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    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジ アラビアへの赴任(その2)
    第4節 バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(2)/ベルゲン、コペンハーゲン、 ハンブルグ、アムステルダム


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     第13-2章・目次
      第1節: エジプト・ナイル川で戯れ、スエズ運河で昔の夢を想う
      第2節: モロッコの海と港を巡り歩き、ジブラルタル海峡の横断に感涙する
      第3節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(1)/ストックホルム、オスロ
      第4節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(2)/ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、アムステルダム
      第5節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する



  オスロを後にしてノルウェー最大の港町ベルゲン、それも商工港と漁港を併せ持つベルゲンを目指した。「氷河とフィヨルドの 風景 」が待ちどおしかった。オスロから山岳列車に乗る前日から大興奮状態で、前夜は眠れないほどであった。 世界でも最も美しい自然風景を車窓から眺めながら鉄路の旅ができると聞かされていた。オスロでもサマー客が少なくなっいて 混雑も和らいでいると思っていたが、山岳列車はさすが大勢の観光客で満席状態にあって驚いた。ベルゲンはかつてハンザ同盟の 重要な一角を占めていたところであり、その情景の中に身を置けるとあって、身体中からその喜びを醸し出しながら、早朝オスロ の鉄道駅へと向かった。

  列車は最初の数時間は森林地帯を走り抜けていが、標高が少しずつ上り始め次第にごつごつとした岩山風景へと変わり行き、 ついには万年雪を抱く山岳風景が車窓に現われた。やがて、標高1222mにあるノルウェー最高度の鉄路地点の「フィンセ(Finse)駅」 に到着した。列車は山岳路をさらに進み、「ミュルダール(Mydal)駅」にて、ベルゲンへ通じる本線から外れることになった。 そこで、支線の「フロム(Flaøm)線」の列車へと乗り換えた。鉄路は急坂の渓谷を下ってフィヨルドの 最奥の港町フロムへと辿った。途中、観光客へのサービスとして、落差90メートルほどある「ヒョース滝」の真下で一時停車した。 そして、世界最長の「ソグネ・フィヨルド(Sognefjord)」のなかの支脈である「アウラン・フィヨルド(Aurlanfjord)」の最奥にある フロムという町に到着した。フロム駅の立ち位置はフィヨルドの海水面とほぼ同じであった。フェリー発着場の両側に髙くそそり立つ V字型の大渓谷を見上げて、そのフォトジェニックな雄大な自然景観に感涙するばかりであった。

  乗客らはフェリーの最上甲板へと吸い込まれた。垂直に高くそそり立つフィヨルドのV字型峡谷の峰々を船上から見上げ、 その絶景に声も出ないほどに感激していた。フェリーはゆっくりと桟橋を離れ、鏡のような穏やかな水面を滑りゆく。ブルースカイを 見上げてみれば、峡谷の両岸から覆いかぶさるように峰々が迫ま来る。大空さえも両岸にそそりたつ峰々にはさまれ、狭く細く連なる ようであった。そんなフィヨルドの雄大さに心酔するばかりであった。青天下、フィヨルドの絶景が続く静寂な峡湾でのクルージ ングを精一杯楽しんだ。峰々と海水面との高度差は1000メートルはあろうか。船が向かう目的地は、「ソグネ・フィヨルド」から 枝分かれしたもう一つの支脈のフィヨルドの最奥にある港町「グドヴァンゲン(Gudvangen)」である。途中「アウラン(Aurkland)」 という小さなフィヨルド沿いの町を通過したとおぼろげに記憶する。さらに、遊覧船はその船首を、落差5~600メートルはありそうな 、水の糸を長く引く瀑布に向けてホバリングさせた。船上の大勢の乗客は、滝の真正面直下から口をあんぐり開けて見上げ、感嘆の 溜め息をつくばかりの様相であった。長大の滝はフィヨルド遊覧に加えられた刺激的なアクセント風景であった。

  「グドヴァンゲン」で下車した我われ乗客は早速バスに乗り込み、海抜0メートルから370メートルへ一気に、九十九折の急峻な 山道を上り詰め、「スタルハイム・ホテル(Stalheim Hotel)」に近接する展望台で一息ついた。そこから見下ろすフィヨルドは 筆舌しがたい絶景であった。彼方に見るその峡湾の絵姿を忘れることはない。さて、バスで「ヴォス(Voss)駅」まで辿り、 再び鉄路でベルゲンへ向かった。かくして、オスロからベルゲンまでの12時間ほどの鉄道、船、バスの旅を堪能した。人生の後先において、 これほどまでに感動の連続であった一日がかりの旅路はなかった。幸い晴天に恵まれ、 フィヨルドの旅のどこを切り撮っても、カレンダー用グラビア写真になりそうな絶景風景ばかりであった。

  ベルゲンも足で歩き回った。観光客の誰もが街中で散策することになるのは、歩行者天国の「トルグ・アルメニング通り (Torgallmenningen)」であろう。その東端には記念碑の銅像が建つ。バイキングや捕鯨船員、先の大戦の司令官などの海の男らを モチーフにした銅像のようである。ここが市街地中心部であると見て取った。その通りの先には、ベルゲン港の最奥部にある 波止場へと通じている。そのインナーハーバーの波止場には、ちょっとした開放的な広場があって、魚貝類の青空朝市が開かれる ところであった。新鮮な魚介類を屋台に並べる朝市は、ベルゲンの風物詩そのものに違いなかった。直ぐ傍の波止場には港内周遊 観光船の発着所があり、またシーフードレストランやバーなどが軒を連ねる。朝市の屋台では、温燻や冷燻製のスモークサーモン、 干し鱈、生のエビ・ロブスター・カニ・カキ・アンコウなどの新鮮な魚介類をはじめ、キャビアの缶詰などが、威勢のよい店員 らによって売られている。新鮮な生サーモン・スライスに、採れたてのレタスやトマトをたっぷりはさみ込んだサンドイッチを 買い求め、家族4人で朝の腹ごしらえをした。

  朝市広場の少し先の波止場沿いは「ブリッゲン地区(Bryggen)」がある。そこにハンザ同盟時代の面影をたっぷり残す三角 屋根の古めかしい木造倉庫群が建ち並ぶ。その歴史的建築物の間にある狭い路地を入って行くと、静寂が支配する、まさに中世の 世界にタイムスリップしたかのようであった。ユネスコの世界文化遺産に登録されている。

  朝市広場の背後に迫り、深々とした樹林に覆われた緑豊かな山、そんな斜面を少し登って行くとケーブルカーの乗り場がある。 そこから標高320メートルの「フロイエン」に登ってみた。そこから鳥瞰する風景はまさに絶景であった。眼下にはブルーの美しい 海の中に、ヒトデの腕のような形の無数の緑豊かな島嶼が浮かぶ。海岸線が複雑に入り組む、その多島海の筆舌し難い絶景が広がる。 ベルゲン港のインナーハーバーを取り囲むように広がる中世的な街並みは、周囲の美しい山と海とに融け込み合い、その調和した風景に 魅了されるばかりである。正しく、世界三大美港と称されるリオ・デ・ジャネイロの「クリストの丘」から眺める鳥瞰風景に優ぐる とも劣らない絶景であった。

  さて、家族と離れて「ベルゲン海洋博物館」へ直行した。首都オスロでの海洋博物館とはまた異なる趣であった。二階建ての4つの 棟がほぼ正方形に連なり、真ん中には芝生のパティオ(中庭)が配されていた。じっくり館内を見学した。 縮尺6分の委員会のバイキング船模型各種、バイキング船の断面立体構造模型、アストロラーベやクロス・スタッフなどの各種の航海計器、 船首像、帆船舵輪、船員のチェスト箱、海洋・帆船画、帆船リギングの詳細名称図など展示する。 オスロの海洋博物館での展示も見応えあるものであったが、ベルゲンのそれも展示内容が独創的であり、午前11時から2時間半も 真剣に隅々まで巡覧することができた。

  地図上で近場に表示される「ベルゲン博物館」や「自然史博物館」のうち、後者を訪ねた。その後、インナーハーバーの先端付近 に位置するベルゲン港の波止場方向に足を進めたところ、大型客船などが接岸するターミナルに辿り着いた。そして、その近傍に建つ 「ノルウェー海洋・漁業博物館(Norgesfiskerimuseum)」を訪ねた。そこで主にノルウェーの漁業の歴史や技術に関する展示を、閉館時間 ぎりぎりまで巡覧して回った。

  その後最後に、インナーハーバーをはさんで、その対岸にある「ベルゲン水族館(Bergen Akvariet)」へと駆け込んだ。夕刻が 近づきいずれも小一時間もない駆け込みの巡覧であったが、たとえ短時間でも足を踏み入れ、傑出した特徴ある展示品だけでも目に 焼き付けようと期待してのことであった。これまでも、それをモットーにして歩き回ってきた。館内に立ってじっくり目を凝らすのと、 何も見ないのとでは、脳内細胞の活性化、目の保養や教養増進化の観点から雲泥の差がある。500円の入場代を 惜しんで、その機会を逃すのは余りにももったいない話しである。その他、3本マストのシップ型大型帆船(船名不詳)がインナー ハーバー岸壁に係留され見学したかったが、すっかり日没となり、数枚の画像を切り撮るので精一杯であった。同帆船博物館ノルウェーの切手 図案にもなっているという。

  さて、ベルゲンから首都オスロに戻り、翌日列車で南下した。スウェーデンの「ヨーテボリ」(またはイエーテボリ)という、 バルト海と北海を結ぶ「カテガット海峡(Kattegat)」に面する港町へと向かった。目指すは、「海洋センター」と「船舶博物館」 であった。センターの建物は全く意外にも小規模であり、木造の小型帆船やボートなどの建造や修理工房か作業場の様相であった。 しかし、直ぐ傍の岸壁には、Uボート潜水艦(U-boat Submarine)、フリゲートのような軍用艦、マッシュルーム型錨を船首に擁する灯台船「Fladen」、 貨物船「M/S Stormprincess」、「ESAB IV」、沿岸警備艇、消防船、海洋調査船、その他「Gunhild」、「Flodsprutan」、「Sölve」、 「Fryken」、「Jagare Destroyer」など、15隻ほどの退役艦船が舷を寄せ合ってぎゅうぎゅう詰めに係留され公開されていた。 その他、少し離れた岸壁には、4本マストのシップ型帆船「バイキング号」が係留されている。現在は退役しホテル兼レストランとして の任に就く。また、巨大なドラゴンの頭を模った船首像と、船尾には尾っぽを模った船尾像をもつ大型屋形船が中華レストラン として係留されていた。

  その後、家族と別れ一人ヨーテボリの駅から運河沿いに歩いて「ヨーテボリ海洋博物館(Sjöfartsmuseet)」を目指した。 途中、バルト海で客船を運航する「シーウェイズ(Seaways)」の大型客船「Princess of Scandinavia」が運河を悠然と通航する 光景に遭遇した。博物館入り口には女性船首像の類が高く掲げられている。館内を、午前10時30分から15時30分まで、全く飲食を 放り投げて、空腹と闘いながら巡覧し、数多くの展示品とその説明書きを丁寧に切り撮った。 さて、家族3人と次女は夕刻ヨーテボリで別れ、次女は列車でオスロへと一人戻りそのまま旅を続行、3人は別列車でルンド(Lund)、 マルメ(Malmö)を経て、「カテガット海峡」の狭水道に架かる鉄橋とトンネル(一部)を通過して、夜10時頃にはコペンハーゲン駅 へと滑り込んだ。

  翌日、私一人がコペンハーゲンから列車で、空港駅を通過して海峡に架かる長大橋を経て再びスウェーデンのマルメへ向かった。 同じEU圏内なのでパスポートコントロールもなく、気軽に行き来できるのは本当にありがたかった。その利便性は最高であり至極助かる。 「マルメ博物館」の傍を通って、目指すは「技術・海洋博物館」であった。「海洋博物館(Sjofartsmuseet)」での主な展示は、 船舶関係では「潜水艦U3」であった。博物館のすぐ脇には趣きあるミニ魚市場で賑わっていた。数多くの小さなテント小屋風の パビリオンが並び、大勢の買い物客が陳列台に並べられた魚貝の品定めを行なっていた。上野のアメ横商店街をぎゅっと小ぶりにした ような感じである。博物館の向かいには「世界海洋大学(World Maritime University)」という国連の一機関があった。 その後、マルメ城内にある「マルメ博物館」の附属水族館(Akvariet)へ足を向けた。マルメ駅へ戻る帰途、水路沿いをぶらぶらと歩き 港を通りかかった。灯台や「コグ(Kogg)博物館」などのすぐ近くを通ったが、その博物館が中世ハンザ同盟時代によく用いられた 船種である、例の「コグ船」(英語: cog)にまつわる博物館であるとは、うかつにも気が付かなかった。   その後、コペンハーゲンへ戻り、その足で中世の港町の面影を色濃く残す「ニューハウフン」の船着き場へ出掛け、「海と船の ある風景」を求めて、そのウォーターフロント界隈を散策することにした。今回初めてじっくり散策する時間がとれた。時間を気にせず、 被写体をあちこち探しながらそぞろ歩きをした。係留船はさほど多くはないが、波止場の両側には中世の佇まいを彷彿とさせる趣き のある建物がぎっしりと並び、どこを眺めても絵になった。波止場からはコペンハーゲン港や運河を遊覧するクルージング船が 発着していて、乗船体験を楽しんだ。

  遊覧船は古いレンガ造りの倉庫群が建ち並ぶ狭い運河にも入り込んだ。中世の世界にタイムスリップしたようである。古きよき時代 の原風景が遺ると勝手な想像をしながら水上から見上げた。別の狭い水路では、カヌーのローイングを楽しむ優雅な市民の姿が印象 的であった。その後、船は運河からコペンハーゲン港界隈の水域に出て主要な施設を巡った。そして、アンデルセン童話由来の マーメード(人魚姫)像が小さな岩の上に据えられた岸辺に最接近してくれた。下船後、陸側から人魚像をカメラで切り撮るため 足を向けた。観光客の中には我先にと、像に抱きつくように接近して記念撮影しようとにハイテンションであった。さらに海沿いに散歩し、 マリーナに辿り着いたところで日没を迎えた。ヨット群の林立するマストが黄昏行く茜空に突き刺す。そんなマリーナを眺めながら、のんびり とした贅沢な時間を過ごした。そして、完全に陽が没したところで、電車に飛び乗り宿のある「中央駅」に戻った。 

  翌日、家族3人でコペンハーゲンから海沿いに電車で北上し、港町ヘルシングエーアへ出掛けた。コペンから北約44㎞にある港町である。そこで 訪ねた「クロンボ―城(Kronborg)」はシェークスピア作のロミオとジュリエットの「ハムレット」の舞台として有名であるという。 「カテガット海峡」最狭部の「エアスン海峡」をはさんで、ヘルシングエーアの対岸にあるのは、スウェーデンのヘルシンボリ (Helsingborg)であり、距離にして5kmほどである。バルト海と北海とを結ぶ狭い回廊(チョークポイント) となっている重要な海峡である。さて、何とクロンボー城内には「航海・海洋博物館(Maritime Museum of Kronborg)」があること を現地で知った。家族と別行動を取り、何を置いても先ずは博物館に駆けつけ、数多くの船舶模型が展示される館内をじっくり見学した。

  コペンハーゲン西方のロスキレにある「バイキング博物館(VikingeskibsMuseet)」 へも足を伸ばした。 コペンハーゲンは今回が2度目であった。チュニジアの「マディア漁業訓練センタープロジェクト」(1980-1982年担当) の現地調査からの帰途のこと、1982年11月にコペンでトランジットのため一泊した。その時団員3人でロスキレにある「バイキング博物館」を訪れた。 その時以来で、2022年から数えればもうかれこれ30年になる。当時コペンハーゲン市内の散策はほどんどせず、ロスキレへの弾丸 ツアーに他団員二人を無理やりつき合わせる格好となった。それもタクシー代など一人100ドルほどの負担をお願いしてのことであった。 だが、後で訊ねて見ると「博物館は非常に良かった」と言ってもらい、ほっとしたことを憶えている。

  ところで、博物館に展示される古代バイキング船のことであるが、西暦1000年頃からロスキレ・フィヨルドの入り口(フィヨルドの 最奥の町であるロスキレから20㎞ほど北にある)に5隻のバイキング船が沈められていた。バイキングがフィヨルドへの外的侵入を 防御するために、船を沈めたものである。いわば水中防護壁を造った。1962年に「デンマーク国立博物館」が発掘・復元して展示 したのがそれらの船である。JICA水産室勤務時代の1982年11月に初めて訪問した。今回訪問してみて、バイキング船の館内展示の様相は ほとんど変わりないと見て取ったが、当初に比べて格段に整備され充実したものになっているとの印象である。

  最初の訪問時の印象として、博物館敷地内にはバイキング船の展示館だけがぽつんとあるとの印象であったが、今回ではその 敷地内に木材を加工し、バイキング船のキール・肋材・外板・梁などの部材を製作し、そのバイキング船の組み立て実演などを 行なう多くのパビリオン(展示室)や工房が設置されていた。実際に船大工が製作する工程をつぶさに見学できるように なっていて、大人も子供たちも、バイキング船への知的関心を深めてもらうための工夫が随所に見られた。 最初の訪問時には時間的余裕が乏しく、急ぎ足の見学であったために目に入らなかっただけなのか、それともその後に 新たに整備されたのかは分からない。

  格段に整備されたとの印象を抱いたのはそれらの工房だけではなかった。興味津々のもう一つの風景があった。敷地内のウォーターフロン トには板張りの長い桟橋が設けられ、バイキング船などが繋がれていた。そして、桟橋では数10人の観光客が、指導員の指揮の下、 復元された現代のバイキング船に乗り込み、オールを漕いで沖に出ようとしていた。陸上で漕ぎ方を教わった後に、海上で操練の実体験ができるように なっていた。かくして、北欧3ヶ国の旅を通して、古代バイキング船のことを学び多くの写真を切り撮ることができた。明日はいよ いよ、家族と別れて、ドイツのハンブルグ、さらにオランダのアムステルダムに向かうことになる。ロスキレからの帰途の列車の 中で、明日から一人旅となることを思い起こし、寂しさを埋める心の準備を始めた。

  翌日、家族に見送られてコペンハーゲン駅から国際特急列車に乗り込み、ハンブルグを目指した。列車はデンマーク領の幾つかの島々の 田園地帯を快走し続けた。夜半になって、列車ごと大型フェリーに載せられた。甲板に出て潮風に当たっているうちに、対岸のドイツ領の港町 の灯りが見えてきた。夜のうちの渡海であったため、景色は何も見えず、沿岸の明かりの連なりが見えた程度であった。 ユトランド半島の付け根を、「ノルト・オストゼー運河」、即ち一般的に称される「キール運河」がキールから横断している。 デンマークには多くの海洋・漁業の歴史文化施設があるが、キール運河と港市キールのそれを見学するのはまたの機会にせざるをえなかった。 列車は深夜近くにハンブルグ駅へと滑り込んだ。駅近くの予約しておいたホステルへはほとんど迷うことも時間的ロスもないに チェックインできた。

  翌日港町ハンブルグをじっくり散策しようと早朝に地下鉄に乗り港へと向かった。エルベ川沿いに発達したハンブルグには大きな 河川港がある。目当てのエルベ川沿いの「船舶博物館」は分かりやすかった。目的地の駅で下車してみると、すぐの川沿いに幾艘もの 船舶が係船されていた。実はそのことは暫く後で目にした風景であった。というのは、駅に降り立った時は、川辺一体はかなり濃い 霧に包まれていた。思いもよらぬハンブルグ港の霧景に遭遇した。我慢して立ち尽くしていると次第に霧が薄くなり始めた。そして、 博物館となっている4本マストの大型帆船「リッカーメール号(Museumsschiff Rickmer Rickermers)」が霧の中に姿を現し始めた。 帆船全体がぼーっと霧に包まれるという、その時遭遇した幻想的な風景に感銘を受けた。

  川沿いにはその他、戦時標準船のような古い貨物船「キャプテン・サンディエゴ号(Cap San Diego)」、灯台船「Das Feuerschiff LV13号」など数多くの船舶が係留・展示されていた。水上飛行機もこの岸辺の水上ポートに駐機していた。生まれて 初めてその機影を見ることができた。それまでは映画の中だけでしか見たことがなかった。さて、折角訪れたハンブルグ港なので、 もっと目に焼き付けようと遊覧船に乗り込み、倉庫群・浮きドック・石油精製施設・水閘門など、エルベ川両岸のハンブルグ港の 港と船風景を楽しんだ。旅程にもっと余裕があれば、エルベ川沿いに水上路を辿って、下流の港町にありそうな海洋博物館などを もっと探訪できたはずであるが、先を急がざるをえず悔やまれた。翌日ハンブルグで乗車した列車は、ブレーメンを経由して田園の中を 快適にひた走り、ついに最終目的地のオランダ・アムステルダムの中央駅へと滑り込んだ。

  こうして、二度目のアムステルダムの土を踏んだ。一にニにも「アムステルダム海洋博物館(Nederlands Scheepvaart Museum)」を 訪ねるためであった。かつて訪問できなかったことへのリベンジ的チャレンジであった。中央駅に近い「Piet Heinkade通り」を 歩き出してまもなく、遠くの桟橋に横付けになっているシップ型大型帆船に気付いた。格好の被写体を切り撮れるチャンスを 逃すまいと思い、帆船を目指して近づいてみた。「Stad Amsterdam」という船名であった。オランダの航海訓練船らしかった。

  初めてアムステルダムを訪れたのは、1980年代初期のJICA水産室勤務時代にチュニジアへ公務出張した時のことであった。 他の団員と行動を共にしていたこともあり、海洋博物館への個人的訪問の希望を最優先にする訳にも行かず、足を向けたのは市街地のそぞろ歩きと 運河遊覧くらいの散策であった。博物館探訪のアイデアは出張に出る前に頭からすっぽりと抜け落ちていた。要するに、海洋博物館 を訪ねることに何の執着心もなかった。だが、二回目の今回は丸で違った。この博物館だけを目指してアムステルダムに立ち寄るという力の 入れ様であった。若かった1980年代にあっては、「飾り窓の女」の通りをたむろすることに余程気を取られ、海洋博物館訪問は元々最初から予定に組み込む余裕がなかったのかも知れない。

  世界海洋覇権争いの先陣を切っていたのは、ポルトガルやスペイン、さらに英国であり、オランダは彼らの後陣を配しながらもその 争いを繰り広げていた。博物館内には、オランダが世界の海を縦横に行き交い、インドネシア、マレーシア・マラッカなどの 植民地や交易拠点を築き、英国などと競い合った。1600年代初めに設立されたオランダ東インド会社もって海外に権益を拡大し、海洋王国を 謳歌していた。博物館では16、17世紀の頃の繁栄の歴史を示す数多くの歴史的遺物を見ることができる。一時期世界海洋に君臨した という栄華の歴史を如何なく示している。威容を誇る帆船「アムステルダム号」という戦列艦の係留・展示を含め、館内には歴史・ 文化的価値のある陳列品が数え切れないほどあるので、ワン・パラグラフで語ることは到底不可能である。丸一日館内を巡り巡った結果、 疲れ果ててしまった。全てを巡覧することを放棄することにした。そして、疲れを癒すため、その後放射線状かつ同心円状に広がる運河網を 遊覧船でクルーズした。あの時も団員とクルーズしたが、記憶が薄れていたので、今回もクルーズ船で遊覧することにした。そして、運河岸沿い のレンガ造りの街並み見上げながら、アムステルダムのかつての繁栄の面影を水面から追い続けた。

  船で運河を縦横に巡るとともに、自分の足で中心街を心行くまでそぞろ歩きをすることにした。「聖ニコラス教会」を眺めつつ、 「ダムラック通り(Damrak)」を歩き、「新しい市場広場(Nieuwmarkt)」前に辿り着いた。そして、「モンテルバーンの塔」などの歴史的 建造物を眺めながら、オープンテラスでビールを傾け一息入れた。一人物思いにふけりながら、暫し至福の時間を 過ごした。ほろ酔い加減となり、昔オランダが北海でのニシン漁で国家経済の基盤を築いたこと、オランダと英国とがマラッカやインドネシアの スパイス・アイランドのテルナテ島などの支配を巡って覇権争いを繰り広げたこと、オランダ船による日本への来航や 出島での交易など、歴史の断片を思い起こしながら、かつて栄華を極めた黄金時代のオランダにタイムスリップし空想に耽った。 気が付けば日が暮れていた。

  思い起こせば、1980年代初期のJICA水産室勤務時代のこと、チュニジアへの出張途上においてこの地に立ち寄った折、パリとは 全く異なる街の美しさと歴史の重厚さを感じながら、森調査団長や水産庁・小圷団員らと運河沿いにそぞろ歩いた。運河沿いに 立ち並ぶ、彼の有名な「飾り窓の女」の部屋をガラス窓越しにちらちらと視線を注ぎ込みながら歩いたりもした。女性は何の恥じらいもなく、 むしろこちらが恥ずかしくなるほど大胆な視線を浴びせて来た。こちらがどぎまぎした。 それを知っているかのように、女性はさらに大胆で誘惑的な視線を投げかけて来た。そこを大勢の女子高生のグループが、気恥ずかしさ の欠片も見せることなく、平然と飾り窓を覗きこみながら通り過ぎて行った。修学旅行か社会見学の一団のようであった。

  さて、三人は歩き疲れたところで、運河に架かるとある橋のたもとのパブで一休みし、ビールで喉を潤した。そのパブは、どの辺だった のかほとんど覚えていなかった。記憶にあるのは、そのパブは「飾り窓の女」の館 が連なる運河沿いの通りから、ほんの少しだけ外れたところにあると言うことだけであった。アムステルダム中央駅からそう遠くない ところの運河沿いの通りをあちこち行き来して探し回った。日が暮れてしまったので、スナック程度の夕食を取って体力を少しは 蘇らせた後、再び気合を入れて歩き回った。だが、探そうと記憶を頼りに必死に探索しても一向に見つけられず、ついに疲れ果ててしまい、 そのパブを探し出すことを諦めた。そして、中央駅の方角に足を向け、人の流れに身を任せながらとぼとぼと歩いた。

  出会いとは不思議なものである。運河に架かる一本の橋を渡り、狭い路地を通り抜けようとした時のことである。「何となく 見たことがある」というインスピレーションが一瞬脳裏をかすめた。そして、その路地を通り過ぎてから、何気なく一瞬後ろを 振り返った。何と、そのパブの現風景と、脳裏に記録されてきた数十年前の画像とが照合された。そして、じわっと重なり合い、ロックオンされた。 今度はしっかりと後ろ向きに立ち止まり、まじまじとそのパブを見詰めた。さらに近づいて窓越しに中を覗き込んだ。「三人でジョッキーを 傾けたのはあのテーブルだ!」と合点した。画像がほぼ完全にシンクロナイズされた。かすかな記憶を頼りに、ついに偶然にしろ 探し求めていたものを探し当てた。過去に戻れないことは分かってはいる。ただただ若き日の記憶の一コマが蘇りただただ懐かしかった。

  偶然にもその懐かしいパブに巡り合えた。とはいえ、椅子は片隅に寄せられ、どうも閉店休業のようであった。 パブは少し廃れた感があったが、あのテーブルに三人で座ってジョッキ片手に、「明日はいよいよチュニジア入り」だと意気揚々と 談笑していたことを、ついこの間の出来事のように思い出した。あの頃の夜の街の賑わいと、生き生きとした三人の会話が昨日の如く蘇ってきた。 足を棒にして探し回しても辿り着けなかったそのパブ。何と偶然にもその狭い路地を通りかかったがゆえに、昔にタイムスリップ することができた。その偶然のいたずらにびっくり仰天。神に感謝し、感激の涙であった。

  明日はサウジに帰ることになる。楽しい家族との旅であった。大自然や海と船をたくさん眺め、鋭気を取り戻し、酸素をたっぷり補給できた旅であった。 リヤドに向けて帰路につく頃は何ともいえない重圧感、抑圧感、圧迫感が襲ってきた。 翌日スキポール空港からチューリッヒ経由でリヤドへ戻った。そして、再びコンパウンドのゲートを出て、荒涼とした砂漠風景を見ながら リング・ロードを疾走して事務所へ通うという、いつもの日常に戻った。再び砂漠風景に溶け込みながらも、じわじわといつものの緊張感 が高まって来た。もちろん主観的な感覚だが、旅するとサウジアラビアが想像以上に異質異形のイスラム教国であることを 否応なしに意識させられる。明日から再び異次元の世界に身を置き、何をどうしょうとそれが現実の世界に違いない。それを諦観しつつも、 そんな異次元世界を楽しむことが、サウジで生きる身の処し方である。

 さて、リヤド赴任が2年も過ぎれば、役職定年の58歳が目の前に迫りつつあった。帰国後すぐに退職手続きとなる。 退職後は国内ではなく、再び国際協力の最前線に立つことを希望していた。もっと遠い先のことは全く未定ではあったが、 完全に離職した暁には、「海洋辞典づくり」に専念したいと漠然と考えていた。少なくとも、離職後には「選択と集中」をもって、 辞典のトータル・リニューアルに取り組みたいと思っていた。これまでは辞典のコンテンツは拡大一辺倒を歩んできた。 余りにコンテンツを拡大し過ぎ、「目下、作成中」のページが多くアップされてきた。半端なページが多々散見され、見苦しい 状況にあると日頃から反省の日々であった。読者からすれば「これ何!」とがっかりすることも多かったはずである。早く何とか 刷新したいと、幾分か焦り気味であった。

  ところで、サウジアラビアへの後任者がすぐに決まるとは考えにくかった。結局3年目の2007年の初め頃、内々の後任人事の話が本部から漏れ 伝わって来た。そして、さらに本腰を入れて、業務の積み残し、課題、展望を今一度見直し、サウジアラビアのJICA技術協力からの 「卒業」後におけるサウジへの技術移転に関するソフトランディングの方向性と方法論、JICA有償技術協力の可能性と課題などを模索した。 他方で、これまでの半島時計回りの最後の旅についてのプランをあれこれ練ることにした。北欧まで伸ばしていた旅程線をかなり 短縮化し、フランスのマルセイユからイタリアのベニスまでの地中海方面を視野に入れることにした。特に、モナコの有名な「海洋博物館」 にはぜひサウジ赴任機会に探訪したいという希望は強かった。


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    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジ アラビアへの赴任(その2)
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