JICAに奉職した後、海との関わり合いや繋がりを維持することにますます情熱を燃やしていた。それもJICAの内と外での海との
接点を模索していた。JICAの内にあっては、研修事業部で研修員と真剣に向き合い、技術協力の一端を担いつつも、出来る限り海との
接点をもてるチャンスを広げられないか、アンテナを張っていた。JICAに奉職して給金をいただく訳であるからして、本業である
国際協力に邁進するのは当然の務めであった。そしてまた、国際協力の一端を担うことは、一つの大いなる遣り甲斐、一つの生き甲斐であり、また
日々の楽しみでもあった。だが、JICAでの仕事に熱中するのはよいとして、海のことへの関心や
海洋研究あるいは海洋雑学から再び遠ざかることを内心では凄く恐れていた。再び疎遠になれば、もう二度と回帰できないのではないかと
いう危機感を抱いていた。
他方、JICAの外にあっても、海との関わりや繋がりをしっかりと保っておきたいと願っていた。意識を確かにもって、海洋研究や海洋雑学
との関わりを継続し、距離を縮めることはあっても、距離を離すことがないように自助努力を惜しまなかった。とにかく海洋法制や
政策にまつわる独学を続けようと心掛けた。他方で、それらを専門的に学究する学者や研究者らとの関係を築いたり維持したりしようと模索もした。
米国留学によってようやく本格的に海に回帰して以来、海との接点を絶やすまい、二度と海から遠ざかるまい、とずっと思い続けてきた。
JICAへの奉職によって経済的に安定したからには、海洋法制や政策のことにこれまで以上に関心をもち続け、その専門性を高めていかなけ
ればという思いは、いつも頭から離れることはなかった。
何故、JICAの内や外において、それほど頑なに専門性を捨てたくなかったのか。さらに二つの理由があった。
海洋研究の継続は、国連海洋法務官への志願に繋がっていたからである。国連志願がある限り、当該分野または近似の領域における
キャリア形成を積み重ね、自らの専門性の向上に絶えず取り組んでおかなければ、ある日突然に採用試験のチャンスが巡ってきて、再度
履歴書の提出を求められた時に、よりよいキャリアを差し示せなくなるからである。採用してもらえる可能性を少しでも高めておくためである。
当時未だ30歳そこそこの頃であり、JICAを「最終目的の地」とは思ってはいなかった。国連奉職への道を歩む途上にあったからである。
それともう一つの理由があった。一年半にわたる渡米は自費留学であった。その経費全てを家族に負担してもらっていた。
そうでありながら、JICAに奉職できたからと言ってすぐさま海との縁を断ち切り、海洋法制・政策にまつわる専門性をかなぐり
捨てることには、絶対的な抵抗感を抱いていた。JICA入団したての頃には、職員は自身の専門性を捨てて、技術協力プロジェクトの
マネッジメントの「ジェネラリスト」になることを、研事部の職場内ではまことしやかに囁かれていた。だが、そんな訳には到底いかない
と、私的には専門性を捨てない決意をしっかり固めていた。自身で沈考の末、「海のことのスペシャリスト」と「JICAの求めるジェネラ
リスト」を目指した。
海への回帰を頑なに推し進め「堅牢」なものにするために、その時々にできることに取り組んだ。大阪出身の私にとっては、関東エリアには海洋
法制や政策の研究にいそしむ、いわゆる学究仲間や研究者・教授はほとんどいなかった。何らかの学術的研究サークルに参加しなければ、
麓多禎所長の潮事務所を離れた今、本当に自身を社会の流れに身を任せてしまいそうであった。そこで、海洋法制などの研究に熱心な若い大学助教授
らで作るオープンな研究会を模索した。幸いにもそんな研究会に参加させてもらうことができた。
また、ある教授との縁があって、「国際海洋問題研究所」という、海上自衛隊幹部OBらが中心になって組織する研究団体の会員に誘われ、
それをチャンスに積極的に繋がりを求めた。同研究所主催の定期的な講演会などにも毎回末席を汚し、最新情報や達識に接し、海洋法制
研究などへの刺激と励みとした。
留学中にいろいろなテーマの下でタームペーパーを作成していたが、よくよく考えてみると、日本でも米国でもこれまでずっと学術
定期刊行物に自身の学術論文を掲載する努力をほとんどしてこなかったことに気付いた。
そこで、母校の関大大学院が発行する学術誌編集委員からの誘いをチャンスに、留学時代の学究の成果を見直しながら幾つかの論文を
執筆し、投稿することに積極的に取り組んだ。また、同研究所からも投稿の誘いを受け、そのチャンスを生かした。
お陰で、国連へ送付済みの履歴書を更新するとすれば、海洋法制関連の学術上の実績を上積みし、専門性を高めることに繋げそうであった。
また、思いもよらず学術的実績を積み上げられたことがある。留学中の指導教授であったウィリアム T. バーク教授が、1978年頃に、日本海と東シナ海に
おける境界線画定問題に関する私の論文を、米国の「Ocean Development and International Law Journal」という学術誌に掲載する
ために骨を折ってくれた。お陰で、同誌第6巻1号に掲載され、それも一つの重要な実績となった。
かくして、JICAでの技術協力という生業への真剣な取り組みと、海洋法制などの専門性の向上を追及する「野外活動」は、
私の日常を構成する二大車輪であった。JICA奉職当初から猛烈に忙しい日々を送ることになった。だが、全く苦にもならなかったし、
遣り甲斐と生き甲斐に満ち満ちていた。30歳になるかならないかの年齢であったので、睡眠時間を多少は削りながらも走り続けることができた。
私的には、二足のわらじを履いて、国際協力の生業も海にまつわる学究も、日々楽しむことができた。
海への回帰を堅固なものにするための「真の道(トゥルー・ロード True Road)」をまっしぐらであった。その道がまた国連海洋法務官へ通じていることを
信じて歩み続けた。
そんな中、留学から帰国後初めて、ワシントン大学海洋研究所(IMS)との嬉しい関わり合いが生まれた。最初はシンプルなこと
の照会であった。1976年11月にJICAに勤める少し前のこと、IMSのエドワード・マイルズ所長からレターを受け取った。北太平洋に
おける海洋資源管理や海上輸送動向、海洋政策や海洋法制にかかわる諸問題について、日米加3ヶ国の研究者がシアトルに
集まって討議し、政策提言などを行ないたいが、そのための資金を「日本財団」に求めることを検討している。
ついては、そのことについてどう思うか、率直な意見を訊きたいというものであった。早速、沈想の上、メリット・デメリットを
取りまとめ率直な所感を添えて返信した。
その数か月後、所長から米国の「ロックフェラー財団」から資金を得られることになったとの連絡を受けた。「北太平洋プロジェクト
(North Pacific Project)」と称して実施される運びとなった。私は既にJICAに奉職する身であったので、潮事務所長らに実質お任せ
せざるをえなかった。かくして、プロジェクトの日本側のオーガナイザーとしての役目を、潮事務所が引き受けることとなった。例えば、
プロジェクトに参画する日本側研究者の人選、会合に提出されるべき研究論文やその他事務的取りまとめなどである。
東京水産大学の海洋法講師の浅野長光先生をはじめ、同大の織田教授(海運)、吉田教授・田中教授(水産)、新日鉄OBの今井さん、
麓所長らが参画した。
私に関しては、JICA宛てにプロジェクト会合への招待状を発出してもらい、上司の許可の下、シアトルでの研究報告会に参加した。
私は、結婚式を2週間前に済ませていたが、新婚旅行のタイミングをずらせ、報告会との時期とうまく調整し参加することができた。
報告会は1977年7月27日-29日であった(渡米期間は新婚旅行を含め1977年7月17日-7月31日)。
振り向けば、IMSとの接点の始まりは、マイルズ教授からの一通の手紙であった。JICAに奉職しても、IMSや潮事務所との関係がうまく繋がり、
またプロジェクトに関わることができ、国連への履歴書の更新時には、そのキャリア欄に一行付け加えることもできそうであった。
ところで、1976年初め頃に国連へ応募して一年ほど経た頃であったと思うが、実は、国連本部の「海洋法事務局
(The Law of the Sea Office)」の局長から一通のレターをもらった。局長の署名入りで、「現在、海洋法務官ポストは空席が
ないことを連絡します」としたためられていた。わざわざポスト空席状況を知らせてくれたのは、恐らく、私がバーク教授の下で学んで
いたことを知ってのことに違いないと推察した。当時、日本人の海洋法担当法務官がなおも活躍
されていたことを頭の片隅においていたので、「空席なし」には全く驚かなかった。むしろ、海洋法担当局長自ら筆を取っていただいた
ことに大変恐縮した。適時に礼状をしたためるべきであった後々までずっと後悔した。礼状をしたためていれば、その接点が線になり、
さらに太くなり新しい未来が拓けていたかもしれない。
他方で、直近の過去一年間、国連に送付済みの履歴書の内容を全く更新してこなかったことにはたと気づいた。局長への礼状と共に、
更新した新しい履歴書を送るべきであった。それをもしなかったのも、酷くまずかった。これまでの人生の節目では、ハガキや手紙
などの通信連絡が幾多の幸運をもたらしてくれていた。そのことを忘却し、礼状一通の投函も、履歴書更新もしなかったという
無作為をずっと悔やむことになった。その通信がなされていれば、私の運命も変わっていたかもしれない。そうでなかったかも知れ
ないが、その無作為をずっと悔やみ続けることになった。
さて、ワシントン大学との繋がりで、さらに別の海洋法研究機関との繋がりが生まれた。ハワイ大学の「海洋法研究所」主催の
海洋法シンポジウムがハワイで開催され、報告者の一人として招待された。時期は1977年11月12日-19日であった。
それはキャリアアップには願ってもないチャンスに違いなかった。登壇したのは「海洋法条約と東アジアの地域主義」についてのセッションで
あった。
シンポジウムは幾つものサブテーマに沿って次々と講演がなされ、討論や質疑応答が繰り広げられた。それらが進むにつれて議論は
白熱化し、内容についていけなくなっていた。自身が参加する「海洋法条約と地域主義」について報告する段になっても、それまでの議論
の詳細につき全く消化不良のままであった。自身のスピーチにつき、それまでの議論を踏まえた内容に仕向けられず、パニクッてしまった。
結局これまでの議論とかけ離れた整合性のとれない内容の自論展開となってしまった。日本周辺海域の海の境界線画定問題や日本の海洋
政策など言いたいことだけをスピーチする、ひどい内容になってしまった。今でもそれを思い出すたびに、どこか穴があれば隠れたい
ような衝動に駆られる。今更ながら、自身の英語能力の欠如を思い知らされた。推薦してくれたシアトルの教授らの面目をつぶして
しまった。ただ、シンポジウムへの参画は、履歴書上においては国連への志願上キャリアアップの一つになったのは事実である。だがしかし、
国連への奉職に語学能力の面において大きな不安を抱いたのも事実であり、また大きなショックをもたらした。
ところで、二度にわたるアメリカでの報告会やシンポジウムへの参加は、ある重要なことを気付かせてくれた。
国際場裏において、200海里EEZに反対していた日本の立場や利害についてはよく理解されているが、それ以外の数多の海洋法制に関する見解や立場、
海洋資源開発・管理や海運・海上輸送などの最近の動向や政策、その他の海洋政策課題に対する見解や立場について余り知られていないこと
を感じるようになった。そして、世界の共感や理解を得るためには、海外にもっと多くの情報を発信する必要性を感じるところがあった。
一つの閃きをえたのはこの頃であった。いつしか英語版にて海洋法制や政策、海洋開発動向などに関するニュースレターの定期的
発行のアイデアである。 英語・日本語版での「海洋白書」や「海洋年報」のような類いでもよいとも考えた。
だが、いきなり英語版のニュースレター発刊は荷が重いので、先ずは日本語版のニュースレターの発刊の実現に集中することにした。
1977年の年末に近い頃であった。
余談だが、財団法人の「日本海洋協会」が1977年(発足月日不詳)に設立された。法人・個人の賛助会員制であり、私はそれを
知った早い段階から会員になった。日本が新たな海洋法秩序時代に円滑に移行することを側面支援し、海洋の諸問題を調査研究する
ことを目的として、運輸省、外務省、通商産業省の三省が所管する公益財団法人として設立された。
海洋法制や政策にまつわる講演会が時に開催され、積極的に参加した。また、設立当初は、国連での海洋法制の審議状況などの
情報を提供するニュースレター(日本語版)のようなものが会員に配布され、重宝していた。
(注)海洋協会は、1994年(平成6年)11月に国連海洋法条約が発効し、日本も新海洋秩序時代に移行し、(財)日本海洋協会の設置目的は
達成されたとして、1998年(平成10年)3月31日に解散された。ほぼ20年間の活動で幕を閉じた。
海洋協会の活動内容、情報提供は年々徐々に拡大され充実していった。年1,2回海洋法制や政策をテーマに、外務省協賛で
講演会が開催され、大勢の会員らが参加した。学者や研究者、行政官らと人的つながりを築くチャンスでもあり、半日有給休暇などを取り、
積極的に参加した。また、まもなく「季刊海洋時報」という、海洋法制や政策、海洋法会議の審議動向、海洋開発などについての
学術的論稿や資料を収めた定期刊行物がニュースレターに代わって発刊された。
(因みに、1984年11月に「季刊海洋時報」第35号が発刊されている。合併号がいくつかあるので、1977年に設立して間もなく
創刊号が発刊されたものと考えられる。)
また、特定のテーマの下に深く掘り下げ、その成果を束ねた調査研究レポートが、不定期ながらも会員に配されていた。いずれも当時
日本国内では、このような情報提供は、この協会によるものがほぼ唯一であったので、大変貴重かつ有益なものであった。
私的には、海洋協会はいろいろな面で参考になるところが多く、刺激にもなった。また、いろいろ触発もされた。何故なら、
海洋法制や政策に関するニュースレターの発刊に着手していた時期と重なっていたからである。だがしかし、協会と肩を並べて、
「海洋時報」や研究報告書などの類の発行や講演会開催のような事業を手掛けることなどは、全く不可能なことであった。
協会と競合するような取り組みについては全く念頭になかった。そもそも、私の閃きは、協会と同じ土俵に上がって事をなす
というアイデアではなかった。海洋協会は、外務省などの認可公益法人であり、そのネームバリューをバックに、信頼度、情報量、財政基盤(予算はそれほど
多くはないが)において、比較にならない存在であった。因みに、協会の運営を考えると、理事長や専務理事、事務員数名の人件費、事務所
賃貸料、定期刊行物の年4回の発行、研究報告書などの出版、郵送料、講演会開催の諸経費など、ざっと見積もっても少なくとも
年間5,6千万円の予算的裏付けがあったはずである。
休題閑話。海洋協会を横目に、私は先ず、海洋法制や政策、海洋開発動向などにまつわる日本語版のニュースレターを、
潮事務所の名の下に始めていた。「海洋開発と海洋法ニュースレター」と題して、創刊したのは、1978年1月のことであった。
JICA研事部2年目の時季であった。四半期ごとに号を重ねることを目標にしたが、平均年3回くらいの発行となった。
1978年1月から1981年1月までの3年間で、通算8号を発行した。JICA研事部時代末期の1979年12月までは通算3号を潮事務所名で、
その後のJICA水産室時代初期の1980年からは「海洋法研究所」の名の下で発行した。
テーマは、韓国の領海、日韓の大陸棚問題、北朝鮮の領海・200海里経済水域、非核三原則と国際海峡通航問題、日ソや日中漁業問題
などであった。
その後1978年11月から翌年1979年10月にかけて、英語版ニュースレターを通算4号まで潮事務所の名の下で発刊した。そのタイトルは、
「Ocean Development and Law of the Sea Newsletter」であった。
そのテーマは、韓国と領海に関する最近の動向、北朝鮮の領海・200海里経済水域および軍事境界線、1979年日ソ北西太平洋サケ漁業交渉、
日本政府の非核三原則政策と5つの国際海峡での特別通航制度であった。
ポケットマネーで簡易印刷を行ない、印刷物として、米国など世界の主要な海洋法制・政策研究所機関に送り届けた。
日本語・英語版の2種のニュースレターを2年間ほど少部数ながら発行し、国内外の海洋法研究機関や研究者らにボランティアベースで
送付してみて、いろいろ学ぶことがあった。また、悩みの種も抱えることになった。
簡易印刷費、郵送代などけっこう嵩張るようになった。何がしかの財政基盤の充実を図ること、また組織建ての強化を図る
ことの必要があった。特に、潮事務所名での発行であったために、一体どういう組織体が、いかなる使命をもって発行するのか
なかなか理解されないことに気付き自省した。それが最大の悩みであった。
どのような組織の下で発行すれば世界で受け入れてもらいやすいのか、いろいろ悩んだ。そこで、誰でもすぐ理解される組織体の
下で発刊することを着想し、それなりの具体的アイデアをしたためて、浅野長光先生に相談することにした。
非営利の民間任意団体「海洋法研究所」の創設と、その事業の中核としての、英語版ニュースレターおよび英語版海洋白書・年報の発行という
アイデアを胸に抱いていた。海洋協会との基本的差別化をなしうるとすれば、それらの英語版による世界への情報発信であり、
それが海洋法研究所のアイデンティティーと存在意義を具現化するものであった。そして、時期をほぼ同じくして、1980年1月に研事部
から水産室へと異動した。
[参考]資料: JICA奉職と海洋雑学の10年の歩み(略史)(1976年~1987年)
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