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    第7章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第2節 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)


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       第7章・目次
      第1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その1)
      第2節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)
      第3節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第4節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第5節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
         [資料] JICA奉職と海洋雑学の10年(1976年~1987年)の歩み(略史)
      第6節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す



  さて、研修事業部の研修コース担当者は時に自らを「プログラム・オフィサー」と称し、途上国の人づくりに貢献していることを 誇りにしていた。間違いなく、「オフィサー」とは聞こえが良い。だがしかし、実際にこなしている仕事の内容からすれば、「途上国の 技術研修員のための研修ツアー・エージェント」か「コンダクター」のようなものであると、自笑あるいは自嘲気味に言う先輩もいた。 そのことをずっと後で知った。

  時を経て経験を積むにつれ、確かにそういう面も多分にあると自己認識できたし、またそう認識すればするほど「ではどうするのか」と 自問自答せざるをえなくなった。勿論、ツアー・コンダクターで何が悪いと居直り、その認識を是とするようなことは考えられず、 研修担当職員や関係者らは名実ともに有意義な研修プログラムを遂行できるよう日々奮闘していた。

  JICA本部から研修員への最初の実務的なコンタクトは、旅行エージェントを通じて、「PTA方式」という航空券の海外への送付方法をもって、 研修員に来日用航空券を手配することから始まる。本人が受領したか否かは後日受領の連絡を受けることから知ることができる。来日後 すぐに、オフィサーは滞在費、支度料などの支給を行なう。JICAの国際研修センターか民間ホテルなどの滞在施設の実際の予約も オフィサーの務めである。

  さらに、時に地方都市の研修先やJICA国際研修センター所在地への移動のための同行などもせねばならない。国内移動のための旅費 を研修員に支給するが、実際はその支給の代わりに、航空券・鉄道切符をエージェントから購入して本人らに手渡すことになる。 また、全国の医療機関で通用する特別の「医療カード」(全額日本政府が支払うことを保証するカード)の類いの手配と交付もする。 旅行エージェントの担当者や添乗員のような仕事にどこか似通っているところがあることから、「オフィサー」には旅行エージェント という意味合いが自嘲的に込められていたのである。

  来日直後に直接的に支給する当座1か月分の滞在費(日当、宿泊費)、支度料、通勤用の交通費などは、研修員にとってはいわば 滞在のための生命線である。来日に合わせてタイミングよく迅速に支給するためには、予め計算書を起案し会計課に出金を依頼しておく 必要がある。会計課でそれらの現金を受け取って、市ヶ谷の「東京国際研修センター」まで持参した。来日当初の一定期間にあっては同 センターが滞在先として指定されていた。支給される滞在費の中から同センターでの宿泊費を予め控除した上で(会計課 から同センターに直接支払うことになっていた)、日当・仕度料などと共に支払うが、それでも10数人分の全支給額は、現金にして 100万円近くに上ることもあり、若い担当者には半端でない現金をカバンにしまい込んでセンターへ向かった。

  同センターまで電車と徒歩で4、50分はかかるが、途中で盗難に遭わないよう、また紛失しないよう、カバンを大事に抱えて センターに辿り着く。寄り道をして別用を済ませてからセンターへ向かうことは絶対的に避けることが鉄則であった。さて、 研修員全員に自己紹介とウェルカムスピーチをした後、小一時間ほど最重要事項についてのオリエンテーションを終えてから、やおら 一人ひとりの顔を拝しながら現金封筒を手渡した。研修員はそれで旅の疲れも不安も全面的に解消され、満面の笑顔となる。 安心を供する上でお金の支給は絶大の威力を発揮した。

  各人に金額を確認してもらい、領収書にサインを求め回収する。会計課に領収書を当日のうちに提出し、確実に手渡したことの証しと する。また、翌月からの滞在費の支払いのために、各員には個人の銀行口座の開設とキャッシュカードの発行手続きを取るようお願いする。 実際の手続きについては、日を改めて担当の監理員に銀行へ同行してもらい完了する。後年においては滞在費等の支給についても現金方式 は廃止されたが、当時は現金を直接手渡すのもオフィサーの重要なミッションであった。当時のJICA職員の給料さえも銀行振込ではなく、 まだ現金入りの給与袋を手渡しで受領する時代であった。

  集団研修コースの運営が東京都内や近隣県内で実施される場合は、JICAの「東京国際研修センター」を宿泊地としてもらい、そこから 4,5ヶ月間研修機関などへ通ってもらった。センターに部屋の空きがない場合は、都内の一般民間ビジネスホテルを手配した。 最初の一週間は、同センターでその他の諸々の手続きや日本の社会文化事情などについての オリエンテーションを受講してもらう。オリエンテーションはそれを専属的に担う公益法人の「日本国際協力センター(JICE)」に委託されていた。引き続いて、非常にシステマティックに提供される「日本語研修」を一ヶ月ほど受講してもらった。

  片言での日本語による日常会話能力であっても、一般市民とコミュニケーションを交わし、日常生活を有意義に送るうえで非常に 役立つ。その後、ようやく研修機関へ毎日電車通勤し、詳細な技術専門カリキュラムに沿って、本格的な座学や実習を受講することになる。 JICA研修監理員と受け入れ機関のコーディネーターが毎日いつも寄り添い彼らをアシストする。

  研修機関が地方にある場合は、プログラム・オフィサーが旅費(交通費と日当)を見積もり、会計課から現金を受領した上で、切符と 引き換えに交通代金を旅行エージェントに支払う。そして、研修員は名古屋や大阪などの「JICA国際研修センター」へ移動するが、ここで 東海道新幹線「弾丸列車」への乗車を初体験することになる。ここでも、研修員は満面の笑顔を浮かべて車窓からの風景を楽しむ。 東京から大阪まで工場や住宅が途切れず続いていることにも感嘆する。1977~80年の頃である。 プログラム・オフィサーが時に同行したが、東京駅にて同センターの研修担当者とバトンタッチすることも多かった。

  通訳兼監理業務に就くJICAコーディネーター(監理員)が常時コースに張りつく。平たく言えば、研修監理員は、プログラム ・オフィサー(コース担当者)と分業しながら二人三脚で、研修員と向き合いあらゆるお世話をする。監理員は研修現場における 座学・実習の専門的な通訳業務をも担う。研修員の生活にまつわるさまざまなトラブル・シューティングについても手厚くサポート するのが監理員の務めである。

  研修員が体調不良になったり病気の場合には、研修先と協力して、病院へ同行したり、時に医者との面談の仲立ちや通訳などをする。 ホームシックにかかったり、時には深刻なノイローゼに陥る研修員も中にはいる。あらゆる悩みの相談に応じ、体調管理への目配り なども怠らず、つねに寄り添う。研修員には全国医療機関で使用可能な「健康保険加入を証明する医療カード」が特別支給される。 彼らは、それを大事に所持する。何故なら、それがあれば日本という異国の地で何の財政負担もなく殆どあらゆる治療が可能となり、 安心して研修に励むことができるからである。

  研修員が地方などに研修旅行に出かける時は、その全宿泊費・日当、交通費などを計算し、現金で支給した。JICA研修施設が地方 にない場合には、民間ホテルでの宿泊を手配したり、ホテル料金の交渉なども行なう。また、時に現地に同行し受入機関関係者と研修や生活 について必要な打ち合わせを行なう。1977年当時は、ファックスもインターネット通信もなく、全て電話か郵便での通信連絡であり、 手間暇のかかる時代であった。

  イラクからの研修員3名が鳥取市内の民間工場での研修に臨んだが、そのホテルの部屋が狭くて気に入らず強い不満を訴えた。 滞在費を増額した上もっと快適なホテルへの転居か、若しくは3人でアパート暮らしをしたいと要望した。特に滞在費の支給額アップを執拗 に迫り、ついに在日イラク臨時大使に泣きを入れて要求を貫徹しようとした。止む無く研修員からのクレームを受けて立った。

  課長と共に大使館へ出向き、イラク大使にその支給基準などの待遇面を説明した。日本側としては全研修員に共通する統一的支給基準 につき変更できかねることを申し入れた。「どうしても不満であるというなら、母国へお帰り頂くほかない」とさらに一歩踏み込んで 申し入れる覚悟を決めていた。だが、その一歩手前で大使の納得を得ることに相成り一件落着したこともあった。そんなことへの対応 もプログラムオフィサーの務めであった。

  ある時、日航機がバンコクでハイジャックに遭遇した。大勢の乗客の中に来日途上にあったエジプト人の女性研修員の他何名かの 研修員が巻き込まれていた。外務省・JICA内でも大きな衝撃が走った。だが、幸いにも無事 に解放され、特別機で来日したが、着の身着のままであった。研事部は、来日後の研修員に精神的ケアや生活支援を手厚く行なった。 特別給付金を用意し、かつ女性監理員などに付き添ってもらい、デパートなどに当座必要となる衣類や日用品の買い出しに出向いてもらった。 スーツケースは少し損壊していたが、後刻JALから研修員に届けられた。そして、JALから一時見舞金が間をおかずに供された。

  余談だが、監理員から聞いたエピソードであるが、サウジアラビアからの研修員が、同じコースの研修員らを招待して、 夜の新宿の繁華街などで遊興したらしく、1億円ほど自腹を割いて気前よく散財したことを自慢げに話していたという。 監理員は信じられず、ホラ吹き話しに違いないと取り合わなかった。ところが、半分冗談で「その証拠 を見せてくれるなら、信じる」と一言口を滑らせてしまった。彼はおもむろに銀行預金通帳を取り出して、印字された9桁の引き出し額 を見せて自慢したという。

  プログラムオフィサーの仕事にはまだまだいろいろあった。集団研修コースが無事終了すると、修了式を挙行しなくてはならない。式場での 各国旗の掲揚や研修員・来賓者などの椅子のセッティングを見届けること、各研修員に手渡す修了証書を入念に準備するのも仕事であった。 式典の司会進行を務め、理事から一人ひとりに証書を手渡してもらった。理事のスピーチ原稿を事前にしたためるのも務めであった。 その後、事前に手配しておいたビュッフェ・スタイルの懇親会を執り行い、プログラムの修了を出席者全員で祝福した。

  JICA職員が想像する以上に、研修員にとっては、その証書を本国に持ち帰ることは重みと名誉あることであった。そのことを後で知った。 式典ではJICA相殺署名入りの証書を持ち帰れるという彼らの安堵感、誇り、喜びで満面の笑顔が溢れていた。些細なことであるが、 懇親会の経費の会計処理のための事務も担当者の務めであった。また、各講師への謝金、交通費などを毎月定期的に銀行振り込みするための 手配も忘れてはならない担当者の重要な役目であった。

  自嘲気味の「プログラム・オフィサー」ではあったが、そう言ったこまごまとした雑事のように見えることの積み重ねを経て、 研修員の滞在生活が安全・安心で快適なものなものになって行く。勿論、研修自体も円滑に進んで行くことに繋がる。

  研修員が、美味しい食事を食べ、快適なベッドで安眠でき、毎日無事に通勤し、研修先でしっかり学べることは、日本での滞在を 有意義なものにするための重要な第一歩といえる。JICAは研修員の私生活をもサポートし、研修を全面的に支える。彼らの私生活に干渉 することはないにしても、研修も生活も快適で円滑に進むように支える。

  ざっくり言えば、彼らが必要とする滞在生活上のいろいろな知恵や有益な情報を提供し、私生活を有意義なものにし、かつ研修を通じて技術ノウハウの移転を実のあるものにする上で一翼を担うことがコース担当者と監理員の願いでありミッションでもある。

  彼らはJICAからの日当を節約して貯金に回し、米国ドルにして持ち帰りたいという。そのために、食事を少量化したり抜いたりする。 時に様子がおかしいので訊いてみると、朝食を抜いていることが多いという。食事を抜いたりすると体調を壊すことに繋がりかねない。監理員は それにも気を配る。些細なことや面倒なことでも、研修員を支えるために監理員はいつも親身に寄り添ってくれる。その日々の務めが研修員 の滞在中の安全・安心へと繋がる。

  研修員の受け入れと言う国際協力は、まさに大勢の関係者が諸々のことを分業しながら研修員を支えることで成り立っている。一人の担当者ですべてをやりこなして研修を完結させることなどとてもできない。一人では大したことはできない。 研修を支える関係者は一集団コースにつき50名を下らないであろう。彼ら全員が役割分担しながら、自らの持ち場に おいてなすべきことを精一杯こなすことで、研修員を支えている。しかも、それらの個々のパーツはバラバラではなく、JICAはそれらを システマティックに組み立て運営している。そのシステムにおいてJICAの司令塔に位置しているのがプログラム・オフィサー(コース 担当者)である。少々自惚れ過ぎるかもしれないが、少なくともそういう誇りだけは胸に秘めていたのは確かである。

  コース担当者や監理員がペアとなり、またキーパーソンとなって、彼らの研修と私生活を支えている。彼らのスポンサーは日本政府 であり、そして彼らが最も頼りとするのはその背後に控えるJICAである。コース担当者と監理員は、そのスポンサーの指示の下、 研修員のあらゆる悩みに耳を傾け、相談に応じ、寄り添う存在である。「旅行エージェント」と揶揄されようと自嘲しようとも、 今そこでやるべきことをしっかりこなしていくことが大切であった。さらに言えば、全ての研修関係者による努力が合わさって、 総体として日本政府が提供するこれらの技術研修を形づくっているといえる。かくして、日本側関係者が総力を上げて研修員を支えつつ、 日本独自のシステマティックで実効性のある研修体制が整えられているといえる。

  実は、総力をもって支えるのはそれらの研修関係者だけではない。研修員は多くの一般の日本人と接し、時に大変お世話になっている。 研修員は、日常的に接する日本人を通じて、また何かの実際上の体験を通じて、日本人は何者であるかを理解することになる。五感を通じて日本 と日本人を感じ取り、何かを学んでいる。日常生活で日本人の親切に触れたり、文化的な交わりをしている。日頃から日本人の物の感じ方、 価値観らしきものを知る多くの機会に接している。母国での文化や価値観と日本のそれを比較しながら学ぶことになる。 日常的に彼らの心の中で常にそれらが化学反応を誘発しているともいえよう。日頃、日本人との触れ合いを通して、研修テキスト にはない多くのことを感じ取っているに間違いない。恐らくは親日家に変心する多くの機会に接してきたことであろう。

  青少年時代かつて船乗りになって海外で異文化に触れることに憧れを抱いていたが、JICAでの最初の職務を通じてそんな夢が ストレートに叶うことになった。叶った場所は、海外の地ではなく日本国内においてであった。JICAの研修事業部門で働きながら 異文化と真剣に向き合うことができた。毎日のように新しい出会いと発見があり感動があった。途上国の多くの研修員と触れ合い お世話することもできた。

  コース担当者の仕事はこまごまとした雑務雑事が大半であったかもしれないが、多くの関係者と業務を分担し協業しながら研修員を支え、 「国づくり人づくり」と友好増進の一端を担うことができた。日本における空間と時間を彼らと共にしながら、 彼らの研修と生活を支え、総体として日本の滞在を有意義なものにするうえで少なくともその一翼を担うことができた。 それが最大の喜びであり誇りであった。その上に、月々の給金と年2回のボーナスまでいただいてきた。これに感謝せずして、何とするか という思いであった。

  研修員は将来いろいろな専門領域で活躍し、自国を支え指導する立場の人になることであろう。ずっと親日的となってもらえること、 また両国の懸け橋となってもらえることを期待したい。研修の効果は速効ではありえない。帰国後何年も何十年もかけて国づくりの 大役を果たすに違いない。人材育成の成果が目に見えるまでは実に長い道のりを経ざるをえない。

  当時、毎年5~6000名の研修員を受け入れていた。既にJICAの帰国研修員は延べ何10万人にも及ぶであろう。彼らの親日的な言動は 家族に伝播し、また同僚や友人にも伝播していくに違いない。帰国研修員は、日本にとってかけがえのない人的財産である。かくして、 日本は世界中の数多の研修員を通して「技術移転」と「友好増進」の種を播き続けてきた。将来更に種を播き続け、より多くの人的財産 を築き上げて行けることを期待したい。



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    第2節 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)


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      第1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その1)
      第2節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)
      第3節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第4節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
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