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    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第9節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう


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     第12章・目次
      第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
      第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
      第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
      第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
      第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
      第7節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
      第8節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第9節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう



  さて、アルゼンチンへの赴任が間近になった頃、何とアルゼンチンと英国との間でフォークランド(マルビーナス) 諸島を巡る戦争が始まってしまった。そのため、渡航する時期はかなりずれてしまった。だが戦争は懸念したよりずっと早く終結し、 1984年から87年まで赴任でき、「タンゴとパンパ」の異国で家族と共に3年間過ごした。帰国時には既に39歳を迎えていた。 国連海洋法条約は1982年に採択され、その批准のため各署名国に開放されて間もない頃であった。それが発効したのは大よそ12年 後の1994年のことである。日本が批准し加盟したのは、その2年後の1996年のことであった。

  アルゼンチン赴任2年目に入ってすぐに一つの閃きを得て、あるチャレンジングなことを始めた。プロジェクトではスペイン語 ・英語・日本語の3ヶ言語で、航海・船舶運用、漁業、魚貝類の同定、漁獲物処理などに関する専門的な語彙が飛び交っていた。 それを拾い集め大学ノートに書き留め、海洋関連語彙集づくりに取り組むことにした。スペイン語圏での漁業学校勤務は、そんな 語彙拾いと海の用語集づくりをするにはベストな環境と立ち位置にいた。それにプロジェクトの専門家らに役立つはずのことであった。

  語彙の蓄積は早い段階から、大学ノートによるアナログ的書き溜め方式を卒業して、デスクトップ・パソコンの日本語ワープロ ソフトを使ってのデジタル入力方式に切り換えた。さすがに語彙の修正や入れ替えが自由自在となり、効率は抜群にアップした。 そして、2年間そのまま続けた。1987年3月末の離任に当たってそれをどうするか悩んだ。用語集はプロジェクトの実用に資する までには至らず残念であった。とはいえ、途中で語彙集づくりをを放棄する訳にはいかず、帰国後も語彙拾いとデジタル用語集 づくりに取り組むことにした。用語集づくりはどういう結末を迎えることになるのか、それを気にかける余裕は全くなかった。 用語づくりを止めれば、それまでの努力が無に帰すことを恐れたからである。一日30分でも用語づくりに集中すると、ストレスは 緩和され、一服の清涼剤あるいはリフレッシュ剤としての効能をもたらしてくれた。何故か。少しずつでも語彙の蓄積を行えば、 その成果を可視化することができ、それを肌で実感しえたからであろう。それは日常的に海と関わり続けられることであり、遣り甲斐が 感じられる新たな目標となりそうであった。

  1987年にアルゼンチンから帰国し、その後1994年までの7年間、予想した通り海と関係のない部署を渡り歩き、 海から遠ざかることになった。1987~89年に配属となった農計部農業技術協力課では、途上国で農業試験栽培を行なう日本企業 に対する事業への投融資(JICAの長期低金利のローンの提供)を通じて、途上国での農業開発を支援するという業務に携わった。 純然たる民間事業への支援を通じた途上国への貢献は新鮮であった。常に事業の経済採算性を注視する必要があることから、 大変面白く遣り甲斐をもって向き合った。

  1989~92年に配属となった調達部契約課で、JICAが実施するODAの国内外での事業に携わるコンサルタントの選定や契約締結、 不可抗力発生時などにおける契約上のトラブル・シューティングなどに従事した。私の法的バックグラウンドからすれば、 一度は配属されてもおかしくはない部署であった。日米パナマ三カ国からなる国際組織「パナマ代替運河調査委員会」からの要請に応えて、運河の代替案を多元的かつ詳細に検討し、 同委員会に報告するという責務を担うコンサルタントを選定するための国際入札に必要とされる書類一式を作成するという業務 にも携わった。他方、数え切れないほどの技術協力や無償資金協力関連のプロジェクトに携わるコンサルタントを選定し、 事業が完了するまで見届け続けた。コンサルタントのリクルートと契約履行の見届けは常に緊張を伴うものであったが、面白く 楽しく遣り甲斐のある仕事であった。

  1992~94年に配属となった人事部職員課では、国際協力のために国内外の最前線で働く1,200名の職員を支えるための社会保険 関連手続き、定期健康診断の実施やその他健康面でのサポート、数多くの社宅管理、福利厚生の維持向上などに日々向き合った。 丁度45歳前後で、中核を担う職員としてその責務も重くなった。業務内容はそれまでの海外プロジェクト事業運営とは異なり、 いわゆる官房部門(非事業運営部門)に属する「縁の下の力もち的な」業務が多かったが、それぞれの立ち位置を踏まえつつ、 最善かつ遣り甲斐をもって取り組んだ。他方、他部署からの依頼を受けて、意外にも年間数回の海外出張業務もこなし続けた。 かくして、JICA本部の3部署での7年にわたる国内業務はJICAマンとしての経験値を大いに増進させることに繋がった。

  かくして、7年間の国内勤務では仕事上ほとんど海との関わりは無くなってしまい、海から遠ざかった。海との関わりは海洋語彙集づくりと 海洋法制・政策などの自主的な研究、その成果品といえる「ニュースレター」や、いわば「海洋白書・年報」に類する報告書(英語版) の資料作りのみとなってしまった。それらはプライベートなこととはいえ、個人的負担が相当のしかかる「分量」であった。 プライベート時間におけるこれらの取り組みを通して、私的には何とか海との関わりを維持し、二足のわらじを履き続けた。

  繰り返しだが、アルゼンチンから帰国後2つのことに取り組んだ。一つは海洋語彙集づくりを再開し、それを通じて独自かつ 個人的に海との関わり方を求め続けた。パソコンを買い込み、今まで以上にそれへの取り組みに情熱を燃やし、 ますます前のめりになった。語彙集づくりが人生の新たな目標になりつつあった。国連奉職への志に 取って替わるところまでは至らなかったが、遣り甲斐と面白さや楽しさ、その意義を大いに感じ入って、果敢に挑戦しようとしていた。 また過去を振り返れば、語彙集づくりのチャンスは人生2度あったものの、何の成果も得られなかった。今回は 3度目の挑戦でもあったので、ここで諦めることなどできなかった。また語彙集づくりは「海洋白書・年報」のための資料作りと 重なり合っていた。語彙集はその「白書・年報」づくりの副産物となる一方で、それを推進するための補助エンジンとなるものであった。

  もう一つの取り組みは、「海洋法研究所」の事業再開である。その中核的事業に据えたのは、独立独歩の自主的な海洋研究、 特に日本の海洋法制・政策や海洋開発の動向などを取り纏める邦語・英語版「ニュースレター」の再発行よりもむしろ、英語版 「海洋白書・年報」の資料作りであった。同研究所代表の浅野先生との二人三脚で、再びそれに向き合い、情熱を燃やした。 前者の「ニュースレター」はアルゼンチン赴任で途切れていたものであるが、後者は再チャレンジであり、前者以上に遣り甲斐を 感じていた。これらの2つの取り組みはいずれも余暇時間を活用したプライベートなことであったが、楽しく遣り甲斐のある チャレンジであった。

  1990年代中頃にネット時代が到来してからは、ウェブ海洋辞典づくりに専念集中し、「白書・年報」資料づくりには十分 なエネルギーを傾注できなかった。振り返れば、当時ウェブ辞典の別冊として「白書・年報」用の資料を少しずつでも組み入れて 同時並行的に世界に発信すべきであった。それらの資料は既にそれなりに形をなしつつあった。そうなっていれば、海洋辞典と英語版「白書・ 年報」資料編が一つのホームページに統合化されていたはずである。エネルギーを振り絞ってそれを実現すべきであった。 現在までそのアイデアは十分実現されるには至っていない。実現できていれば、1990年代中期のウェブ辞典の黎明期における一つの エポックメーキングな成果となっていたであろうに。とはいえ、現在でもその実現に向けた努力を続け、その成果の見える化 に希望を繫いでいる。

  アルゼンチンから帰国後そのような状況であったので、帰国の挨拶と現状報告を兼ねて、また国連出願時の 履歴書のアップデートを求めて、人事局や海洋法事務局と通信のやり取りをすべきであった。そして、人事ロースターに眠る 自身の履歴書フォルダーにファイリングしてもらうべきであった。例え一方通行になったとしても、そんな通信を送り続ける べきであった。だが本来のJICA業務と、私的なビッグチャレンジとに専心専念していた故のこと、そのことには気が回らず、 体もついていかなかった。あるいは、目の前の当座の二足のわらじの遣り甲斐と、それへの情熱に酔いしれていたのかも知れない。

  時は少し遡るが、1994~7年にかけてJICAから公益法人の国際協力システム(JICS)へ出向となった。そして、語彙集づくりに 対する決定的な転機が出向中の1995~6年に訪れた。その時に、あるコンサルタントとニカラグアへ「農地整備用機材調査」 のため出張した。そして、彼はその当時世界中で話題となっていたインターネットのことについて、口角泡を飛ばしながら熱心に解説してくれた。 帰国後ネットサーフィンの実演まで誘ってくれた。その時から全てが変わった。世界中のパソコンがネット上でつながり、情報が 瞬時に世界と共有しうることを実経験させてもらった。海洋語彙集を「ウェブ海洋辞典」として広く世界に発信し、共有し、役立てて もらえれる可能性があることを即座に悟った。ネット時代を迎え、語彙集づくりは今までとは全く異なる次元へと「グレード アップ」することになった。

  かくして辞典づくりの方向性を見定め、その可能性が一挙に広がった。デジタル語彙集のウェブ辞典化、「海洋辞典」づくりを 押し進め世界へ発信するというという大目標が目の前に誕生した。「白書・年報」の資料すらネットで発信できる可能性があった。 だが、既述の通り、その資料作りそのものは先細って行った。今でも後悔している。だが、2022年の現在からチャレンジしても 遅くないいう思いがある。浅野所長の他界が大きく響くことになった。結局資料作りの継続や辞典との合体化には手が回らな かったが、ウェブ辞典についは発信すべく集中的に取り組んだ。それまで10年にわたり創り上げてきた、自身のパソコン 内部のみに存在する語彙集データを世界と共有できることになった。それはまさに晴天の霹靂であった。ついにそんな情報通信の 革命的技術進歩の恩恵を享受できる時代がやってきた。語彙データが日の目を見ることになった。これまでの語彙拾いと蓄積の 努力が報われることになると、感謝感激で涙が溢れんばかりであり、こ踊り状態でもあった。かくして、ここに人生の新しい大目標が生まれ落ちた。

  その後、1997年頃JICSからJICAへ復帰し、無償資金協力業務部の業務第二課に勤務した。JICAには業務上の大きな柱があったが、 無償資金協力関連業務の部署は合計8課もあるほど中核的なものであった。実はJICSでもこの無償資金協力業務に3年間従事していた。 本来民間企業が携わるコンサルタント業務(資機材や土木建築物関連のプロジェクトの基本設計調査と、それに続く被援助国政府の 代理人としての調達や建設監理業務)をもこなしていた。 資機材案件を中心に途上国政府の代理人となり、国内外の調査をこなし、資機材調達の入札を取り仕切ったうえで納入業者を選定し、 その納入・据え付けなどを監理するものである。

  その経験が買われたのか、中国・南西アジア地域と中南米全域を担当する無償資金協力業務に 2年ほど携わった。足掛け5年無償資金協力に深く関わり、職務上の経験値を大幅にアップした。おまけに、業務第二課時代 に日本側のコンサルタントと納入業者、更に被援助国政府を巻きこんだODA不正取引事件に巻きこまれもした。カリブ海・ドミニカ 連邦首都ロゾーでの漁港整備計画での設計ミスによる修復計画にも関与した。他方、プライベートな世界ではウェブ辞典づくりに 励み続けた。海の辞典づくりは大いに私を海に引き戻し、いつも海を友にすることで心を落ち着かせてくれた。

  記憶を辿ってみれば、国連への奉職への願望や志を、明確に意識して失った訳でも、また諦めた訳でもなかった。だが、志は 頭の片隅に追いやられて行った。思い起こせば、情熱が少しずつ色あせて行ったというのが真相である。何故か。 ネット時代到来でウェブ辞典づくりが新しい人生目標としてパッと大きく花開いたからであった。そして、ウェブ辞典づくりが次の 新しい生涯的目標となった。国連奉職への志に取って替わるものと確信したのは、ウェブ海洋辞典が世界に発信できた頃であった。 即ち、ウェブ辞典づくりが本格的に軌道に乗った1990年代末期の頃であった。すでに50歳であった。

  また、他方で海洋法条約が1982年に採択され、ついに1994年に発効もした。世界では同会議や条約への 関心が国際場裏から徐々に薄れて行ったのと同じように、私の国連への関心も薄れるのを自覚していた。 国連海洋法事務局はその役目を終えて、その規模は縮小されることは十分予想された。事実、海洋法務官の林氏は1996年に 国連を離れられたことをずっと後で知ることになった。林氏は1971年に国連本部に奉職され、その後同海洋法条約が発効し日本が 批准をした1996年まで、25年間在籍されていた訳である。1996年のその頃は、私はJICSに勤務し、私的にはウェブ辞典づくりに 情熱を燃やしていた頃と重なる。
(海洋法務官に空席ができ「募集中である」ことは、さらにずっと後で知った。既にJICAを離職し、契約ベースで赴任していた ニカラグアから帰国して間もない頃であった。既に還暦を過ぎ完全離職する少し前のことであった)

  さて、さらに決定的な転機が訪れた。2000年~2003年まで南米パラグアイに赴任することになった。2000年には52歳であった。 「ニュースレター」は勿論、「海洋白書・年報」の資料づくりは途切れることになった。再びの中断であった。希望を繫いだのは、 ウェブ海洋辞典づくりを続けるにはパラグアイはスペイン語圏であり、よい環境にあると思えた。事実、自宅のデスクトップパソコン、 プリンター、ハードデスク、ソフト類などすべてのデジタル資機材をアナカン荷物としてパラグアイに持ち込んだ。そして、 3年間赴任中その環境と私的時間を生かして、ウェブ辞典の「進化」と世界発信を中断させないように取り組むことになった。

  スペイン語圏であるパラグアイでは西和・和西海洋辞典づくりに大きな刺激をもたらしてくれた。「海なし国」でありながら海軍を有するが、実は2つも船舶 博物館が所在することを知った。その稀有な博物館をウェブ辞典で紹介することにチャレンジした。その過程で閃いたのが、近隣の 「海有り諸国」であるアルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイの海洋博物館やその他海洋歴史・文化・自然系施設を探訪し、 それらを紹介するページづくりである。それと同時に、画像を関連見出し語などに貼り付けビジュアル化することを思い付いた。 パラグアイからの帰国後になるが、数多の画像から特選したフォトをベースに「海と船のギャラリー」を辞典内に創り、辞典の 充実化を図ることにした。だが他方で、辞典づくりは「進化」の歩みを止めることなく少しずつ前進したものの、3年間の赴任は 国連奉職への関心からほぼ完全に自身を遠ざけてしまったといえる。

  国連奉職への志のフェーズアウトを決定的にした近因や直因は、ウェブ辞典への一層の前のめりであった。その遣り甲斐が突出 したからである。ウェブに「白書・年報」の資料を組み入れることは現実にはできなかったが、その可能性があることはいつも 明るい期待をもたらしてくれた。

  大目標を得たことが最大かつ直接的な要因であったが、他方間接的な遠因が幾つもあったと感じる。 時が経るにつれ、いつしか国連への情熱は徐々に薄れて行った。他方で、新たな大目標を得たのは、ウェブ辞典への 展望が画期的に開けた1990年代中頃のことであり、情熱の喪失はそれを起点にして深まって行った。振り返ればそういうことであった。 とはいえ、情熱喪失の間接的な要因や背景をそれなりに総括しておかねばならないと思い立ち、ここに記憶を辿ってみることにした。

  国連海洋法務官への情熱がさめる間接的な要素をいくつか列挙するとすれば、先ず年齢が一番の要素であった。国連奉職への 情熱がみなぎり、最もエネルギッシュであったのは30歳代であり、志願への 最適齢期であった。だが、30代のほとんどの時期を、JICA水産室や「アルゼンチン漁業学校プロジェクト」で過ごした。 国連の一専門機関である「食糧農業機関(FAO)」の水産局に勤務する国際公務員と同じような立場で、途上国の水産分野での発展のため に向き合っていたようなものであった。そこには、大きな自己満足と遣り甲斐があった。 現実的には、国連に採用されるに最も相応しい時期は、アルゼンチンからの帰国直後であったであろう。JICAでの水産関連業務を 通じてキャリアを積み、スペイン語もそこそこ堪能となっていた頃であった。年齢は40に達する目前であった。ラストチャンスと思える 年代であた。かくして、国連にチャレンジするそれなりのエネルギーを要し、この頃には年齢の壁にぶつかっていた。

  アルゼンチンから帰国後9年ほどJICA本部の国内部署(農技・契約・職員の3課)に張り付き、予想通り、もはや仕事で海に 関わることは期待できなくなった。海洋関連のキャリアアップにつながる部署はほぼなかった。それは十分覚悟していたことであり、 折り込み済みであった。故に私的には辞典づくりや英語版「白書・年報」資料作りなどの二足のはらじを履いて、何とか海との 関わりを維持し、自主的なキャリアアップを図ろうとした。だが、自ずと限界を感じざるをえない状態が長く続くことになった。

  国内勤務を通じ「JICAマン」としての経験値はアップし、給与面や待遇、仕事上のポジション、その責務の重さなどの全ての 側面において、徐々にアップすることを実感していた。年報も入団以来右肩上がりで、国連のそれとそれほど大差があるとは思えなかった。 特に海外赴任した場合は、国内俸も支給されほとんど遜色ない年俸や、また社会的立場をいただいた。年俸の可処分所得ベースでいえば恐らく 国連のそれと比して劣るとはさほど思われなかった。JICA入団後既に15余年が経ち、中堅部員であり、責務もかなり重くなりつつあった。 トータルに見れば、当時経済成長期にあったこともあり、JICA勤務は決して悪いものではなかった。一言でいえば、JICAでの 国内外の勤務の居心地に満足できる状況にあった。

  さらに、国際社会への貢献、即ち世界の途上国の「人づくり国づくり」に携わることの誇りや遣り甲斐は増す一方であった。 目指した国連海洋法担当法務官という国際公務員の立場ではないが、政府系特殊法人・国際協力事業団の職員として、 途上国の人々や異文化に交わりつつ、何がしかの国際貢献に関われるという立ち位置にあった。 国連に奉職しなくとも、JICAを通じてすでに国際貢献への末端を担っているという自負や誇りも生まれていた。 だから、その裏返しになるかもしれないが、JICAという居心地の良い居場所を放り投げて国連にチャレンジする気概とエネルギーを 維持したり、再び燃え上がらせるには辛いものがあったのも事実である。

  他方で、過去の国内外における業務や自主研究活動を通じて自身の「実力」を如実に自覚させられるようになっていた。例えば、 英語やスペイン語でどれほどまでに専門的内容のある論理をしっかりと展開し、ステークホルダーと互角に渡り合っていけるか。 自身の真の実力を客観的に見つめ直した場合、それに懐疑的、悲観的になることが多くなっていた。特にアルゼンチン帰国後9年ほどは、 海外出張こそ多いが、国内に塩漬けになっていた。 まして、国際海洋法の領域でステークホルダーと日常的に業務を通じて喧々諤々渡り合ってきたわけではなく、今後英語・スペイン語 をもって法務官としての職務を果たしうるのか、自問自答するたびに一抹の不安を覚えざるをえなかった。

  例えば、大量の公式・非公式文書を読みこなし、国連の法的立場や見解を迅速に取りまとめ、各国にタイムリーに発信し、また様々な 会議を取り仕切り、上司・同僚や関係者への専門的報告や提言、その他論理的見解などを適格に発信できるか。自身の 国連専門職員としての真の適格性やコミュニケーション能力、実務能力などを真剣に顧みると、自信が持てなくなっている自分に気付く ばかりであった。故に、海洋法務官の空席ポストを求めて国連へ積極的にアプローチすることに億劫となり、消極的となり、 また抑制的になったことの一因でもあった。

  また、多国籍の専門職員との間で、表には現われてこない激しい「出世競争」に勝ち抜いていく必要がある。それに立ち向かえ るだけのどんな能力を持ち合わせているのか、時に自問自答した。 今となっては、国連本部の多国籍職員間での激しいポジション争いとなる異空間に飛び込み、多才異才な外国人上司の下で厳しい 人事評価に自身を晒しながら勤務することに気後れし、空席ポスト探しに能動的、積極的になれず、二の足を踏んでいたのかもしれない。

  かくして、諸般の事情と自身の複雑な想いが交錯し、それに長く引きずられてきたのが実相である。 何故、国連への志を自然消滅させるかの如く諦めてしまったのか。若かりし頃神戸商船大学への受験を諦めたように、国連奉職への 大目標を明確な意識と覚悟をもって諦めたものではなかった。いつしか自然と遠ざかってしまったといえる。 大目標もいつの間にか色褪せ、憧れと志はゆっくりと時間をかけながらほぼ脳裏から消えて行った。いわば自然消滅的な「燃え尽き 症候群」といえるものだったのであろうか。 「国連に奉職できなくとも・・・・」という思いを惹起させ、それを膨張させてしまい、いろいろな言い訳を心に住みつかせてしまった。 法務官への志や情熱を失っていくことを是とする悪魔を住みつかせてしまった。そこには忸怩たる思いがあった。だが、他方で新たな 志を見つけた以上それに邁進する決意をした自分の存在があった。ネット上にウェブ辞典の発信を本格化させ、かつパラグアイへ 赴任する頃のことであった。すでに50歳を過ぎていた。

  特に30歳代であったアルゼンチン赴任前後において最善の積極かつ能動的アプローチを取っていれば、その後の人生航路は また違った方向に進み出していたかもしれない。反省すべきことは幾つもある。それはさておき、JICAでの天職とウェブ海洋辞典 づくりの二足のわらじを履くことを一つの人生の路として選んだことに悔いは全くない。海洋法制や政策に深い関心を払いつつ、 アナログ英語版の「白書・年報」の資料作りをし、また海洋辞典づくりという大目標に誇りをもって遣り甲斐のある チャレンジに取り組めた。また現在でさえ、取り組み続けている。国連奉職とJICAでの天職を同時に全うすることはできない。 結果的にJICAでの天職と、辞典づくりとの二足のわらじを履き続けた。そして、公と私、仕事と私事の充実に繋げてきた。 そして、JICAからの完全離職後ずっと一足のわらじを履いて、海洋辞典づくりに無心に取り組んでいる。

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