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    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第4節 神戸商船大学の受験かなわず、船乗りへの夢消え去る


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       第1章・目次
        第1節: 船乗りへの夢を追いかけた少年と神戸商船大学長との出会い
        第2節: 家族との船旅は船乗りへの夢を育む原点であった
        第3節: 父の突然の他界で生活は激変、商船高校を諦め普通高校へ進学する
        第4節: 神戸商船大学の受験かなわず、船乗りへの夢消え去る




  大阪府立春日丘高校に通い出した1964年といえば、「東京オリンピック」が開催された年である。日本は高度経済成長期の 真っ只中にあった。世間の一般家庭だけでなく、我家のような農家で、かつ母子家庭でさえ、そんな高度経済成長の 果実に預かれそうな勢いを感じ取れる世であった。かつて中学時代の頃にあっては農作業の手伝いが最優先であり、部活などは 思いもよらなかった。だが、世の中は「龍が天にも昇る」が如きの勢いをもって、成長の高みへとひたすら突き進みつつある時代であった。 高校に入学する頃には、我が家の家計にも多少の余裕が感じられた。私も、そんな時代の潮流と雰囲気に背中を押されたかのように、 高校入学後間もなくして部活に参加するようになった。

  自らの意思で柔道部の門をくぐった。航海士になるには身長などの身体条件を満たす必要があった。少年の頃からチビでコン プレックスもあった。思うように身長が伸びないことが、その頃から抱えていた悩みであった。高校生の伸び盛りの時に何とかできないものかと思っていた。 また、商船大学を目指すならば、心身ともに鍛錬して、できうれば身長を伸ばしておかなければと、かつて中学時代にはできなかった体育会系の部活を始めた。 部活で心身を鍛錬すること、それは全て商船大学の受験に合格し夢を実現するためであった。

  鍛錬によって身長も多少促成的に伸びるものと期待していた。ところが、事もあろうに何か月か後に、バーベルでの練習中に左肩の関節を脱臼して しまった。脱臼が癖になってしまうのではないかという恐怖心を抱きつつ部活を続けた。だがそれより何よりも、日頃の柔道練習は 正直いってきつかった。部活を続ければ少しずつでも慣れて多少は楽になるだろうと耐えていた。だが、期待は裏切られ、だんだんと 耐え切れなくなりつつあった。そして、ついに自分自身に負けてしまった。自分でも実に腑甲斐無く情けなかったが、誰にも相談 することなく退部を決意した。自ら下した決断であったこととはいえ、人生で初めて悔しい挫折感を味わった。

  時がかなり経った頃のこと、気を取り直してサッカー部の門をたたき入部した。再起を期して自己鍛錬への再挑戦であった。 サッカーの練習もやはりきつかった。先輩にしごかれもしたが、同輩らと慰め励まし合った。個人戦の柔道と違って、サッカーは チームプレーである。チームが強くなり勝つために、部員全員が一丸となって同じ一つのボールを追いかけながら、自身を鍛錬するというのが良かった。 鍛錬が苦しくとも、前回の苦い教訓を思い出し、自身を励まし、必死に耐え続けた。半年くらいは耐えに耐えた。だが、またも自身 に負けてしまい、ついに退部届を出してしまった。柔道、サッカー、いずれも「やり抜く」ことはできず、1年に2回の「挫折」となった。 何か心に傷を負ってしまったようで、このトラウマを払拭するのにその後何年ももがくことになった。

  余談だが、脱臼は恐れていた通り全く酷い癖となってしまった。スポーツが好きで、大人になってもスキー、野球、サッカー、 テニス、水泳などいろいろ楽しんだ。だが、運動には常に脱臼がつきまとい、その後10年以上も悩まされ続けた。何かスポーツをする度に いとも簡単に脱臼に襲われた。その度に人知れず一人もがきながら、何十秒かのうちに脱臼した左上腕を何とか元の鞘に納めていた。 脱臼の修復に手間取ると痛みはどんどん増幅され、自身で元に修復するのが困難となり、更に悶え苦しむはめになる。時間が経つと、それに 比例して元の鞘におさまった瞬間の痛みは半端ではなかった。

  随分後の話になるが、アルゼンチンに赴任していた1985年頃に最悪を迎えた。仲間と草サッカーをしていた時、転倒して脱臼を起こしてしまった。 それから5,6日経ったある夜のこと、寝ていると、肩甲骨の軟骨がボロボロと、はっきりと自身の耳に聞こえるほど大きな音を 立てて崩れ落ちた。翌日激痛が襲い腕が全く上がらなってしまった。軟骨が乾燥し崩れ落ちたのだと思った。それからは自我流で 半年以上かけてリハビリに励んだ。その結果ようやく完治することができた。当時、マニュアル式自動車の運転をずっと片手でこなした。 アルゼンチンでは左ハンドルであったので、右腕だけでの運転で何とかやり過ごせた。以来、再び脱臼をすることへの恐怖心は 半端でなく、「二度と起こせない」と好きなスポーツからすっかり遠ざかるようになってしまった。 それ以来40年近く脱臼から解放されてきた。

  さて、部活から二度も脱落した私は、身心の鍛錬を部活に求めることを諦め、田んぼや畑仕事に精を出した。農作業はそれなりに心身を養う のにつながった。それとともに、商船大学を目指して勉学に一層真剣に向き合い励む毎日となった。高校3年生ともなればいよいよ 商船大学への願書の提出をどうするか、決断の日が迫ってきた。願書提出期限はまだ先のことではあったが、身体検査のことが日に 日に気になり出していた。高校生活を送るうちに徐々に視力の低下を招き、黒板の文字も教室の後方からではかなり見えづらく なっていた。それに、実のところ身長も伸び悩んでいた。

  受験時の実際の身体検査において身長や裸眼視力の条件は本当に満たすことができるのか、不安に駆られていた。身長が半年に何センチも伸びる はずもなかった。自分ではそれなりにどういう結末を迎えることになるのか、薄々分かっていた。だが、結論をずっと先延ばしにしていた。 かくして、決断すべきタイミングはすぐそこまで 迫ってきた。そして、ある日のこと、「身体条件を満たすことはできず、筆記試験へ進むのは無理だ」と、ついに自己審判を下さざるをえなかった。 悲しすぎる決断の一日であった。幼少の頃からの船乗りへの夢が無惨にも破れ去った日であった。自身を慰め、これも運命と言い 聞かせる他なかった。人生の苦渋の選択に直面し、そう簡単には心の整理はつけられなかった。

  神戸商船大学の学長小谷信一氏はその頃定年退官され、鳥羽商船高校の校長として転職されていた。商船大受験を諦めることを手紙で報告した。 学長から「船乗りだけが人生ではない」、再出発するようにとの励ましの返事をいただいた。 「外国航路の船乗りにあれほど憧れていたのに」と思うと、悔しい気持ちがこみ上げるばかりであった。 人生の進むべき方向をいつも自身に指し示してくれていたコンパスの針をもぎ取られてしまったようで、「漂流船」で大海を彷徨うこととなってしまった。

  今にして思い起こせば、船乗りへの道を諦めるに至ったにしても、海に関わり海とともに歩み続けられる別の道を何故に模索しなかった のか、不思議に思うことがある。海や船がそれほど好きだというのであれば、海洋学や漁業学、あるいは造船工学など、海に関わる 何らかの自然科学や工学を扱う研究者などを目指すという着想や選択肢はなかったのか。航海士にならなくとも、時に調査船に海洋学などの 研究者として乗り込み、海を舞台にした研究活動を楽しむ道もあったはずである。だがしかし、何故か全く思いもつかず、それを 目指すこともなかった。振り返れば全く不思議なことであった。

  日本国内外には海洋や水産関連の研究機関が多くある。海洋・水産の研究だけでなく、海運会社での船舶運航、水産会社での漁船 への操業支援など、海に関わり海を友にする多くの職業があったはずである。 何故か、思い描けなかった。船乗り以外の別の海の仕事を選択するというアイデアは頭の片隅にもなかった。船乗りに なって自身で船を操ることしか脳裏にはなかった。それ以外は全く眼中にないという、恐ろしいほどに思考の柔軟性を欠いていたようである。 今になってそのことを猛省するばかりである。いずれにせよ、青春時代の真っ只中にあって積年の夢は破れ去った。ではこれから何を 目指すのか、直ぐに切り替えができる訳もなかった。暫くは思考停止状態となり、クラゲの如く大海を漂流するほかなかった。

  いろいろ悩んだ末、目指す方向を「転針」させた。東京の大学を目指すことにした。商船大学を諦め、いずれの大学を受験するのか、 それがさし迫った大テーマであった。当時、受験ビジネス・教育関連の出版を専門にしていた「旺文社」が、ラジオの深夜番組として、 受験生や一般社会人向けに「百万人の英語」という語学講座を放送していた。何故か番組終了直前にエンディング・ソングのように 東京六大学の校歌や応援歌を流していた。その影響もあってのことであるが、大学受験は慶応か早稲田とすることをほぼ決めていた。

  熱心に聴いていたもう一つのラジオ番組があった。日本航空がスポンサーで、城卓也がナレーターを務める「ジェット・ストリーム」であった。 世界のムード音楽を流しながら、アメリカやヨーロッパへの空の旅に視聴者を誘うという深夜番組であった。幼少年の頃から異国の文化に 触れることに一種の憧れを抱いていた私を、アメリカやヨーロッパの異国の世界へと誘ってくれた。心地よいムード音楽とナレーション を寝つけ薬にしながら、床に就くのが毎夜のことであった。

  「百万人の英語」と「ジェット・ストリーム」に大いに心を感化されたのであろう。東京という大都会と早慶をめざし、そしてその 先にある世界の異文化に強烈に憧れるようになっていた。船乗りになって世界の異文化を体験することは叶わなかったが、別の道を たどって目指すことにした。田舎を飛び出して、心機一転したかった。東京に出て、新たな環境の下で異国世界を目指そうとした。

  大阪や関西から、そして田舎からの「脱出」と言えなくもなかった。早稲田か慶応を卒業した後、得意の英語を活かして、 海外で働ける可能性の高い総合商社や航空会社などに就職し、世界へと雄飛したかった。世界のいろいろな異文化と向き合いながら、 世界を舞台に自己実現を図ることを目指そうとした。 船乗りは諦めたが、異文化に向き合うことへの憧れは、幼少期の頃からずっと心の片隅で生き続けていた。東京に勉学の居場所を求め、 東京を起点に世界異文化との接点を模索することにした。

  かくして、早稲田と慶応を受験した。夜行の急行列車に8時間ほど揺られ一人上京した。「自由が丘」の駅前にある純和風の安旅館 に投宿し、翌日東横線で慶応の日吉キャンパスに出向き、受験した。受験は文学部の英文学科を志望した。その後再度上京して、今度は早稲田の社会学部を受験した。 いずれもキャンパス内の臨時設営ブースで料金前払いをして、合否電報を受け取れるよう手配した。早稲田から神田川、目白、竹橋など 足の向くまま彷徨い歩き、最後は目的地・の東京駅に辿り着いた。その後、夜行列車で帰阪の途に就いた。

  早慶どちらに合格しても良かった。部活としては応援団に入部して、神宮球場のスタンドで早慶戦の先頭に立って声援したかった。 他愛もないそんな動機も頭の片隅にあった。さて、先ず慶応から、次いで早稲田から合格電報を受け取った。東京での学生生活の 準備をはじめだすと、高揚感がどんどん膨らんで行った。

  だがしかし、母親の一言であっさりと目が覚めた。そして地元関西の大学も受験することにした。早慶受験に熱を上げていた頃、母から「関西の大学も受験したら どうか」と、珍しく何度もしつこく問いかけられた。関西での大学受験には全く関心がなく、受験の素振りを全く見せなかった。 振り返れば、それは母の真意を呑み込めなかったことの証でもあった。それとも理解しようとしなかったのか。母が余りに何度も問いかけるので、 母を安心させるために受験だけはしておこうと、願書をしたためた。その大学はどこでもよかった。合格しても通うことはないだろうと、 かなりいい加減であった。通学には一時間圏内にあるのが好ましいので、関西大学の法学部と社会学部を受験することにした。 両部に合格することができた。「関大で何を学び、何をしたいのか」、その先の志と目的意識もないままの合格であった。 弁護士を目指す強い意欲がある訳ではなく、母の「法科は潰しが効く」との一言を受け入れたもので、法学部を第一希望にした。

  早慶への入学費などを払い込む期限が刻々と迫っていた。母親はやむなく私に本心を打ち明けざるをえなくなった。そう覚悟した のであろう。ある晩のこと夜なべ仕事をしながら、母親は「東京での学費や下宿代などの生活費を仕送る余裕がない」と、私に聞き取れるように、はっきりと 独り言をつぶやいた。「下宿代・生活費はアルバイトして稼ぐから早慶に行きたい。入学費と学費の半分だけでも、何とかならないか」と、 切り返せなかった。それを言えばまた母を深く悩ませ、心労が襲いかかるに間違いない、と内心思った。

  あっさりと、関大法学部で学ぶ決断をした。母子家庭でありながら、息子二人が私立の大学に通うことなど、分不相応のそしりを 免れようもなかった。大学に通えること、それだけでも感謝してもし尽くせないはずのものであった。仕送りの経済的負担もさることながら、 男一人の働き手がなくなることも、母には同じくらい心労の種であったはずである。

  因習の強い村において親戚2軒にこれまでずっと寄り添ってもらいながら、いくら勉学のためとはいえ、一方で息子を上京させ、 他方で親戚から救いの手を差し伸べ続けてもらうことは、いかがなものか。母からすれば親戚に言い訳もたたず、全く顔向けが できなかったであろう。 この上なく後ろめたく感じることになっていたことであろう。「恩を仇で返すのか」と、堪えがたい陰口を叩かれるという思いが母にあった に違いない。現に母が他界した後になって当時を思い起こせば、確かに経済的に見て仕送りはかなり無理ということはあったにしろ、 母には息子に言えぬ別の複雑な思いが重くのしかかっていたのであろう。間違いなくそうでああったに違いない。 それに気づいたのはずっと後のことで、私が独立したいい大人になってからのことである。それ故に、今更ながらの振り返りであるが、 早慶に固執して祖父母や母を深く悩ませることをしなかったことは本当に良かった、とつくづくと思い起こしている。

  船乗りとなり日本を起点に世界へ雄飛するという夢は叶わず、ならばと早稲田か慶応を卒業して、東京を起点に世界へ雄飛し、諸国 の異文化と向き合って行きたいと、心に描いていた。だが、当時にあっては母の本心を知らないままではあったが、 「家計が許さない」ことを受け入れてあっさりと諦めた。 田んぼで汗を流す祖父母や母の背中をずっと見続けてきた息子としては、家族を楽にさせるどころか、重い経済的負担や更なる心労をかけ続ける ことなど到底できなかった。かくして、1967年(昭和42年)4月から、関大法学部法律学科に通い出し、青春時代の第二ステージを送る ことになった。

  余談ながら、私の少年時代の夢に感化された小学校同級生が神戸商船大を受験し合格したことをずっと後で知った。 卒業後彼は本当に船乗りになった。だが、海上で苦い経験をしたらしく、船から降り陸に上がってしまったと、別の同級生から聞かされた。 航海士への道を歩みたかった私にとっては複雑な思いであった。



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    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第4節 神戸商船大学の受験ならず、船乗りへの夢消える


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      第1節: 船乗りへの夢を追いかけた少年と神戸商船大学長との出会い
      第2節: 家族との船旅は船乗りへの夢を育む原点であった
      第3節: 父の突然の他界で生活は激変、商船高校を諦め普通高校へ進学する
      第4節: 神戸商船大学の受験かなわず、船乗りへの夢消え去る