、船乗りへの夢消える

     第1章 | 第2章 | 第3章 | 第4章 | 第5章




  昭和36年(1961年)1月26日の真冬であった。遅い夕食後のこと、一本の電話が居間で鳴り響いた。その電話連絡に家族全員が凍りついた。 祖父清一と母敏子は着の身着のまま、とにかく砂利道の4㎞を急ぎ、病院へと駆けつけた。その後、小6であった私は、何することもできず、いつもの ように祖母のヨリが用意してくれた炭団入りのこたつを足元に置いて床に就いた。真夜中になって、中学二年の兄に叩き起こされた。兄は自分の 自転車を漕ぎ、私は従叔父の自転車の後部荷台に乗せてもらい、病院に急いだ。雪が降りしきる寒々しい夜であった。真っ暗闇の中を自転車の 発電式ライトだけを頼りに、従叔父は必死に漕ぎ続けた。当時は市街地までまだひどい砂利道のままで、車輪のタイヤが砂利の轍に取られ、 よたよたと進んだ。

  父茂男は、病院の入り口ホール脇の待合室の床に置かれたマットレスの上に布団を敷いて寝かされていた。激痛で暴れに暴れるのを抑え込む ためであった。ベッドではとても抑え込めなかった、と後で聞かされた。何故か大人たちはみんな無言であった。父の枕元に座っていた母は、私を 見て枕元に招き寄せ、「まだ温かいよ」といいながら、私の手を布団の中へ差し入れた。父の上腕辺りに触れてみると、まだ温かみがあった。 その時になってようやく事情を呑み込めた。父は既に息を引き取っていたのだ。父の頭と顔には包帯がぐるぐるに巻かれていて、誰だか分からない くらい痛ましかった。

  父が通勤に毎日乗っていた単車は当時「スーパーカブ」という愛称で親しまれ、一般庶民の足として人気があった。夜運転して帰宅途上にあった 父の単車が大型ミキサー車の後部へ 激突したという。自宅のある安威村へ通じる府道と国道171号線との交差点の、少し市街地寄りにある緩やかなカーブのところで、そのミキサー車は 無燈で駐車していた。単車はミキサー車の後部車体下に潜り込み、父の上半身がまともにその車体に激突したと、後で聞かされた。 家族にとっての悲劇はこうして突然降りかかってきた。私が中学校に入学する2か月前の出来事であった。 家族4人そろって別府や阿蘇山へ旅し、憧れの「くれない丸」へ乗船できた、あの楽しかった夏休みからわずか半年ほどしか経っていなかった。 商船大学学長に出逢ったのはその半年後のことである。

  一家の大黒柱を突如失ってしまった。父は茨木市役所に奉職していた。地方公務員としての父の給金が途絶えるのは時間の問題であった。 祖父はその当時、世帯主を息子の茂男に譲り渡し、若くして「ご隠居」のような暮らしをしていた。だが、「現役復帰」する他選択肢はなかった。我々子 どもが高校か大学を卒業して社会で働くようになるまでは、まだ5年から10年もあった。5人家族が生計を立てていくには、家族全員が必死に力を 合わせ、野良で百姓仕事をこなす他に選択肢はなかった。わずかな田畑ではあったが、そこで米と野菜を作ることができたので、 飢え死にすることは免れそうであった。

  食うことは何とかできても、果たしてどれだけの現金収入が得られるか。近い将来における子ども2人の教育費はばかにならなかった。 子どもには先々の生活不安を心配する重圧はなかったが、祖父母や母にはその重圧は半端なくのしかかり、発狂しそうであったに違いない。 家族の生活状況と家計はその後激変した。だが、いつまでも失意のまま茫然と立ち尽くしている訳にはいかなかった。実はその事故は週末に起こった。 だが、台風通過のため父は臨時に出勤していて、その帰宅途上にあった。それ故に、労災保険が認められることになったのは唯一の救いであった。 とはいえ、葬儀後の厳しい現実を乗り越えて行かねばならなかった。

  ずっと後のことであるが、母親がひと言もらしたことがあった。母は祖父から人生の大きな選択を迫られ、断腸の思いで決断し覚悟を決めた という。子ども2人を引き連れて実家に戻り、居候をすることにするのか。それとも、嫁ぎ先である中内家に残って、百姓仕事を一から始め、 祖父母らと生計を共にし、子供を育てて行くのか。都会育ちの母親は百姓仕事は全くの未経験であった。他方、母の実家には高齢の父親、兄夫婦と大学生や 高校生の子ども3人がいた。その実家に身を寄せても、居心地は良いはずもなく、うまくやっていけるか大いに心配なところがあったに違いない。 二家族の全員が仲たがいしながら貧しくひもじい生活を余儀なくされるか、共倒れになるかもしれなかった。

  母は清水の舞台から飛び降りた。母の決断は中内家に残り、祖父母と共に3人で百姓仕事で生計を立てて行くということであった。 青果市場へ商品として出荷するに堪えるような野菜を作ることができるのか、それはどれほど苦労を伴うことなか。母がそれを深刻に悩んだと すれば、そんな決断はできなかったかもしれない。先々の百姓仕事の苦労などを考えている余裕などはなかったに違いない。 母は今後生涯にわたり百姓で生計をたて、夫に代わり中内家を継ぐという覚悟を決めた。実家に戻るも辛い人生、残るも辛い人生、その狭間で母は子どもの 将来を第一に見据えて、後者を選択した。救いは、母はとにかく負けん気が強く、気丈夫であったことである。母は祖父や父と家中で時に大喧嘩 をすることもあったが、徹底抗戦を貫き負けてはいなかった。

  私は1961年(昭和36年)4月から茨木の市街中心部にある市立養精中学校に通った。中学生時代をひと言でいえば、「雨にも風にも、 雪にも負けず、4㎞の砂利道を自転車で通学し、田畑に出てしっかり農事を手伝いながら、勉学に励みてなおも船乗りへの夢を追いかける」 ということであった。ひどい雨の日も大雪の日も、強風が吹こうが、炎天の真夏日であろうが、3年間めったなことで休むことなく通いに通った。中学校の終業ベル が鳴り終わるや否や、兄も私も一目散に家路に就いた。何の部活もしなかった。兄も同じであった。二人には仲間と部活をするほどの余裕はとても なかった。

  農作業の手伝いについて言えば、できることは何でもした。手伝いが楽しいという思いを一度も抱くことはなかった。だがしかし、「辛くて嫌だ」という思いも 一度もなかった。農事から逃げ出すことなどありえなかった。農事を真剣に手伝い祖父母や母親を助けることは、二人の息子が背負った運命そのものであった。子どもであってもできる仕事を こなしていかねば、生計は立ち行かない、と十二分に認識していた。農事を手伝えば手伝うほど、祖父母や母がわずかでも楽になるはずだった。 口には出さなかったが、そんな思いが兄弟二人を支えていた。

  残された家族が最初に乗り切らねばならなかったのは、父の数か月後にやってきた田植えであった。牛で田んぼを耕すこともした。牛は畦の草を 食べようと真っ直ぐ進もうとしない。私は牛の鼻輪をもって無理やり力づくで直進させようとした。だが、牛に振り切られ仕方なく草を 食べさせたこともしばしばであった。その後、オモチャのような一馬力程度の耕耘機で田んぼを耕し、土を均し、水を引き込み田植えの準備をした。 畑を耕し季節ごとのいろいろな野菜を植えるための畝もたくさん作った。そこに野菜の種を播いたり、苗を移植したりした。施肥はもちろんのこと、 水を運ん来ては苗に潅水せねばならなかった。除草や畝そのものの手入れもあった。

  収穫や出荷作業は午後の4,5時頃が多かった。学校から帰宅後カバンを放り投げ、収穫のため畑に向かうのが日課であった。そして、 その日の夜のうちに市場へもち込み、競り用の商品として並べた。競りで少しでも良い値を付けてもらえるよう、野菜を見栄えよく箱詰めにしたり、買いやすい ように束ねてロットにして出荷した。栽培した野菜は何10種類にも及んだ。初期の頃は自転車の後ろにリヤカーを取り付け、4㎞先の市場へ運び込んだ。 その運搬は母と子供2人にとって重労働であった。その後、耕耘機にリヤカーを取り付けて運ぶようになった。それで、肉体的に随分と楽をすることができ、 ありがたかった。とにかく、季節ごとに年中休む暇なく多種多様な野菜を育て、出荷し、生活費と学費などを稼ぐことに真剣に向き合った。

  田んぼや畑でやる仕事は季節に応じて何だかんだと湧きあがって来た。農作業が最も繁忙期になるのは、もちろん6月期の田植えや10月期の稲刈り の頃であった。村のはずれを流れる安威川や、裏山の裾に点在する溜池から農業用灌漑水が用水路を伝って流されて来る。その用水をさらに 各戸の田んぼへと引き込む。引水の時期は村で決められている。その時期に合わせて田植のすべての段取りを遅延なく進めなくてはならなかった。 田植は人海戦術で、腰をかがめて朝から晩まで素手で植える。他方、10月の収穫では、天候を見定めながら、素手で刈り取り、束に縛り稲木に架けて 天日干しにする。それから脱穀作業があり、さらに精米作業が待ち受ける。脱穀も精米も数馬力の耕耘機をうまく動力源にしたてて行った。

  ところで、忘れてはならないことが一つある。同じ村落に暮らす親戚2軒が田植と稲刈りの農作業を手伝ってくれた。繁忙期には親戚3軒が総出で 農作業をすべて協働してこなした。祖父は同じ村の吉田家の出自であり、その長男であった。だが、事情で中内家へ養子に出されてしまった。 吉田家は祖父の実弟が継いでいた。祖父の妹は同じ村の塚家に嫁いでいた。兄・弟・妹とその息子たち(亡父からすれば従兄弟に当たる)の3軒の家族 が、繁忙期には全ての労働力を出し合い、田植や稲刈りのすべてを協働してくれたのである。

  親戚の大人たちが集まればいつも10数人にもなり、田んぼでの農作業も賑やかとなり活気に溢れていた。寄り添ってくれたお陰で我が家は孤立せず、 孤独感を抱くこともなかった。希望喪失に陥ることなく、何よりも明るく過ごすことができた。最も意義深かったのは、3軒の協働が一過性でなく、 毎年継続したことである。農作業でお互いに助け合うという、そんな協働は 1961年の5月以来私の孫の代になっても続き、ゆうに40年以上も経てきた。我々中内家の精神的な支えとなってきた。今から思えば驚くばかりの 長く良き慣行となっていた。この3軒の親戚同士の協働は、具体的には2014年頃には事情で解消されたが、その後2軒での協働が数年続けられた (実兄が2017年6月に突然他界した時に、その協働は終わってしまった)。祖父から母の代へ、さらに我々孫の代へと時代は変遷しても、 わが家にとっては、この長年の寄り添いへの恩を決して忘れることはない。 中内家には何にも換え難い灯明であった。当初の困窮時に親戚2軒が寄り添ってくれていなければ、わが家はどうなっていたことか。没落の憂き目 に陥っていたかもしれない。救いの手を差し伸べ続けてくれた親戚の恩は海よりも深いものであった。

  母は、真冬の農閑期には和裁の技術を活かして、和服の仕立て直しの内職をして、少しでも現金収入を得ようと努力した。 農事でこき使った手の甲は、冬場になれば赤く膨れ上っていた。まるでお餅を焼いて膨らんだかのようであった。 そこに酷いあかぎれを患い、痛々しかった。そんな手で和服の布地を扱うのは大変だと時に愚痴をこぼしていた。

  日が落ちる頃には、湯船に水をはり、藁と薪を燃やして風呂を沸かすのが私に課せられたもう一つの役目であった。 湯船は五右衛門風呂であった。夕食後には、宿題を片付け、教科書とにらめっこをして予習や復習に励んだ。 船乗りになる夢を実現するために、国立の商船高等専門学校に進学したいのであれば、勉学に励む他なかった。商船大学を目指すのであれば なおさらであったが、先ずは高専を目指していた。勉学の時間は限られていたので、真剣に向き合い集中することを心掛ける他なかった。

  ずっと後の事になるが、通算して年間5、6か月も実際の農作業に従事すると、農協の組合員へ加入することが認められた。 学生にもかかわらず、農地を売買する資格のみならず、農協から融資を受けられる資格も持ち合わせた。農業にそれほど従事していたことの 証なのであろう。母は後に語っていたが、片親であるために、子どもがぐれて不良少年になってしまうことを最も恐れていたという。 兄もそうだが、祖父母と母が土まみれになって必死に働き、子どもを何とか養育しようとする後ろ姿をいつも見ていた。 ぐれて不良少年になれるはずもなかった。

  船乗り、ましてや外国航路船の航海士や船長を目指すなら、商船高専であろうと商船大学であろうが、学業をしっかり修めること なくして夢は実現しえず、という自覚だけは十分あった。中学三年生になっても、神戸商船大学長とは文通を続け、船乗りへの志を「宣言」し 夢を追いかけ続けていた。夢に向かって前に進む勇気をもらえる存在であった。「母子家庭」という生活環境にめげることなく、将来への志 を胸に学業に励むことができた。だが、その頃には、広島県の弓削や三重県の鳥羽にある商船高専に進むべきか、それとも府下の普通校に 進学するか、進路に思い悩んでいた。

  結局いろいろ思い悩んだ末、商船高専を受験しなかった。家族の一人が土地を離れて4、5年も寄宿舎生活をしてしまうと、残された家族への 農作業負担は大きくなるのは目に見えていた。働き手が一人欠けることの大変さは身をもって分かっていたつもりである。 結局土地を離れることを先送りにした。それに、もう一つ別の大きな理由があった。受験するにも身体的にはチビのままであったことから、 受験の身体検査では篩に落とされてしまう懸念が多分にあった。学長には普通高校へ進学するとの思いと、将来商船大学を目指し頑張りたい旨 報告をした。そして商船高専学校を受験せず普通高校へ進学する

  運よく大阪府立春日丘高校(普通科)に入学できた。中学校と同じく、市街中心部にある地元の高校である。 1964年(昭和39年)は東京オリンピックの開催年であった。その年の4月から、再び市街へ自転車で通った。農事も兄と共に、これまで と変わらず、手伝いを何でもした。公立高校ゆえに授業料はずっと安く、家計的に大いに助かった。しかも、大阪府から交通遺児らのための「母子 家庭向け特別奨学資金」を3年間ももらえることになった。授業料をほとんどカバーでき、実にありがたかった。 兄も府立の高校に通っていたので、同様に授業料も私立高校に比べれば随分安く、家計はダブルで助かっていた。

  「あるぜんちな丸」や「ぶらじる丸」が当時なおも南米移民船として日本人移住青年や家族らを乗せて南米航路に就いていた。 岸壁に別れの五色のテープが華やかに舞うなか日本を後にして出帆する移民船がテレビ画面に映し出されていた。それを見ながら、神戸商船大学 への進学に熱く燃え、決意を新たに高校生活を送ることになる、青春時代真っ最中の自分がそこにいた。



このページのトップに戻る /Back to the Pagetop.



    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第3節 父の突然の他界で生活は激変、商船高専諦め普通高校へ進学


              Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


     第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
      第1節: 船乗りへの夢を駆り立てた神戸商船大学長との出会い
      第2節: 家族との船旅は船乗りへの夢を育む原点であった
      第3節: 父の突然の他界で生活は激変、商船高専諦め普通高校へ進学する
      第4節: 神戸商船大学の受験ならず、船乗りへの夢消える

     第1章 | 第2章 | 第3章 | 第4章 | 第5章