「潮事務所」に籍を置き毎日勤務していたのは所長と私の二人だけであった。それからすれば尚更の事、二人して胸襟を開き、
事務所の経営やビジネスのあり方や将来のこと全般について率直に語り合うべきであった。さすれば、何がしかの前向きなアイデアが
生み出され、無理なことは無理として共有もされ、前を向いて進むことができたかもしれない。
だが、互いに正面を向き合って率直に話し合うことはなかった。何故だったのか。未だに理解できないところがある。
話し合ってもお互いのベクトルを合わせられそうになく、お互いに傷つけ合ったままに終わりそうで、それ故に話し合う勇気を奮い
立たせることができなかったのかもしれない。要するに、二人とも余りに遠慮深かったようである。同じ事務所の屋根の下で机を並べながら、
二人が歩もうとする方向はどこかずれたまま、思い思いのことに没入していたようであった。
毎朝意気揚々と熱く心を燃やしながら事務所に向かいたかった。だが、現実には通勤電車の吊り革に沈んだ心を引っ掛けてぶら下がって
いることが多かった。地下鉄・銀座線の渋谷駅を出て虎の門に近づくにつれ、足取りはさらに重くなって行くようであった。
事務所が取り組む調査研究においても、また経営収支バランス面でも何がしかの可視化できる貢献をしたかったが、何をどうすればいいのか、浮かぶ
アイデアはいつも堂々巡りで、これと言った納得できるビジネスの企画案を生み出せずにいた。日々焦る心と虚無感を抱えながら、アパートと事務所
を往復していた。1976年の春近くのことで、桜が間もなく開花する頃であった。
4月上旬のある日の早朝のこと、事務所の始業にはまだかなりの時間的余裕があった。事務所に出社した後カバンを置いて、
事務所が定期購読していた朝日新聞朝刊を三つ折りに束ねて、すぐ近くの喫茶店に出掛けた。店は事務所のすぐ前にある路地を
もう少し進んだ奥にある袋小路にあった。
喫茶店には昭和時代の趣きがたっぷりと染み込んでいた。「モーニングセットがお得です」という、卓上に置かれた透明
プラスティック製の広告用ミニスタンドに引き寄せられて即座にそれを注文した。そして、バターが程よく塗られた厚切りのトーストをかじり、
時にコーヒーをすすりながら、広げた新聞の見出しを追い始めた。
新聞紙面のトップには、田中角栄首相と丸紅が絡むいわゆる「ロッキード贈収賄事件」の記事の見出しが派手に踊っていた。霞が関の政界は
勿論のこと日本中が大荒れであった。それらの見出しを走り読みしながら、ページをめくりめくって社会面に辿りついた。そして、その社会面の
見出しを何気なく上から下へと追った。
その時、ページ左下隅に掲載された小さな囲い込み広告に目が留まった。開発途上国への「政府開発援助
(ODA)」に携わるあの「国際協力事業団(JICA)」の職員募集広告であった。一瞬ハッとそのコラム
に釘付けとなった。そして、頭上に稲妻が落ちたかのような衝撃を感じた。
心臓の鼓動が一気に早まった。興奮冷めやらないなか、改めて広告をしっかり読んだ。間違いなかった。ODAを実施するあの政府系
特殊法人JICAの職員募集広告であった。今回の募集対象者は非正規職員や嘱託ではなく、正しく正規職員であった。それも、大学新卒者
の募集ではなく、社会人を中途採用するという、願ってもないものであった。それ故に、関心がぐっと引き寄せられ前のめりになった。
広告記事には応募条件や待遇面などが簡潔に付記されていた。30歳が年令制限であったので、まだ十分余裕がありほっと胸をなで
下ろした。自分でも信じられないほどの運命的な広告との遭遇であった。JICA職員募集広告との余りの偶然的な出合いに鳥肌が立ち
身震いするほどであった。冷めたコーヒーを一気に飲み干し、新聞を鷲掴みにして店を出で事務所に戻った。
実のところ、出身地である茨木市はJICAと深い縁があった。市役所の所在する市街地から西へ数kmの閑静な住宅街の中に、外国人
研修員が宿泊し時に研修を受講することもできるという、茨木市で唯一に近い政府系機関関連施設があった。実際に施設を見学した
ことはなかったが、それがJICAの研修施設であることは高校生の頃には知っていた。
それに、1971~73年の大学院生の頃「青年海外協力隊(JOCV)」のボランティアに関心をもち、開発途上国に飛翔し
ボランティア活動に汗を流してみたいと真剣に考えていた時期があった。JOCVはかつてはJICAとは別個の政府系独立機関
であった。1976年当時にあっては、「海外技術協力事業団(OTCA)」とJOCVとは既に統合され「国際協力事業団(JICA)」
へと生まれ変わっていた。
当時海外青年ボランティアとしてどんな職種に応募しようかと真剣に思い巡らせていた。大学の就職・企業資料室で関連資料を漁った
ことがあった。法学のバックグラウンドをもつ者にとっては、応募するに相応しい職種を見い出すのは大変困難であったと記憶する。
ところがである。私が小六の時に父親が他界し、それ以来家族を助けるためにおよそ14年間毎日のように農事に従事していた。
大学生でありながら農協組合員の正規の資格をもつほどであった。それは農業の専従者でもあることの証しであった。だから、
農業開発や農村生活向上支援なんかの職種であれば、十分応募資格があったのではないかと、思い起こしたことがかつてあった。
だが、当時は法学関連の職種を思い浮かべるばかりで、頭の切り換えを図り農村生活改善などの職種を思いつくほどの
柔軟性を全く持ち合わせていなかった。そのことを後に悔やむことが何度かあった。
私がその30数年後に、在ニカラグアJICA事務所に赴任した折には、何と70名余のJOCV隊員(若干名のシニア隊員を含む)が全土で活躍していた。そして、そのうちの4、5名が地方農村部においてそのような職種での活動に勤しみ生き生きと活躍していた。
さて、新聞がまたしても一つの偶然、一つの幸運を呼び寄せたと思った。過去を振り返れば、私の人生に劇的にして運命的な転機を
もたらしてくれた通信媒体は何と言っても新聞と手紙であったという思いがある。神戸商船大学の小谷信一学長、国連法務官の曽野和明氏、
あるいは潮事務所の麓多禎氏との出会いがそうであった。小谷学長とはある大型船舶海難事故を報じる新聞記事がきっかけであり、
曽野氏とは「関大新聞」の記事との偶然の出会いがきっかけであり、また麓氏とは朝日新聞の「論壇」記事が出会いを引き寄せるきっかけであった。
そして、今回のJICA職員募集広告との遭遇もまた新聞を通じてであった。
休題閑話。早速、履歴書用紙を文房具店で買い求め、その日のうちに書き上げ、翌日には履歴書用写真を添付して投函した。一か月後には、
都内渋谷区の広尾に所在する協力隊の研修施設で実施された筆記試験に臨んだ。受験者は何百人と大勢であった。JICAへの奉職とODA世界との
関わりに希望をつないで、何としてでも合格したいと願っていた。だとしても、当時の落ち込んだ精神状態からして、正直自信はさほど
湧きたたなかった。確率でいえば五分五分くらいで、運が良ければ合格できるかもしれないと、秘かに幸運の女神に願掛けするほど
であった。試験のレベルは国家公務員中級試験レベルとまことしやかに囁かれていた。
さて、実に嬉しいことに、めでたく筆記試験(一般常識・英語・作文)に合格した。出勤直前に、そのことを知らせる電報をアパート
で受け取った。潮事務所には内緒であったので、JICAからの通知はアパート宛てに送られてきた。さてその後、
西新宿の超高層ビルのうちの一つである「新宿三井ビル」での面接試験に臨んだ。
5、6人の幹部職員らしき面接官が居並ぶ前での面接に臨んだ。受け応えに窮するような難しい質問は殆どなく、それに
面接時間はさほど長くはなく、10分程度であったと記憶する。その後一週間ほど経った8月のある日、人事課担当者から内々の採用を
知らせる電話を受けた。受験者の殆どは当時勤務先をもっていたので、その職場を円満退社するための時間的余裕が必要であった。
それ故に、いつ頃から勤務できるかという照会電話であった。数ヶ月後の1976年11月1日から出社することに決まった。潮事務所入社からすれば
ほぼ1年後のことであった。
新聞紙上でのJICA職員募集(社会人対象)広告との偶然の運命的出会いと、中途採用試験での合格がなければ、その後の自分はな
かったはずである。大洋を小舟で漕ぎ行くかのような人生航路の真っ只中で、いきなり「大船」に乗り換えるかのような、何という
劇的な転機に巡りあったことか。「潮事務所」で海洋法制や政策課題との関わり合いを持ち続けることができたことはすこぶる喜ぶ
べきことであった。だが、公私とも将来の展望を描き難い長く暗いトンネルに入り込み、不安定で悩み多い日々を送っていた。
そんな立ち位置からの運命的、革命的な転機の訪れとなった。私的には、JICA奉職は「人生航路」における突然の救世主のような価値を
もたらすものであった。大袈裟かもしれないが、天は我を見捨てなかった。運は燃え尽きてはいなかったと感じた。
さて、余談であるが、それまでの焦燥感や虚無感がまるで無かったかのように心が晴れ、どこかへ旅に出てみたいという思いが
湧いてきた。そこで、東北・三陸地方のリアス式海岸の絶景をこの際見てみようと、10月中旬行き当たりばったりながら盛岡へと向かった。
盛岡からローカル線の普通列車で三陸海岸を目指した。宮古駅で下車した後、海辺をそぞろ歩きした。そして、観光船にも乗船し、
奇岩が多く風光明媚な景勝地と知られる「浄土ヶ浜」の海岸沿いに遊覧した。その後、田老地区の漁村へと向かった。
田老地区では、その背後に山が迫り、狭い海岸平野に家屋が密集していた。その集落から海岸に出ようとした時のこと、海を見失って
しまった。海のすぐ近くをたむろしているはずなのに、丸で海が見えなかった。何と海岸線に沿って集落全体が高さ5、6メートルもある、
分厚いコンクリートの防壁がそびえ立ち海を遠ざけていた。
海にアクセスするには鋼鉄製で堅牢な大扉をくぐる必要があった。そこで初めて田老地区が津波から住民を守るため、見上げるような
防壁によって集落全体が「要塞化」されていることを知った。防壁が伸びる先には岩崖が垂直にそびえ立ち、そして岩壁にはかつて大津波
がこの高さまで来襲したという痕跡が示されていた。
ところで、そんな旅から約35年後の2011年3月11日に、後に「東日本大震災」と呼ばれる未曾有の大地震が東北地方東岸を襲った。
そして、東北太平洋岸一帯に押し寄せた巨大津波は田老地区にも襲いかかり、その防壁を乗り越え集落を一呑みにするという大惨事に
見舞われた。東電の福島第一原子力発電所のメルトダウンはもう一つの大惨事をもたらした。
地震発生時、私は渋谷の道玄坂にあるビル内をたむろしていた。ビル内ではさほど揺れなかったために全く気付かなかったが、
通行人が上方を見上げながらざわついていたので、何事かと急いで通りに出て見た。そして、ただならぬ巨大地震が関東近辺のどこかで発生
していると確信した。
眼前の全ての高いビルが激震のため左右方向に大きく揺れ、ばしゃばしゃとまるで飛び跳ねているかのようであった。互いに
ぶつかり合って今にも道玄坂の通行人の頭上に崩れ落ちて来そうであった。その後、25㎞ほどの道のりを7、8時間かけて歩き通し帰宅した。
「明治通り」をはじめ大通りはどこもかしこも徒歩で帰宅する人々や、渋滞で全く動けなくなった車両で溢れていた。
途中ショーウインドウの中に電源オンになったままのテレビが置かれ、その画面に釘づけとなった。大津波が仙台空港の滑走路を
今にも呑みこもうとする情景を映し出していた。ヘリコプターからのライブ放映がそれを捉えていた。映像の津波はまるで無声映画の
ように無言で不気味に侵入しつつあった。その津波映像に心臓が凍りつき、息するのも忘れるほどの衝撃をもたらした。
休題閑話。私は1976年11月1日新宿本部でのJICA入団式に出席し、その日から4,5日間のオリエンテーションを受けた。
同期入団者は20名ほどであった。その後、研修事業部研修第2課という部署に配属された。先輩諸氏の手ほどきを受けながら、名実ともに
「社会人一年生」としての面持ちと緊張感をもって、冷や汗をかくのもいとわず実務に汗を流した。
わずか2週間ほど経た頃に日割り計算の初月給の支給日が巡って来て、茶封筒入りの現金を受け取った。
当時はまだ銀行口座への振込み制ではなく、現金が給与明細書と共に茶封筒に入れられていた。それを庶務の女性職員から受け取っていた。
生まれて此の方一度も明細書入りの茶封筒入りの給与袋で給金を手にしたことがなかった。少しだけ厚みを感じられる
給与袋を背広の内ポケットにしまい込んで家路に就いた。電車の中で時折左胸に手を押し当てる仕草をしながら、袋があること
を確かめる自分がそこにいた。そんな自分を時々自笑した。兎に角道中ずっと気を高ぶらせながら家路についたことをよく覚えている。
その後信じられないような有り難い給金をもらった。12月1日に在籍していたということで、給与規則通りに冬のボーナス
までもらった。その時には、まるで子供のように飛び跳ねるように浮き足だって帰宅した。
何はともあれ、涙こそ流すことはなかったが、毎月特定日に給金をもらえることの有り難さを28歳半ばにして痛いほど噛みしめた。
特に「潮事務所」での過去一年間における給金の受領体験とその頃の心情を思い起こせばなおさらのことであった。それに、何の後ろめたさも
なく給金を受け取れることが殊更嬉しかった。
ところで、JICAは、日本政府が発展途上国向けに実施する「政府開発援助(ODA)」の柱の一つをなす技術協力を担う政府系特殊
法人である。JICAへの奉職によって、国際社会との何がしかの接点をもちつつ、少しでも途上国に貢献したいという、かねてからの
願いが叶ったという思いに心が満たされていた。国連の予算ではなく日本政府のそれによるという違いはあるが、発展途上国の
「国づくり人づくり」を通じて、国際社会の何がしかの発展につながる仕事を担えることに誇りを感ぜずにはいられなかった。
仕事の本質的な意義は国連もJICAも同じであると認識した。JICAの技術協力業務を通して、日常的に数多くの
発展途上国の人々と向き合い、異文化に接しながら、少しでも国際社会にお役に立てることができそうであった。それは長年抱いてきた
国際貢献への願望の具現化に近づけるとの思いがあった。途上国の何がしかの「国づくり人づくり」に関われることが先ずもっての
最大の喜びであった。
他方で、個人的にあることに希望を繫いでいた。即ちは、JICAの業務を通じて水産などの海洋関連分野における技術協力に関われる
ことへの期待であった。勿論、いずれの部署でどの程度関われることになるかは未知数であった。
運を天に任すしかなかったが、少しでもそのような分野での業務に従事することができれば、海洋法担当法務官を目指す上で
少しでもキャリアを積み重ねられるのではないかと、内心では大いに期待していた。
他方また、内心では二足のわらじを履くこともできるのではないかと内心考えていた。有り体に言えば、JICAを離れた場所と時間において、
時には「潮事務所」との関わり合いを保つ中で、何がしかの海洋法制や政策課題に関する自由で任意な調査研究を続けられるものと
望みをつないでいた。勿論、期待し過ぎないように身体共にバランスを保つように心掛けた。商船大学の受験を諦め「山の世界」に
丸年も没入していた時期があった。そんな中、運よくついに海に回帰できたにもかかわらず、再び「海の世界」から遠ざかり、さらに
海洋法制や政策などに関する専門性を手放すことなど、個人的心情からしてとても考えられることではなかった。
JICAに奉職しても如何に海との接点を主体的に保ち続け、自発的に専門性を高め続けて行けるかと言うことに心を砕こうとしていた。
専門性を捨てれば、日本や米国での勉学を長く支え続けてくれた家族や指導教授、その他の多くの方々に申し訳ないという強い思い
だけはなおも頭の片隅にしっかりと釘で打ち付けていた。また、日米の大学院修了までに要した経費を決して無駄にしたくはなかった。
将来を見据えると、JICAへの奉職は、一石三丁あるいは四丁ならぬ誠に有り難い職場であると思えた。
給金・ボーナスをいただき自身の生活基盤が100%安定することとなった。自助努力をもってすれば細々でも、海洋法制などに
関する調査研究を何とか続けられそうであった。JICAの給金は「東京砂漠」で生きるための最も重要な生活の糧であったが、他方で
そんな個人的な調査研究の継続を安定的に支えてくれるものでもあった。
また、国連でなくとも、先ずはJICAへの奉仕を通じて国際社会への貢献につながる業務を担うことは喜びに堪えなかった。
さらにJICAでの国際協力の実務は国連奉職を目指す上でキャリアダウンではなくアップにつながり、またそれへの近道になる
かもしれなかった。また、JICAでの配属部署によっては、国連海洋法務官ポストに志願する上でのキャリアの積み重ねに
つながるという可能性も秘めていた。JICAにおいても、海洋や水産分野との関わりを主体的に見い出し、その可能性を探り続け
たいとの決意と希望を新たにしていた。
かくして、JICAへの奉職をもって人生の新たなスタートラインに就いた。奉職後の先々においてどのような未来が待ち受けるのか、
具体的に想像することはできなかった。だが、明るい希望の光だけは輝いていると思えた。自身の人生の「海図」に、向かうべき具体的
な針路やルートをどうプロッティングしていくか。遠い先のことはさておいて、JICAを「母港」にして、国際社会貢献と言う「大海」へ
先ずは「大洋航海」に漕ぎ出すことになった。
新聞広告に遭遇したことは確かに偶然の出来事であったが、しかし、これまでの人生で一度も偶然を当てにしたことはなかった(また、
当てにできることではなかった)。夢や希望をいつも胸に秘め続けていたが故に、自身の眼前をたまたま通り過ぎるチャンスの幾つかを
見逃さずにここまで来れた。そういうことであったに違いない。また「必然の偶然」であったとも思いたい。
それにしても、読む新聞の見出し語や広告は無数に存在する。そのうちの一つであった小さな広告がたまたま眼前を通りかかった。
そして、希望は失ってはいなかったがゆえにJICA奉職へと繋がった由であろう。人生の幸運の殆どをそれによって使い果たしたのでは
ないかと真に心配するほどであった。JICA入社試験合格直前まで将来への不安を抱きながら、出口の見えないトンネルを手探りで
歩んでいた。そして、そんなトンネルを抜け出て見えた世界は眩しい輝きを放ちさらなる希望に満ち溢れていた。
新宿副都心の超高層ビル群のなかの「新宿三井ビル」は当時においては、高度経済成長時代の一つの象徴的存在であった。JICA本部はその
45~48階にオフィスを構え、かつ国内外において数多くの事務所や研修施設を展開していた。
当時東京都庁の超高層庁舎ビルはまだ建っておらず、形も影もなかった。西新宿には京王プラザホテル、新宿住友ビル、安田海上
火災ビルなど4、5本の超高層ビルしかなかった。都庁舎や都議会の建設予定地は更地のままになっていた。昼休み時間には、よく
そこで仲間とキャッチボールやサッカーなどのボール遊びに興じ運動不足の解消に努めた。
入団した1976年11月1日から1990年代初めにかけての16年間は、日本経済は右肩上がりの絶頂期にあった。異様なまでのバブル経済
がはじけるまでは、ODA予算も米国のそれを上回るかのような勢いをみせていた。
事実、1990年代初め頃の一時期ではあったが、世界でもODAトップドナーとなり、飛ぶ鳥も落としてしまいそうな信じられないほどの援助大国
時代にあった。
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