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    第29章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その3)
    第4節 ポルトガルからスペインを経て、ギリシア・エーゲ海に憩う


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       第29章・目次
      第1節: 香港とマカオの海洋博物館などを駆け巡る/2007.7パック旅/2015.11
      第2節: 台湾の基隆・淡江・高雄の海と港を巡り、海洋博物館を探訪する/2016.6パック、 2017.2淡江
      第3節: 中国の上海航海博物館と京杭大運河(杭州・南京・蘇州)を訪ねる/2017.4
      第4節: ポルトガルからスペインを経て、ギリシア・エーゲ海に憩う/2018.9
       [参考資料](1)旅 程: ポルトガルからスペインを経てギリシア・エーゲ海 へ/(2)略年表: エンリケ航海王子・ディアス・バスコ ダガマ・支倉
       常長・コロンブス

      第5節: 放浪の旅は続く/世界は面白いものに満ちている


  2018年9月の満70歳になる直前のこと、欧州はポルトガル、スペイン、スイス、ギリシャなどへ長女と孫とで旅に出掛けることになった。 長女は国内外の風景などをスケッチしたり商品パッケージをデザインする画家・イラストレーターを生業にしてきた。スケッチの キャンバスは洋書の古本の余白ページなどであった。孫娘が5歳となり、旅に出るにもさほど手がかからなくたっていたが、旅中に 長女がスケッチに専念するには、誰かがベビーシッターをしなければならなかった。ちょっと目を放すと、突然走り回ったり、危険な ことをしたり、とてもじっとしてはいない年頃であった。かくして、私が子守り役を仰せつかった。

  旅費は折半を基本とした。旅程の1/3は娘婿も同行することになったので、その間私は別行動を取ることができた。その後半の の旅程では娘婿が帰国するので、長女・孫に合流し同一行動を取ることになった。孫が少しは大きくなったので、長女はそろそろ 海外でのスケッチングを再開できる頃になったという訳である。旅の同一行動部分については、長女と手分けしてフライト や宿泊先などの予約をした。

  先ず、ローマに飛んだ。ローマ中央駅前の安ホテルに宿を取った。翌日お上りさんになって、例のコロッシアムに出掛けた。絵を描いて いる間孫をベビーカーに乗せてその界隈を散策した。その翌日には娘婿がローマに着いたので、私は単独行動に移ることができた。 電車を乗り継いでローマ近郊のアルバノ・タツィアレへ、そこから路線バスでジェンツアノ・ディ・ローマへ、そこからタクシーを 使って「ネミ湖」の湖岸にある「ネミ湖ローマ船博物館」へと出向いた。道中では、田舎の素晴らしい田園風景に出会うことができた。

  さて、館内に入って初めて分かったことがある。ネミ湖底から発掘された巨大な古代ローマ船は、ミニのローマ船2隻(模型)に取って 代わっていた。最初はこれが例の発掘船だと思い込み見学していた。それにしても随分小さなローマ船だなと思った。だが、館内の 展示パネルの解説や写真を巡覧して行くうちにようやく事情を理解できた。オリジナルのローマ船は火災のため焼失していたのだ。

  焼失を免れたほんの少しの遺物や、火災後に創出され陳列される模型などを見学した。湖底からの当時の発掘現場の様子などを写した写真、 湖底から掘り出すために湖から水抜きをするため地下トンネルが建設されたが、その工事を写すパネル、ローマ船の船尾やラダー(舵部) などの実物大レプリカなどを見学した。

  さて、翌日娘夫婦・孫と別れてポルトガルへと向かった。彼ら3人は長距離夜行列車でシチリア島へスケッチの旅に出掛けた。 私は、電車でローマ郊外の「フィミチーノ国際空港」(いわゆるローマ空港のこと)に向かった。リスボンまでは1万円ほどの格安 航空便を利用できた。とにかく安かった。さて、空港駅で下車後計画通り、徒歩で数キロ離れた「ローマ船博物館」に向かった。

  ネットで事前にその場所を詳しく調べておいたので、ほぼ順調にその博物館へ辿り着いた。だが、何か様子がおかしかった。何と 博物館の正面玄関は閉じられていた。完全に閉館したのか、どこかへ移転してしまったのか。何の貼り紙もなかった。ネットでは そのようなことの案内は目に留まらなかった。残念な思いを引きずりながら空港へ戻り、リスボンへの機上の人となった。

  リスボンに夜遅く到着し、空港ではいつものこととしてクレジットカードで現地通貨をATMからキャッシングした。そして、その足で 地下鉄にて市街地にある「インデペンデンテ駅」へ向かった。学生寮のようなホステルは大通りに面して いたので、一度訊ねただけで殆ど迷うことなく辿り着いた。学生寮のような様相で、しかも接客用フロントデスクもなく誰一人いな かった。事前のメールのやりとりで取得していた情報を基に、玄関脇のデジタルキーボックスを操作して開錠し入館した。玄関ホールで 部屋鍵をピックアップして自室へと向かった。ネットで安宿を予約すると、殆どこういうタイプの宿泊所が多かった。2018年の事である。

  余談だが、例えばかつて旅した英国では、ドミトリーのような宿泊所の玄関に着くと、ドアに貼り付けられた紙によって指示された。それによれば、先ず記載の番号に 電話をよこすように指示されていた。そこで電話をすると、応対の女性に玄関脇にあるボックスの開錠番号と部屋番号を教えられた。当時携帯電話を もたないため、公衆電話を探すために右往左往するという憂き目にあうことは必定であった(幸いにも、振り向くと通りの反対側に公衆電話 があったので助かった)。さて、ボックスを開いて4桁のキーナンバーを押しドアを開けて中へ。ホール隅にあるキーボックスから 部屋の鍵を取り出し、自室へと転がり込んだ。今回のリスボンでは、過去の経験から少しは慣れていたので驚きはしなかったが、 これがネット予約での安宿の「ノーマル」な入館入室方法であった。

  初めてのリスボン宿泊ということで興奮していたが、翌日朝早く目が覚め地下鉄とトラムを乗り継いで「ベレン駅」へ。 少し歩いてテーベ川の畔に立った。現実にやっと畔に立つことができた。あの時の思いから20年ほどの時が流れていた。

  JICS出向時代アフリカ大陸西岸のガボン沖にあって、それも赤道よりもまだわずかに北側にある(つまりまだ北半球にある) 「サントメ・プリンシペ」という旧ポルトガル領の島国に出張した時のことである。イベリア航空のリスボン経由での出張であった。 搭乗機は、全ての屋根がレンガ色に統一された美しい市街の上空を、テーベ川に沿ってまさに着陸しようとしていた。 その時偶然にも、テーベ川河岸に立つリスボンのランドマークである「発見のモニュメント」を機窓から遠目に垣間見ることができた。 それを昨日のように記憶していた。いつの日か、大航海時代を世界に先駆けて切り拓いた海洋国家のポルトガルの、このリスボンの 地に戻って来て、モニュメントの傍に立ちしっかり見上げてみたいと思っていた。あれ以来20年以上の月日が過ぎていたが、2018年 ようやく実現できることになり、万感の思いがこみ上げ感涙しそうになった。

  余談であるが、その出張時初めて「サハラ砂漠」の西端上空を飛行した。砂の大地が地平線の遥か彼方まで続く様は 壮大であり、その砂漠風景に釘付けとなった。ラクダの隊商か何か動くものはないか、あるいは人工構造物はないのか食い入るように 眺め続けた。双眼鏡でもあれば間違いなく砂紋が見て取れたであろう。椰子の森や集落のあるオアシスはないのかずっと探し続けた。 だが、砂ばかりの世界しか見えなかった。そのうち見飽きてシートに深々と沈み込んでうとうとと眠り込んだ。2時間ほど飛行したと 察したが、砂漠風景は変わってはいなかった。

  サントメ・プリンシペからの帰途、同国を兼轄する日本大使館が所在するガボン共和国の首都リーブルビルに報告のため立ち寄った。 それでもまだ赤道を南へ越えることにはならなかった。JICAに奉職して34年ほどの間に4回の在外赴任と数多くの海外出張をした。 そして、南米大陸や東南アジアでは何度も赤道を越え、南半球に足を踏み入れ南十字星を見上げる機会があった。だがしかし、 アフリカ大陸においては一度も赤道を越えて業務を果たすことはなかった。偏ったこの経験はJICA職員の私にとっては少々肩身の狭い ことであった。

  休題閑話。リスボンではシャワー・トイレ共同の大学ドミトリーのようなホステルに投宿した。朝から夕方までウォーターフロントや博物館など をほっつき歩くのが私の流儀なので、ホテルに帰ればほぼ寝るだけのこと。それ故に安宿で十分であった。リスボン訪問の最大の目途は 海洋博物館、その他時間が許せば歴史的史跡を訪ねることであった。翌朝、興奮していたためか朝早く目覚めてしまい、 夜が白みはじめた頃にはホステルを後にして街に出た。

  先ずテーベ川畔に立つ「発見のモニュメント」、さらに「ベレンの塔」へと足を向けた。地下鉄で「カイス・ド・ソドレ駅」へ。そこで 地上の電車に乗り換えて「ベレン駅」で下車した。駅ははテーベ川の畔にあった。快晴の空に朝日が昇りテーベ川の水面を明るく照ら していた。岸辺は何kmも公園になっていて、早朝のことゆえ、ジョギングする市民くらいで、人影もほとんどなく静まり返り空気も 爽快であった。同じ岸沿いのずっと先遠くには例の「発見のモニュメント」が小さく立ち誇っていた。そこをめがけてのんびりと足を進めた。

  高くそびえる巨大な「発見のモニュメント」の東側を太陽が強烈に照らし、それを仰ぎ見ては感激感涙であった。 人影もない早朝のこと、モニュメントの回りを左右前後往ったり来たりしてはそれを一人占めした。そして、モニュメントの 先頭に立つ「ヘンリー航海王子」をはじめ、左右に整列する歴史上の人物の立像を何度も眺めズームアップを最大にして切り撮った。

  ヘンリー王子は帆船模型を胸に抱え、アフリカ大陸西岸沿いに南下し「インディアス」(インド、中国、日本などの東方の国々) を目指す探検家たちを率いている。15世紀から16世紀にかけてのポルトガルによる喜望峰回航や「インディアス」への航路開拓への 挑戦を象徴している。王子に次いでバスコ・ダ・ガマやジル・エアネスなど20人以上の立像が王子につき従う。興奮しながら何度も 行ったり来たりしつつ、15~16世紀の海洋探検の英雄たちの像を最大限ズームアップして撮りまくった。

  モニュメントから少し上流の同じ川岸には「ベレンの塔」が立ち誇っている。テーベ川岸沿いの小道を踏みしめるように辿り、塔の真下に 辿り着いた。巨岩をしっかりと積み上げ築造された塔を見上げた。塔の陸地側の周りは掘割で防御されていて、一本の橋で 結ばれていた。お上りさんになって塔の最上階へ登った。塔の中は殆ど飾り気も展示もなかった。

  正面の畔にはミルクコーヒーのような色のテーベ川が流れ、背後にはリスボンの街が丘に向かって広がる。眼下に目をやると、鉄路をはさんだ向こう側に「ジェロニモス修道院」や「サンタマリア教会」が どっしりと控えていた。「海洋博物館」も修道院の一角にあるはずであった。塔ではその昔テーベ川を行き来する数多の船を監視し、出迎え また見送ったことであろう。 

  その後、海洋博物館へ真っ直ぐ向かった。かつて「地理的発見の時代」、いわゆる大航海時代を先導した海洋王国ポルトガルの海洋博物館 の入り口を初めて目にした時は、大人げなく興奮し感激した。エントランスホールに入ると「エンリケ航海王子」の巨大な 座像がどっしりと据えられていて、訪問者を迎え入れる。

  彼の周りには、ギル・エアネス、ディアス、バスコ・ダ・ガマなどの、アフリカ大陸西岸を南下しインディアスへの航路を開拓した 歴史上名高い航海探検家5人ほどの大きな立像が取り囲んでいた。そして、一枚の巨大な世界図には、1400~1500年代にかけてアフリカ 大陸西岸沿いに海洋探検にチャレンジした歴代の航海士たちの遠征ルートが記されている。

  館内にはかつての海洋王国の歴史を誇るかのように、また同国の海洋史をなぞるかのように、数多の船模型、帆船画、海景画、6双の 南蛮屏風絵などが展示される。その後、「ジェロニモス修道院」に隣接する「サンタマリア教会」に向かった。そこにはバスコ・ダ・ ガマと国民的詩人カモンイスが眠る2つの壮麗な棺が安置される。

  翌日早朝、「国立自然史博物館」へと向かった。地下鉄の「レスタウラドーレス駅」で下車し、大通りを歩いて博物館へと向かった。 ある細い路地と交差するところで、図らずもリスボンのシンボル的存在である、急坂を上り下りする「グロリア・ケーブルカー」の ような可愛い市電に出くわした。だが、朝早いのかまだ運行されていなかった。

  急坂をそのレールに沿って上り切り、再び大通りに出て、リスボンらしい古い街並みを愛でながら博物館へと辿った。 途中、こぎれいなカフェテラスで2度もゆったりとカフェを楽しんだ。大通りは小高い丘の背を走っているようで、時折テーベ川の 水面を遠くに見下ろすことができた。週末の土曜日は博物館は午後からのオープンであることを現地で知り、近くのレストランへ避難し、 そこでランチを取りながらゆっくりと時間調整することにした。

  博物館では思いがけず、深海底鉱物資源とその開発をテーマにした特別企画展に遭遇して大いに喜んだ。熱水鉱床などの岩石破片 などの展示、マンガン団塊の採鉱システムのジオラマ的展示、アゾレス諸島などでの海洋調査、ポルトガルの200海里排他的経済水域 などに関する多くの説明パネルなど、予期しなかった海洋関連の展示を巡覧することができ大きな成果を享受できた。博物館などに 立ち寄れば何かしら思いがけない展示文物に出会うことを、今回も実体験することになった。

  翌日、再び地下鉄で「カイス・ド・ソドレ駅」へ、そこで乗り換え別の電車でテーベ川沿いに「ラスカイス」というリスボン郊外の 町へ向かった。そこはリスボン市民が最も身近に海辺の散歩、甲羅干し、海水浴などを楽しめる海洋性リゾート地であった。そこから 路線バスで「ロカ岬」へと向かった。そこはユーラシア大陸の最西端にあり、海抜100メートル以上の断崖が続く名高い岬である。 いかにもユーラシア大陸の地の果てであり、いかにも陸と海の境界を感じさせる。

  「ロカ岬」はポルトガルの国民的英雄であり偉大な詩人である「カモンイス」で知られている。岬では彼が詠った詩の一節「陸ここに果て海 始まる」が刻まれる記念碑の石塔が出迎えてくれる。ロカ岬の「ロカ」とはスペイン語、ポルトガル語で「岩」という意味である。 岬は正しく岩だらけの、ぞっとするような断崖絶壁が連なり、そこに灯台が建つ。石塔近くに観光案内所があって、私も記念にとそこで 名前入り「ロカ岬訪問証書」を作成してもらった。

  4日間のリスボン滞在は余りにも短かった。後ろ髪を引かれながら長距離列車でポルトガル南端近くにある 「ラゴス」へと向かった。テーベ川の鉄道橋を渡り一路南下した。到着したラゴスは陽光がさんさんと降り注ぐ、一見したところ地中海風の 海洋性リゾート都市であった。

  ラゴスでは昔の「奴隷市場」や街はずれに建つ要塞などをぶらぶらと散策した。城壁内の旧市街地に足を踏み入れてみると、面白い 光景に出くわした。漁師なのであろうか、初老の男性が上半身裸で、しかも路地の道端で七輪に炭火を起こし、四角い金網でサンマを 焼いていた。かつて日本でもよく見られたのどかな風景と重なり合った。ラゴスでそんなレトロで庶民的な風景に出会うとは、 大いに感激して、七輪で魚を焼く彼に被写体になってもらった。写真タイトルを「炭火で魚焼くラゴスの漁師」とすることにした。

  その後、路線バスで「ビラ・ド・ビスポ」という、国道からそれて「ザグレス岬」へと通じる街道のゲートウェイとなっている 小さな町に出向いた。そこで、ネットで予約しておいた民宿を探した。小さな町ながらかなり迷ってしまったが、電話で確認したりして何とか 辿り着けた。根が尽きてもう少しで民宿探しを諦め、他の宿を探すか野宿するところであった。 

  翌日、再びバスで、エンリケ航海王子が15世紀に、航海術、天文学、造船学などについて航海探検家に研究させ、彼らを育成しよう と「航海学校」を開校したといわれるサグレス岬へと急いだ。便数が少なくラゴスに戻るバスの時刻には留意を要する。

  さて、早朝からゴミ収集のためザグレスの街中を動き回る清掃車に出会った。若く陽気な運転手は、徒歩で街をうろつく私を 乗せてくれて、わざわざ市街中心部を周回してくれた。その後、「航海学校」があったという岬の先端敷地内へ入場する城壁門のところ まで送り届けてくれた。かくして、目途であった航海学校があったとされる敷地内に入った。そこは、いわば大航海時代の黎明期 に活躍した多くの探検家らが出入りした場所であった。そう思うと鼓動が一気に高まった。

  広大な敷地はほぼ三角形をしていて、その底辺には城壁門が存し、他の2辺は断崖絶壁の海岸線となっている。古びた教会、 地面に描かれた半径50メートルほどの巨大な日時計、極小の灯台などが散在していた。断崖に沿って荒涼とした平坦な敷地内 を1時間ほどかけて周回した。

  岬の西方4㎞ほど離れた海の先には「サン・ビセンテ岬」を臨むことができた。そこへも足を伸ばした。大航海時代には数多の航海 探検家がサグレス岬やサンビセンテ岬を後方に見ながら、アフリカ大陸西岸のボジャドール岬、コンゴ川、さらにはアフリカ大陸回航 やインディアスを目指して、大陸沿いに南下して行った。それを先導したのがエンリケ航海王子であった。

  その後、ラゴスに戻った。電車で「ファーロ」という港町へ移動する前に、ラゴス鉄道駅舎近くにあった「発見の蝋人形博物館」という 歴史文化施設に立ち寄った。何10体もの蝋人形を配したジオラマをもって、大航海時代の節目節目の歴史的出来事が解説されている。

  その後電車でファーロへ向かった。到着したのは夜のとばりが下りた頃で、駅周辺を歩き回ってようやくホテルに有り付いた。 翌日目途にしていた「海洋博物館」に午前9時頃には訪ねた。博物館はホテルからほど近くにある掘り込み式の港の埠頭前にあった。 ファーロの地先の海には遠浅の海岸や沼地が広がっていて、外海から水路を伝って市街中心部にあるこの港兼マリーナへと通じていた。 博物館は「ポルトガル海洋警察(コーストガード)」付属の海洋文化施設であり、同海洋警察のファーロ支所建物内の2階にあった。

  翌日マリーナ傍にある海洋博物館に出向いた。当日における海洋博物館の開館時間は何と午後2時からであった。午前中に見学を 終えて、午後には路線バスで国境を越えてスペインの「ウェルバ」まで行き着きたかった。そこで、支所兼博物館の入り口に立つ当直 士官に事情を話して何とか特別に入館を許可してもらいたいと、無理筋であることを百も承知で交渉した。この博物館を見学する ために日本からわざわざやって来たこと、また午後にはどうしても国境を越えてウェルバに行く予定であることなどを何度も説明し 入館を懇願した。だが、無理の一点張りであった。

  博物館の玄関口を見上げ、失望と諦めの念を抱いてその場を離れようとした。その時に、一人の年配の女性が登庁してきた。 玄関前の階段の中程で、士官は何やらその女性と立ち話を始めた。想像するに恐らく、日本から来た男性が入館の特別許可を今しがた 求めてやってきたことをさらりと報告でもしているのだろう、と横目で見ながら立ち去ろうとした。その直後、後ろからその女性に 呼び止められた。

  事情を知った女性は、特別に展示室を開けるので見学して行くようにという。奇遇にも何とその女性は博物館の責任者のようであった。 彼女は私を2階まで導き入れ、自分の執務室から鍵を持ち出して来て、その対面にある博物館のドアを開錠し、照明のスイッチを入れ、 少しの間だが館内を自ら案内してくれた。誠に有り難いことであった。お陰で午前中に小一時間ほど見学し、また写真撮影もできた。 館内にはさまざまな漁船、漁具の模型などが数多く展示されている。それらの主だった陳列品をしっかり切り撮ることができた。

  かくして、女性責任者の特別の配慮に深謝の言葉を述べて博物館を後にした。さらに、余裕ができた時間を利用して、城壁に囲ま れたファーロの旧市街をゆっくり散策する時間も見い出せた。その後、午後一番のウェルバ経由セビーリャ行きの国際長距離バスに 搭乗することができた。途中スペイン側の「ウエルバ」で下車し、そこで投宿する予定であった。

  バスは定刻通り出発した。バスターミナルの時刻表を見て、ウェルバには午後4時頃に到着するものと記憶した。バスは「ファーロ国際 空港」に立ち寄った後、快調に国道を疾走した。スペインとの国境をいつ越えたのか、全く気付くことなく通過した。午後4時少し前、 そろそろ「ウェルバ」で下車しようと支度を始めた。だが町の様子が変であった。余りにも大都会風であった。それに乗客の多くが 降りる支度を始めていた。ウェルバの田舎町のバスターミナルにしては何十レーンもある大きなバスターミナルであった。 ここはどこの駅かとまごついているうちに、乗客はみんな降りてしまった。私も降りざるをえず、下車間際に運転手に「ここはどこか」 と訊ねてしまった。「セビーリャだ。」という。ウエルバで降り損ない、終着点のセビーリャまで来てしまったことに気付いた。 そして、そこで初めて思い出しことがあった。

  ファーロのバスターミナルの時刻表に小さく「両国間に1時間の時差がある」と注意書きが記されていたことを思い出した。 スペインの時刻は1時間進んでいた。スペインでは既に5時であった。ウェルバは既に1時間前に通過していた。 止む得ずセビーリャに投宿し、翌朝早くにウエルバに取って返すことにした。どうしてもコロンブス所縁の地であるパロスの修道院には 立ち寄りたかった。執念であった。再び日本からパロスへ舞い戻るには余りにコスト高になることを思えば、ごくわずかの出費であった。 日程上それほど深刻な問題はなかったことも幸いした。セビーリャからカディスへ往復する時間が無くなってしまった程度であった。

  とっくに日が暮れたセビーリャのバスターミナルの周辺をほっつき歩きながら、訊ね回りながらホテル情報を掻き集めた。ようやく 安ホステルに居場所を見つけた。フロントの受付係は、普段であれば一般客に提供しないという、取って置きのアパートの一室、 いわば非常時の「隠し部屋」を提供してくれた。

  翌朝早起きしてウェルバに向かった。そこでローカル路線バスに乗り換えさらに田舎にある「パロス」へと向かった。目指すは コロンブスが息子ディエゴとともに世話になったある修道院であった。コロンブスは大西洋を西航し「インディアス」(インド、 中国、日本などの東方にあるアジア)に到達する航海計画について、ポルトガル王に支援を懇請したが断られた。 そのためリスボンからスペインのセビーリャへ移動し、スペイン王へその航海への支援を願い出ようとした。その旅の道中に立ち寄り、 息子ディエゴのために水一杯を乞うたのが、この「ラ・ラビダ修道院」であった。

  私はてっきり訪れる人もまばらな小さな修道院と思い込んでいた。だがさにあらず、さすがコロンブス所縁の地である。大勢の 観光客が訪れる一大観光名所になっていることにびっくり仰天である。同修道院はコロンブスの第一回航海につき イザベル女王との橋渡し役を演じた修道院長とコロンブスが出会った地であり、彼の第一回航海の出港起点となったところでもある。 また書物によれば、江戸時代に支倉常長の遣欧使節団が通過した地でもある。さて、修道院長がコロンブスと 話し込んだという、修道院の内奥片隅にある小さな部屋にも足を踏み入れた。その瞬間全身に鳥肌が一斉に立ったことを今でも覚えている。

  修道院のすぐ近くにはグアダキルビル川が流れ、その少し上流部にパロスがある。コロンブスはそのパロスから3隻からなる船団を 組んで1492年に船出した。修道院の少し先の同河川沿いに「カラベラ船の桟橋」という博物館があるのを知り、是が非でも見学し たいと立ち寄った。博物館は素晴らしいものであった。

  川岸に掘り込み式の停泊所が設けられ、そこに「サンタ・マリア」、「ピンタ」、「ニーニャ」の3隻の木造復元船が係留されている。 模型3隻を陳列する博物館は珍しくはないが、3隻の実物大の精巧な復元船が揃って野外に展示公開されているのは、恐らくこの 博物館だけであるに違いない。何か新しい発見にありつけないかと、3隻の歴史的帆船を隅々までじっくりと見学し写真を切り撮った。

  その後逆ルートでセビーリャに戻った。当初予定では、この日はセビーリャの南50㎞ほどにある「カディス」という、航海史上 名の知れた港町へ旅するつもりであった。既述のごとく、JICA入団同期の私の友人が、学生時代このカディスで日本籍船を 見つけて日本食にありつこうと波止場をうろつき、偶然親切な当直員による特別の配慮で飯にありついた。その時の当直員であった彼が、 その10年後に「アルゼンチン国立漁業学校プロジェクト」の航海学専門家として赴任した。そして、私の同期の友人と当直員だった彼は、 地球の裏側のアルゼンチンのブエノスアイレスのとあるレストランで、食事を囲んだ私たちの眼前で全く奇遇にも再会を果たした。 彼ら二人の出会いの起点となったのがこのカディスである。

  カディスも大航海時代や中南米植民地時代の最盛期の頃には華々しく発展していた港町であり、歴史上いろいろな出来事があった。 故に旧港と旧市街地の史跡などを散策したかった。だが、一日ロスしたために結局行きそびれてしまった。それにセビーリャにおいて さえ市内見物する時間が少なくなり、市街中心部の歴史的地区を駆け足で散策する羽目になってしまった。とはいえ、セビーリャや カディスにいつしかまた舞い戻って来るための口実となり希望ができた。カディスに出掛けるよりもセビーリャを歴史散歩することの 方が最優先であった。

  内部が「海洋博物館」となっている、グアダキルビル川のすぐ川岸にそびえる円形の石造りの「黄金の塔」を目指して急いだ。 セビーリャと「新大陸」との間を行き来した数多のガレオン船の出入りの歴史を深く刻み込む歴史的史跡である。塔の最上階から街を 眺めながら、かつて大航海時代にタイムスリップした。さて、同博物館には、コロンブス、バルボアを初め、スペインが関わった 多くの航海探検家の紹介、スペインと海洋との関わり、ポルトガルや英仏オランダなどとの海洋覇権をめぐる歴史など、多くのパネル 史料・模型・絵画・遺品などの文物を展示する。もう一つ是非とも訪ねたかったのは「インディアス古文書館」であった。

  市街中央部にある「セビーリャ大聖堂」のすぐ隣にある「インディアス古文書館」には、16世紀から19世紀までの中南米植民地独立まで の間、中米の「ヌエバ・エスパーニャ副王領」の総督府、南米大陸の「ペルー副王領」や「ラ・プラタ副王領」の総督府などから 本国スペインへ送られてきた膨大な量の公式報告書を初め、航海記録、古地図や絵図などが数多と収められている。今でもそれらの 分析・研究に余念がないという。

  ポルトガルとスペインとの間で世界を二分割し合うことを約す「トルデシリャス協定」やローマ教皇の裁定文書をはじめ、数多の 歴史的重要文書が公開展示される。2階の書架に収納され公開される、うず高く縦横列に並べられた膨大な量の文書収納箱は圧巻という他ない。 見学者はそれらの収納箱を見上げ物理的に圧倒され、また古文書に記録された文章・絵図が放つ歴史的重みに押しつぶされそうである。

  天井が髙くて広い回廊式書庫の両側に、広辞苑が2冊は納まりそうな厚紙製の古文書収納箱が、5、6段はある書架に天井まで、 さらに遠くの端っこまでぎっしりと積み上げられている。最下段などの陳列棚には、当時の造船技術に関する古文書や書籍が 特別テーマごとに陳列されている。中南米植民地で製作された古地図を紹介する陳列棚もある。その中で、ニカラグアの古地図を偶然 発見した。

  例えば、2階の古文書展示史料のなかに、2つものニカラグアの古地図が素描的に描かれている史料を発見した。一つはニカラグア湖 の最奥の港町グラナダが大きな「ニカラグア湖」の最奥に面し、かつ大河によって大西洋に通じているが故に、大西洋岸に面する港市として 描かれていることが分かる古地図を見つけた。

  その他もう一枚の古地図を見つけた。ニカラグアに2007年から赴任したときのこと、レアレホという太平洋に面する入り江の湾奥に ある村を訪れたことがある。植民地時代は、大型帆船を建造する造船所があったとされる村である。同古文書館の陳列品の中に レアレッホが面する入り江や村などを素描的に描いた古地図を見つけた。こんなところで、16世紀頃の古地図を拝することができて、 大興奮であった。

  ところで、セビーリャを1日足らずで、大航海時代やスペイン植民地統治に所縁のある史跡・遺品などを探索し、またスペインの 海洋歴史文化施設に一通り触れようというのは余りにも無謀なチャレンジという他なかった。何時にセビーリャに戻って 来れるのか分からないが、これからも関連図書・資料を紐解きながらその歴史文化を学び続けたい。

  さて、セビーリャのホステルに預けていた荷物をピックアップして路線バスで空港へ、その後空路バルセロナへと向かった。 バルセロナ市街中心部を貫く有名な「ランブラス大通り」と直角に交わる細い通りを少し入ったところにあるはずのホステルを探した。 そこが待ち合わせ場所であった。すぐには入り口が見つけられなかった。何と工事中のビルの周りを取り囲むような板塀に入り口の扉一枚 が取り付けられていた。あたかも、工事現場に入るため扉そのものに見えた。まさか工事現場内にホステルがある訳はなかろうと思い ながらもドアノブを回した。開けるとすぐに急な階段が控えていて、見上げるとホステルの雰囲気が伝わって来た。

  ホステル内は意外とモダンで快適そうであったので安心した。娘夫婦と孫が元気にシチリア島を旅し、スケッチも順調であったと 聞いて安堵した。翌日は予備日にしてあったので多少はのんびりと過ごしたが、貧乏症に取り付かれた。時間がもったいないと、3度目 となる「バルセロナ海洋博物館」へ出掛け、新たな視点で館内を巡覧し、新たな発見に有り付こうと奮起した。

  数年前の見学時に比べ圧倒的に展示内容が整備や更新がなされていて、初めて見学するような新鮮さが感じられ、見学への意欲が 掻き立てられた。ローマ船の実物展示は同じであったが、下からだけではなく高みからも見学できるように、船体の上を横断する 回廊式設備が施されていた。また、同船の部位や構造に関する様々な説明用パネルや模型が添えられ、目を見張るほどに充実した展示 となっていた。

  その後、娘婿は翌早朝日本へと出立し、再び3人となった我々は空路イタリア・ミラノへと向かった。ミラノ空港では我々を含む 大勢の乗客の預け入れ荷物がロストとなり、2時間もかかって、今後1週間の滞在予定先などを申告するバッゲージ・クレーム 手続きを行なった。手持ちの所持品は貴重品などを入れたリュックサックやスケッチ用の「商売道具」を入れたバッグだけであった。 そのためダウンジャケットなどを買い求めようと街を駆けずり回り、スイスでの寒さ対策に奔走した。

  ミラノから路線電車でティラーノという、スイスとの国境に近い町に移動した。そこで「ベルニナ・エキスプレス」 という、天井部分まで総ガラス張りのパノラマ式山岳観光列車に乗り込んだ。アルブスの山々や高原を見上げながら、あたかも空中 散歩するかのようにサンモリッツを目指した。天気は素晴らしい快晴日で、ブルースカイをキャンバスに緑の山々と牧場が四方 八方に広がり、絵葉書で見る以上の美しさに魅せられた。列車はどんどん高度を上げて行き、眼下に広がるアルプス山岳と高原風景 に魅了され続けた。さて、目的地では、サンモリッツから一駅戻った小さな町にあるヒュッテ風ホステルに投宿した。

  翌日、サンモリッツからケーブルカーとロープウェイで「コルビグリア山 (Corviglia) 」の標高2,500mほどにある展望台まで 空中散歩を楽しんだ。長女はその展望台に腰を落ち着けてスケッチ三昧となった。私と孫娘は近くの残雪で戯れたり、またアルプスの 絶景をほぼ一人占めにしながら至福の時を過ごした。

  展望台からの帰りのこと、今は残雪も消えて土や岩肌がむき出しのスキーゲレンデや、急な山道を転げるようにして下った。 まさに、アルプス山岳風景をわしづかみにしながら、暫しのワンデリングを楽しんだ。アルプスの自然道を自分の足で辿り、高度 数百メートルほど下山することでまたとない思い出深い体験を得た。そこからロープウェイで再び空中散歩して下界の村に着地した。

  さて、翌日再びパノラマ式「氷河特急」で、半日ほどかけてフォトジェニックなアルプスの渓谷をゆっくりと駆け抜けながら ツエルトマットへと移動した。時に氷河を見上げる。緑の絨毯を敷き詰めたような牧草地や牧場が連なり、乳牛や羊が戯れる牧歌的 田園風景を7、8時間楽しんだ。投宿は駅近くのこじんまりしたホテルであった。

  翌日ケーブルカーで標高2,300mの「スネガ展望台」へ上った。正面には標高4,500mのマッターホルンが天に向かって楔を打ち込む ようにそびえ立つ。その雄姿を遠くに眺めながら天空でのカフェを楽しんだり、またアルプス山中の野道での散歩を堪能した。 四方いずれを向いてもブルースカイをキャンバスとするアルプスの絶景が広がり、その眺めに感嘆するばかりであった。暖かい快晴 日和に恵まれたことも誠に幸運と言う他なかった。

  長女は太陽光がさんさんと降り注ぐ屋外展望台のテーブルに陣取り、腰を落ち着かせじっくりとスケッチに励んだ。 私と孫は展望台の周りの野原を駆けずり回った。私自身よい歳ながら弱音を吐くことも忘れて、孫に付き合い戯れ続けた。70歳という 限界の壁に達しようとしていたが、気持ちだけはまだまだ若かった気がする。

  ところで、展望台を少し下ったところに小さな池があった。その水面が鏡となり、そこに逆さ富士ならぬ逆さのマッターホルンが 映っていた。観光ポスターなどでよく見かける「スイス・アルプスのとっておきのマッターホルンの絶景風景」の原点はこんな ところにあったことに気付いた。まさにポスターの絶景はそこで切り撮られたものであるに違いなかった。

  蛇足だが、池には丸太を組んだ小さな筏が浮かべられていた。両岸にロープが渡されている。数人の子供たちがその筏に乗り 岸と筏とにわたしたロープを引っ張って両岸を行き来して「天空でのプチ冒険」を楽しんでいた。我々親子も天空での筏遊びに興じ 、そのはしゃぐ姿を遠目に眺めていた。

  ホテルに戻ると、ロスト・バッゲージがチューリッヒ空港に送り届けられたというメッセージに接した。急遽ホテルを引き払い、 その日のうちにチューリッヒに向かい、当初の計画通りそこで一泊することにした。既にチェックインしホテル代金を支払っていたが、 その払い戻しを諦めチューリッヒ行きの電車へ飛び乗った、という次第である。

  翌日、アテネ行きのフライトへの搭乗手続き直前にロスト・バッゲージを首尾よく受け取り、その足でアテネに向かうことができた。 ロストして5日目にして、ようやくアテネのホステルで着替えることができた。この程度のロストタイムでまだよかったのかもしれない。 格安航空便の荷物は正規便と比較して相対的にぞんざいに扱われているのではないかと疑いたくもなった。ロストの場合に備えて少しはその 対処策を予め心しておいたほうがよさそうである。

  アテネ空港から地下鉄で市街中心部の「モナスティラキ駅」へ向かった。その後同駅で乗り換え、ホステルのある「オモニア駅」 へと向かった。モナスティラキ駅はアテネの中で最も混雑する駅であった。ところで、同駅で路線を乗り換える時にスリの災難にあった。

  夕方のラッシュアワー時のことで、ホームには大勢の乗り換え客でごった返していた。いざ乗り込もうとすると、やたらと我々を 後ろから押しながら乗り込もうとする客たちがいた。乗り込んでもまだ無理やり故意に押してくる客がいることに気付いた。 「これはやばい」と思い、少しは抵抗をしたらおさまった。一駅先の目的地の「オモニア駅」で下車した。そして、すぐに後ろポケットを探ったら、やはりしてやられていた。

  クレジットカードや現金少々をスリ・グループにしてやられていた。情けない。乗車直前に用心して財布・パスポートなどは リュックの奥深くにしまい込む時間を確保できた。だが、後ろから随分と押されていたので、財布の中からカードなどの幾つかを 用心のためと小分けにして後ろポケットに入れ、そのままにして乗り込んでしまった。電車に乗り込む直前にスリのリスクに気付いた ので何とか事前に対処を済ませておきたかったが、それをする暇のないまま押し込まれてしまった。懸念した通りであった。 後の祭りであった。こうしてアテネの地下鉄でスリの洗礼を受けてしまった。

  長女の携帯電話ですぐに日本のカード会社に連絡し、支払いをその日からストップしてもらった。ホステルに チェックイン後、最寄りの警察署に出向き、念のため「盗難被害証明書」をもらっておくことにした。 件数が余りに多いのであろうか、当直警察官がすぐに一枚のフォームを手渡してくれた。最低限の必要事項を書き込んだら、彼はすぐに フォームに押印署名し証明書として発行してくれた。スリ集団も手慣れたもので「お見事!」と言う他なかったが、警察官も手慣れた もので、一言も事情や事実を聴取することもなく発行してくれた。彼にとっては片手間以下のどうでもよい、 いつものルーティンワークの一つであったようだ。

  エーゲ海のクルージング旅程だけは、日本を出る前から未定のままであり、何の手配もできていなかった。翌日のこと、「モナスティラキ 駅」周辺の繁華街をのんびりと散策するなかで、運よく旅行代理店を見つけ、これ幸いと立ち寄った。宿泊地としたい島嶼、 ホテル滞在日数やクラスなど幾つかの条件を提示しながら、明日以降のエーゲ海巡りの旅程を代理店側から諸案を提示してもらった。

  先ずアテネからの日帰りにて3島巡りをする最もポピュラーで定番的な遊覧ツアーに参加することにした。その後、ミコノス島、 サントリーニ島、ナクソス島を巡り、それらの3島で2泊ずつすることにした。定期航路に就航するフェリーのルートや船室クラスや ホテルのクラスなど、ほとんど代理店任せで決めたところで、バウチャーを発行してもらい、ついにエーゲ海に船出する準備を 手際よく整えることができた。

  意外と早くエーゲ海巡りのスケジュールをフィックスすることができ時間的に余裕ができたので、私は真っ先に「ヘレニック海洋 博物館」へと出掛けることにした。地下鉄で「ピレウス港」へ。そこから「ゼア港」へ歩き出したが、方角を少し見誤った。そのため 少し遠回りになってしまったが、両港間に所在するアテネ郊外の別顔というべき高級住宅街に迷い込みそぞろ歩きを楽しむことができた。 「ゼア港」はさほど大きくないが奥行きのあるほぼ円形の高級ヨットハーバーで、コートダジュールのカンヌの入り江で眺めた 美しいマリーナを連想させた。

  海洋博物館はそのゼア港の湾口から外洋側へ少し回り込んだところにあった。ギリシャで初めての本格的な海洋博物館の見学、 ワクワクしながら館内に足を一歩踏み入れた。想像していた通り、玄関ホール脇の特別展示室には、古代歴史上しっかりと刻まれるた ペルシャ軍船とギリシャ軍船との「サラミスの大海戦」について解説するパネルや、幾つかのトレリーム (三段櫂船) といわれる ガレー船の精巧な模型などが展示されていた。館内にはその他、数多くの古代や近現代の艦船模型、ギリシャ海軍の歴史を示す遺物 などが所狭しと陳列されている。

  翌日10月10日のこと、「ピレウス港」から少し離れた「フリスヴォス港」から、アテネ近海に浮かぶ「サロニコス諸島」の「イドラ島」、 「ポロス島」、「エギナ島」の3島嶼の日帰りクルージングに出掛けた。エーゲ海日帰り遊覧ツアーの中で最もポピュラーなもので、 最初に立ち寄った「イドラ島」が最も印象深いものであった。

  クルージング船が横付けされたイドラ島の埠頭は半円形の小湾の湾口付近にあった。その背後には緑豊かな山々が迫り、その斜面 には白亜の住宅が山頂に向かって連なっている。湾岸埠頭沿いにはブティック、高級装飾品、土産物などのショップ、レストランや カフェテリアなどが密集して軒を連ねる。フェリーの最上甲板から眺める風景は南欧のコートダジュールの景色、またはそれ以上の フォトジェニックな風景が広がる。澄み渡ったブルースカイ、エメラルドグリーンの海、背後に連なる緑の山々、斜面にへばりつく ように建つ白亜の家々、そのルーフにはオレンジ色に統一された屋根瓦が彩りを添える。陸、海、空のスリー・ワールドの最高のコラ ボレーションに魅せられる。いずこを切り撮っても絵葉書にしたい風景である。

  岸壁沿いのエプロンにはカラフルなビーチパラソルが花のように咲き乱れる。フェリー出航までの暫しの間隙を縫って、大勢の旅客が テーブルを囲みカフェを楽しんでいる。当日は絶好のクルージング日和に恵まれて言うことなしであった。

  我々は時間を惜しんで狭い路地に入り込み坂の上に向かって進み行き、スケッチの「被写体」を探索した。長女は路地の片隅に 腰を降ろして、気に入った路地風景をスケッチするのに余念がない。後日スケッチを完成させるために、記録用の写真を撮っておく ことも重要な仕事となる。私は路地の写生ポイントと港の岸壁との間を何度も往復しながら、時には波止場の岸壁をなぞるように ベビーカーを押して子守りに徹した。

  路地や波止場では時に何頭ものロバの隊列とすれ違った。狭く急な坂道を登って注文の商品を宅配するのであろう。埠頭では小型 貨物フェリーから日用品や食料、飲料水などをロバに背負わせ、狭い路地奥へと消えて行く。ロバの首には鈴がぶら下げられ、 チリンチリンと音色を響かせながら隊列を組んで路地沿いに上がって行く。5歳の孫娘にはリアルな動物の楽しい観察となった。

  その後ポロス、エギナの2島巡りをして、翌日からのエーゲ海への本格的クルージングに備えて目と足腰を鍛えた。良いウオーミング アップとなった。そして、翌日からは旅行代理店で設計してもらった通り定期大型フェリーを乗り継ぎながら、島から島へとホッピング した。

  さて、翌早朝フェリーに乗り込んだ我々は「シロス島」さらに「ディロス島」を経由して、「ミコノス島」へと向かった。今日も 快晴でフェリーはブルースカイと紺碧の海の中を突き進んだ。ホテルは白亜の家々が密集するミコノスの街と大型船が寄港する港との 中間にあって、窓からはブルーオーシャンとブルースカイが溶け合う穏やかで広々とした海と空が視界一杯に広がっていた。

  翌日にも街に出掛けた。旧港を取り囲むように白亜の住宅が密集するなか狭い路地が迷路のように入り組んでいた。両側には様々な 洗練され上品なショップやカフェテリアなどが建ち並ぶ。その中に、目当てにしていたミニ「海洋博物館」があった。古い舶用品が 所狭しと並べられ、まるで船具店のようであった。

  さらに路地を進むとカフェテラスに出た。テラスのテーブルに座るとすぐ脇まで海が迫り、手を伸ばせば海水をすくい上げれ そうであった。「足湯」ならぬ「足の海浴」ができそうであった。時に高潮が襲うことにでもなれば、カフェテラスは浸水の憂き目に 遭いそうである。カフェテラスから行く手にある小高い丘を見上げると、4基ほどの巨大な白亜の風車がそびえ立っている。羽根が 回っている風ではなかったが、「ミコノス島」のランドマーク的な原風景である。

  翌日、次のフェリーで「ディロス、パロス、ナクソス、イオス」の島々を経由して、「サントリーニ島(ティラ島)」へと向かった。 「ティラ港」で下船後、ミニバスで絶壁をはうように九十九折の急坂を上り、同島の北端にある町「イア」へと向かった。

  ホテルの部屋に一旦落ち着いた後、イアの街へ散歩に出て初めて見る光景にびっくり仰天した。断崖絶壁の頂上付近のみならず、 その海側の急斜面上部に、あたかもフジツボが岩に張り付くように、数多の白亜の美しい家々が建ち並んでいた。 夕暮れ時であったので、その断崖斜面の路地からはオレンジ色の街灯が淡い光を放って幻想的でもあった。 街の光景は、ブルーの空と群青の海を背景にして「絶景の中の絶景」と表現する他表現のしようがないほどであった。 エーゲ海のここでしか見れない絶景に暫し放心状態となっていた。

  眼下には巨大な火口湖を見下ろすが如く群青の地中海が広がる。「サントリーニ島」は大昔、火山の大爆発で島の中央部が完全に 吹き飛び、周囲の山裾部分だけが残ったかのように見える。例えれば、阿蘇山が大爆発を起こし、中岳などの中央部の山々が全て吹き 飛んで巨大なクレーターとなったものの、「大観峰」をはじめとする周囲の外輪山がそのまま残され、そこに大洋の海水が なだれ込んだ地形とでも言えばよいであろうか。そして、「イア」の風景はあたかも「大観峰」の山頂やその急斜面に白亜の家々が へばりついていると、例えることができよう。

  白亜の住居が地中海に臨む断崖絶壁にへばりつくという、「サントリーニ島」のイア風景は観光ポスター上で再三見かけるものである。 イアの絶壁に建つ白亜の家々、群青の地中海とそこに浮かぶ幾つかの島々の絶景は、この世のものとは思えぬほどに圧倒される 美しさである。人生の後にも先にもこれほど感動的な絶景にお目にかかったことも、またかかることもないものと断言することができる。

  翌日「イア」の街をくまなく散策した。長女は早朝から陽が高く昇るまでスケッチに没頭した。他方、私と孫は イアの絶景を我がものとした。私はベビーカーを押しながら、白亜の家々が続く狭い路地を他の大勢の観光客に混じって 何時間も行ったり来たりしながら子守りをした。同じ子守りであっても、「サントリーニ島」の絶景をバックグランドにした子守りである。 これ以上の素晴らしい環境下での子守りはこれが最初で最後であろう。

  午後には子守りを交代して、私は立ち寄りたかった「海洋博物館」を目指してイアの街はずれに出掛けた。一軒家を利用した小さな 博物館には2階まで船模型、海や船の絵画、古い船用具などがびっしりと詰め込まれ展示されていた。そこを何か掘り出し物を探すかのよう にじっくり巡覧して回った。

  さて、再び「ティラ港」へ戻り、そこで大型フェリーに乗船し「ナクソス島」へ移動した。港の背後には小高い丘があり、そこに 城塞がそびえ立っていた。お上りさんになって港近くの市街地から急坂の路地を辿って、頂上にある城塞内へ足を踏み入れた。途中の路地 沿いには幾つかのアート作品を陳列する洒落たショップが散在し急坂での疲れを癒してくれた。頂上では、朝早くに作りおいた手製の 弁当を3人で食した後、丘を下って港近くの市街地へ戻り、その足で港の先の海沿いの岩場に立つ「アポロ神殿」を訪ねた。最後は 港を見下ろせるカフェテリアで、沈みゆく太陽が地中海の穏やかな海面に光の長い柱を映し出す光景を眺めながら、今回の船旅に おける最後のカフェを味わいエーゲ海周遊の終幕を締め括ることにした。 明日はいよいよアテネの「プレウス港」へ戻るフェリーによる最後のエーゲ海クルーズであり、万感の思いが込み上げてきた。

  実はエーゲ海に船出した初日に「サロニコス諸島」の「イドラ島」などの3島嶼を周遊し、その後「フリヴォス港」に帰港した訳 である。その折に同港内に「船舶博物館」らしきものがあるのを視認し、アテネ滞在中に必ずや訪ねようと決めていた。同港には 幾つかの実物の船舶が海に係留されていたが、その中に実物大のガレー船を目に留めていた。ようやく、そのガレー船を見学する チャンスが巡って来た。

  電車を乗り継ぎ、最寄の「トロカデロ駅」で下車し、「プリスヴォス港」まで歩いた。そこにはガレー船の一種である三段櫂船 「オリンピアス号」(復元船)などが係留されていた。博物館にはその他、世界で唯一現存するという装甲巡洋艦、その他年代ものの小型 客船などが係留展示されていた。乗船できたのは巡洋艦のみであった。三段櫂船の実物大復元船については、バルセロナやジェノバの海洋博物館 で見学したことはあるが、実際に海に浮かべられ、漕ぎ手さえいればいつでも衝角(ラム)に水を切って進航できるガレー船を 目の前にしたのは初めてのことであった。全身に鳥肌が立ち感慨もひとしおであった。

  帰国前日になって正に駆け込みで「国立歴史民俗学博物館」へ出かけた。そこで興味がそそられたのは、ギリシャ時代の神々の 大理石の立像ではなく、古代エジプトの王墓から発掘されたという、副葬品としてのエジプト船模型とその漕ぎ人であった。

  さらに「軍事博物館」へも急いで駆け付けた。そこで、「サラミスの海戦」の歴史的資料、古代ギリシャのガレー船などの数多くの模型、 ギリシャ海軍の歴史を解説するパネルなど盛りだくさんの展示であった。巡覧時間が余りにも少なくて到底見終わらず、後ろ髪を 引かれながら博物館を後にした。いつの日か「軍事博物館」を再訪できることを祈った。同博物館におけるガレー船やサラミス 海戦などに関する展示内容が事前に分かっていれば、訪問日時の配分を工夫できたものと後悔をした。

  翌日アテネからカタール航空でドーハへと向かった。しかし、フライトの出発が大幅に遅れたために、ドーハでの乗り継ぎが間に 合わなかった。カタール航空の配慮で、ドーハで期せずして五つ星ホテルで一泊というおまけが付いた。我々3人は急ぐ旅ではなかった ことでもあり、「棚から牡丹餅」式の幸運に大いに喜んだ。久々にドーハの旧市街地をたむろした。長女にとっては初めて体験する 中東アラブの世界であった。

  8年ほど前にサウジアラビアに赴任していた頃(2004~2007年)にたむろした旧市街地区が少し廃れているようで寂しい限り であった。湾岸に沿った新市街地に目をやると以前よりも増して近代的高層オフィスビルなどが林立している。まるでア首連のドバイ の都市発展計画を追随しているかのように見える摩天楼風景であった。さすが日中の灼熱の太陽に脱帽し、冷房の効いたローカルの 小さなレストランへ一時避難した後、コルニッシュ(湾岸沿いの大通り)から湾に突き出て海上宮殿のように見える「イスラミック・ アート博物館」を訪ねた。国立博物館を再訪したかったが、どうも改修で休館中らしかった。

  「アート博物館」では、モロッコなどの北アフリカから中近東、中央アジア、インドにまたがる広大なイスラム文化圏から収集された、 7世紀頃から現代までの貴金属、陶器、象牙細工、装飾品、絵画、絨毯、織物、コーラン写本などの芸術・美術コレクションが展示 される。そこで思いがけなく珍しい陳列品に遭遇した。イスラム圏で使われていた、数にして1ダース以上の、天体高度を測る古代の アストロラーベのコレクションが陳列されていた。こんな展示はおそらくイスラム圏ならではのことであり、大変貴重な展示と思われた。 長女にとってもアラブ世界の美しい貴金属や宝飾品に魅せられたようで、スケッチなどの新たなジャンルを切り拓くことを閃いた ようであった。

  かくして翌日ドーハから帰国の途に就いた。振り返ればほぼ30日間5か国を巡る「倹約旅行」となった。ギリシャに 着いた頃には、3人はホームシックに罹っていた。歳のせいなのか、今回ばかりはかなりのホームシックに悩まされた。 今後はいくら長くても2週間以内の旅とすることにした。贅沢な話に違いないが、自分たちが見たいと切望する風景や展示品を追いかける 旅でありながら、30日間はかなり長く感じてしまった。

  昔の旅人が何カ月も、あるいは何年も何十年も故郷を離れて旅を続けることの忍耐力、好奇心などの在り処と精神構造をどう 理解すればいいのか。人間自身の脚か、馬・牛・ラクダなどの動物以外には移動手段がなかった時代における旅人の長期間にわたる 移動に挑戦する旅人らの偉大さに敬意を表したい。全くそれと比べようもないが、我が貧乏旅行については最長2週間以内にする ことにしたい。



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    第29章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その3)
    第4節 ポルトガルからスペインを経て、ギリシア・エーゲ海に憩う


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       第29章・目次
      第1節: 香港とマカオの海洋博物館などを駆け巡る/2007.7パック旅/2015.11
      第2節: 台湾の基隆・淡江・高雄の海と港を巡り、海洋博物館を探訪する/2016.6パック、 2017.2淡江
      第3節: 中国の上海航海博物館と京杭大運河(杭州・南京・蘇州)を訪ねる/2017.4
      第4節: ポルトガルからスペインを経て、ギリシア・エーゲ海に憩う/2018.9
       [参考資料](1)旅 程: ポルトガルからスペインを経てギリシア・エーゲ海 へ/(2)略年表: エンリケ航海王子・ディアス・バスコ ダガマ・支倉
       常長・コロンブス

      第5節: 放浪の旅は続く/世界は面白いものに満ちている