Page Top


    第29章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その3)
    第3節 中国の上海航海博物館と京杭大運河(杭州・南京・蘇州)を訪ねる


     Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


       第29章・目次
      第1節: 香港とマカオの海洋博物館などを駆け巡る/2007.7パック旅/2015.11
      第2節: 台湾の基隆・淡江・高雄の海と港を巡り、海洋博物館を探訪する/2016.6パック、 2017.2淡江
      第3節: 中国の上海航海博物館と京杭大運河(杭州・南京・蘇州)を訪ねる/2017.4
      第4節: ポルトガルからスペインを経て、ギリシア・エーゲ海に憩う/2018.9
       [参考資料](1)旅 程: ポルトガルからスペインを経てギリシア・エーゲ海 へ/(2)略年表: エンリケ航海王子・ディアス・バスコ ダガマ・支倉
       常長・コロンブス

      第5節: 放浪の旅は続く/世界は面白いものに満ちている


  JICAの業務出張の他に、私的な旅として何度か中国へ出掛けた。最初の出張は1987年7月のことであった。搾油用大豆栽培に関する 農業投融資案件の基礎調査のために、中国東北部(旧満州)の黒竜江省の省都ハルビン(哈爾浜)、その西北西約400kmにある チャムス(佳木斯)、そのまた西方百数十km奥地にあって現在のロシアとの国境に近い友誼にある国営農場などへ出向いた。初めて 見る満州の大平原は感動的であった。見渡す限り、行けども行けども起伏の緩やかな大平原に大豆畑などが続いていた。鄧小平の 「改革開放」政策が打ち出されてから10年ほど経過していた頃のことである。
* ハルビンもチャムスも大河「松花江」沿いに立地する。松花江はその下流で「アムール川」と合流しオホーツク海へと流れ出る。

  貧しさの空気が至る所で漂う地方の農村、ぬかるみの田舎道では通行に四苦八苦、郷鎮企業の発展に力を注ぐ町の行政官吏、 ジャムスで乗車した蒸気機関車の馬鹿でかさ、一人っ子政策に違反して罰金を郵便局に払い込みに来たという農夫との出会い、 もうもうと煙草の煙が立ち込めスクリーンがかすんでよく見えない映画館、その客席用椅子として設備された木製の硬座など、今では 遠い過去になってしまったが、時々黒竜江省での体験を思い出す。また、地方農村役場の人々や村人の温かいもてなしに感動したりもした。 当時共産主義政権統治下にあった国営の集団式農場に足を踏み入れ、見渡す限りの大平原に広がる大豆畑とその栽培事情などを見て回った。

  北京に上京後、団員全員でJICA事務所、日本大使館、中国側の対外貿易省などを再び訪問し調査結果を中間報告した。社会見学をも 兼ねて、北京最大の繁華街王府井(ワンフーチン)に出掛け、あれこれと土産物を物色したりもした。 立ち寄った国営デパートの質素さに先ずびっくりし、公務員の女性店員らの暇そうで、サービス精神の乏しい接客振りに仰天した。 翌日の週末には、折角のチャンスと、お上りさんになって「万里の長城」と「明の十三陵」を駆け足で巡った。

  その後、中国に公務で出向いたのは上海で、黒竜江省への出張から12年を経た1999年10月のことであった。上海は当時でも 大都会であり、その発展の勢いには凄まじいものがあった。まさに「10年後の中国」の発展の姿を観たければ上海に行け、 「20年後の中国」を見たければ香港に行け、と中国の指導者が「改革開放」の未来の姿を想定していた頃である。

  さて、上海への用向きは、「上海人民第6病院」に政府開発援助(ODA)の一環として供与された無償資金協力機材の使用状況を調査 することであった。故障などのために機能不全にある医療用機材につき、その修理に資するためにパーツの特定などを行い、 それに要する経費を概算するという、JICAのフォローアップ協力が目的であった。丁度JICS への出向を終えJICAへ復帰し、無償資金協力業務部フォローアップ室に勤務していた頃のことである。その数か月後には南米 パラグアイへ赴任することが内々に決まっていた。

  上海滞在中の週末に時間を見つけて、海洋に関連する何らかの歴史文化科学的施設を見学し画像を切り撮ることなど、 当時殆ど念頭になかったことである。尤も、「オンライン海洋辞典」づくりについては相変わらずコツコツと取り組んではいた頃の ことであった。だが、デジタル画像の取得と辞典のビジュアル化への取り組みはまだまだ先のことであった。

  ところで、人民第6病院の同行職員から大きな衝撃を受けた。病院の担当主任らに誘われて、調査団員全員が週末にマイク ロバスに揺られて「蘇州」(上海の西方100km弱) まで日帰りドライブをした。 その中の一人の中堅クラスの職員が、その道中デジタルカメラで我々を撮影し、我々調査団員が帰国する段には画像加工ソフトで修正を 施した写真を全員に手渡してくれた。

  当時日本でもその普及はこれからという黎明期の時代であったと記憶する。技術的に遅れているとばかり思い込んでいた中国での デジタルカメラの先駆的な使いこなしの実情に唖然とし、もやは私の知る1987年の中国とは全く違うことに驚かされた。 尚これをきっかけに、パラグアイに赴任する際には、デジタルカメラを持参し使いこなし、キャッチアップしたいと心を一新させた。

  さて、蘇州で見学した史跡のうちの一つが「寒山寺」であった。日本の大晦日には除夜の鐘をつく様子がテレビで生中継され 心に刻まれていたが、その寒山寺であった。それから10年以上も時が流れ、既に退職していた私が、プライベートな旅で「京杭大運河」 を垣間見るためにその寒山寺の門前を再び歩くことになろうとは想像もしなかった。

  「人民第6病院」へのフォローアップ協力へと話が戻るが、その後浙江省の保健局長らとの夕食会に団員全員で出席した。 この時初めて「海」ではなく「河川」と唯一関わることができた。揚子江(長江)の支流で上海市街を流れる「黄浦江」に面する「外灘」 地区傍での遊覧であった。その夜、華やかなイルミネーションに彩られた両岸の摩天楼に驚嘆した。まさに未来に向け大変貌を遂げつつ ある黎明期途上にある上海を見た。

  フォローアップ協力での出張後暫くして、2000年1月上海へ私的な旅をした。実は最初の中国への出張時には、黒竜江省の外事 弁公室の通訳であった王さんに世話になった。そして、彼はその数年後に北海道大学大学院に留学し、博士課程を修めた後も日本に残り、 民間会社に就職していた。そして、来日以来ずっと交友関係を維持してきた。

  「10数年前とは違う中国を是非案内したい」という王さんからの強い誘いで、上海で落ち合った後二人で蘇州に向かうことになった。 私は落ち合う数日前から上海を単独行していた。その時に、「黄浦江」に臨む「外灘」の川岸に係留・公開されていた 「オリアナ号」という外航客船の中の小さな「海事博物館」を見学した。また、市街のある公園内の湖畔に立地する「上海水族館」を訪れた。 これが中国での最初の海洋文化施設や水族館への訪問であった。

  日本の水族館に比べれば、同館の規模は小さく素朴で家族向けであったと記憶する。だが、中国特有の淡水産魚類などの展示もあり、 大いに興味がそそられた。また、海洋の科学的知識を分かりやすく説明するための創意工夫が随所に見られた。その後王さんと合流して、 列車で蘇州へ向かった。西湖の畔を散策しながら、米国ニクソン大統領・周恩来首相が国交樹立に向けて暫し懇談したという、湖に突き出た 小さなレストハウス(パビリオン)で一息入れた。

  中国への私的な旅としては、何度も公務出張を共にした友人の東さん、それに王さんの3人で、吉林省瀋陽に出掛けた。王さんは民間会社 を離れ独立し、中国人の技能実習生の受け入れに関わる仕事に就いていた。彼は瀋陽に事務所を構える他、そこから西方100kmほどの 地にある彼の故郷「阜新 (フーシン)」に「国際研修センター」を1億円以上費やして設立し、技能実習生の育成と送り出しに尽力していた。

  中国で実習生を訓練した後、北海道や長野県などに主に農業実習生として派遣し、来日後の彼らの生活をサポートしたり、受け 入れ機関である農協や農家と中国人実習生との良好な関係を維持するための 相談業務などを行っていた。これまで5,000人以上の実習生を日本に派遣し、日本での労働力不足の緩和と日中友好・技術協力などに 貢献してきた。中国瀋陽での人材募集や人選の実相、訓練事情などを視察し、研修関係者との親睦を深めた。もっとも中国の海の 歴史文化に触れるような機会は全くなかった。

  こうして、何度か中国を公私に渡り行き来したが、海や船などに関連しての接点はわずかに「オリアナ号」、水族館、そして 「黄浦江」での船遊びくらいなものであった。そして、「海のシルクロード」の東アジアでの起点ともいえる中国への本格的な旅、 特に海と船に関する歴史文化的施設との接点を求めての杭州への訪問が実現したのは、JICAから完全離職した2011年3月から 何と6年を経た2017年4月のことであった。

  さて、2017年4月3~10日まで、友人の東さんと二人で中国に出掛けた。だが、同一行動はほぼ半日だけであった。これまでの 中国への旅では、公務でも私的でも、ほぼ100%JICA関係者あるいは友人らの同行や側面サポートがあってのことであった。だが、 今回はほぼ100%自力での計画と実行であった。プライベートで一人プランを練って、海洋博物館などを訪ねるという単独行は 初めてのチャレンジであった。

  東さんとは上海のホテルで帰国前日に落ち合い、それまでの1週間については二人は 完全に単独行することになった。2017年当時、中国には「海洋博物館」と名の付く本格的な博物館に関して、その建設構想はあっても、 実際にはどこにも存在しなかったはずである。かくして、旅のルート、宿泊先、交通機関をはじめ、訪問したい海洋歴史文化施設などを 選択し探訪計画を練り上げた。

  メインの目途は、杭州にて「京杭大運河」をじっくり観ること、上海の「航海博物館」(事実上の本格的な海洋博物館である)や杭州の 「京杭大運河博物館」、南京の「鄭和紀念館」などを探訪し、蘇州郊外にある「宝帯橋」の畔で大運河に触れることであった。

  真っ先に、近年オープンしたという近代的で本格的な国立の海洋歴史文化施設といえる「上海航海博物館」を目指した。ネットで 予約しておいた安ホテルの住所と手書き地図を頼りに、電車で上海郊外を目指した。博物館はその沿線上の終着駅から徒歩で20分ほど にあった。他方、ホテルはその4、5駅手前の地にあった。

  目途の駅で降り立ったものの、どうも様子がおかしかった。駅の周辺にはほとんど明かりがなく 野原や田畑が広がっている感じであった。改札口を出て見ると、線路に平行して幹線道路が走り、そこを途切れることなく車が 爆走していた。一軒の移動式屋台があり、数人の客がラーメンをすすっていた。ホテルのことを訊ねようにも言葉の壁があり全く 要領をえなかった。

  だが、ラーメンを食べ終えた一人の青年がスマホで調べてくれ、ホテルは上海の市街中心部に近いここだとスマホ画面を示しながら 教えてくれた。予約した安ホテルはこの駅からさほど遠くないはずだが、暗闇の中で野原を歩き回る訳にもいかず、兎に角一旦上海の 市街中心部へ引き返した後どうするかを考えることにした。一時間ほどかかってようやく教えてくれたホテルに辿り着いた。確かに ホテル名は同じであったが、五つ星に近い高級ホテルであった。大体上海の市街中心部の高級ホテルに予約したはずはなかった。 当然予約はなされていなかった。

  夜も遅いので、安ホテルの探索は諦め一から適当なホテルを探すことにした。周辺を探し回り、ようやく 三つ星程度のホテルを探し当て、そこに2泊することにした。結局、「黄浦江」をはさんで「外灘」の丁度対岸に位置するビジネス地区 での投宿となり、安ホテルの2泊分は余計な出費となってしまった。痛恨の失敗であった。

  ネットで予約した宿泊先の地理的位置をグーグル・マップで念入りに調べ、手書き地図を作成して持参した。だが、目途にした安 ホテルには辿り着けなかった。何故そんなことになってしまったのか。台湾にかつて旅した時と同じような迷子状態に陥った。 ホテルは名の知れた宿泊検索サイトで見つけ予約したものであり、ホテルの存在自体や住所には問題はなかったはずである。

  グーグル・マップ画面上に示された位置マークの周辺の通り名などを最大漏らさずしっかりとメモを取っていた。ところが、 ネット地図上に示された位置と実際のそれとが大幅にずれていた可能性が大いにあったようである。原因はそれしか考えられなかった。 そもそも私が予約したそんな安ホテルの住所のメモを見せられてその場所を訊ねられた人は、 そんなホテルなど知る由もなかった。4~5星ホテルなら彼らもスマホで調べヒットさせることもできたであろうが。

  スマホをもたない「スマホ難民」である私としては、止む得ず事前にグーグル・マップ上のホテル周辺の地図をノートに詳細に 手書きし、その位置を確信していた。だが、実際のホテルの位置はグーグル地図とは大きくずれていることを徐々に気付き始めていた。 何度か中国には旅したが、いつも仕事仲間と一緒であり、また現地関係者らが同行してくれたりで、何の不安を覚えず 移動していた。だが、今回初めての完全単独行であり、それなりに緊張と不安・ストレスがあった。もちろん、 それ以上に、海と船や運河をメインテーマにする旅には大きな楽しみもあった。

  だが、旅の初っ端から「ホテル難民」となり、いきなり冷水を浴びせられることになった。その日は3、4時間も夜の上海とその 近郊を彷徨うことになってしまった。「スマホとホテル難民」となる痛撃の洗礼を受けてしまった。当時日本でもスマホを所持して いなかった。そして今回スマホなしで旅に就いてしまった。日本では70歳に近い団塊世代がスマホを日常的に携帯し駆使することは まだまだ少なかった。中国では日本以上にほとんどの若者がスマホ・マップを自在に使いこなしているのを見て驚きであった。

  さて翌日、気を取り直して、上海市街中心部の国際金融センター地区から再び昨晩と同じ地下鉄の路線を辿り、その終着駅の 「滴水湖駅」へ向かった。地図で見ると、上海の「浦東国際空港」の南方20㎞ほどにあり、杭州湾に面していた。 電車から、昨夜下車し引き返した駅周辺の景色を目を凝らしてよーく観察した。ほとんどは田園が広がり、どう見ても旅行者がホテルを 探し求めて立ち入るには全く不適に見える田園と住宅地しかなさそうであった。昨晩は無理をして手書き地図を片手に駅周辺をほっつき歩き 回らなかったのが正解であったことを改めて理解した。

  さて、終着駅で下車し、杭州湾に臨む海岸に暫し佇んだ後、真っ直ぐ「航海博物館」を目指した。グーグル・マップで駅からの大よその地理的位置を メモしておいた。徒歩で15分ほどで辿り着けるはずであった。帆二枚か、蓮の花びらを重ね合わせ たような特徴のある大きなパビリオンが遠望できた。遠くからでもそれとなく海洋博物館だと分かった。

  パビリオンの両翼には直方体をした大きな展示館が配置され、近代的な総合海洋博物館としての威容を誇っていた。台湾や韓国でも そうであったが、近年海洋開発に向けて躍進し、海洋権益拡大へ突進する国々が最近創建した海洋博物館を訪ねると、 その国の国家的伸張の勢いを肌で感じさせられた。日本では近年「船の科学館」や大阪の「なにわの海の時空館」などが閉館となり、 中国・韓国・台湾とは真逆の趨勢にあることに大いなる寂しさを感じる。特に館内での展示を巡覧すればより一層その思いが強くなる。

  博物館のパビリオンの目玉展示は何であったか。大ホールの真ん中には実物大の中国式木造船、いわゆるジャンク船の「福船」 がその偉容を誇っていた。因みに、韓国・釜山の海洋博物館の中央ホールを占有する最大かつ象徴的な展示物は、実物大の亀甲船であった。 やはり「航海博物館」においても、その国が誇りとする象徴的展示物を正面に据えて、もって見学者の度肝を抜き感嘆させたいようだ。 日本でいえば差し詰め江戸時代に活躍した巨大な「千石船」の復元実物船、あるいは「戦艦大和」の超巨大模型であろうか。 かつての大阪の「海の時空館」では、実物大の千石船がガラス張り巨大ドームの中央にしっかりと据えられていた。

  航海博物館内では、さまざまな船舶模型や構造模型、古代から近現代までの航海史をはじめとして、明船の構造や その造船工程などのパネル展示、明の海軍工廠跡から発掘された巨大な梶棒 (かじぼう) などの実物史料、鄭和の「南海遠征」航海の紹介、 その他海上保安、漁業などに関する史料、各種の航海計器、船橋の実物大復元模型、 潜水艦の操船艦橋の再現など盛りだくさんである。閉館になるまで館内を何度もくまなく巡覧した。その巡覧を通して、「海洋強国」を 目指す中国政府の国家的意志とプロパガンダを見学者に強くアピールしていることにひどく鳥肌が立った。

  さて翌日、在来線の列車で杭州へ向かう予定であった。少しでもスムーズに上海を出立できるようにと、ホテルに戻った後、わざわざ 列車の切符を事前購入するために駅舎へ足を運んだ。切符を買うのにそれ以外のどんな方法があるのか、 情報を得ようにも言葉の壁があって要領を得なかった。全く不便であった。中国語に十分素養があって、 要領が分かれば、もっと円滑に購入できたのかもしれないが、、、。日本のように最寄りの鉄道駅で切符購入できず、わざわざ 本駅まで出向くことになってしまった。上海市街には幾つかの始発の鉄道駅がある。南に向かう列車の始発駅を教えてもらった。 地下鉄に乗って出向いてみると、それはガラス張りの巨大で近代的な駅舎であった。20年前には考えられなかった駅舎の光景がそこにあった。

  一階に沢山の切符販売窓口があり、予想通り大勢の人々が列をなしていた。そこに並んで辛抱強く順番を待った。切符を買うために メモしてきた中国語の幾つかの筆談用の単語や語句を差し示しながら、乗車したい列車についての情報を手振り身振りで、時に英語も 交えながら伝えた。

  例えば「私は…したい」、「…行きの切符1枚、片道」、「明日10時頃の列車」、「シートは軟座」などの語句を用意した。 窓口で係員から一言でも訊ねられれば返答のしようもない。耳をそばだてながらも、結局は分からないと手と 首を横に振るしか手がない。行き先の「杭州」の発音は中国語と日本語とでは全く異なり、係員は本当に杭州でよいのか聞き返した ようだった。だが、理解不能で返答しようもなかった。兎に角、無事に用足しができて、これで杭州に行けると安堵した。 とは言え、本当はもっと簡単で手間のかからない方法はないものか、探ってみる必要性と価値があった。

  地下鉄乗降時のどの駅でも、また鉄道駅やバスターミナルの何処の駅でもやたらとX線装置による手荷物検査があった。治安対策 の厳重さは、何かと緊張感をもたらし、肩を凝らせた。兎に角、中国語を理解しない者が中国を旅するには相当のタフさ がいるが、冒険心をもって旅を気楽に楽しもうという気構えが最も大事となる。

  杭州に着いてすぐに、タクシをーを拾い次の目的地である「拱宸橋(きょうしんきょう)」を目指した。「京杭大運河」に架かる 由緒ある橋で、古代中国様式の2本の橋脚からなるアーチ形の石造りの橋である。拱宸橋はいかにも古代中国の情趣と歴史性を感じさせる。 眼前には幅4、50メートルほどの大運河があった。舷側上縁から船底まで3~4メートルはある平底バージがひっきりなしに橋下 を通行して行く。運河の畔に立って、そこを行き交う艀をじっくりと眺めたのは初めてのことであった。これまでは大運河に 殆ど関心がなかったので、わざわざその畔に佇み物思いにふけることなどなかった。

  運河の側壁に「京杭大運河」の5文字が大きく記されていた。運河は北京と杭州との間を1800kmほど結ぶ。「万里の 長城」に次ぐ大国家事業であったに違いない。もちろん一挙に完成した訳ではなかった。 大運河の南方での起点が杭州であり、杭州での起点はこの「拱宸橋」と目されている。運河は杭州からさらに南の「寧波(ねいは)」 まで続くという。

  1200年代マルコ・ポーロは故国イタリアのベネチアに帰郷する時、北京からこの大運河を通って杭州までへ南下し、陸路でずっと 南の泉州まで辿り、そこから海路でペルシャ湾に面するホルムズへと旅した。ホルムズで上陸し、陸路でベネチアへと向かった とされる。当時数多の異国人が暮らし交易に従事していた泉州は「海のシルクロード」上の重要な港市であった。

  中国古代の歴史的情趣を感じさせる「拱宸橋」界隈や運河沿いの通りなどを暫しそぞろ歩きした。 古代中国の面影が溢れる街並みを存分に楽しんだ後、運河近傍 に創建された「京杭大運河博物館」を訪れた。紀元前から運河は部分的に開削されながら、時に歴代政権によって引き繋がれていき、 改修も繰り返されながらついに1800kmに及ぶ大運河となった。

  博物館では、隋王朝の煬帝(ようだい)による運河建設の歴史、彼の命により建設に徴用 された国民の過酷な労役を伝えるジオラマ、明王朝の「永楽帝」による大規模な改修工事の歴史や、政治・軍事の中心地となった 遷都後の北京と豊かな穀倉地帯である江南地域との舟運や、その舟運によってもたらされた諸都市の経済発展の歴史などをパネル展示する。

  また、元王朝がかつて黄河と揚子江間を最短距離で結ぶ運河を「南旺」地域の山間部に通そうと試みたが、それに失敗した。 その後、「永楽帝」が水源地の開拓と閘門の建設を行い、運河の蘇生を可能にした歴史をも展示する。その他、唐・明時代などの船舶模型、 運河の高低差を克服するための閘門システムなどの模型、運河を介する物資輸送・流通による舟運と経済社会発展との関係を学ぶことができる。

  さて、ネットで予約した杭州市街地の安ホテル(二つ星程度のホテル)に向かった。日本を旅立つ前に相当入念かつ慎重に ホテルの位置情報を手書きメモしていた。そのメモを頼りに探索したが、上海と同じ状況に陥り、探しあぐねていた。その時偶然通り かかった旅行代理店のオフィスへ躊躇なく飛び込み、助けを求めた。応対をしてくれた彼女は、デスクパソコンでウェブサイトやデジタル地図にアクセスし ながら、そのホテルを探してくれた。

  ホテルはこの近くで徒歩で10分もかからないと教えてくれた。パソコン上のネット地図を指し 示しながら、その画面まで見せてくれた。教えられた地区めがけて通りを辿った。この辺りにあるはずと集中して探索したが、 どうしても見当たらないので、止む無く代理店に逆戻りして、もう一度調べてもらった。結果は同じであった。探索エリアを 少し広げて必死に探し回ったが、「発見」できなかった。再び諦めの境地に至り覚悟を決めてホテル探しを一から始めることにした。

  翌日南京に向かう際乗車ポイントとなるバスターミナルを目指すことにした。そこには乗客らが前泊するためによく利用する ホテルが幾つもあろうかと推察したからである。予想した通りバスターミナルに併設した大きなホテルにありつき、早速チェックイン を試みた。ところが、何と外国人は宿泊させられないとあっさり拒絶された。粘って交渉する中国語会話力もないので、 止む無く外人が投宿できる近くのホテルを紹介してもらい、再び徒歩で向かった。

  ようやく四つ星程度の近代的ホテルに有りつくことができた。私には少々贅沢であったが、歩き疲れていたので投宿することにした。またもや、サバイバルゲーム をしてしまった。何故見つからなかったのか全く解せなかった。要するに、知る人が周りに殆どいないような小さな安ホテルのためなのか。 ホテルの実際の位置とネット地図上のそれとが相当ずれていたとしか思いようがなかった。もちろん、グーグル・マップにしっかり プロットされ、予約までできたにもかかわらずである。

  旅行代理店の女性が自信をもってパソコンのネット地図上で示してくれた矢印マークにすら、行き着けなかったことは衝撃であった。 何故に予約ホテルに辿りつけなかったのか摩訶不思議であり、まともな教訓の一つすら得られなかった。余計な宿泊代をまたもや 支払う羽目になってしまった。最早スマホを持ち歩く他方策はないように思われた。

  さて、翌日路線バスで南京へ向かった。乗客が少なかったので、大型バスでなくステップワゴンタイプの車両が手当てされ、快適に 高速道路を疾走した。南京のバスターミナルから早速、市街地北西部の城門近くの「静海寺」の境内にある「鄭和紀念館」を目指した。 何故、寺の境内に鄭和と所縁をもつ紀念館があるのか、両者の繋がりが見えず解せなかったが、とにかく訪ねてみたかった。

  紀念館入り口正面に鄭和の立像と幾つかの宝船(鄭和提督が座乗したいわば旗艦)の模型が飾られていた。そして、館内の周囲の 壁面には、鄭和艦隊が「南海遠征」に出立した場面を描写する図絵から始まって、ベトナム、マラッカ、セイロン、アフリカなどに 寄港した時の場面を描いた図絵が施されていた。例えば、鄭和による海賊の捕獲、各国王侯らによる接遇、キリンなどのアフリカの 珍しい動物の持ち帰りの場面など、最後には本寺建立の由来を屏風絵風に描いた巨大な絵図が飾られている。

  また、紀念館の裏の別館には、艦隊を構成した主要船舶(宝船・糧船・水船・馬船など)の模型、鄭和の遠征航海に関する パネルなどが施された鄭和航海史料館がある。 また、境内には歴史博物館があり、清王朝がアヘン戦争以来、西欧列強諸国などと数々の不平等条約を 結ばざるを得なかった過去の史実、さらに香港・マカオの返還に至るまでの列強諸国との不平等条約改訂交渉の歴史などを、関連写真や 外交文書写しなどを添えて解説している。その他、清時代以降における西欧列強による中国侵攻や海戦の 様子を走馬灯のように描いた壁画が、その寺院の境内を取り巻く回廊の壁面に描かれている。

  「鄭和紀念館」を訪問した際、偶然にも同館前の大通りの道路標識が目に留まった。宋代の「南京宝船歴遺工廠址」という史跡が市街地にある ことを知り、またとない機会と訪ねることにした。鄭和の宝船をその昔建造した造船所の跡からいろいろな歴史的遺物が出土したらしい。 例えば鄭和の宝船の部材などを特別拝観できるかもしれないと期待を膨らませつつ、タクシーを捕まえて出向いた。

  「宝船工廠跡」と確かに入り口門柱に掲示されていた。だが、ゲートは固く閉じられていた。運転手を介して守衛に事情を訊ねても らおうとしたが、言葉の壁でラチがあかなかった。周囲には相手をしてくれる係員は誰もいなかった。近年上海に開館した「航海博物館」 に殆どの貴重な遺物が移管されたが故に事実上閉館されたものと勝手に推察した。数日前に見学した「上海航海博物館」では、宝船の 巨大な木製舵棒などが展示されていた。それらしき説明書きが巨大舵棒に添付されていたことを思い出しての推察であった。

  さて、南京の市街地の北寄りに大河「長江 (揚子江)」が滔々と流れている。第二の目途はその大河をフェリーで対岸に渡ることであった。 未だかつて長江を船で遡ったことも横切ったこともなかった。「静海寺」からぶらぶら歩いてフェリー発着場を目指した。 さすがに大河であった。小雨が降っていたせいもあるが、対岸が見えない。少し下流には鉄道兼車道の長大橋が架かっていた。 橋の中ほどから向こうは小雨で霞んでうっすらとしか見えなかった。

  その後、長江の対岸に渡すフェリーに乗船するために、もう少し先にある船着き場に向かった。フェリー2隻が交互に長江をシャトル 運行されていた。船上からミルクコーヒー色に染まる大河が滔々と流れる様をずっと眺めていた。大型貨物船や平底バージが ひっきりなしに行き来している。日本では見られない大河風景である。中国の原風景の一つに違いない。

  切符を買い求めることもなく、大勢の人々が浮き桟橋に横付けされたフェリーに吸い込まれていく。渡河するのは道路を横切る のと同じで、渡し賃など不要なのであろう。上流の中洲を左舷にみなから、フェリーはその船脚を早めた。ひっきりなしに、 貨物船やバージなどが大河本流を行き来するので、横切りには神経を使うことであろう。大陸の大河は島国の日本の河川とは 丸で規模が異なる。渡河する人々を眺め、船の行き交う原風景を楽しんだ。

  そういえば、長江が大運河と交差するところを探訪することを今回の旅プランに入れておくことをすっかり忘れていた。大河と大運河 との「水の十字路」近くに建つ寺院の髙塔などから眺めることができれば最高であったのにと、後で後悔した。だが、次回の旅の楽しみ にしようとその思いをポケットにしまい込んだ。

  南京でもネットで予約済みのホテルへ向かった。グーグルのデジタル・マップからメモしておいた場所付近を歩き回り真剣に探した。 既に2回にわたって「ホテル未到達」となったため、合計3泊分のホテル代を余計に出費していた。あちこちで尋ねまわした。 安い部類に入るホテル「イビス(Ibis)」は世界でも名の知れたホテルチェーンであったので、幸いなことに同ホテルを知る人がいて 何とか辿り着けた。今回の旅で初めてネット予約済みホテルに辿り着けた。

  大通りに面した大きな建物であったこと、その側壁にホテル名が大きく記されていたのも幸いして、その近辺を行き交う地元の人々に かなり知られていたようである。だがしかし、私が自宅のパソコンのネット地図から写し取った位置と実際のそれとはやはり数百メートルは ずれていた。これで確信を強くした。上海、杭州ではいわばローカルなホテルであり、また一般的に名も知られていないホテルだったので、 私に訊ねられた人々にとっては全く知らぬ存ぜぬのホテルであったに違いない。

  ところで、「イビス・ホテル」でベッドのことについて、ホテルフロントのスタッフと対話を始めた。お互い日中英の言語が 通じ合わず会話にならなかった。その時、フロントの青年はスマホをポケットからひょいと取り出して、その中日語翻訳アプリ の画面を見ながら対話を始めた。2017年のことである。当時日本ではどの程度翻訳アプリが普及していたのか知る由も なかったが、私にはえらく先進的に見えて大変驚いた。日本はやはり相当出遅れているのであろうと感じた。

  余談だが、あるホテルでスマホを借りて少し遊んだ折のことである。中国発の最大の検索エンジン「バイドゥ(百度)」にキーワードを入れても、 URLアドレスを入力して検索しても、私のウェブサイトの「海洋総合辞典」がまったくヒットしなかった。それにショックであった。 東シナ海の大陸棚における境界線問題について論じるページは1、2あるものの、ほとんど学術的な辞典に特化したウェブサイトさえアクセス できなかったからである。ネットへのアクセスが相当制約されているものと見て取った。

  翌日早朝のこと、海や船とは全く関係のない歴史的遺跡を訪ねることにした。早朝地下鉄で南京駅に出向き、明日の新幹線 の切符を買った後、南京市街地を大きく取り囲む城壁のうちの「南門」へと向かった。南門に近い最寄の駅で下車し、城外から南門 をくぐり抜け市街地へと入城しようとした。

  旧日本軍による南京占領は大きな出来事であったに違いない。高校生の歴史教科書か何かで、 南京を攻略し占拠した大勢の旧日本軍兵士が巨大な南門に鈴なりになっている写真をみた記憶があった。それが南京の「南門」であった。 南門は門でも桁外れの巨大門であった。日本の城に築かれた何々門とかとは比べようもないほどの門であり、そのスケールは全く 半端でなかった。その城塞門の上部には見晴らし台・武器庫・兵舎のような大望楼があり、その一部が展示室となっていた。

  同展示室に日中戦争当時の古い写真なども掲示されていた。その中の一枚に釘付けとなり、一気に私の心臓の鼓動を高ぶらせた。 南門めがけて旧日本軍の戦車や兵士が攻略する写真の他、要塞門を陥落させた後に大勢の旧日本軍兵士が旧望楼の上に鈴なりとなっている 例の写真である。まさに見たかったその一枚の写真が展示されていた。その写真を穴が開くくらい眺めた。

  何故旧日本軍が誇らしげに城門に鈴なりになっているのだろうか。視座はその一点に集約された。何故日本の正規陸軍部隊が何故 にはるばる海を越え中国大陸に侵攻し攻め落とし、この「南門」に鈴なりになる必要があったのか、私的にはその大義名分や正当性 につき青年時代から理解できなかった。学校の教科書か歴史書かのどこかでこの写真を何度か見たことがあるが、その正当性に 関する記述がどうであったのかと記憶を辿るのだが、思い出せなかった。当時欧米列強諸国の帝国主義的領土拡張に乗り遅れた日本や ドイツなどが、そのイズムを実践しようともがいたプロセスの一コマということであろうか。

  まだ時間がたっぷりあったので、南京市街東方の郊外の「紫金山」南麓にある「明孝陵」(明の太祖・洪武帝朱元璋と后妃の陵墓) に出向くことにした。地鉄から下車し地上に出て陵墓方面に大通りを歩いていると、偶然にも「南京歴史博物館」正門前を通りかかった。 残念ながら博物館には立ち寄らず、タクシーを拾い王陵まで直行することにした。

  樹林が鬱蒼と茂り、荘厳さを漂わせる広大な王陵敷地内の参道を最奥にある陵墓へと歩を進めた。見学後その近傍にある「中山陵」 にある孫文の霊廟へとさらに足を延ばし拝観した。その後路線バスに乗り市街中心部へ戻り、孫文の「臨時革命政府」が置かれ、 蒋介石が執務したという「総統府跡」などを散策した。かくして、目途の「鄭和紀念館」を訪れ、長江を初めてフェリーで渡河体験し、 さらに両国史上ゆかりの深い南京市街を散策し「南門」をこの目に焼き付けることができた。

  さて、翌日新幹線で「蘇州」へ移動した。中国新幹線は初乗りであった。1987年頃旧満州の大平原を夜汽車に揺られて移動した時代から すれば、交通インフラの発展も信じがたいほどの「大爆進」の真っ只中にあると思えた。

  さて、日本でもその名が知られる「寒山寺」のすぐ傍を流れる京杭大運河を目指した。寒山寺では毎年大みそかの夜に除夜の鐘を 鳴らすのは日本と同じで恒例行事であった。NHKによってその風景が日本全国のお茶の間に生中継された。日本での大晦日の風物詩と なっていた一時期がある。

  実は既述の通り、10年ほど前にJICAのフォローアップ調査業務の一環で、「上海人民第六病院」を訪れた。過去に日本の無償資金協力として医療 機材が供与され、医療レベルの向上に貢献してきた。だが、それらの資機材が故障したり、経年劣化のため機能に低下を来して いることから、中国政府からの要請に応じて不具合状況を診断のうえ、何にどの程度の修理を施し機能を回復させるかという目的で現地 調査を行った。調査への技術的なサポートとして、かつて出向していたJICSの医療器材専門家の方々に参団してもらった。その時、病院側の 配慮で週末に蘇州に案内してもらったところが何とその「寒山寺」であった。

  当時お寺をじっくり拝観したが、ほぼそれだけの見学であった。「京杭大運河」がお寺のすぐ傍を流れていることなど全く知ら なかったし、また気付きもしなかった。北京と杭州を結ぶ大運河に関心が無ったし、その存在すらまともに知らなかったほどである。 当時大運河のことに少しでも予備知識と関心をもち、一目でも実際の姿を見たいという意識があったとすれば、参詣を機に千歳一隅 のチャンスとして「運河の畔に立ってみたい」と案内してくれた病院関係者へ願い出ていたに違いなかろう。だが、そんな意識 の片りんもなく素通りしてしまった。

  ところで、「寒山寺」の入り口の風景が不思議なくらいに鮮明に脳裏に刻まれていた。入り口のすぐ脇に狭い水路があり、そこに太鼓橋が架かっていて、 その橋の袂で全員で記念撮影をした記憶も鮮明である。その橋上から眺めた寺の入り口付近の土塀の色が黄色に塗られていた。 日本人の感覚からすれば、お寺らしくない一見変わった土塀色であったがゆえに、印象深かったのであろう。中国では黄色(黄金色)が 好まれ、また意味ある色であることを知らなかった。勿論そのカラーはあの時から変わってはいなかった。そして、 大運河はその太鼓橋を渡って2、3百メートル行ったところに延々と伸びていた。

  「灯台下暗し」とはこのことであった。「寒山寺」周辺の詳細地図を広げれば一目瞭然であった。寺の門前を流れるのは古運河の ような狭い水路であり、そのすぐ先で幅4、50メートルの「京杭大運河」の本流と繋がっていた。 実は太鼓橋を渡ったところの地所は細長い中洲であった訳である。「寒山寺」をはじめ、中洲一帯は観光史跡としてきれいに整備され、古い中国の 歴史的情趣を彷彿とさせていた。そして、中洲の反対側には、その古運河と並行して大運河本流が流れていた。今回初めて知った ことである。古運河は狭いので平底の観光遊覧船が行き来するくらいであった。

  中洲の最北端に立ってみると、「寒山寺」、中洲、大運河の地理的位置がよく理解できた。最北端に立つということは、いわば 運河のど真ん中に立つのと同じで、遥か遠くまで運河を見通すことができた。運河に架かる橋桁は低い位置にあるので普通の貨物船は通航する ことはできないが、バージを3,4隻も連結した平底運搬船がひっきりなしに行き来している。

  重量物を満載しているのであろう、バージは深々と船体を沈め、その水線は舷側上縁ぎりぎりまで迫っている。他船と行き違う時は、 その航跡波が舷側上縁を越波するように思えるほどである。こんな大規模な人工水路が北京-杭州間1800kmも開削され(一部は自然の 湖沼などが利用されているとしても)、整備されたと考えると、「万里の長城」と並び称される古代からの大土木遺産であるに違いない。

  その後、どうしても訪ねたい史跡があった。ある紀行記を読んで知った「宝帯橋」をこの目に焼き付けたいと思っていた。 蘇州市街中心部からして南部郊外にその史跡はあった。自力で辿りつけるか不安であったが、地下鉄を乗り継ぎ現地へ向かった。

  最寄の駅で降り立ち、向かうべき方向を通りかかりの青年に訊ねた。ここでも、訊ねられた彼は、すぐにスマホを取り出してデジタル地図で位置を見定めよう とした。だが、彼はその橋を特定できず不案内であった。恐らくマップ上に「宝帯橋」という名称が記されていなかったのであろう。 タクシーを全くキャッチできないほど町はずれまで来ていた。

  橋の方向だけは何とか見定めて、閑散とした大通りを歩き始めた。途中から砂利道となり狭くなり出した。辺りはススキが生える ような野原で、ところどころ廃墟と化したような工場が建ち並んでいた。 少し心細かったが、途中「宝帯橋」と書かれた手書きの立て看板を見つけ、安堵して道なりに進んだ。案内板はそれが 唯一であった。30分ほど歩いた先にその橋はあった。橋は大運河の「水の十字路」の一角にあった。橋といえども運河に架かる橋ではない。 しかも、橋という名が付けられているものの、橋とは異なる代物であった。

  「宝帯橋」は大運河が十字形に交差するところの一角に築造されていた。橋の先端部のまだ先にある運河の十字路の角まで進み出た。 ついに運河の真っ只中に身を置くことができ、心は酷く高ぶり感涙状態であった。

  南の杭州方面から運河本流を北上してくるバージが多かった。十字路をそのまま北上すれば蘇州の市街地へと通じ、小枝分かれ しながら再び運河本流へと繋がって行く。十字路を右折れして東へ向かえば湖か沼に行き当たり、出口はなさそうだ。十字路を 左折れして西へ向かうのが運河本流であり、「寒山寺」の傍を経て暫く進めばいずれは揚子江と交差するはずである。更に何百㎞ほど 北上すれば黄河とも交わり、ついには北京へと通じる。

  「宝帯橋」や十字路近辺を歩き回り、バージの行き来を1時間ほど飽きることもなく観察した。そして、ある一つのことに 気付いた。殆どのバージは十字路で直角に曲がり、杭州から蘇州へと向かうか、その逆方向へと航行ししており、直進する船は殆どなかった。 そして、運河の幅は優に4、50メートルはあるとはいえ、いずれのバージも、対向船が来ようと来まいとスピードを緩める 気配を見せることもなく、速力を保ったまま十字路へ突進し一気に90度曲がろうとしていた。

  何故そうなのか単純な疑問が湧いた。暫く観察した結果、ある結論に至った。船頭が90度転針することに恐れをなして、十字路 手前でかなりスピード・ダウンしたとするとどうなるか。舵効(舵の効き)が俄然悪くなり、バージはしっかりとほぼ直角にターンできず、 バージの船尾が大きく外側に振れ、水路からはみ出して土手に自船をぶつけるか、自船の船尾を対向船にぶつけたりするリスクが増すからであろう。

  さて、何故そこに、人が渡れない「橋」があるのか。運河十字路の北西の角に造られた長さ100メートルほどの橋のことである。 幅は5メートルほどで、橋といっても欄干はまったくない。また、上部構造物はまるで土手のようである。橋の下部構造としては、 10ほどのアーチ形の水はけ口があって、運河の水が橋の内陸側にある遊水池へと通じている。だが、水の通り路は小さくて小舟すら 通れそうになかった。

  一見したところ、運河沿いに造作されたレンガ製土手のようにも見える。「宝帯橋」の上を辿ってみても、 運河の対岸へ渡れる訳でもない。何故に橋の機能を果たさない「宝の帯の橋」があるのか。その用途や機能は何か。橋の内陸側にある 遊水池の中に一本の土手が斜めに築造され、その上にモニュメントが立っているのを見つけた。それがヒントであった。土手にはロープ を肩にかけ何かを引っ張っている数人の立像が据えられていた。

  その昔、運河を行き来する船は、内燃機関などを備えた動力船ではなく、櫓櫂と帆掛けで進む、風力と人力を頼りとする船であった。 この辺りは低い平地ばかりで強風が吹くことで有名であったらしい。帆や櫓櫂で進む船が強風に煽られ、この十字路で90度方向転換する ことは困難を伴ったものと想像するに難くなかった。それ故に、引き船をする人夫、即ち「船曳人」が橋上に並び、船から人夫へロープ を渡し、船の進路を90度転向するに当たって人力でもって誘導した。かくして、「宝帯橋」は橋という名前が付されているが、橋はその昔 運河の十字路での船曳きと方向転換のために使われる、船曳き人夫の作業用施設、即ち「船曳道」であった。

  ところで余談であるが、南北1800kmに及ぶ「京杭大運河」の幅はいろいろであり、平均すれば5、60メートルはあるのかもし れない。そこを時に大勢の船曳き人夫の人力を借りながら運河を辿ったのであろうが、基本的には帆と舵の操船を主体にして何百、何千kmも 行き来したのであろうか。それとも櫓櫂による人力をもって何百㎞も航行したのであろうか。その実際の操船術について大変興味を感じる ところである。思いもよらない高度な操船技術が隠されているような気がする。狭い運河を舵と帆でどうやって長距離を航行したのか、私には不思議であり謎めいている。いずれ謎を深掘り したい。

  さて、小運河網が張り巡らされている「蘇州」の市街地に戻って、お上りさんになった。即ち、中国古来の街並みとその情趣がたっぷりと遺される 有名な観光地「山唐街」を訪ねた。蘇州の中心街には、「京杭大運河」から枝分かれした支線・支脈的な狭い古運河が迷路のように 縦横斜めに走っている。山唐街にはそんな小運河沿いに旧家が建ち並び、大勢の観光客が運河岸の回廊に沿って川面を眺めながら そぞろ歩きする。

  さて、地下鉄「山唐街」駅で下車し、運河を行き交う屋形船を横目に見ながら、運河沿いの石畳の小道をそぞろ歩きしてみた。 中華風提灯が軒下にぶら下がり、その明かりが運河の水面に映えるという古街風情はエキゾチックであった。暫し古代中国にタイム スリップした。運河沿いの一軒のバーに腰を下ろすことにした。運河沿いに並べられたテーブルに席を取り、ビールと ツマミを注文した。そして、運河と古街風景とが織りなす情趣溢れる世界に身を置きながら、今回の旅で初めて心をゆったりと 保ちつつ心穏やかにして暫し旅の疲れを癒すことができた。

  ところで、ネットで予約した蘇州でのホテルは地下駅から地上に出たところの大通りに面し、しかもその駅から至近距離にあった。 ホテルは近代的で大型の建物であったので、通りがかりの男性に一度訊ねただけで探し当てることができた。 民泊や安ホテルを泊まり歩く場合は、それなりのリスクを覚悟すべきことを実感した。それに、心のもち様として、何よりも 「冒険心」を奮い立たせ、好奇心を旺盛にしながら、旅で出会う様々な不都合を冒険として楽しむことが大切と心した。

  翌日上海へ戻り、ようやく上海、杭州、南京、蘇州での運河、海洋博物館、その他歴史文化史跡などを巡る旅を終え、起点とした上海 へと向かった。ホテルでチェックイン後まだたっぷりと時間が残されていたので、「上海自然博物館」へ出掛けることにした。 なかなか近代的な博物館であった。魚貝類、海洋哺乳類など海の生き物の剥製や骨格標本もそこそこ拝観できた。夕刻、旅の初めから互いに 全く別行動をしていた友人の部屋を訪ね、無事を確かめ合った。

  ホテル脇の大通りに出て、中華飯店で夕食を共にしながら、この一週間ほどの旅の「成果」と「失敗譚」を口角泡を飛ばしながら 語り合った。中国でのスマホの普及事情、地下鉄・鉄道駅などの至るところでの公安対策の徹底ぶり、監視カメラを含む市民に対する 監視の徹底ぶり、急成長がもたらした中国国民の自信や自尊心の精神的高揚などについて感じる所を思い出すままに語り合った。 さて、翌朝暗いうちに起床した私は、再び一人で新国際空港に向かい機上の人となって帰国の途に就いた。

  今回の旅でいよいよスマホの携行とフル活用が海外の旅に必須であることを思い知らされた。このままだと、70歳にして 「スマホからの落ちこぼれ老人」か「スマホ難民」になってしまうと二人して危機感を抱いた。

  数か月後、SIMフリーの格安スマホを買った。インターネットでのキーワードや地図検索、メールの機能などを必死に使えるように「脳トレ」に励んだ。 また、旅を共にした友人にも何度も勧め、彼もようやく2年後にはスマホを手にし、脳トレに挑戦した。

  ところで、私のスマホの新興通信会社「フリーテル」はその後1年ほどで倒産した。そして、NTTドコモなどの通信大手3社の独占的 シェアに挑戦していた「楽天」に吸収合併された。今では手放すことができないほど重宝している。その後何度か海外へ出掛けたが、空港やホテルなどの「Wi-Fi通信」 を利用しながらでの活用を始めた。国内の旅では、格安の中古レンタカーのカーナビは旧式のものしか装備されておらず余り役立たない。 その代替代としてスマホのグーグルマップをフルに活用してきた。

  だがしかし、2020年1月頃に新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)により、国内外を旅するどころではなくなった。 2020年7月開催予定だった「東京オリンピック・パラリンピック」も1年延期され、翌年に開催された。パンデミックは2022年末期まで猛威を 振るった。

  2022年4・5月頃には、中国は「ゼロコロナ政策」で完全封じ込めにやっきであった。上海がほぼ全面的に都市封鎖に追い込まれ、 一千万人の市民生活に大きな影響が出た。ワクチン未接種者も感染や重傷化のリスクを殆ど負うことなく海外へ安心して旅できる のは、まだ1、2年先の2023、24年頃となるものと自己予測している(実際それが現実のものとなったのは2023年以降であった)。

  中国への一人旅は冒険であった。何時、警察や公安当局に理由にもならない理由をこじつけられてしょっ引かれはしないかと、 頭の片隅に不安を抱えながらの旅であった。語学の壁、宿泊や切符のことなどで何かと緊張やストレスが付きまとった。 とにかく、今後の旅に大いに役立てられそうな反省点や教訓がいろいろあった。そういう意味でも旅の成果は大であった。

  次回の運河の旅では、揚子江と「京杭大運河」が交わる揚州から北方の黄河まで辿ってみたい。また、時改めて長江の河下り、特に 「三峡ダム」の大閘門システムを通航してみたい。さらに夢は膨らむ。「海のシルクロード」の中国の起点であり、マルコ・ポーロ の海路の出立点となった「泉州」の街を探索し、是非とも「海上交通史博物館」をも訪ねる予定である。倹約式の 弾丸ツアー計画を今後少しずつ綿密に組み立てておく予定である。もっとも、実現が余りにも遠い先にずれこむならば、年齢には勝てないので、 単独行ではなく、現地でガイド兼通訳の世話になってでも放浪の旅を続けることにしたい。


  さて、最後に「京杭大運河」に関するミニ情報をここに記しておきたい。

    中国・京杭(けいこう)大運河図(海洋辞典/select898.html)

    * 紀元前486年、京杭(けいこう)大運河建設が、当初、水路の整備から始まる (京杭大運河は現在も利用に供されている世界 最長の運河である)。
    * 紀元前340年、黄河と長江が、運河と河川によって結ばれる。

    * 紀元前220年頃 (秦の時代)、始皇帝により、長江 (揚子江) 支流と珠江支流との間にある分水嶺を越えて結ぶ運河が開削された。 現在の桂林の近くに立地するこの運河は「霊渠」と呼ばれる。
    自然の川水と運河に必要な水とを使い分けながら、⌈斗門⌋と呼ばれる水門で水位調節がなされる。その技術は現在でも 高く評価されている。
    霊渠は、鉄道が敷設されるまでの2200年にわたり、舟運だけでなく灌漑、洪水制御の機能を担って利用されてきた。

    * 秦の時代、鄭国の渭水(いすい)盆地に⌈鄭国渠⌋が造作される。また、大治水灌漑事業の事例として、 成都の西北65kmの揚子江の支流・岷江(びんこう)の流れを、分水堤を造って二分し、その水を2,000本以上の灌漑用水路で導き、 成都平野に灌漑することによって、肥沃な土地を開発し農業生産力を増大させた。2000年以上経た現在にいたるも使用されている。

    * 紀元後581年、文帝(楊堅・ようけん)、隋を建国し、大興城(だいこうじょう)(長安)に都を置く。
    * 584年、文帝、大運河の建設を開始する:
    ・ 広通渠(こうつうきょ): 大興城(長安)から黄河へいたる (584年)。
    ・ 山陽瀆(さんようとく): 淮河(わいが)(または、淮水・わいすい)と長江(揚子江)を結ぶ (587年)。
    * 605年~610年、煬帝(ようだい)(文帝の子)、華北と江南を結ぶ京杭大運河を完成する。すなわち、
    ・ 通済渠(つうさいきょ): 黄河と淮河を結ぶ (605年)。
    ・ 永済渠(えいさいきょ): 黄河から北京にいたる (608年)。
    ・ 江南河: 長江と余杭(よこう)(杭州)を結ぶ (610年)。


このページのトップに戻る /Back to the Pagetop.


    第29章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その3)
    第3節 中国の上海航海博物館と京杭大運河(杭州・南京・蘇州)を訪ねる


     Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


       第29章・目次
      第1節: 香港とマカオの海洋博物館などを駆け巡る/2007.7パック旅/2015.11
      第2節: 台湾の基隆・淡江・高雄の海と港を巡り、海洋博物館を探訪する/2016.6パック、 2017.2淡江
      第3節: 中国の上海航海博物館と京杭大運河(杭州・南京・蘇州)を訪ねる/2017.4
      第4節: ポルトガルからスペインを経て、ギリシア・エーゲ海に憩う/2018.9
       [参考資料](1)旅 程: ポルトガルからスペインを経てギリシア・エーゲ海 へ/(2)略年表: エンリケ航海王子・ディアス・バスコ ダガマ・支倉
       常長・コロンブス

      第5節: 放浪の旅は続く/世界は面白いものに満ちている