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    第7章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第4節 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)


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       第7章・目次
      第1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その1)
      第2節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)
      第3節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第4節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第5節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
         [資料] JICA奉職と海洋雑学の10年(1976年~1987年)の歩み(略史)
      第6節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す



  JICA入団後ので最初の配属先である研修事業部に勤務して3年目の後半を迎えていた1979年1月のことである。初めて海外出張の 任に預かることになった。「公用旅券」と呼ばれる、公務のための海外出張用パスポートは、その表紙がグリーンであった。 「赤パス」と言われる一般旅券を、旅行エージェントの担当者を通じて外務省技術協力課に預け入れした上で、公用旅券を携行することが 許されていた。同時に二種のパスポートを所持することは厳禁であった。

  出張先は、中近東のアラブ・イスラム文化圏のエジプトとトルコ共和国、そして長くスペインと米国の統治下にあったフィリピンの 3か国であった。生まれて初めてイスラム世界へ足を踏み入れることになった。

  「地熱エネルギー探査」という集団研修コースは、過去10年以上にわたり、九州大学工学部を主な研修受け入れ機関にして実施されて きた。研事部でのコース担当者は私ではなかったが、何故か運よく海外出張のお鉢が回って来た。

  集団研修コースが10年以上経過した場合には、研修員の帰国後の活動状況を視察し、彼らと技術的な意見交換をしながら技術的 課題を探ったり、また研修に対する意見や要望をヒアリングしたりする。今後の研修改善に向けフィードバックするために、幾つかの国を 巡回することになっていた。集団研修コースの帰国研修員に対する巡回指導という目的のために予算が認められていた。慣例として、研事部配属3年目の職員が推薦され、その任に預かることになっていた。

  巡回指導調査団は当該コース運営のリーダーを長く務めてもらっていた工学部教授を団長にして、工学部事務長と私の3名で 構成された。私は「業務調整」という役割りで参加した。と言っても、出張中何をどうすればその任務を果たせるのか、余り 理解できていないままの出立であった。

  私には地熱エネルギー探査・開発などは門外漢であったが、団長からすれば当該研修の充実化 の方策を探るための絶好の機会であった。3ヶ国において帰国研修員が所属し勤務する地熱エネルギー資源開発関連の政府系研究所や公団、 地熱発電のフィールドなどを訪ねることによって、先ずは現場を巡覧することが何よりも大事であった。そして、研修員が日本での当該 技術研修を通じて得た知見の利活用状況や彼らの抱える技術課題などを探り、研修プログラムの改善に活かすというものであった。

  ところで、私は少なくとも現地での国内交通費、小型飛行機レンタル代、会議費、資料購入費などの百万円近い出張用用公費を右ポケットに、 左ポケットには出張者個人に支給された宿泊費・食費などの出張旅費とその他の私金を忍ばせていた。

  公金ゆえに一円単位まで厳格な管理が求められるのはよしとしたい。だが、3ヶ国を巡回するとなると、円貨と米ドル貨との間で計2回の 換金(出発時と帰国時)、さらに3ヶ国の出入国を繰り返すたびにドル貨と現地通貨との換金6回、総計して8回にわたる換金ということ になる。実際に手にする現金と領収書・換金証書類との辻褄合わせ、それに帰国後の精算書づくりが複雑怪奇の作業となる。 出張者にとっては表には出せない最たる頭痛の種であった。私金の換金も勘定に入れると少なくとも合計16回にもなる。移動するたびに 使い物にならない、また精算対象にもできないコインでポケットは膨れ上がる。

  公金管理と精算書類作成上の実際的慣れと会計規則の理解度が問われる問題であった。精算要領をしっかりと飲み込んでいないと、 1円単位まで適正に会計処理するところまで漕ぎ着けるまでには相当苦労させられる。コインについては少額なのでドル貨に換金しよう にも受け付けてくれない。次の国に入国する前に間違いのない適正な会計処理を完了しておかないと、精算処理を続けるにしても 後々辻褄を合わせられなくなる。

  どうしても合いそうになければ、「私金で自己負担する」とか、「少額につき空港での公式換金は不可能」などとする他なくなる。 それらのちょっとした要領を知らないと、どうもがいても、現ナマの公金額と精算帳簿上の金額とは合わせられなくて随分と泣かされる 破目になる。さて、出張期間は、1979年1月21日から2月7日までの約2週間であった。

  自らの五感をもって、出張対象国の人々の実際の暮らしぶり、風俗風習をはじめ、自然風景を感知することは最高の喜びであった。 興味は尽きることがなかった。経験値が一気に上昇することにつながった。特に、初めての異国の地に足を踏み入れ初めて観るもの 全てが珍しく印象深いものとなる。私的には、外国出張に際しての高揚感は日本を出発する前から大いにヒートアップした。そして、3ヶ国 のそれぞれの地に足を踏み入れ、その地の空気を吸い、匂いを嗅いだ時に最高潮に達した。

  私は、地熱エネルギー探査・開発に関することは専門外であったし、「地熱エネルギー探査」コースの研修担当者でもなかった。だが、 自然再生可能エネルギーの利用開発形態の一つとして大いに興味があった。何故ならば、波力、温度差、潮汐、海流などの海洋エネルギーの 開発とは、「自然再生可能エネルギー」という点で重なり同一線上にあることから、多少は地熱エネルギーに「親近感」をもっていた からである。

  結論的には、地熱エネルギー開発途上にあるフィールドや、既に稼動中の地熱発電所などの最前線を回ってみて、再生可能エネルギー資源としての潜在的開発可能性の高さを強く感じることになった。また、3ヶ国を回る過程で、地熱エネルギーに対する知的好奇心を高め、それを 知ることの新鮮さや面白さを実感し、また学びの対象とすることに目覚めた。

  日本をはじめ、フィリピンやトルコなどは、石油・天然ガス資源に余り恵まれてこなかった。他方で、数多くの火山が国内に存在する などの地球科学的な観点からして、地熱エネルギーのポテンシャリティーは極めて有望である。自然環境に十分配慮しながら、その開発 可能性を探求する価値が大いにあると思える。クリーンで再生可能な自然エネルギー源の多様化を促進するうえで、大いに期待できる ものの一つであると強く確信するようになった。

  だが一方で、開発には幾多の課題がつきまとうことも理解できた。いつの時代においても、地熱エネルギーが賦存する 最適サイトの特定化、開発可能な総熱量(地下の地熱貯留槽の規模・量)やその持続性などについての技術的見極めにはいつも困難を伴う。 それらは発電プラントの規模、累積発電総量や耐用年数、建設コスト、開発の収支バランスなどに直結するからである。

  ヒ素などの有害化学物質の混じった熱水や蒸気を大量に放出すれば、周辺環境への負の影響が懸念される。また国立公園の保全や自然環境への 特別な配慮も欠かせない。地方自治体や地域住民との共生や互恵が求められる。あれこれと考えながら、帰国研修員の探査・開発に取り 組む真剣な眼差しにエールを送った。JICAの研修が「国づくり人づくり」に役立ちつつあると実感できる現場に立てることは 大きな喜びであり誇りであった。

  もう一つ個人的に嬉しかったのは、海との接点についてのヒントを得た事である。既に若干触れたが、海には波力・温度差・潮流・ 海流などの再生可能な自然エネルギーが内包することを再認識させられた。今後、海洋エネルギーの利用開発にも自身の関心 を寄せつつもっと深く学んでいくための意欲が改めて掻き立てられた。

  そして、いつでもどこでも海への関心や海との繋がりをもち続けたい私としては、3ヶ国を巡回しながら、当該国の自然地理、歴史的な 出来事や海との接点を追い求めるという視点・視座を思索することができた。かくして、当該国の海にまつわる面白い史実やエピソード を交えながら今回の出張を振り返ってみることにしたい。

  エジプトでは、最初に、カイロ市街にあるリモートセンシング技術研究所を訪問した。そこで、帰国研修員らと技術懇談会をもち、 リモートセンシング技術を応用した地熱エネルギー探査手法などについて意見交換した。午後には、別の帰国研修員グループと彼らの家族 をも交えながら懇談した。

  実は、案内された場所で思いがけない感動と感激に浸ることができた。カイロ市街には南北にナイル川が 貫通するが、そこに「シテ島」と言う中洲が浮かんでいる。懇談の場となったヒルトンホテルはそのシテ島の川下の一角に建っていた。 全員でカフェを楽しんだテラスからは、眼前左右180度の視界にてナイル川の悠々とした流れを拝することができた。

  時空を超えて悠然と流れ行く大河ナイル川を思いがけず眺望することができた。生まれて初めてじっくり心置きなく大河を眺め得たことに 正に感涙であった。一度は畔に立ってみたかった大河がそこにあった。私的には、一生に一度はこの目で見たかった悠久の流れを、その 畔に座して眺めながらカフェできるだけでも大いに感謝であった。これが5、6千年にわたり古代エジプト 文明を育んだあの母なる大河かと思うと感激で鳥肌が立ってしまった。眼球奥のスクリーンにしっかりと焼きつけ脳裏に刻んだ。

  翌日ギザ経由で、地中海沿岸の商業港湾都市アレキサンドリアへ向けて北上した。ギザにはクフ王などの、巨石を「積み木」ならぬ積み石 したあのピラミッド3基とスフィンクスが、土漠に悠然とそびえ立つ。ピラミッドの下に立ち積み石をまじまじと見上げた。 その半端でない巨大さに度肝を抜かれ、その感動は生涯忘れえないものとなった。

  現在ではピラミッドのすぐ傍に、ファラオが冥土に旅するために埋葬されたという木造の古代船が復元され、「太陽の船博物館」として 展示される。だが、当時にはなかった。神々しい復元古代船を拝観する機会を得たのはずっと後年のことである。今では第二の「太陽の船」 なるものが発見され復元されつつある。

  通りすがりにピラミッドを垣間見た後、砂漠の中を貫通し地平線の彼方へと消え行く道路を疾走した。見渡す限りの 砂漠と土漠の世界に入り込む初めての体験となった。鳥取砂丘しか知らなかった私は、地平線の遥か彼方まで埋め尽くす砂や土だけの 風景を車窓から飽きもせず眺めた。何事も初めての体験は新鮮にして観る者を飽きさせない。ギザからアレキサンドリアへ通じる砂漠ルートの 初めてのドライブ体験であった。

  アレクサンダー大王の東方大遠征において築かれた都市アレキサンドリアは、古代ローマ時代にはすでに地中海の重要交易拠点の 一つであり、またオリエントの世界へとつながるシルクロードのゲートウェイでもあった。東洋世界からの多種多様なスパイスなどの 交易品がこの地で船積みされ、西洋世界へと運ばれた。港には「世界の七不思議」の一つと謳われる巨大なファロスの灯台がかつてその港口に そびえ立っていたというが、巨大地震で海底に崩れ落ちたとされる。

  さて、そのファロスの灯台跡に15世紀に建立されたのが「カーイトゥベーイの要塞」である。内部は海軍博物館になっているという。 また、港近くの海底遺跡から古代エジプト・プトレマイオス朝のクレオパトラ女王の治世時代 (紀元前51-30年) に神殿に使われていた と見られる、塔門の一部が引き揚げられた。2009年12月のことである。いずれ将来には博物館が建設され、 それらの海底遺物などが展示される予定だと言われる。通りすがりに要塞を見た記憶はあるが、アレキサンドリアでは市街中心部と 海岸沿いを走る幹線道を直線的にドライブしただけで、何がしかの地熱関連施設を訪問したという記憶はない。

  地中海沿いの海岸通りで車の行き足を止め暫く佇み、地中海をじっくりと眺める機会があった。私は、 タバコの紫煙を揺らしながら、ブルースカイとブルーシーの境目が砂漠から巻き上げられる砂煙か何かで何となくはっきりしない水平線に目を やりながら、感慨深げに眺めたことを記憶する。生まれて初めて見る地中海を前にして、感激の大きなため息をついたのは一度や二度ではなかった。

  帰途はルートを変えて、グリーンベルトをドライブしカイロへと南下した。緑溢れる穀倉地帯を貫く国道をナイル川沿いに帰路を急いだ。 ナイル川の増水によって太古の昔から広大な河口デルタを冠水させ、土地を肥沃にさせたことを思い描きながら、車窓を流れる田畑 や椰子林などの風景を飽きることなく眺め続けた。

  目にしたほとんどの都市・農村風景そして自然風景は、公務中の通りすがりであった。だが、強い憧れの気持ちを胸に抱き、何時しか 見てみたいと思っていた風景に初めて出会うと、生涯忘れえぬ強烈な印象と感激をもたらしてくれる。テレビや教科書・地図帳でしか 知らなかった、あのナイル川の悠久の流れ、巨石の「積み木」のピラミッド、それを守るスフィンクス、 古代より船乗りが航海するには手頃なサイズの「大地に囲まれた池のような海」であったはずの地中海の海風景など、脳裏にしっかり 焼き付けられ生涯忘れ難いものとなった。

  再びカイロで技術懇談会などをこなした後の夕刻、閉館直前の「エジブト国立博物館」に駆け付け、館内を駆け足で巡覧する機会 を得ることができた。時間があれば、5分でも10分でも見てみたいという思いであった。一歩でも足を踏み入れるか、あるいは別の機会と するかは大違いである。団長らのそんな思いは、何日間か旅を共にすればすぐに読み取れた。何千年も昔の数多くの古代ミイラ、 ツタンカーメンの「黄金のマスク」、古代エジプト象形文字が刻まれた石柱など、展示室の幾つかに狙いを定めて駆け足で巡った。 5千年以上の歴史的遺物に息つくことも忘れるほど圧倒された。「一瞬でも垣間見た」ということだけでも、各団員の個人的な経験値をアップさせてくれた。

  だが、残念なことに、滞在中スエズ運河を垣間見る機会にはありつけなかった。運河の畔に立って初めてじっくり観ることができたのは、 サウジアラビアに赴任中の2007年4月のことであった。エジプト出張から30年ほど後のことであった。

  さて、カイロからトルコ共和国の首都アンカラに2時間ほどで足を踏み入れた。「国立鉱物資源開発研究所」を訪ね、帰国研修員と地熱 エネルギー探査や開発の現況や課題などについて意見交換した。その後、陸路で南西方面にある地熱開発フィールドを目指した。 途中、同行の帰国研修員が気を利かして、街道筋にあるパムッカレに立ち寄ってくれた。そこには、ユネスコ世界自然遺産に登録される 石灰岩の自然地形で有名であった。石灰岩の融解でできた真っ白なミニプールに、透き通るような淡いブルーの水を湛え、何とも言い難い 神秘さを漂わせていた。そんなプールが何百も棚田状に連なる。自然が創り出した美の芸術作品そのもので圧巻であった。暫し、目の保養となった。

  その後、地熱開発途上にあるフィールドを視察した。未だ発電プラントはどこにも見当たらなかったが、建設済みの大口径の配管からは白煙の 蒸気を轟々と吹き上げていた。視察後、宿泊予定地のアンタルヤへ向かった。アンタルヤはトルコ南西部の地中海沿岸の町で、そこで 初めて地中海らしい風光明媚でリゾート風の港景を拝しさらなる目の保養となった。翌日には、ローマ時代の古代都市 遺跡が残るエフェソスを経て、東西文明の十字路と称される在イスタンブール日本領事館へと報告に向かった。「世界がもし一つの国であったならば、その首都はイスタンブールである」と、彼のナポレオンが語ったと伝えられる。

  「ああ、これが、あのボスポラス海峡か!」。車はアジア側のアナトリア地方から同海峡に架かる長大橋を通過し欧州側へと突き進んだ。 車窓から海峡を見下ろしながら心の中で思わず叫んだ最初の感嘆の言葉がそれであった。 橋は1973年に竣工した、全長1,074メートルの「第一ボスポラス大橋」、別名「ボアジチ大橋」である。眼下には海峡が黒海方面に 帯のように細長く伸びていた。

  「今、海峡をアジアからヨーロッパ側へと横断中」と独り言をつぶやきながら、感激で息つくことも忘れ、 海峡を凝視し続けていた。私的には、国際海洋法の学問領域に足を踏み入れて以来、「ボスポラス海峡」を一度は見てみたいと、その風景 を思い描き続けてきた。イスタンブールはローマ帝国分裂後の東ローマ帝国、さらにビザンツ帝国、オスマン帝国と、3大帝国の都 として繁栄してきた。それらの文化が重層的に積み上げられ、それぞれの帝国史が深く刻まれている。

  東西文明のクロスロードであるイスタンブールに足を踏み入れ、市街地の新興地区にある日本総領事館を訪ねる道すがら、数々の歴史的 建造物を目にした。その中で最も感激し身震いしたものは、ブルーモスク、トプカプ宮殿やオリエント急行の 終着駅舎、グランド・ザールなどの代表的な歴史建造物ではなかった。釘付けになった第一のものは、現代の国際政治・ 軍事局面においても、また地政学的にも最重要の「ボスポラス海峡」そのものであった。

  旧市街地区には、海峡から枝分かれし内陸部へ深く入り込んだ「金角湾」という入り江がある。その湾口に「ガラタ橋」と 言う有名な橋が架かる。ガラタ橋の東側にはボスポラス海峡が、西側には「金角湾」が広がる。橋のたもとで車を止めて暫し小休止をとった。 大小の船がひっきりなしに同海峡を縦横に行き交う風景を我を忘れ感激に浸りながら眺めることができた。橋の袂では、太公望が竿を 垂れて憩っていた。さて、当時のソ連や現代ロシアにとっては、海峡は死活的に重要な海上交通上のチョークポイントである。南は「マル マラ海」から「ダーダネルス海峡」を経てエーゲ海へと繋がり、さらに地中海から「ジブラルタル海峡」を経て大西洋へと繋がる。 そして、北方ではボスポラス海峡を経て黒海へと繋がる。

  ロシアなどにとっては、ボスポラス海峡は、黒海から地中海を経て世界の大洋へ出る上で通航しなくてはならない 死活的に重要な要衝地である。かつて、海峡の航行権を確保したい帝政ロシアと、それを抑制したいオスマン帝国や西欧列強諸国の間で長く 政治的駆け引きがなされ続けていた。その通航制度をどうするかは、19世紀以来長く軍事上の国際問題となっていた。 現在は、1936年締結の「モントルー条約」により、トルコ領内にある「ボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡」の通航制度 が定められている。海峡での商船の自由航行、軍艦の通航制限、航空機の海峡上空の通過制限などが定められている。

  航空母艦、ならびに8インチ(20.3cm)以上の口径の艦砲を搭載する「主力艦」は、通過できないものとされている。 また、同時に通過する軍艦の排水量は総計において1万5千トン以下であること、その隻数は10隻未満でなくてはならない。 ただし、「主力艦」はこの限りではなく(空母、8インチ以上の砲装備艦は除く)、1隻までならば排水量に制限はなく、随伴艦も2隻まで 認められた。

  イスタンブールで感涙し身震いした第二のものは、既に触れた「金角湾」とその入り口に架かる「ガラタ橋」そのものである。 細長く奥行きの深い「金角湾」はイスタンブールの欧州側にあって、新旧の市街地を隔てているように見える。旧市街地は その一方の湾岸に広がり堅牢な城壁に囲まれ、トプカピ宮殿やオリエント急行駅舎などが立地する。 新市街地はその湾をはさんで反対側の小高い丘に広がっている。

  1453年当時にあっては、ビザンツ帝国はほぼ全領土を失い、コンスタンティノープルという一都市のみの帝国となっていた。だが、 ビザンツ帝国側は、オスマン軍の攻撃に頑強な抵抗を示し、金角湾口の海中に太い鎖を渡し封鎖しようとした。オスマン艦隊の湾内への 侵攻を食い止める作戦であった。

  オスマン軍は、金角湾口から5キロメートルほど北のボスポラス海峡沿いにある海岸地点から、金角湾の少し奥にある 場所に向けて山野を切り開き道を造らせた。山道には丸太を敷き詰め、更にその丸太にたっぷりと油脂を塗らせた。 そして、闇夜に乗じて、ボスポラス海峡から軍船を陸へ引き揚げ、山を越え、金角湾へと運び入れた。 金角湾に突如としてオスマン軍の艦船が浮かぶのを目の当たりにしたビザンツ軍兵士らは、 一気に戦意を喪失したという。コンスタンティノープルは、これによって、1453年5月29日に陥落することとなった。ビザンツ帝国は ここに歴史上から消滅し、キリスト教世界からイスラム教世界へと文明的大転換を図ることになった。

  コンスタンティノープルは、後にイスタンブールと名を変え、500年以上にわたりイスラム文化に染まり今日に至っている。 「ガラタ橋」の袂近くにあるレストランでは観光客らで大いに賑わい、さらに進むと大勢の太公望が釣り糸を垂れていた。 時には、彼らの足元に置くバケツの中に目をやり釣果を覗き込んだ。

  ガラタ橋の欄干に身を預けながら、眼前の「ボスポラス海峡」を行き交う 渡し船に目をやった。振り向くと、旧市街地の丘の上にそびえるブルーモスクとそのミナレットなどが遠くに霞む。 金角湾奥に向かって広がる丘の上の新市街を見上げながら、空前絶後の山越えの歴史やオスマン艦隊が金角湾に浮かぶ情景を 夢想したりして暫し感慨にふけった。そんな歴史を刻んだ地に一瞬でも佇むことができたことの喜びで身震いし感涙するほどであった。 そして最後には、旅をしながら海にまつわる国内外の歴史を学ぼうという情熱が湧き上り鳥肌が立った。

  余談だが、調査団全員で領事館へ報告した後のこと、夕暮れ時であったが例の「グランド・バザール」を足を踏み入れた。余りに広すぎるので、 待ち合わせ場所と時間を決めて、思い思いにぶらつくことにした。私は何か適当なゴールドのネックレスを買い求める腹づもりで、しかし 半分冷やかしのつもりで、一軒の貴金属店に立ち寄り店主と売り買いの駆け引きをした。定石通り彼の言い値の10分の1くらいから交渉を 開始した。因みに、最も勇気の要ることは、店主が最初に放った価格に対し、10分の1というとんでもない低価格なら買い求めると言い出せる かどうかである。これによって、競り合いや駆け引きのその後の着地点が殆ど決まってしまう。

  店主から振る舞われたチャイ(お茶)を飲んだり、交渉を一旦決裂させて店を出る素振りをしたり、本当に店を10歩ほど出てショーウイン ドウを再び眺めたり、興味を他の品物に鞍替えしてみたりした。優に一時間の交渉の末に、お互いの言い値を徐々に近づけ合い、最後には 半値くらいまで競り合い最終決着を見た。買う意思が全くないことを見透かされた場合は、駆け引きにはならない。

  押しと根気をもって交渉に臨む他ないが、日本人の場合厚顔さや強引さの無さが弱点となり競り合いにはならないことが多いらしい。 それに、兎に角交渉に時間がかかり疲れて来る。時間に制約があって十分な余裕がない場合、先ずもって最初の言い値の半額まで下げさせ 決着することはとてもできそうにない。

  さて、後で団長から教えられたことがある。店主がゴールドの重さを天秤式のはかりで量った訳であるが、それを聞いた団長から 「分銅とゴールドを入れ替えて再度量ってみたか」と問われた。つまり、天秤の支点がずれていないかを確認したのかと問われたのである。 そこまで徹底できれば、プロの店主を相手に交渉する「勝負師」としての素質は十分あるとのこと。また、その強心臓は本物であることの証しは そこにあるとのこと。

  さて、出張の舞台を香港経由にてマニラに移した。フィリピンは、日本と同じく環太平洋火山帯に位置し、数多くの火山をもつ島国である。 フィリピンは、その地学的な特性を活かし再生可能な地熱エネルギーを開発できる有望国の一つであった。同国もまた化石燃料 資源は極めて乏しく、石油のほとんどを輸入に頼ってきた。石油への依存度の軽減、エネルギー源の多様化に早くから真剣に取り組んできた。

  地熱開発は、ルソン島南部のティウイ(Tiwi)という地方から1970年に始められた。そして、1970年代後半から1980年前半にかけて、 ルソン島でマク・バン(Mac-Ban)発電所とティウィ発電所などが操業を開始した。その後、1990年代にレイテ島、ネグロス島、 ミンダナオ島などにも開発が広げられて行った。

  我々団員は帰国研修員であるエネルギー省技術者らと共に、マニラから空路ルソン島南部のレガスピー(マヨン火山で有名)に移動し、 その後陸路を取った。椰子の樹林間を縫ってティウイの地熱発電所に辿り着き、稼動中のプラント施設をじっくりと視察した。1977年には 3メガワット級の実証プラント運転に成功していた。

  その後、レイテ島のタクロバンを経由して、最後の訪問地セブ島に移動した。翌日開発候補地をヘリコプターで上空視察して最後の フィールド行程をこなした。現在ではフィリピンの地熱発電量は膨大で、世界でも有数の地熱発電国となっており、再生可能地熱エネルギー に対する期待は今後とも大きい。

  ところで、セブ市の市街中心地のすぐの対面に、狭い水道をはさんでマクタン島が浮かぶ。空港はセブ本島でなくそのマクタン島に あった。セブ本島と、豆粒のような小さなマクタン島とは、長大橋で結ばれている。マクタン島は史上初めて世界周航を果たしたマゼラン艦隊 のゆかりの地であり、世界的な歴史が刻まれた島であることは知っていた。だが、マゼランゆかりの史跡やスペイン統治時代の遺蹟 などには、出張当時全く縁もなく関心もなかった。

  余談だが、友人と連れ立って、セブ島を訪れマゼラン関連の史跡を見て回ったのは、40年ほど後になってからの事であった。だが、 フィリピンでの最初の公務出張においてマゼラン終焉の地マクタン島にごく短時間でも身を置いたことは、後々マゼランらの大航海や マニラ・ガレオン船の歴史などへの興味へと飛躍的に広がった。

  さて、コロンブスが1492年からインディアスやジパング(日本)を目指して4回の探検航海を行ないながらも、結局は現在のカリブ海を右往左往 するばかりとなってしまった。他方、バルボアが1513年にパナマ地峡を横断し、「南の海」(マゼランは後に太平洋と名付ける) を視認した。その後、マゼランが、艦隊を率いて大西洋を西航し、その「南の海」へ抜ける通路を求め、さらにスパイス諸島へのルートを 切り拓こうと、スペインから出航したのは、1519年のことである。

  先ず、現在のウルグアイのラ・プラタ川河口近くに辿り着き、その地を「モンテビデオ」(現在のウルグアイの首都)と名付けた。 マゼランはそこから探検調査隊を派遣したが、結局それは「南の海」へ通じる通路ではないこと、即ち遡上しても淡水の大河に過ぎ ないことを確認した後、陸沿いにさらに南下した。

  マゼラン艦隊は止む無くパタゴニアのサン・フリアンで越冬することとなった。翌年に再び航海に出たマゼランは、ついに、 「百万感謝する岬」と後に名付けた岬を発見した。西方へ奥深く続いている現・マゼラン海峡への入り口の発見であった。 海峡を幾多の苦難を乗り越え帆走した末に、広々とした大洋に出た。彼が後に太平洋と名付けた海であった。後世においてその海が 「南の海」であることが明らかとなった。

  艦隊はその後暫く大洋を陸沿いに北上した後、北西へと進路を取った。後に分かることであるが、マゼランは大洋上に散らばる 数多くの島嶼を何一つ視認することも、またぶち当たり上陸することもなく、大洋を横断することになった。彼が辿った航程線は実に 稀有なものとなった。

  彼は大洋横断後マリアナ諸島(現在のグアム島とされる)を視認し上陸した。そして、さらにフィリピン諸島のマクタン島に 上陸を果たした。だがしかし、マクタン島にてラプラプ酋長率いる島民との間で戦闘を交え負傷した。マゼランはそれがもとで、その地で 1521年4月に永眠するに至った。

  セブ市街地中心部の一角にはマゼランゆかりの十字架の遺構がある。また、その近くには、スペインの征服者がフィリピンで初めて 建築し、その後は築造が重ねられてきた「サンティアゴ要塞」の遺構が座している。また、マニラ近くの海域で発掘された、マニラ とアカプルコの間を行き来したいわゆる「マニラ・ガレオン」の沈船から発掘された遺物などが、マニラの国立博物館に展示されている。 出張当時それらの遺構などは全く知らなかった。それらを訪ね拝観したのは40年も後の私的な旅においてであった。

  ところで、マゼランが他界した後、最後の旗艦「ビクトリア号」の指揮を執ったエルカーノらは、1521年5月セブ島を出帆し、翌年9月 スペインへ帰還した。乗組員のピガフェッタが記録し続けた日記上の月日が、スペインでの実際の日付よりも一日進んでいたことで、 地球が丸いこと、さらに地球を周回したことが人類史上初めて実証された。人類史上初めて「地球周回の実体験」したのは、今からわずか 500年ほど前のことであった。

  余談だが、帰国時マニラ空港のチェックイン・カウンターで荷物の超過料金として300ドルほど請求された。3ヶ国も回ると収集資料が徐々に 増えてスーツケースが重たくなる。資料を日本に送付するための資料購送費という名目の公金も所持していた。それ故に、エクセス料金をそれで 支払えば事足りることであり何の心配も入らなかった。だが、それをすっかり忘れて口が滑ってしまった。カウンターで料金の値引き を願い出た。値切って200ドルにしてもらった。

  係員は「OK」と少しだけうなずいた。で、ボーディングパスを渡しながら、係員は周囲に気を配りつつ、何と50ドルの袖の下を要求 してきた。予想外のことであった。既に手続きが完了していたので、止むえず人に気付かれないように手渡した。その直後にハタと気付いた。 50ドルの領収書は入手できないということに。私金を払って公金をディスカウントしてもらったのである。 最初から300ドルを公金で払っておけばよかった。だが、後の祭りであった。失敗の経験値を一つ上げることができた。それだけが プラスであった。だがしかし、海外に何百回も出掛けたが苦い経験を生かせる機会は二度と巡って来なかった。

  ところで、3ヶ国への地熱関連出張は、海洋の自然再生可能エネルギーの利用開発への関心を大いに高めることになった。海にはどんな 再生可能エネルギーがあるかということを皮切りに、そのポテンシャルや原理について、また世界や日本のいずれの機関で研究開発され、 その開発実用化の現況などについてもっと学んでみようと意欲が湧いた。

  世界有数の海流「黒潮」の海流発電はどの程度実現性があるのか。有明海での潮汐発電の実現性、開発上の課題や採算可能性は どうか。離島での温度差発電(OTEC)の研究開発の行方はどうであろうか。世界や日本での海洋エネルギーの利用開発について探って みようと、一気に知的意欲を高め関連書籍などを読み解き学ぶことに繋がった。今回の地熱エネルギーコース巡回指導調査に参画したお陰 であった。実際、韓国西海岸に建設された潮力発電所を見学するため、隣国まで足を伸ばすほどに熱を入れるところまで、 その関心は「成長」した。ただし、見学が実現したのはそれから40年ほど経った退職後のことであった。

  かくして、3ヶ国を回り、地熱エネルギー開発の現場を踏査し、帰国研修員と幾つもの懇談会を重ねながら、その探査開発現況など をいろいろ学んだ。彼らの活躍振りを通して、日本の技術協力が「国づくり人づくり」に幾ばくかの役に立っていることを実体験すること ができた。研修員は日本では異邦人であり、その時の顔を見せていた。今回帰国研修員は母国に居て我々団員が異邦人であった。 今回彼らの母国での一異邦人として、さまざまな社会事情、歴史文化や価値観などを肌で感じ学ぶことができた。

  さて、一担当者が関われる研修コースの数には限りがあるが、研修員の学びに役に立てるよう、また友好を深めることができるよう、 「プログラム・オフィサー」としてこれからも最善を尽くそうという決意を新たにできた。また、私的には、諸国における歴史的 な出来事と海との接点や繋がりなどにも関心を払い学び続けて行きたいとの思いを強くした。3ヶ国では多くの歴史・文化的場所に立ち 寄ったり、通りすがりに垣間見ることができ、大いに見聞を広めることができた。経験値と知的関心を飛躍的に高める機会となったこと を有り難く受け止めたい。

  最後に、研事部での3年間の勤務を総覧すれば、月給と年2回のボーナスをいただきながら、そして日本にいながらにして大勢の技術研修員と 彼らの異文化に向き合い、研修事業と言う国際技術協力の一端を担う一方、諸国の人々との友好を増進することに寄与できた。 国際社会への何がしかの貢献という意味では、国連における職務や使命に相通じるところがあった。また、多少なりとも海と関わり合いを もつ研修コースの運営を担うこともでき、それはそれで望外の喜びとなった。海から遠ざかることは最小限に抑えることができた。 海と再び疎遠となるような心配は杞憂に終わった。その上、人生のよき伴侶と出会う機会にまで恵まれ、感謝する に余りあるものとなった。かくして、社会人生活の記念すべき最初の足跡を研修事業部において遺すことができた。



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    第7章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第4節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)


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       第7章・目次
      第1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その1)
      第2節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)
      第3節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第4節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第5節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
         [資料] JICA奉職と海洋雑学の10年(1976年~1987年)の歩み(略史)
      第6節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す