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    第6章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事
    第2節 ビジネスに不器用な私の悩みと焦り


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       第6章・目次
      第1節: 東京砂漠で社会人生活の第一歩を踏み出す
      第2節: ビジネスに不器用な私の悩みと焦り
      第3節: 日韓大陸棚協定を深掘りする
      第4節: 東シナ海大陸棚境界画定にどんな未来があるか-百年の争いか(その1)
      第5節: 東シナ海大陸棚境界画定にどんな未来があるか-百年の争いか(その2)
      第6節: 天から舞い降りた新聞広告、運命の分岐点となる



  故郷の茨木から上京してすぐのこと、雨露をしのぐための住まいを固める必要があった。1975年10月中旬の頃のことである。 住まいを固めた後は、虎の門の「潮事務所」に毎日通勤するようになった。当時日本の国会では、ある二国間協定の批准を巡って与野党間で 激しい政治的攻防が繰り広げられていた。その協定とは、日本と韓国との間で締結された、東シナ海および対馬海峡における大陸棚の境界画定 に関するものである。韓国の国会は既にそれを批准していたが、日本では協定の批准の是非を決するため国会審議に付されていた。

  「日韓大陸棚境界画定協定」は2部から成り立っていた。一つは、朝鮮半島と対馬との間に横たわる「対馬海峡(西水道)」に沿って 引かれた「日韓大陸棚北部境界に関する協定」である。もう一つは、九州西方沖の特定海底区域を巡る「日韓大陸棚南部の共同 開発区域に関する協定」であった。

  潮事務所へ入所した当時、麓多禎所長が調査研究テーマとして熱心に取り組んでいたのはこの日韓大陸棚画定協定であった。 所長はそれに殆どのエネルギーを注ぎ込んでいるようであった。私的には、そのような海洋法制あるいは政策課題に関する調査研究は、 自身の本分の重要な一部と認識していた。国際海洋法などの知見を生かしつつ、喜んで取り組むべきテーマとしたいところであった。 ともかく、大いに遣り甲斐のある所業そのものであると言えた。だが、残念なことにそのことに関与し真剣に向き合うことは殆どなかった。 それについては後ほど触れることにしたい。

  所長はしばしば幾人かの国会議員に会うため、国会議事堂の裏手にある衆参の議員会館へ時折訪ねていた。時には私も連れられて 会館へ出向くこともあった。例えば、当時社会党の党代表であった土井たか子氏、自民党・宇都宮徳間氏や鯨岡兵輔氏、 共産党・松本善明氏などの議員事務所を訪ねたりしていた。各議員の事務所では日韓大陸棚協定について、時に国会議員と 直接的に意見を交わすこともあったが、殊更に深掘りするような話し合いではなく、軽めの雑多な事柄に始終することが多かった。

  所長が私を連れて議員事務所を訪ねる背景や真意をかなりの期間にわたって呑み込めなかった。私には、諸先生方と潮事務所との過去 における関わり合いがよく理解できていなかった。後に分かることだが、所長は長く日韓大陸棚協定を研究し、それらの 国会議員と関わり合いをもち、既に彼らとそれなりに密度の濃い意見交換をしていた。いわば論議を尽くしていたものと理解した。 私という新米の「研究員」を先生方に顔見世することを兼ねて、旧交を温めつつ同協定の国会審議の動静などを探るための訪問 であったと後に理解するようになった。

  更に、当時の私には理解できていなかったことがある。即ち、私が入所するずっと以前から、所長は少なくとも過去数年にわたり、 日韓大陸棚の境界画定や海底石油資源の分界に関して法的および政治的にそれなりの疑念や憂慮を抱き、その解明に挑戦するとともに、 自らが考える「正論」を世に問おうと真剣に取り組んでいたということである。

  入所からほぼ半年後の1976年5月に、所長が協定批准に対して疑義を呈する一冊の調査研究レポートを簡易印刷した時、それらの ことをはっきりと認識できた。そしてまた、入所以来理解できていなかった所長自身の信条や事務所の基本的立ち位置の他、 批准反対の法理やその他の論争点についても、後追いながら理解することができた。次節では、そのことについてもう少し 深掘りしたい。

  閑話休題。所長が日韓協定の研究レポートの執筆に没頭していた頃、私自身は、所長から頼まれた国際司法裁判所の判決資料の 翻訳などの面で極わずかな手伝いはしたものの、事務所に依頼のあった翻訳の仕事に掛かり切りであった。そして、当該翻訳の締め切り 期限が迫りくる中で、毎日緊張感をもって朝から夕方まで英和辞書と首っ引きであった。翻訳は分量の多いもので本格的な仕事となった。

  翻訳依頼は所長の知り合いの朝日新聞論説委員を介してのものであった。海洋法関連の国際シンポジウムを請け負ったある 会社からの依頼であった。そして、同シンポジウムの全議事録の翻訳だけでなく、海外から同シンポジウム宛に寄せられた研究論文の翻訳 も多数含まれていた。また、それに引き続いて、ある出版社からの依頼で、海洋における人間の営みや海洋の自然諸科学を総観する 「海洋大図鑑」のような英語書籍の和訳化をも請け負っていた。これもかなりの分量があった。

  二本のこれらの翻訳には3、4ヶ月没頭することになった。アド・ホックな現金収入ではあったが、収入面で事務所へのそれ相応の 貢献につながった。翻訳内容としては、ワシントン大学での「海洋総合プログラム」で学んだ海洋にまつわる諸学の領域と かなり重なり合うものであった。故に、学んだ知見を大いに生かせることができ、取り組み甲斐のある仕事であった。中には手に負え ない内容を含む難解な論文もあったが、そこは勘弁してもらったりした。私にとって、事務所での最も仕事らしい最初のものといえば、 これらの翻訳業務であった。だがしかし、実はそれが収入に結び付いた最初で最後のものとなってしまった。つまり、後にも先にもそれ以上の 収入源となるような、まとまったロットの大きな仕事に巡り会うことはなかった。

  翻訳以外では、朝日新聞の「論壇」や北海道新聞のコラム向けに、当時の「国連第三次海洋法会議」の動向を踏まえながら、200海里 排他的経済水域(EEZ)の制定化の行方や、我が国漁業への長・短期の直接・間接的インパクトや将来展望について、幾つかの記事を執筆させて もらったりもした。正直に言えば、事務所が擁する定期的で安定した収入源は、私の見る限り皆無に近いものであった。 当時においては、全てはアド・ホック、スポット的な翻訳や原稿執筆のみによる収入であり、持続可能性のあるものとは言い難かった。

  ところで、潮事務所が海洋法制や政策課題に関する調査研究を標榜するのであれば、当時なおも佳境にあった国連海洋法会議の最新動向 について絶えずキャッチアップしておく必要があった。即ち、英語・邦語を問わず、学術定期刊行物などに発表された論文をはじめ、 最新の審議結果を踏まえるべく同会議の関連情報を常々収集しておくことが必須であった。その関連で最も頼りにしたのが、事務所 の最寄駅である地下鉄「虎の門」駅から2駅先にあった「国立国会図書館」であった。

  時間を見つけては、情報収集のため国会図書館通いに精を出すことが多かった。国会図書館の蔵書数は無論国内最多である。 200海里EEZ、離岸200海里以遠における大陸棚の限界画定、深海底マンガン団塊開発レジームなど、海洋法会議における重要テーマに関する 外交交渉の動静分析を特集的に扱う幾つかの重要な学術定期刊行物の他、海事・水産・海運などのジャンルに沿って深掘りして発刊 される定期刊行物などからも最近の動向につき情報収集したかった。米国の出版社が発行する「Ocean Development and Law of the Sea」 は一つの好例的な情報源であった。

  国会図書館は閉架式であり、さらに図書閲覧請求のできる一回当たりの書籍数に限度があった。一人一回につき10冊までであった。 図書検索カード収納ボックスから目当てにする図書カードを探し出し、その図書請求番号を請求用紙に記入し、 カウンターで閲覧請求を行なう。定期刊行物の場合は先ずは「総合雑誌索引目録書」からその刊行物の請求番号を探さねばならなかった。

  複写したい場合、ページに付箋紙をはさみ、別途請求用紙に目的やページ番号などを記入の上複写請求を行なう。 待ち人が多い場合や、請求行為に要領を得ない場合には、図書の受領や複写完了までに2、3時間もかかってしまう。昼食をはさんで、何とか 一日2回の図書閲覧請求と2回の複写請求を行なう。万事それらを終えたとしても大抵は午後4、5時頃になってしまう。殆ど一日仕事であった。 前近代的閲覧システムに歯がゆさを感じていたとはいえ、そこはぐっと堪えてそれなりの覚悟をもって資料収集に勤しんだ。

  時に東京水産大学の図書館などにも足を運び資料を得た。そのきっかけは単純であった。所長に連れられて「全国漁船保険組合」という 公益法人の事務所に出向いた折のこと、当組合の理事長であった浅野長光氏に初めてお目にかかった。浅野氏の常勤先は当該組合であったが、 実は東京水産大学で国際海洋法の講師をも務められていた。潮事務所の研究顧問でもあった。懇意にさせて頂いたのはずっと後のことになるが、その出会いをきっかけに同大学図書館の利用を思いついた次第である。開架式の図書館であったので外部の一般利用者であっても自由に館内閲覧を することができ有り難かった。だが、一度出掛けるとやはり一日仕事になり、数多く足を運ぶ訳には行かなくなった。

  ところで、事務所での仕事上の悩みが幾つかあった。その悩みの根っ子にあるものは同じであった。海洋にまつわる文献翻訳、 日刊新聞向けの原稿執筆、各種の情報収集、関係者との面談などの他、海洋法や海洋政策関連セミナー・講演会への出席、その他 何がしかの調査研究に没頭している時は、そんな悩みや雑念から解放された。だがしかし、その没頭から離れると心は再び悩みにまとわり つかれた。

  その近因の一つであったのは、給与に見合うだけの貢献、即ち事務所への収益上の貢献を十分に果たしているとは言える状況には なかったことであろう。それが重荷になり、負い目を感じるようになっていた。 事務所として定期的で安定した収益がない中、所長は私への給与を毎月工面してくれた。その「軍資金」は恐らくご自身の年金などから の融通ではなかったかと推察していた。

  所長の年金は元々ご自身の貴重な生活費に違いなかった。また事務所の家賃支払いのための資金にあてがわれたはずであった。 だから、申し訳ないという後ろめたい思いをいつも抱いていた。事務所の稼ぎを十分に上げられず情けなくもあり、気の滅入ることでも あった。思い過ぎかもしれないが、何か所長のパラサイトのような感覚に囚われることもあった。所長の経済的工面の辛苦を思うと、 ますますもって後ろめたく感じ心が沈みがちとなった。

  意気消沈するもう一つの近因があった。事務所の定期的な収入源となるような、海洋法制・政策などに関し他社に提供できる 「調査研究サービス」や、また法制・政策に関する定期・不定期刊行物のような形での「売れる商品」を見い出せなかったことである。 それを創り出そうにも、創れなかったことである。

  民間会社勤務のサラリーマンが、毎日同僚とルーティンワークをこなし、何か商品を作ったり、サービスを提供したりして 一日のルティーンを終える。一か月後には、会社が売り上げた収益から給与として報酬を受け取る。そんな普通にあるビジネス界での 日常業務という訳には行かなかった。それとは全く対極にあるような世界に所長と私は身を置き、右往左往していた。

  想像を少し逞しく働かせていればの話として、入所前の段階においてそんな状況も十分読めたはずのことであった。とはいえ、現実に そのような状況下に身を置くとなれば、やはり辛いものがあった。会社の一社員であるというよりも、所長も私も個人経営者(あるいは 自営業者)であり、まさに自己管理と自己責任の世界に身を投じてきたといえる。

  何の販売できる商品や、提供できるサービスもないというのであれば、当然日々の収益は得られず、また何の報酬をも享受できるはずも なかった。周りの皆はそんな当たり前のビジネス世界に身を投じていることは頭で理解できても、月日を経るにつれ現実の厳しさや 焦燥感がじわりとまとわりついてきた。

  翻って見れば、海洋にまつわる調査研究に身を置くようになったことは私的には嬉しいはずのものであった。また、それは大いに意義深く、 遣り甲斐のあることであった。もっと言えば、それは「好き」でやっていることであった。「愉しい」はずの仕事と言えるはずの ものであった。では、一体何が悩みとなっていたのか。何故に心が沈みがちであり、時に心が折れそうになっていたのか。 「好き」でありながら、何故愉しくなかったのか。

  悩みの原因を突き詰めた先にあったのは、一言で表現すれば、事務所の事業の将来的な見通しや展望を描けなかったことであろう。 財政的基盤をしっかりと築ける見通しが開けてこず、また自身一人ではそんな状況から抜け出せないものと思い込み、心が苛立っていたのであろう。

  今から思えば、所長にも私にもビジネス・センスがありそうにはなかった。「ビジネスべた」というか、その不器用さ はどうしょうもなかった。営利目的のビジネスを創始し営むセンスには全く恵まれず、またそのエネルギーや気概も湧きたてられなかった と言えよう。現実に事務所として提供できる「商品」を創作できていなかった。更に言えば、所長も私も、海洋法制・政策にまつわる調査研究を 通じてそれを創り出し、収入に換えるためのアイデアが全く貧弱であったといえばその通りであった。

  私の入所前までは、所長は、一人でいわば「自給自足」的に、また「自律と自立性」をもって個人事務所を営んでいた。恐らく、事務所 の賃貸料の支払いを含め、殆ど財政的困難がさほどに伴うことなく事務所は維持されていたことであろう。しかも、所長が心に内在させて きた社会的使命や正義感を遂行できていたはずである。だが、私と言う他人を事務所に迎え入れたために、厳しい経営環境に自らを 追い込んでしまった。事務所はそんな状況下にあるに違いない、と一人考え込むこともあった。それを思うと、さらに心が沈み込み、 将来への希望の光が消えて行くようであった。

  ある時シアトル時代の友人から「詰まるところ、事務所では何を売っているのか?」とストレートに尋ねられた。返答に窮してしまった。 胸にずっしりと堪えた。今から考えれば、事務所の事業として何ができたであろうか。翻訳や新聞原稿執筆などの他に、 海洋法制や政策課題を調査研究しつつ、どんな所業をビジネスとして立ち上げ、その経済的基盤を築く上で一体どんな方途がありえた であろうか。

  当時おぼろげながら、また断片的ながら、その方途について思い描いていたこともある。そして、そのうちの一つを主軸にして 創始しようと取り組み始めたのは、事務所を1976年10月末に退社してなおも数年経た頃のことであった。だがしかし、結論を先に言えば、 その新規事業の経済的採算性を維持することはやはり至難の業であった。後に残った物といえば幾つかの簡易印刷物と、チャレンジしたという 「誇り」だけであったかもしれない。チャレンジの詳細は後章で触れることにして、事務所としてどんなビジネスがありえたのか、 そのアウトラインを記してみたい。

(1)社会的関心が高くニーズのありそうな海洋法制や政策課題に沿って調査研究を行ない、「ニュースレター」などの定期刊行物を発行し、 講読者を獲得する。
(2)クライアントのニーズに応じて海洋法制や政策課題に関する調査研究を受託し、研究レポートを作成し対価を得る。
(3)海洋法制や政策課題などのシンポジウムやセミナーを会費制(または会員制)をもって開催する。
(4)事務所の事業をサポートする「賛助会員」を募り、海洋法制や政策課題などに関する研究レポートを同会員向けに定期・不定期に配布する。
(5)公益法人などから助成金や研究資金を得て、海洋法制や政策課題に関する特定テーマの調査研究を行ない、報告書を作成する。 また、関連セミナーを開催する。

  所長と私の二人で企画立案し実行に移すとして、どれほどに採算性をもって実現可能か、そのバランスシートは いかなるものになるか。また、持続的可能性は如何なものか。研究レポートの編集・印刷やセミナーの開催においてもそれ相応の多額の 経費がかかる。年に何度かの定期的研究レポートを発行し、販売することで、収支バランスを黒字にすることができるのか。 特定の公益法人が関係管轄省庁などから公的助成金をほぼ「自動的に」得て調査研究を受託したり、その成果品としての レポートを非売品として会員限定で無料配布するなどという、安定的な事業経営とは全く異なるものである。 いずれにせよ、任意の一民間事業体が社会科学系の学術的調査研究をもって収支バランスをとるに際しては、乗り越えるべきハードル は極めて髙いと覚悟せざるをえない。

  現実には潮事務所による起業は何もできなかった。所長と膝詰で話し合い、ビジネスの具体的な事業計画を構想し、その実現のための 方途を真剣に探ることはできなかった。むしろ、しなかったというのが実際のところである。 真の社会的ニーズを見極めつつ、海洋法制・政策課題を調査研究し、その成果を定期刊行物や 特別レポートという形に仕上げ、関係者に喜んで買ってもらいたかった。定期・不定期の収入につながる、その 何かを見つけたかった。だが、できなかった。所長にも私にもビジネスを掘り起こし育てる才覚は無きに等しかった。残念至極のことといわざるを えない。

  今から思えば、二人とも正面を向き合うことも、相談し合うことも、またアイデアを交換することもしなかった。二人が何としてでも 意思の疎通も図ろうと努力しなかったことは、余りにも消極的過ぎたと言わざるをえなかった。余りにも不甲斐無いことであった。 二人ともビジネスに余りにも奥ゆかし過ぎた。事務所の将来について相談し合い、アイデアを出し合い、互いに情報共有し、また悩み合える 同年代の仲間もいなかった。それを言い訳にして愚痴るつもりは毛頭ないが、残念ながら事務所の未来の発展への扉をこじ開けられる 行動と思索パターンを取るまでには至らなかった。自己嫌悪に陥りそうな自分がそこにいた。

  地下鉄で渋谷に出て東横線に乗り換え、「学芸大学」駅で下車し地元の商店街を通り抜け、誰もいない四畳半のアパートに戻っても、 ため息しかでなかった。日銭をどうやって稼げるようになれるか、事務所のビジネスのことに気を向けるといつも堂々巡りとなった。 そして、最後は孤独感に襲われてしまった。気を取り戻して、洗面器に石鹸・タオルを入れて銭湯へ行く足取りはほぼほぼ重かった。 帰りに大衆食堂で腹を満たした時だけは、少しは元気を取り戻した。

  自身のビジネス・センスの無さに忸怩たる思いを抱き、他方で事務所の将来に明るい展望をもてず、何か出口の見えない 暗いトンネルに入り込んだかのような日々を送ることが多かった1976年の桜の花が咲く頃のこと、後に運命を劇的に変えることにつながった 一つの新聞広告を目にすることになった。

  新聞広告との出合いのことは第6節に譲ることにして、気の滅入るそんな状況下でもやらねばならないことがあった。国連への 奉職の志しはまだまだ燃えていた。実は、留学から帰国して暫くしてのこと、縁あって顔を出していた「海洋問題国際研究所」の ある理事の方や、関大大学院の仲間からも、何か論文を寄稿しないかと誘われていた。それをチャンスにして、週末などに日の差し込まない アパートのこたつ台を机にしてしこしこと執筆に取り組んだ。

  よくよく考えてみると、日米での大学院生時代における学究の成果としては、わずか一編の論文しか印刷物の形で公表してこなかった ことに気付いた。いずれにせよ、国連に応募するに際しては著作物の実績も大事であった。それが専門性の証しになるからである。 そこで、留学時代に作成した「マンガン団塊の開発と環境影響アセスメント」に関するターム・ペーパーを下地にして邦語論文を書き上げ、 母校の大学紀要や海洋問題研究所の定期刊行物において発表することにした。それを励みに、その後さらに幾つかの海洋法制・政策関連 論文を学術研究雑誌などへ寄稿するなど大いに励んだ。



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    第2節 ビジネスに不器用な私の悩みと焦り


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      第2節: ビジネスに不器用な私の悩みと焦り
      第3節: 日韓大陸棚協定を深掘りする
      第4節: 東シナ海大陸棚境界画定にどんな未来があるか-百年の争いか(その1)
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