過去数十年にわたり「ウェブ海洋辞典」づくりに取り組んできたことの「系譜」や個人的な「思い」について、本節でざっくりと
綴っておきたい。もって、本節を「家族への手紙(その3)」としたい。
第一に家族が後継編さん者を公募するに当たって、第二に応募者自身が応募するかどうかを思い巡らすに当たって、辞典づくりの
過去のいきさつなどを少しでも理解するのに役立つものと慮ってのことである。
応募に関心をお持ちの方には、「本章第3節から第6節まで」是非ご覧頂ければ幸いである。第4節では「公募案内」と「募集要領」
の案がそれぞれ掲載されている。
海や船が大好きで、青少年時代には何としても船乗りになりたいという夢を描いていた。だが、視力などの身体的資格要件を
満たせず、商船大学受験を諦めざるをえなかった。その反動というほどのことではないが、地元の大学に通うようになってからは
海から遠ざかってしまった。「ワンダーフォーゲル」という山歩きのクラブに所属し、四季を通じて山登りに明け暮れたからである。
ある冬山の雪上テントで寝袋に潜り込んだ時の事、下山後にやってくる就活のことを思い巡らせるうちに突如閃きを得た。
国連への奉職にチャレンジしたいという思いが電光石火のことく去来した。就活を一切止めて大学院を目指した。院で国際法を
修学した後、全く予期しない幸運にも恵まれ、米国シアトルのロースクール大学院の「海洋総合プログラム」に留学することが
できた。最初の本格的な「海への回帰」のきざしの訪れであった。
帰国後東京・新橋にある個人主宰の海洋法制・政策などを調査研究する事務所に勤め始めた。だが、そこで向き合うことになった
ビジネスの性状からして止む得ないことであるが、当該事務所の経営は細々としたものであり、経済的には非常に不安定な
ビジネスであった。かくして、東京での暮らし振りは心細い状況に置かれ続けた。
その後半年ほど経った頃偶然にも、中途採用として社会人を募集するという新聞広告が目に止まり、「国際協力事業団(JICA)」
を受験、運よく就職することができた。そして、同じ職場で後の伴侶となる女性にも巡りあうことになった。
暫くして結婚し、以後ずっと連れ添ってきた。娘2人にも恵まれ、妻は一生懸命に私と娘2人を支えてくれた。子供たちはどんどん
成長し自慢の娘となった。平凡だが子どもをかすがいにして人生を歩むことができたのは幸せなことであった。幸せの源は妻であり、二人の
娘であった。父親らしいことはほとんどしなかったが、家族が路頭に迷うことなく生活を送ってこれたことで良しとしたい。
妻になってくれてありがとう。只々感謝あるのみである。
職場での「独り言」が引き金となって、アルゼンチン海軍所轄の「国立漁業学校」を舞台にしたプロジェクトの担当を先輩
職員から譲ってもらった。いわばプロジェクトのバーター取引をした。
その後の奮闘の甲斐あって同プロジェクトの創建に関する海軍との合意形成を成し遂げた。そして、同プロジェクトの「業務調整員」として、他の
技術専門家と共に長期赴任することになった。2年半余りにわたり、南米スペイン語文化圏において家族と共に充実したの異国生活
を送った。私には第二の「青春時代」とも言いたいほどの人生であった。二年目を迎えた頃プロジェクト業務もすっかり軌道に乗り、
あらゆる面で余裕が生まれた。他方、日本人専門家と学校側の教授陣との間で、日常的に、日本語・スペイン語・英語の
三ヵ国語でもって、航海、漁業、水産加工、魚類同定などの専門用語を交えての濃密な協業的活動が展開された。
ある日のこと、当該プロジェクトのような業務環境には二度と巡り会えないことに気付いた。校内で飛び交う専門用語をメモ
取りもしないで単に聞き流しているだけでは余りにもったいないと思った。その瞬間、海にまつわる専門的な語彙を拾い上げ、
和・西・英語の三カ国用語集づくりをすることを閃いた。即日即時に大学ノートに語彙を書き留め始めた。
ノートの冊数が増えるにつれ、書き留める語彙の重複が目立ち始めた。当時全く使い慣れなていなかったパソコンに
向き合い、ワープロ機能を立ち上げその解決策を探り始めた。毎日徐々に使い慣れて、語彙の並べ替えも自由自在となり、また語彙の重複を避けながら効率
よく新規入力したり修正することができた。残余任期期間の2年間に相当量の語彙や用例などをアルファベット順に蓄積すること
ができた。だがしかし、当然のことながら、2年間くらいでは到底納得のいく用語集づくりには至らず、故にプロジェクト関係者に
実用的に役に立ててもらうことは叶わず、帰国の時期を迎えてしまった。
帰国を機に用語集づくりを止めてしまえば、今までの努力は無に帰すことになるので、帰国してからも語彙拾いをずっと続けること
にした。また、漁業学校勤務を通じて一層着実に海への回帰を果たすプロセスにあった。折角そんな回帰途上にある中、用語集づくり
を接点にしつつ海との関わり合いをもち続けることを放棄したくはなかった。
帰国後パソコンを買い込み、余暇時間を見い出しては、語彙拾いと入力をボランティアワークとして続けた。それが後に、ライフワークになるとは思いもしなかった。
大学時代の第二言語であったフランス語の語彙拾いにも挑戦を始めた。データは蓄積され続けたが、その用語集づくりの一区切りの付け方、
締め括り方については何のアイデアもないままであった。だが、帰国後8年ほど経た時のこと世界と日本の情報社会や技術事情が一変した。
パソコン基本ソフト「ウインドウズ95」が日本でも1995年に発売され、気が付けば世はインターネット時代の真っ只中にあった。
ネットを通じてオンライン海洋用語集を世界中へ公開・発信し、共有できるという夢のような状況が生まれていた。ウェブ辞典づくりは
ネット通信技術のお陰で感動と衝撃をもたらした。当時の情報通信技術の革命的な進歩は、図らずも、数十枚のフロッピーディスク内に
集積されてはいたものの人知れず埋もれていた語彙データに一条の光を当ててくれた。
急いでネット環境を整え、ネットサーフィンに慣れ親しむことから始めた。そして、ホームページの作成法につき、幾冊かの入門書を買い込み
独学を始めた。1年ほどかけて、オンライン「和英西仏語 海洋総合辞典」の原形の、そのまた原形を創り上げ、ネットにアップした。
プロバイダーのポータルサイト経由でのネット上へのアップであったが、自作のホームページ「海洋辞典」をオンライン画面上でリアル
に閲覧できた時は正に感動と感涙であった。1997年の頃のことであった。
何故辞典づくりにこだわったのか。海洋を巡る日本の法制・政策や開発動向などの情報を英語で世界に発信したり、
逆に諸外国のそれらを理解する上で、ワンストップで海のいろいろな語彙に何時でも何処でもアクセスできるのであれば、海洋分野で
何がしかの役に立つものと考えてのことであった。更に、任意団体で非営利ではあるが「海洋法研究所」の立ち上げを思い立ち、それを
共同創始した。そして、その事業の中核として、日本のそのような情報をコアとした英語版の「ニュースレター」あるいは
「海洋白書・年俸」に類するものを、共同創始者と手弁当スタイルで刊行し、世界に送り出すことにチャレンジした。辞典は曲がりなり
にも役立つものとなった。
さて、空きポストにずっと長く恵まれなかったことだけではないにしても、履歴書を送付して早10年も経つ中、国連海洋法担当
法務官への奉職の志しは一向に叶わなかった。だが、「ウェブ海洋辞典」がネット上で形あるものとなってからは、
辞典づくりが人生のもう一つの新たな大目標となり、またライフワークへと昇華することになった。
「世界オンリーワン、ナンバーワンのデジタル海洋辞典」を目指すという志しが生まれ、自己完結的にチャレンジを続けることになった。
かくして、辞典づくりとネットでの発信は秘かな「誇りと名誉」となった。国際協力というJICAでの天職に加えて、辞典づくりが私のもう
一つの遣り甲斐となり、また人生の楽しみともなった。また、JICAに奉職しながらも、海への回帰と海との関わりを保つことを
持続可能にするものであった。
1980代中頃から90年代末頃にかけての10数年間は、辞典づくりの黎明期であった。JICAではずっと国内勤務に釘づけとなっていた。
幾つもの国内部署を経験しながら、その余暇時間をもってウェブ辞典づくりを続けた。だが、大きな転機が訪れた。2000年から8年間ほど、
パラグアイ(2000~2003年)、サウジアラビア(2004~2007年)、ニカラグア(2007~2009年)へと立て続けに海外勤務となったことである。
しかし、幸いにもパソコンと情報通信技術の革命的進歩のお陰で、世界の何処にいても、また何時でも、ウェブ辞典のコンテンツを
アップデートすることができた。正に現代の技術進歩の恩恵を100%享受することになった。
ところで、我武者羅に語彙をアト・ランダム的に拾い上げ集積してきた結果、海洋辞典づくりにはいろいろな課題を抱え込んでいた。
辞典づくりを体系的に進めてきたとは全く言えず、また余りにもコンテンツの領域を広げ過ぎて中途半端なパーツが散りばめられて
しまっていた。そのため、「現在作成中」という注釈付きのページが益々増え続け、忸怩たる思いを抱きながらの取り組みであった。
それを猛省し、辞典のコンテンツ全体とあらゆるパーツについて包括的にじっくり見直しする必要があった。改善すべき事柄が
山積していた。だが、実際にコンテンツの「選択と集中」に専念して取り組めるようになったのは、ずっと後にJICAから完全離職
してからのことである。
さて、辞典づくりで大きなターニングポイントを迎えたのは、長い在外勤務の中でも2007年からのニカラグア赴任の時であった。
2009年8月のこと、ニカラグアで心筋梗塞を発症し九死に一生を得た生死体験であった。
日本に帰還できたことは奇跡であった。当時「ニカラグア運河」の有望候補ルートと目され
ていた河川(エル・ラマ川とオヤテ川)の上流にある分水嶺に向けて馬にまたがり踏査中、突然胸痛に襲われた。山中で2時間胸痛のため
横臥した後、決死の覚悟で、相乗りしたカウボーイにしがみつきさらに2時間かけて下山した。その後車で首都の病院へ5時間
ほどかけて運ばれた。心臓の大動脈がかなり狭窄していたが完全閉塞でなかったことが幸いした。
ニカラグアには心臓血管施術医は二人だけであった。半年米国で、そして残り半年をニカラグアで手術に従事するという一人
のニカラグア人外科医が、当時たまたま母国に帰国し手術に携わっていた。そのことが生死の分かれ目となった。その医師からステント留置手術を受け
生きながらえることができたたは奇跡そのものであった。ニカラグア国内で十分な医療処置を期待できなければ、米国への緊急移送
しか救命策はなかったかもしれない。果たしてその移送で救われていたであろうか、今でもフラッシュバックして思い巡らせることが
ある。
今後あと何年生きながらえることができるか、全く当てにできない人生となった。人生をリセットさせてもらったが故に、
「遣りたくてもこれまで為し得なかったことを遣り終えねばならない」と決意した。余命いかほどか知る由もなかったが、手遅れにならない
うちに、辞典づくりに専心専従し、中間の締め括りとしての「一区切り」をつけることが優先的事柄であると悟った。かくして、早めにJICAから完全
離職することにした。62歳の2011年3月のことである。
年金の満額受給になるまで2年ほどあったが、それに拘泥せず、リセットされたおまけの余命を辞典づくりに燃焼させる
ことを決意した。
離職後「自由の翼」をえて自由人となり、「選択と集中」の策をもって辞典のコンテンツを徹底的かつ包括的に見直すべく正面から
向き合った。そして、思い切ってコンテンツをスリムにした。新たな視点をもって辞典に付け加えたコンテンツもあった。
自由人となって以来10数年になるが、その間幾つかのことに
気付かされた。辞典づくりの性質上、辞典には真の「完成の完」はない。あるのは「未完の完」だけである。5ヶ国語を扱う海の
語彙は無限的に存在し、一人の人間では「完成の完」など全く望むべくもない。そこで、「中締めの〝未完の完″」を目指すことにした。
しかし、見出し語数などの定量的基準をもって「中締め」にするのではなく、シンプルに例えば2020年という年限を「一区切り」にして
締め括ることを目指した。(2020年では一区切りできず、2024年ではまだその途上にある)
時を経て、気掛かりとなることがもう一つ浮上することになった。いつかは辞典づくりを誰かに引き継いでもらいたいし、
そうしなければ辞典の「進化」の継続は望みえない。辞典づくりの「継活」の準備はいかに、と自問自答するようになった。
辞典がワン・ステージ・アップとなるには、次代に引き継がれることが不可欠であった。
「雄太君」はどうだろうか。「雅ちゃん」はまだ小さいがどうだろうか。今からでも身内の誰かに託すことができるならば、それが一つの
最善策であるかもしれない。だが、無理強いすることはできないし、またすべきでない。私自身が
生きている間に、自身の手で誰かにその未来を託すことができることがベストである。だが、それが突然不可能なることもありうる。
即ち、自身の存命中に後継編さん者を見つけられないことを想定して、次善策として、その未来を託す方法をしっかり文書に
したため家族らに申し送りしておく必要がある。
長年取り組んできた辞典づくりが引き継がれることなく、ネットから消滅してしまうことを是が非でも避けたいと渇望してきた。
それを回避するには、家族に口頭で伝えておくことが大事である。だが、口頭での申し送りだけでは心もとない。
後継編さん者をしっかりと見つけてもらいバトンを引き渡してもらいたい。だから、その引き渡しに関する全ての重要事項の仔細
を書面にて申し送りしておくことがベストであり、最も確実にして安心できる方法と考えた。時間を経るにつれ人の記憶は曖昧になり
忘れがちにもなる。そこで、その仔細を書面にて記述し、いつでも申し送りできる準備を整えておくことで、しっかり希望を
繋げるようにしておきたかった。
インターネットを通じて広く日本中から公募することが、最善の方法の一つのように思われる。
ネット募集をもってすぐさま後継編さん者と出会えるわけではないが、数年くらいの間には見つかることを期待したい。だが、
それ以上かかったとしても止むえない。見つけられるまでは、少なくともドメインとレンタルサーバーの契約延長と支払いさえ
しっかり継続されれば、「海洋辞典」は現下のコンテンツで何とか維持されよう。だとしても、次代の後継編さん者を通じて辞典づくりの未来を
是非ともつないでほしい。これが最後のお願いである。
余談であるが、将来人工知能(AI)がさらに進化しようとも、専門辞典などの辞書類が全く不必要となり消えてなくなるとは
想像しがたい。AIの創成したものを究極的に照合するには、結局のところそれらの辞書類をはじめ数多のアナログ資料が従前どおり
必要不可欠となろう。その前提に立って、それらの辞書類と同じ様に、「ウェブ海洋辞典」もそのための「原典」の一つと
位置づけられるようチャレンジを続けたい。そのように位置づけられるには、辞典づくりが次代の編さん者に末永く引き継がれ
続けて初めて可能となることに違いない。
最後に一言。「凡人が事をなそうとするならば、人一倍努力あるのみ」と自身に言い聞かせながら、辞典づくりに取り組んできた。
だが、苦悩しながら取り組んで来たわけではない。ボランティアワークとライフワークとして大いに楽しみながら取り組んできた。
振り返れば、語彙拾いを通じて雑学的に海にまつわるいろいろなことを学びながら、そのプロセスを楽しむことこそが長続きの
最大の原動力であったと言える。辞典づくりへの情熱や使命感もさることながら、そのプロセスにおける日々の小さな楽しみがいつも
後押しをしてくれた。辞典づくりを日々楽しめる方を通じて、その未来が引き継がれて行くことを渇望して止まない。
辞典づくりは日々の歓びであり、豊かな人生を歩むプロセスの大きな一部分であったことを最後に記したい。
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