JICAに就職して2年目の1977年に私的目的で二回渡米した。国際海洋法制に関する研究会合やシンポジウムに出席するためであった。
それが触媒になって、その後はたと閃いたことがあった。日本が深く関わる海洋法制・政策や海洋開発の最近の動向に関する
英語版ニュースレターを作成し、世界に発信しようと思いついた。さりとて、いきなり英語版を発刊するのは荷が重く、
少々尻込みをしていた。そこで、先ずは日本語版のニュースレターを発刊することにした。
その日本語版第1号はJICA研事部時代の2年目に入って間もない1978年1月に発刊することができた。研事部には翌1979年の12月
まで在籍していたが、その時までに発刊できたのは、結局わずか通算3号分のみであった。しかも、
それらはかつて働いていた「潮事務所」の名の下での発刊であった。そして、その日本語初版から10か月を経た1978年11月になってようやく
英語版ニュースレター第1号を創刊することができた。1979年10月までに通算4号を数えるに至ったが、これらについても「潮事務所」
名での発刊であった。その後、私は、人事部からの内示通りに、1980年1月になって「水産業技術協力室(通称・水産室)」へ
異動となった。
JICA本部内には何十という部があったし、また地方にも数多くの支部・研修センターがあり、海外には30ほどの在外事務所が
あった。それらの部署の中で、海洋水産に直接的に関わる部署は、その「水産室」と三浦半島先端近くに所在する三崎の「神奈川
国際水産研修センター」だけであった。かくして、私にとっては願ってもない部署への配属であった。今もって幸運を使い果たして
はいなかったと安堵もした。それに、国連に志願する上でもまたしてもキャリア・アップに繋げられるものと大いに喜んだ。
日本語版も英語版もニュースレターは8~10ページほどで、分量は決して多くはなかったが、その執筆は思うほど簡単なことではなかった。
JICAの本業において手を抜くことなく全力投球で向き合っていたからである。発刊は少しずつ遅れ遅れになりがちではあったが、
致し方なかった。二足のわらじを履いてチャレンジすることの矜持に背中を押されながら踏ん張り続けた。だが、実際に発刊して
みて初めて知る一つの壁に直面した。それをどう乗り越えるか思案のしどころとなった。悩みと言っても、ニュースレター作成に
つきものの遅延や編集などにおける実務的な労苦のことではなかった。
ニュースレターを国内外の海洋法制・政策に関わる研究機関や行政組織、学者個人などに送付し、徐々にではあるが
送付先を開拓できつつあった。だが、ある時、発行機関としての「潮事務所」とはいかなる組織なのか、誰が、何を使命にどんな
意図をもってニュースレターが作成されているのか、ほとんど明らかではなかったことから、その受領に戸惑いがあることに気付いた。
受け手にそんな戸惑いをもたれることなく、発刊の趣意が十分理解されすんなりと受領されるにはどうすればよいか、その方策に
ついて腐心していた。
ニュースレターで毎回くどくどとその趣意説明にスペースや時間を費やするのは賢明ではなかった。
また、経費面においても、あるいはそれ以外の面でも、その発刊を持続可能なものにするにはどうすればよいか、頭を悩ませていた。
その悩みの全てではないにしても、その多くを解決する方策こそが「海洋法研究所」の創始であると思いついた。かくして、それなり
の具体的アイデアを練り上げ言葉に落とし込んで、先ずは浅野長光先生の事務所へ相談に伺うことにした。
時間を少し巻き戻して、浅野長光先生との出会いについてもう少し触れたい。虎の門にあった「潮事務所」に勤めて数ヶ月後のこと、所長に
同行して、確か社団法人全国海苔協同組合連合会のような団体事務所に浅野先生を訪ねた。当時その団体の理事長であったと記憶する。
その時が浅野先生との初めての出会いであった。
浅野先生は、かつて旧内務省などの官吏を長く勤められ、退職後にその社団法人に理事長として迎え入れら
れたようであった。また、後年には漁船保険組合の理事長にも就かれていたようだが、それらについての記憶は定かではない。その他に東京
水産大学で「国際海洋法」講座を担当する講師をされていた。大変温厚な方であった。身体全体から
その温厚さ、包容力、品格の高さが滲み出ていた。会う人の誰もがすぐさま好感を抱かずにはおれないような人格者であり、
真に紳士であった。
潮事務所長の麓氏に連れられて初めて対面した折には、所長と私との出会いのきっかけ、最近の事務所の状況、浅野先生の大学での
講義のこと、国連海洋法会議での最近の日本の外交交渉の動静などを話題にしながら談笑する程度であった。お互い何か宿題を抱え込む
ような話はなかった。その後潮事務所と浅野先生との関係などについて改めて深く詮索するようなことはしなかった。
ただ、所長は必要に応じて、顧問格的な立場の浅野先生に事務所のことをあれこれと相談していたであろうとは容易に想像がついた。
何度かお会いするうちに少しずつ浅野先生との距離が縮まり、お互い気心が知れるようになった。先生の専門領域が私と同じ国際海洋法
であったこと、またお互いの関心のベクトルが世界や日本の漁業資源管理のことなどで重り合っていたことによるところが大きかった。
当時、議論の収束にはまだ遠かった国連第三次海洋法会議での海洋法条約草案の審議動向や成案化の将来見通し、200海里EEZに
関する日本の国内法の制定の行方、世界海洋で相当大きな影響を受けるであろう日本の海外漁業権益などについて、いろいろと語り合うことが多かった。
同じ専門領域における関心のベクトルが合致している者同士の親近感が深まりゆくのは、自然の成り行きであったといえる。
毎回それらの共通関心テーマについて、忌憚のない会話を重ねたことで、月を追うごとに信頼や親近感が醸成されて行った。かくして、
「潮事務所」由来の悩みの延長線上にあると言えばある、ないと言えばない例の「海洋法研究所」の創始に関するアイデアについて、
忌憚のない親身な助言を得るために、浅野氏の事務所へ一人伺った。
私はそれまで温めていたアイデアを切り出した。先ず、日本語・英語のニュースレターのこれまでの発刊の取り組み状況や発行組織
に関する悩みをストレートに説明した。世界を見渡せば、その数は多くはないにしても、欧米諸国には海洋法制・政策などを専門的に調査研究する、
中央政府や大学などの傘下にある研究機関や民間団体があった。当時日本での発足は出遅れてはいたが、確かに「日本海洋協会」という
海洋法制・政策などを調査研究する公益財団法人があった。だが、「海洋法研究所」という名の組織は存在していなかった。そこで、
差し当たりは正式な法人格を持たなくとも、任意かつ非営利の調査研究組織・団体として「海洋法研究所」を旗揚げすることについて、
浅野先生に率直に相談した。そのアイデアはシンプルであったが、私的には、沈思の結果としてようやく辿り着いたアイデアであった。
「名は体を表わす」と言うが如く「海洋法研究所」という名称に全てが言い表わされていた。英語で言えば、「The Law of the
Sea Institute Japan」である。名称からして、何をテーマにする組織であるかストレートに理解できるものであった。国際
海洋法を中心に海洋法制・政策を調査研究する「日本の研究所」ということも即座に理解されよう。研究所は、
年会費数千円の会員制とすること、また先ずは非営利の任意団体として出立することなどについても説明した。
最重要なのは、研究所を最も特徴づけることにな中核的事業を何とするかであった。それこそが、研究所の存在意義が
問われるところであった。日本が深く関わる国際海洋法制・政策、海洋開発や管理などの最新動向や課題について、情報収集と分析を
行ない、その成果を英語版のニュースレターとして取りまとめること、そして世界に発信することを、その中核事業とすることを
説明した。既に1978年11月から英語版ニュースレターの発刊にチャレンジしていたが、それを研究所の基幹事業に据えようという
ものであった。さらにずっと先の将来のこととして、海洋法制・政策、海洋開発動向などの研究報告書として、
毎年一回定期的に英語版の「海洋白書」あるいは「海洋年報」に類するものを国内外の会員へ届けるというアイデアも説明した。
「日本海洋協会」とは何が異なるのか。協会には大変有益な「季刊海洋時報」や、時々調査研究報告書なるものが会員に提供されて
いた。「海洋時報」は世界・日本の海洋法制・政策などについて情報提供する学術刊行物であった。海洋協会の向こうを張って、
同じような事業を後追いする(あるいは、先行実施する)ようなことを考えていた訳ではない。同じ土俵に上がって
事をなすことなど到底できるものではなかった。だが、「英語版ニュースレター」や「英語版海洋白書/年報」の発刊は、「海洋法
研究所」のいわば存在価値を具現化するアイデンティティーそのものであった。協会からは英語版での情報発信はなかった。
翻れば、英語版にて日本の海洋法制・政策関連の分析結果などを束ね、海外へ発信するに相応しい組織体・団体を模索
した結果ようやく辿り着いたのがこの研究所であった。
浅野先生には研究所の「所長」を引き受けて頂き、私は全ての実務を引き受けるということを提案した。研究所の事業
運営を担う役員をボランティアベースで何人かの方々に就任してもらいたいという思いがあるにはあった。だがしかし、踏みとどまった。
研究所の組織的肉付けは将来の課題とした。当座は、役員が無給のボランティアであろうと謝金ベースであろうと、「船頭多くして、船が
山にのぼる」ことは避けたかった。役員が増えるとそれなりに定期謝金などの人件費を心配せねばならず、何かと経費がかさばる
ことにつながる。即ち、役員の待遇と報酬に何かと気を使うことになる。充実したニュースレターや白書/年報を発刊し、国内外の
賛助会員に喜んでもらうべく、それを軌道に乗せることを先ずは最優先にすべきことであった。
賛助してくれる個人会員を募り、その年会費で印刷費、郵送料などの実費的経費を賄うというのが基本構想であった。
個人の賛助会員は、一方においては、研究所の「機関誌」を発刊する上でのいわば財政的支援者となる。他方においては、調査・分析結果としての
情報の受益者となるというものである。創始の初期段階から組織づくりばかりに前のめりになり過ぎたり、非現実的な収支バランス
を想定するようなことは極力慎んだ。組織も事業もいわば身の丈にあった、「実現」と「持続」可能な在り方を模索した。実現
可能ことから小さく始め、徐々に組織や事業を固めて行くのが現実的と思われた。
かくして、研究所創設と中核事業のアイデアについて、浅野先生に相談したところその場で即座に賛同を得ることができた。
事は一気に進み、今後二人で全力を挙げて取り組むことになった。振り返れば、かつて「潮事務所」に籍を置いていた頃その将来の
ビジネスの行く末に悶々と悩んでいたことがあったが、当時の全ての悩みを丸く包み込みながら、新たな一歩を踏み出せる明るい
見通しを得られた。他方で、研究所創始を実現した1980年初めにはJICA勤務の4年目を迎えていた。そして、さらに水産室という
願ったり叶ったりの部署へ人事異動し、世界中の水産技術協力プロジェクトを運営することに期待を膨らませていた頃のことであった。
超多忙な日々をまさに迎えようとしていたが、それを乗り越えるには十分なエネルギーを擁する30歳過ぎの若き頃にあった。
早速、次の週末に、研究所設立を発起するための趣意書づくりにあれやこれやと知恵を巡らせ、さらに研究所の中核事業として
の英語版ニュースレター作りの構想にも着手した。他方、浅野先生には、会員募集のため、
幾人かの親しい方々に声を掛けていただくことになった。その中には、東北大学国際法(海洋法)教授で国連第三次海洋法会議の
日本政府代表団顧問を長く勤められた小田滋氏(当時は国際司法裁判所の裁判官であった)、栗林慶応大学教授(海洋法)などが
おられた。私は、ワシントン大学ロースクールのウィリアム T. バーク教授(海洋法)、同大学エドワード・マイルズ海洋研究所長、
南カリフォルニア大学パルド―教授(マルタの元国連大使)などの学者らに賛助会員になってもらうべくコンタクトした。趣意書と
ニュースレター作りを急ぎ、後日それをもって実際に会員になっていただくことになった。
英語版ニュースレターの構想を練るのは楽しいものであった。発行は2カ月に1回というのが理想的であったが、JICAでの本業を
疎かにできず、やはり隔月発刊は難しかった。3か月に1回の季刊を目標とした。2年間分くらいのテーマを想定した後、浅野先生と相談の上、
今後1年間に取り扱う特集のテーマなどを決めた。各号における執筆ページ数は、大上段に構えると荷が重いので、多くても10ページ
程度を目途にするにことにした。
さて、1980年の春頃には、「海洋法研究所/The Law of the Sea Institute Japan」の名の下で英語版ニュースレター
「Ocean Development and Law of the Sea Newsletter」(略称、ODLOSNewsletter)の発刊に漕ぎ着けることができた。
実はかつて、「潮事務所」の名の下で「ODLOS Newsletter」創刊号を発行した時から数えれば、確か通算6号目であった。
早速、世界や日本の会員をはじめ、主要な海洋法・政策研究機関や学者個人に改めて郵送した。実に身の引き締まる思いであった。
研究所の知名度はまだまだなかったが、何を調査研究の対象とするか、いかなる組織体・団体による発刊であるかは、英単語7文字、
邦語6文字で即イメージングされることになった。
「海洋法研究所」の創建と英語版機関誌の発刊に漕ぎ着けた頃、JICAでもこれ以上に海と繋がりのある部署はないという「水産室」に
配属され、世界の発展途上国の水産プロジェクトの運営に前のめりになろうとしていた。海への回帰は100%現実のものとなり、100%後
戻りはないものと確信することができた。今後水産室から、たとえ海と関わりのない部署へ人事異動したとしても、「海洋法研究所」
の下で英語版機関誌の発刊を続け、将来的に邦語・英語版「海洋白書/年報」に類する研究報告書の発刊へと繋がって行けば、
生涯にわたり海との関わりをもち続けられることになる。その将来展望がたまらなく嬉しかった。「潮事務所」時代に乗り越え
られなかった壁を一つ乗り越えられたように感じた。かくして、二足のわらじを履きつつ、誇りをもって前を向いて歩き続けるための
道筋ができた。
ところが、やはり年を追うごとに水産室での水産関連プロジェクトの運営がますます多忙となって行った。チュニジア、インドネシア、
ミクロネシアなどでの漁撈技術訓練、養殖、水産資源調査などのプロジェクト運営をはじめ、アラブ首長国連邦における「水産増養殖
センター」建設の全く慣れない施行監理業務、さらには「アルゼンチン国立漁業学校」プロジェクトに対する無償資金協力と技術協力
の業務など、多忙を極めることになった。そのため英語版ニュースレターの編集などに手が回りずらくなり、どんどん後回しする
ことになった。
さらに追い打ちをかけるように、1983年には「アルゼンチン漁業学校」プロジェクトの運営のため現地へ赴任すべく、自身が担当者として
志願すべきか否かの選択肢が浮上しつつあった。かくして、研究所の活動は完全に頓挫してしまうのではないか、という危機的状況に
直面しそうになった。改めて先々の章で触れることにしたいが、先ずは「水産室」での奮闘ぶりなどについて次章と次々章において触れたい。
ところで、「海洋法研究所」による英語版ニュースレターの発刊は、海にまつわる専門的語彙集づくりを手掛けるまたとない
チャンスであった。米国留学時代に次いで二度目のチャンスと言えた。だが、またしても「逃してしまった」。正確に言えば、チャンスであったことをずっと後になって
気付いた。英語版ニュースレター作りと並行して、海の語彙集づくりのアイデアが湧いてきても不思議ではなかったはずである。
だが、ニュースレター作りに前のめりになり過ぎたようだ。日本語・英語の海洋語彙集の必要性と有用性をほとんど認識せず、その
チャンスであることに気付かないまま、眼前を通り過ぎ去ってしまった。
当時インターネットもなく、またクラウドファンディングを構想できる時代でもなかった。また、賛助会員数がそう簡単に増える
とも思えなかった。だとしても、英語版ニュースレターを2、3カ月に1回程度発行し、かつ年50~100ページの「海洋白書/
年報」を会員に提供できれば、上出来であると考えていた。年20~30ドルの会費を数百人からいただければ、
印刷費と印刷物郵送代などの実費程度は何とか賄えると期待した。そんな収支バランスを取るにしても何年もの努力を要し、それまでは
財政的に厳しい状況が続くことを覚悟していた。私的には、JICAの仕事をもって一足のわらじを履いていたお陰で、実費の一部負担
を何とか続けられたが、研究所のその後の存続は浅野先生による財政的支弁と精神的サポートに負うところが極めて大であった。
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