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    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する
    第5節 アルゼンチン・ビーグル海峡とマゼラン海峡を駆け、パタゴニアを縦断する


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     第20章・目次
      第1節: 「自由の翼」をまとい海外を旅する、世界は広い(総覧)
      [参考] 海外出張などの記録
      第2節: オーストラリアに次いで、東南アジア(タイ・マレーシア・ シンガポール)の海洋歴史文化施設を訪ね歩く
      第3-1節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その1)/釜山、蔚山
      第3-2節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その2) /統営、閑山島、潮汐発電所など
      第4節: 英国南部の港町(ポーツマス、プリモス、ブリストルなど)を歩く/2013.5、挙式
      第5節: アルゼンチン・ビーグル海峡とマゼラン海峡を駆け、パタゴニアを縦断する/2014.3
      [参考] ビーグル海峡、マゼラン海峡、パタゴニア縦断の旅程



  アルゼンチンに積み残してきたものがある。それはマゼラン海峡やビーグル海峡の横断やクルージングである。中南米に3度、 延べ8年間赴任しながら、アルゼンチン最南端の「ティエラ・デル・フエゴ島」、そして海峡の町ウシュアイアを訪ねることができなかった。 ウシュアイアの「監獄&海洋博物館」を探訪できなかったこともさることながら、ビーグル海峡をクルージングしたり、マゼラン海峡を 横断したりできなかった。私としては、大変心残りとしてずっと糸を引いてきた。しかし、パタゴニア、そしてフエゴ島に旅する 強い意欲と口実がないまぜとなり、いつしか再びアルゼンチンの土を踏み海峡をクルーズするチャンスをずっと持ち続けてきた。

  アルゼンチンへの再訪の機会は完全離職から3年後にやってきた。アルゼンチンへの旅は2014年3月3日から31日までの挙行となった。 2014年3月、東京に次女を残して、アルゼンチンで幼稚園から小学2年生まで過ごした長女と妻の家族3人で旅に出掛けた。当時ブエノス・ アイレスに赴任中であった友人のご主人が早晩本帰国命令を得てブエノスを離れることになるとのことであったので、その前に訪ね暫く 転がり込もうという安直な思いで遠出することになった。

  我が家族では相も変わらない旅の流儀だが、妻・長女とは一部の訪問地を除いて、ほとんど別々の行動となった。先ず最初の 4日間ほどはほぼ同じ行動であった。家族3人と友人とでブエノスで有名なカフェ「トルトニ」にでかけ、カフェしながらあれこれ と積もる世間話をたくさんした。エバ・ペロンの墓がある「レコレータ」の近くのショッピングモールをぶらついたり、サンテルモの蚤の市に出掛けたりした。 時に、別行動しながら思い思いにブエノスの散歩を楽しんだ。エバ・ペロン(1919年~1952年)は私生児として生まれながら、 第二次大戦後アルゼンチンの大統領となったファン・ペロンと結婚しファーストレディーとなり、政治にも関与するようになった人物でる。 親しみをもって「エビータ」と呼ばれ、今でも墓地への献花は絶えない。

  私は、旧ブエノス港で、今は再開発され市民の憩いの場になっているプエルト・マデーロ に出掛け、「サルミエント号船舶博物館」を再び見学した。また、電車でブエノス近郊の、ラプラタ河の河口域のデルタの大水郷地帯 の一角にある町ティグレに1時間ほど揺られて出向いた。電車は相変わらず使い古された車両のままで、時間が止まったかのような 車内風景には成長を感じさせる片鱗もなかった。ティグレはいわばブエノス近郊の週末や夏場における行楽地である。巨大なデルタ 地帯がティグレの東側に広がり、水路が迷路のように複雑に入り組んでいる。ティグレでは、そんな水路をいろんなタイプの遊覧船で、 いくつかのコースの周遊を楽しむことができる。もちろんアマゾン川に次ぐ広大なデルタなので、周遊するといってもそのごく一部を かする程度の周遊である。

  ティグレにはアルゼンチン海軍所管の「海事博物館」がある。1985-87年の漁業学校プロジェクトで赴任していた折は、傍を通りかかっても 館内に足を踏み入れたことはなかった。その後2000年からパラグアイに赴任した折には、すでに海洋博物館巡りと海洋辞典のための画像 撮影に目覚め、当時一度は内部見学し展示画像を撮影していた。パラグアイ以来10数年ぶりに今回本格的な再訪を実現できたことを喜び、 じっくり新たな視点をもって展示画像を切り撮ることができた。博物館での展示内容は、ほとんど変わってはいなかったが、もう一度最初から陳列品を一点一点 丁寧に見学し、スペイン語での説明書きを含めて、画像に切り撮った。古代の船模型、各種大小の帆船模型、海軍艦船の模型や絵画、 海軍提督やその他の著名な将官の絵画・写真、屋外には英国とのフォークランド戦争時に使われた戦闘機や小型軍用船などの 実物展示がある。日露戦争に当たって日本はアルゼンチンから2隻の軍艦を譲り受けた。アルゼンチンはイタリアで建艦していた2隻を 日本に売却した。「日進」「春日」である。アルゼンチンの武官が日本海海戦をその艦上から観閲したとされる。博物館にはそれらの 軍艦に搭載されていたピアノなどのゆかりの品が展示される。

  ところで、妻と長女はかつての赴任国パラグアイへ旅立つ準備をしていた。家族はかつて赴任していたパラグアイの首都 アスンシオンに出向き、思い出の市街風景を楽しみ、友人らとの再会を楽しむ手はずであった。他方、私は今回の旅の主要目的地 であるウシュアイアへ準備を真剣に始めた。私がめざしたのは、これまで果たしえなかった最南端の地であった。アルゼンチン最南端 のフエゴ島のウシュアイア、ビーグル海峡、マゼラン海峡などを散策することであった。旅のルートはもちろん、毎日の行動計画を もう一度おさらいし、航空券、宿泊の手配などを進めた。旅程は12日間ほどの予定であった。 帰途はウシュアイアからマル・デル・プラタを経由してブエノスまで全て路線長距離バスを予定した。

  まず国内フライトでウシュアイアへ向かった。「アルゼンチン氷河」をはじめ幾つかの氷河が湖に崩落するのをまさに眼前で 見ることができる観光地へのゲートウェイとなっているカラファテにストップオーバーした。着陸する頃には、雄大なアンデスの山岳 風景が眼前に迫り、グリーンとブルーがないまぜになったような氷河湖独特の色に染まった湖のすぐ傍に横たわる滑走路に着陸した。 その後離陸してフエゴ島を目指したが、生憎天候がすぐれず、マゼラン海峡などの下界の景色はほどんと見ることができなかった。 その1時間後にはウシュアイアに着陸すべく降下し始めたが、ずっと雲の中であった。だが、座席の背もたれを元の位置に戻した頃、 雲海から出て視界が開けた。何とビーグル海峡の上空を、海峡に沿って飛行し、どんどん高度を下げ、周囲の山々の峰々から中腹、 さらに山裾まで下りてきた。海峡の水面がどんどん近づいてきた。思いもよらず、じっくりと海峡を俯瞰することができ、心が満たされた。 そして、これから海峡の港町を散策すると思うと、子どものようにわくわくして興奮気味であった。空港は海峡沿いの平地にあった。   季節は3月で、南半球では初秋に当たるが、ウシュアイアでは、ビーグル水道両岸の山々はかなりの冠雪をいただき、みぞれにも 歓迎され、防寒具を手放すことのできない肌寒い日々が3日ほど続いた(ウシュアイアは南緯55度辺りにある。北緯55度と いえば樺太の少し北に相当する)。

  ウシュアイアの市街地中心部では坂が多かった。背後には海抜1千~2千メートル級の連峰が控え、山裾から海峡の水際に向かって 傾斜していた。市街地全体がスキー場とすれば、初心者・中級者用の素晴らしいゲレンデになると想像してみた。宿泊地は海岸 ゼロメートルからそこそこ急な斜面を登り切ったところにあった。幾つもの東西に伸びる通りが海峡に並行して走っている。 通りには土産店、旅行代理店、レストラン、カフェなどが建ち並び観光客らで賑わう街一番の銀座通りがあった。先ずは、土地勘を 養うために、目抜き通りや海岸通りをぶらぶらしながら、ウインドウショッピングを楽しんだり、スナックを食したり、 カフェ・コン・レッチェ(マグカップにコーヒー半分、ミルク半分)を飲みながら、ゆったりした贅沢な「海峡を見下ろす時間」をつぶした。 目抜き通りの端から端まで、歩いてもせいぜい30分ほどであった。

  翌日から活発に周遊して回った。真っ先に「監獄&海洋博物館」を訪問した。目抜き通りの東はずれにある海軍基地のすぐそばに 博物館があった。かつて南の地の果ての監獄であったが、その獄舎や独房をそのままそっくり博物館の展示室に改装されていた。 独立した監獄舎が一地点から4方に伸びており、その一地点の場所でしか人は行き合えない。いわば扇子のような形をしている。 2階まで吹き抜けになっていて、2階は回廊式になっていて、独房は互いに向かい合っている。そして、各独房が展示室になっている。 大西洋と太平洋の両洋をごくわずかながらショートカットできるビーグル海峡も、マゼラン海峡と同じく通航の難所であった。 海峡で多発した海難のことを手始めに、灯台や航行援助施設、パタゴニアやビーグル海峡周辺の古海図、南極での科学調査、海上保安 活動などを展示する。同博物館には2日間にわたって通い詰め、館内陳列をじっくりと見学した。

  勿論、ウシュアイアのウォーターフロントにも何度か足を運んで散策した。最大の港湾施設は海峡に向かって斜めに長く突き出した一本の幅員のある 埠頭である。埠頭の付け根にはゲートがあるが自由に出入りすることができた。埠頭手前の海岸通りに面して「南極事務所」があった。 その展示館では、アルゼンチン政府の調査研究活動が写真パネルや地図、その他資料で紹介されていた。そこから徒歩10分ほど 海岸通りを行くと、「地の果て博物館」という地域博物館があり、そこも訪ねた。パナマ運河が開通するまでは、ビーグル海峡は 両洋を結ぶ海の通路として、マゼラン海峡と同様に、数多の船舶が利用していたし、また港町ウシュアイアは海峡に面する重要な町 であった。マゼラン海峡に面するチリ領のプンタ・アレーナスも同じことが言えた。

  埠頭には船体舷側の上縁まで赤色に塗られた、1,500トンほどの幾つかの遠洋漁船が停泊していた。アルゼンチン沖の広大な大陸棚 上に広がる排他的経済水域やその他の南西大西洋海域で操業する漁船なのであろう。かつては船尾竿に日章旗を掲げた大型トロール船も 操業することが許されていた頃もあった。パタゴニア中部の港町プエルト・デセアードには日ア合弁漁業基地があった。 埠頭には、中型の観光客船も停泊していた。いわゆる「咆える40度線」と称される、暴風雨が吹き荒れることで 知られる海域を巡航し、ホーン岬を周回してチリのプンタ・アレーナスなどへ航海するのであろう。

  実は、そのホーン岬を周回してプンタアレーナスに向かう観光船が近々船出するとの情報を、市内の旅行代理店に立ち寄った折に掴んだ。 帰途のバスのリオ・ガジェゴスまでの運航状態を調べ、先ずは切符を手配した。バスはブエノスまで運行されていた。現地で、 ドレーク海峡を経てホーン岬を視認し、チリのプンタレーナスまで巡航する大型クルージング船による3泊ほどのツアーがあった。 船内3泊ほどのクルージングらしかった。随分と迷った。一応の粗い旅程を描いていたが、ブエノスに戻る日は決めていなかった。 パタゴニアへの放浪の旅であり、身を拘束する何の予定もないので、乗船してホーン岬周回を体験すべきか、代理店のソファーに腰を下ろし、 時に坂下のビーグル海峡を見下ろしながら悩んだ。チリ入国ビザも、アルゼンチンへの再入国も問題はないはずである。 プンタ・アレーナスからどうブエノスに戻るか。国際バスでパタゴニア本土最南端の町リオ・ガジェイゴスに水平移動し、その後予定通り パナゴニアの大西洋岸沿いにマル・デル・プラタ、ブエノスを目指すか、いろいろ思いをひねくり回した。

  結局は思いとどまった。「吠える40度」海域にあるホーン岬を周回し、岬となっている島を初認するというチャンスは二度と巡って 来ないだろう。それは魅力的であった。急ぐ旅ではなかったはずであったが、何故諦めたのか。その最大の要因は天候にあった。 ウシュアイアに滞在してきた間ずっとこのところ天候が芳しくなかった。当地に到着して以来空にはほとんど雲が低く垂れ込めたり、 厚い雲で覆われたりしていた。青空はほとんど見られなかった。ウシュアイア滞在での初期の天候がかくも思わしくなかったので、 凄い期待を抱いて乗船したとしても、ドレーク海峡海域での天候が悪く、折角のホーン岬も雲や深い霧のために見れないという 結果になれば、残念至極であるし、また乗船したことを後悔することになるとの思いに至った。それにプンタ・アレーナスには かつて何日も訪ねたことがあったので、そこへ旅する理由は余りなかった。だが、アルゼンチンから帰国した後のことだが、 悪天候のためホーン岬を視認できないとネガティブに思い込み過ぎてクルージングを敢行しなかったことを多少悔いたこともあった。 また積み残してしまったという感覚にとらわれた。だが、悔やみ切れないという訳ではなかった。またパタゴニアやウシュアイア に舞い戻る強い口実を手にしたほどではないが、再訪する希望と言い訳くらいは胸の片隅にしまい込んだ。

  ところで、ビーグル水道をはさんで南側に横たわるのがチリ領の「ナバリーノ島(Isla Navarino)」である。同島以南にもチリ領 である幾つかの小さい島嶼が散らばるが、その島嶼の最南端にかの有名なホーン島のホーン岬(Cabo de Hornos、Cape Horns)がある。 南米大陸最南端はそのホーン岬において名実ともに終わる。ホーン岬以南においては、「ドレーク海峡」(Strait of Drake) を隔てて、1000kmほど南方に白い大陸・南極が横たわる。

  ビーグル水道は全長約240kmにおよぶ海峡である。英国人チャールズ・ダーウィンが、英国軍艦「ビーグル号」に乗艦し、 足掛け5年間に及ぶ世界一周の探検航海を行った際の経路であり、同水道の名前はその軍艦名に由来する。 ダーウィンが乗艦した時の航海は、「ビーグル号」の探検航海としては2回目のものであった。1831年12月27日に英国デヴォンポート を出港し、1836年10月2日にファルマスに帰還した。ダーウィンが「ビーグル号」に乗り込んだのは弱冠23歳の時であった。 ビーグル号はバーク型3檣帆船で、排水量242トン、全長27.5m、全幅7.5m、吃水3.8m、砲6門の小型船であった。バーク型とは 前2本のマストに横帆、最後尾のマストに縦帆を装備する。

  さて、ホーン岬は諦めビーグル海峡での遊覧に出掛けることにした。180度を見渡す視界の前には、どんよりと鉛色に染まった冠雪を 抱いた山々の連なりを背景にしたビーグル海峡の狭水道が横たわっていた。幅員は狭い所では4,5㎞ほどである。市街地から眺めると 海峡の中ほどに幾つもの大小の岩島や岩礁が点在していた。素人目にも狭水道は岩礁などが多く航行には危険なことがよく分かる。 特に夜間は危険極まりないようだ。そんなビーグル海峡を小型の遊覧船で暫く周遊できることになった。 海峡の東方沖合に小さな岩礁があり、その上に小さな灯台が立つ。その直ぐ近くの岩礁には多くのアザラシ(lobo marino de un pelo) が寝そべる。ところで、クルージング中壮年の船長と言葉を交わす様になった。何と私が3年間勤務していたマル・デル・プラタの 国立漁業学校の卒業生であった。話がはずんだところで、船長の指示の下、私は舵輪を握って、市街地沖合の海峡中央部に位置する 次の物標兼目的地である小島に向かって航行した。小さな桟橋で上陸し、その丘の上に登り、海峡を360度見渡した。ここで初めて、 長年の思いであった「ビーグル海峡の真っ只中の岩礁に立つ」という思いを遂げることができた。万感の思いが込み上げ、感涙したくなる ほどであった。

  さて、旅行代理店で国際路線バスの運行時刻などを訊ね、切符を手にしていた私は、いよいよウシュアイアを離れパタゴニア本土 の最南端の町リオ・ガジェゴスへ向かった。早朝暗いうちから埠頭前のバス停で大型長距離バスに乗り込み、午前5時には出立した。 (リオ・ガジェイゴスまで所要時間は12時間の予定)。ざっくりといえば、フエゴ島の東半分がアルゼンチン領で、西半分がチリ領である。フエゴ島ではアルゼンチンとチリの国境線が 南北に引かれている。先ずアルゼンチン領を北方へ縦断し、「リオ・グランデ」という町から道路は西方へ向かう。すると アルゼンチン・チリ国境線のずっと手前の町の国境検問所ではパスポート検査、荷物検査を受け、チリ領に入り、 そのままマゼラン海峡に行き当たる。そこにチリが運航するフェリーの発着場があった。だが、そこには桟橋も 何もない。道路が突然海峡の水面へと没して行く。道路の水際には幅広のコンクリート敷きの斜路(ランプウェイ)があるだけである。 その斜路を前にして立つとマゼラン海峡が180度立ちはだかっている。

  発着場に着いてみると、生憎西寄りの強風が吹き荒れており、情報を得て来た運転手が曰く。「今は時化のために、フェリーの 運航は中断されている。何時再開されるか分からない。明日になるかも知れない」という。猛烈な風のために対岸からのフェリー が到着せず、いつ再開されるか見通しはなかった。眼前に広がる海峡では白波(ホワイトキャップ)が激しく立ち騒いていた。バスが走っている間は分からなかったが、 バスが停車し、まして周囲に遮るものが何もない海峡までやってくると、強風が西から吹き荒れていることがよく分かった。 海峡の水面では白波が強風で吹き飛ばされ、飛ばされた泡のために海面全体が白っぽく、吹雪のような有様であった。急ぐ旅でもないし、 次の予定が押し迫っている訳でもなかった。リオ・ガジェゴスやその先での宿泊についても何も予約してもいなかった。 マゼラン海峡での「風待ち」ならぬ「凪待ち」であった。乗客は何の慌て焦る様子もなくのんびりと過ごす風であった。すぐ近くの岸辺には掘っ建て小屋のような粗末な スナック菓子を売るカフェがあった。バス内で何時間も待機した。時々、カフェへスナックを求め足を運び、カフェをすすりながら 暇つぶしをした。私はバス内では日本から持参した「クライブ・カッスラー」著の海洋冒険小説を読みふけったりして暇つぶしをした。 この先はっきりとした旅行計画があるわけではなく行き当たりばったりであり、急ぐ旅でもなく、全く勝手気ままな放浪の旅の身 であるのは、最高の身の上であり感謝感謝であった。

  「凪待ち」の間一つの小さな発見をした。多くの車両が列をなして待機していたが、恐らく気付いた者は私くらいでなかったかと 推察する。時に小説から目を移し、窓越しにマゼラン海峡を眺めていた。かなり大型の一隻の貨物船が海峡の東側(大西洋側)から こちら側に西航してくるのを車窓から眺めていた。5分間ほど目を凝らして進み具合に注目していた。 西寄りの風が強烈だったので自然と、貨物船の進み具合が気になっていた。船は難航しているらしく、5分間たってもどうも同じ 位置に留まっているとの印象を受けた。どれほどのスピードで、この向かい風の暴風の中で進航しているのか推測するために、 窓枠のある一点に照準を定め、ずっとその進航の動きを、10分、20分とじっと見守っていた。時に目を小説に移し、また船の動きに目をやった。 だが、時間が経過する割には、貨物船はどうも同じ位置にあって、一向に前進していないのではないかと思うようになった。 そのうち同じ位置に留まっていることに確信をもつようになった。最初に貨物船を見た時は確かに動きがあり、 こちらに向かってやって来ていた。何度も凝視したり、時に目を離していたが、何時の間にか船は姿を消していた。 ひどい向かい風のため、大型船さえも前進を阻まれ、悪戦苦闘するなか、どうも反転して後退を余儀なくされたらしく、視界から 消えてしまっていた。大型船が強風に抗することを諦め、恐らく強風をやり過ごせる陸陰まで引き返えしていたに違いないと、 勝手な想像をした。逆風にたじろぎ一旦引き返し待避することなどありうるのか。マゼラン海峡ならではの航行の様にびっくり仰天 させられた。それが第一ステージであった。その後貨物船と思いがけない所で遭遇することになった。

  見渡す限り海峡と牧草地が広がるだけの辺境地に立つ掘っ建て小屋のようなカフェに、暇に耐えかねて私も出向いた。そこで カフェ・コン・レーチェを飲みながら、窓越しに海峡を眺めたりしていた。さて、2時間ほどして何処からともなく朗報がもたらされた。 暴風が少しは下火となったらしく、フェリーの運行が再開されるという。そして、対岸からこちらに向けてフェリーが出港したという。 白波が泡となって吹きすさぶ海峡をフェリーが必死になって航行している姿を遠くに視認して勇気をもらった。着岸する頃、吹きすさぶ 海辺に出て、フェリーをランプウェイで出迎えた。そして、車両や乗客らがフェリーのランプウェイを下船するところを格好の被写体と して画像に切り撮った。フェリーは自身の船首部に取り付けた鋼鉄製のランプウェイを前方に下げて、それを陸地側に造作された コンクリート製のサンプウェイにがりがりと押し続けるように停泊し、下船を可能にしていた。

  乗船に際しては、路線バスとその乗客が最優先された。先ずバス乗客が歩いて乗船した。その後待機中であった他の車両が一斉 にフェリーへと吸い込まれて来た。間もなく出港し対岸に向かった。フェリーはずっと海岸沿いに 西航した。その後フェリーは対岸の港に向かって一気に海峡を斜めに横断し始めた。対岸もチリ領である。 フェリーは猛烈な強風の中を横断していた。風が吹きすさび、しぶきが舞い上がり、対岸の景色は霞んでいた。それでも肉眼で何とか 対岸のフェリー発着場らしき地点を見通すことができた。私も上甲板に出てみた。甲板の手摺りにしがみつきながら歩くのも 身の危険を感じるほどであった。猛烈な風でデッキの欄干にしがみついて強風をやり過ごすのが精一杯であった。へたをすると 突風で海中へ吹き飛ばされそうであった。しかし、マゼラン海峡をこんな暴風の中で渡海したことは生涯忘れることはないと、内心喜々として海峡の渡海を楽しんだ。 本当に忘れがたい貴重な体験となった。

  ところで、フェリーは暫く沿岸と並行して航行し、すぐには海峡を横切ろうとはしなかった。不思議に思っていた。 理由は後で分かった。海峡の真ん中辺りに達した頃、先の大型貨物船らしき船がフェリーの右舷後方からやって来た。 そして、あれよあれよと言う間にフルスピードでフェリーの右舷前方を通過して行った。見上げるような巨船であった。 フェリーが先に横断するのか、貨物船の直進が先か、どうするのか寒風の中で凝視していた。貨物船は暴風をものともせずどんどん 近づいてきた。それこそ4,5万重量トンはあろうかというバルクキャリアのようであった。 想像するに、フェリーは貨物船を通過させるタイミングを見計らっていたようだ。先にバルクキャリアを通過させ、フェリーはその後 海峡を横切る形をとったと思った。双方の安全のためであろう。 かくして、フェリーのすぐ傍を猛スピードで通り過ぎて行った。どこかで暴風を除け退避していた先の大型貨物船に違いなかった。 巨大船でさえも海峡を吹きすさぶ暴風には慎重なことを理解した。

  対岸の発着場にもフェリーが横付けできる埠頭があるわけではなかった。存在したのは、フェリー会社の事務所や関連施設と コーストガードの出先機関の建物くらいであった。フェリーは自身の鋼鉄製ランプウェイを突き出し、陸地側のコンクリート製ランプ ウェイにガリガリと擦り寄せ押し付けながらホバリングしていた。 まるで強襲揚陸艦がやりそうなことであった。我われのバスもフェリーから吐き出された。かくして、1985年以来の夢をやっと 果たすことができた。感涙の海峡横断であった。バスはチリ領から再び国境線を越えアルゼンチン領へ入った。砂利道を疾走し、砂埃 を巻き上げながら一路、アルゼンチンとの国境に向けて原野を走り続けた。国境の検問所でバスから降りて荷物検査を受け、パスポート コントロールを通過した後、牧場なのか原野なのか、荒地なのか見分けられないパタゴニアを再びひたすらに走り続けた。

  その後、南米大陸本土南端の最大の町リオ・ガジェゴスで下車した。何とおよそ30年振りである。1985年の若かりし頃の赴任地 であったマル・デル・プラタから車に家財道具一式を積み込み、妻と1歳と6歳の二人の娘をともなって南下し、この地へ5日目に辿り着いた。 思い出深い懐かしい町である。赴任直前アルゼンチンが英国と領有権を巡って戦争をしたフォークランド諸島とほぼ同緯度にある。 当時、浅はかにも、ここからフェリーでフエゴ島まで渡海しウシュアイアへドライブしようと考えた。フェリーはこの町から直に 出ているものと思い込んでいた。だが、実はそうでなかった。車をこの地に置いて飛行機でウシュアイアとの間を往復しようと考えたり もした。だが、当時も風が強かったし、帰路のフライトを確保できるか、また1歳そこそこの幼児の体調も気になっていた。 結局諦めたのが正解であった。今回のバスでの旅の逆ルートをトライすることは考えも及ばなかった。恐らくチリとの国境で、チリへ旅する 許可をJICA事務所から得ていないことを、はたとその場で気付き、引き返していたに違いない。当時のこと、その後はアンデス山脈の麓に沿って 北上し何千kmも旅を続けた。結局、ウシュアイアまで旅することは叶わず、マゼラン海峡もビーグル海峡も視認することはできなかった。 今回の旅にして、ようやくその宿願を叶えることができた。胸にずっと抱え込んできた心残りな「積み残しの思い」を今回 すっきりと晴らすことができた。

  さて、日が暮れる前に安ホテルでも探そうと、ほとんど人を見かけない静寂な市街地をぶらついた。ほどほどの安ホテルを見つける ことができ、ベッドに荷物を掘り投げ、身支度をしてリオ・ガジェゴスの町を先ずはぶらついてみることにした。実は訪ねたい ところが二か所あった。港と博物館である。その下見を兼ねて出掛けた。その翌日、港の方向へ真っ直ぐ足を進めた。想定通り入り江 の海にぶつかった。海を眺めながら岸壁に沿って海岸通りを進んだ。理由があった。およそ30年ほど前に、家族を連れキャンプと生活 用具一式を車に積み込んでパタゴニア一周の旅に出たが、このリオ・ガジェゴスには夜遅くに到着した。町はだだっ広くて道に 迷いそうであった。そこで位置を確かめるためにこの海岸通りに出て、それから宿泊施設に辿り着こうとした。 暗闇の中その海岸通りを進むと、工場内の石炭積み出し用ベルトコンベアーか何かが、髙い塔のようなものと岸壁に停泊する船との間 に渡されており、ガラガラと大きな作業騒音を発していた。暗闇の中ではそれが何か分からなかったがその下をくぐったことを、 よく覚えている。それが何だったのか確かめようと海岸通りを歩いた。

  想像していた通り、ベルトコンベアーによる船舶への巨大な積み出し装置がそこに残されていた。ボーキサイト鉱石や石炭を船に 積み込んでいたのであろう。工場の装置は今では錆だらけである。港湾はずっと南の別地に移設されたという話を、散歩する人から訊いた。 岸壁沿いにさらに進むとマレコン(海岸大通り)に出た。産業的なものは何一つ残されておらず、静かな住宅街の様相であった。 海岸通りの一角には、朽ちた漁船がキールと肋骨だけを残して放置されていた。岸沿いの公園の一角に大気中のオゾンの自動計測・ 遠隔送信機器が設置されていた。そこにはJICAの協力で設置されたという銘板が貼り付けられていた。

  公園のすぐ近くに「アルゼンチン自動車連盟」の宿泊施設が目に入った。「ACA」と書かれた大きな広告塔が傍に建てられていて、 そのトレードマークですぐ分かった。日本でいえばさしづめ「JAF」のような公益団体で、ACAは自身の会員のために全国に モーテル式の宿泊施設を展開している。こんなところに立地していたことを改めて認識した。30年ほど前に宿泊した「ACA」のモーテル がまだ残されていた。1980年代の活気あふれる姿はなかった。リオ・ガジェゴスは、車でフエゴ島へ渡る 直前にある南米大陸最南端の最大の町であるが故に、ACAの宿泊施設はそう簡単には無くなってしまうことはなかろうと勝手に 想像しつつ、そのまま素通りしてしまった。

  市内にはミニの海洋博物館があることをネットで調べていたので、地図を頼りに訪ねてみた。先ずアルゼンチン・コーストガードの 支部を訪ねた。そこにはブイや艇体などがモニュメント的に屋外展示され、小さな展示室もあった。その後、そのミニ博物館を訪ねた。 掘っ建て小屋のような超ミニの展示館で、その周りの敷地内にカッターボートや錨などが陳列されていた。だが、生憎休館日のようで 閉まっていた。それらの陳列が無ければ海事の展示館とは気づかないかもしれない。

  さて、翌日再び定期長距離路線バスに乗車し、大西洋岸に沿って北上した。途中バスにトラブルがあり、リオ・ガジェゴスに引き返し修理に 2時間ほど要した。先を急ぐ旅ではないことが自身の心を落ち着かせた。他の乗客も、思い思いにのんびりと修理が終わるのを待っていた。 ブエノス・アイレスへ30時間かけて向かおうという路線バスにとって、数時間のロスタイムなど意に介さなかった。少しスピードを 上げて走行すれば遅れを十分取り戻せることであろう。誰も何も気にしない大陸縦断長距離国際バスである。それにバスでの座席は、飛行機のエグゼ キュティブクラス以上の快適さである。乗客らはドント・マインドの様相である。

  バスは2時間ロスの後出発し、私は一人プエルト・サン・フリアンという小さなラグーンの畔にある漁村で下車した。何故そんな 田舎町にわざわざ立ち寄ったのか、それには訳があった。マゼランが大西洋(当時は「北の海」と称されていた)から 「南の海」(西洋人では初めてバルボアが現在の太平洋を視認し、「南の海」と呼んだ)への「通り道」を求め、大西洋岸を南下した。 だが、ついに冬が接近したことから、止む得ずこの地の深い入り江に船団を引き入れ越冬した。ここで船舶の修理や乗組員の休養、 飲料水などの確保を行なった。その越冬地を訪ね、その入り江を一目見たかった。 一見したところ、ラグーンは北側に狭水道があり、大西洋と入り江とをつなぐ唯一の通路で、それ以外は長大な砂州で遮蔽されていた。奥行きも あり、湾奥は砂浜であり、船を陸揚げして船底を日干しにしたり、清掃するには最適のように思われた。

  実はその漁村には、マゼランの越冬を記念して、彼の船のレプリカなどがラグーン(入り江)の岸辺に据え付けられ、一般公開 されていた。入り江を180度見渡せる海岸には、マゼラン船団の一隻が復元され、そのレプリカが展示されている。 訪ねた時には、マゼラン海峡に面するチリの最南端の港町プンタ・アレーナスから大勢の観光客が大型バスで訪れていた。復元船 そのものが目途ではないだろうが、やはり、この小漁村の歴史的存在意義を知った上での彼らの訪問と理解した。私も同類であった。実は、 また時代はずっと後になるが、マゼランだけでなく、西廻りで太平洋を横断し世界周航を史上2人目として果たすことになった 英国人フランシス・ドレークも同じようにこの地で越冬した。

  当地で、海沿いに小さな郷土博物館があることを知って訪ねた。マゼラン船団が越冬した当時のこと、船団の一隻が翌年春に 再び南下する準備の一環としてに斥候のための航海に出たが、この近くで難破した。乗組員は船を捨て、このサン・フリアンに戻って来た。 実は、その時の難破船の部材・破片であるという小さな木片が発掘され、展示されていることを訪問して初めて知った。 驚嘆の遭遇であった。博物館は地味な展示がほとんどであったが、木片はガラスケースに厳重に収められていた。いろいろな科学 的見地から、その木片がマゼラン船隊の船のものであるという説明が累々となされていた。その信ぴょう性について論じる 知識はないが、そこに展示されていることに非常に感動させられた。マゼランはその後「神に感謝する岬」を発見し、その水道を西方へと 通り抜け、「南の海」に出た。彼は後にその海を「太平洋」と名付けた。

  さて余談であるが、英国人海賊フランシス・ドレークの世界周航とサン・フリアンでの越冬についてもう少し触れておきたい。 1577年11月15日午後のこと、フランシス・ドレークが座乗する「ペリカン号」 (ガレオン船) を含む5隻の船隊が、イギリス南部 プリモスを出港した。ドレークが航海の最初から世界周航するつもりであったかは定かではないが、彼は大西洋を横切り、南米大陸 東岸沿いに南下した後、マゼラン海峡を通過、さらに南米大陸西岸沿いに北上し、パナマ方面へ向かうという、長い大洋航海 の途に就いた。始めた。

  南米大陸東岸沿いに南下したドレークらは、かつてのマゼラン船隊と同じように、現在のアルゼンチン・パタゴニアの プエルト・サン・フリアン (南緯49度30分辺り) で、1578年の冬を越した(南半球では6~8月頃が真冬に当たる)。 その後、越冬から目覚めたドレークらは、同年8月20日マゼラン海峡へと進入した。航海の出資者の一人であるクリストファー・ ハットン卿の紋章に因んで、「ペリカン号」を「ゴールデン・ハインド号 (Golden Hinde)」へ改名したのは、 海峡入り口にある「ビルヘネス岬(Cabo Virgenes)」 (一万一千の聖母の岬) を回った辺りである。

  9月4日にマゼラン海峡を無事通過したものの、その通過後に2か月間余りも悪天候に見舞われたため、 南米最南端周辺海域 (現在彼の名をとって「ドレーク海峡(Drake Passage)」と称される) を彷徨い続け九死に一生をえた。 ドレークは、後にオランダ人ハウステンによって「ホーン岬(Cape Horn)」 と命名される南端地点にクイーン・エリザベス I 世の 名を刻んだ石碑を据え付けた。

  その後、ドレークは、10月30日に錨を揚げ、南米大陸西岸沿いに北上を開始し、バルパライソ (チリの首都サンチャゴの外港)、 アリカ (チリ)、カジャオ (またはカリャオ、ペルーの首都リマの外港)などを経て、翌1979年6月に北緯48度付近の現在の米国 ワシントン州オリンピック半島辺りまで北上した。その後、6月17日に、現在のサンフランシスコの少し北にある泊地 (北緯38度30分辺り;  今日ドレーク湾と称される) に停泊した。

  ドレークは航海途上で幾つもの海賊行為を働いた。最大の「成果」は、南米西岸沖でスペイン船「カカフェゴ号」を襲撃し、 約18万ポンドという莫大な金銀財宝を強奪したことであろう (当時の出資者には相応の配当がなされた)。 ドレークは、英国出港当初には世界周航の計画をもちあわせていなかったとされるが、ドレーク湾で揚錨した後、太平洋を横断し、 スパイス・アイランドと呼ばれた「モルッカ諸島」の一つである「テルナーテ島」にたどり着いた。その後、 1579年12月12日にインド洋横断と喜望峰周回を目指してめざして出航し、ついに1580年9月26日プリモス英国のプリモス水道まで帰還 (港には接岸せず)した。ここに、ドレーク等はマゼラン船隊航海者に次いで史上2番目の世界周航を成し遂げた。

  さて、休題閑話。翌日サン・フリアンから再び路線バスに乗り込み、コモドロ・リバダビア、プエルト・マドリン(バルデス半島への 入り口にある港町)、バイア・ブランカなどの地方都市を経て、昔3年間(1984~7年)勤務したアルゼンチン国立漁業学校のある マル・デル・プラタ(MDP)に舞い戻った。MDPでは、当時家族ぐるみで親しく付き合った友人たちをあちこち訪ね歩き再会した。 今までの生活振りなど近況についてあれやこれやと語りあった。友人の案内で、港の防波堤の突端まで散策したりもした。漁港の 船溜まりには、船体がオレンジ色にペイントされた小型沿岸漁船がたくさん係留され、港内の繁殖地に棲みつくアシカ(lobo marino de un pelo) が漁船に乗り移り、気持ちよさそうに船上で寝そべっている。岸壁のあちこちにも、自身の棲家の如く巨体を横臥させている。 そこに3,4頭の犬がアシカを船上や岸壁から追い払おうと寄ってたかって吠えている。時に、アシカもうるさいとばかりに歯を むき出しにして、犬に噛みつく素振りを見せて蹴散らそうとする。40年前と同じ港景がそこにあった。犬たちは単なる野良犬という 訳ではない。飼い主がいて、漁船船主団体からいくらかの報酬を得て、犬に仕事をさせているのである。犬とアシカとの真剣な 闘いと船溜まり風景を懐かしみながら波止場で眺める自分の姿があった。

  漁港の埠頭からわずか数百メートルほどの距離にある、その漁業学校にも立ち寄った。海軍退役大佐であったかつての校長は 既に学校を退職し、アンデスの麓のワインの大産地であるメンドーサに夫人と移住してしまっていたが、現在の校長や旧知の 航海学教授などに経緯を表しご挨拶にと訪れた。だが、生憎勤務時間とは大幅にずれていてまだ出勤していなかった。 守衛さんに事情を話し、許可をもらって校舎内に入れてもらい少し散策した。当時森プロジェクトリーダーと私が執務していた管理棟 の小さな部屋を覗いてみた。校長室と副校長室の対面にあったその部屋は、今は倉庫になっていた。もう30年ほど前のことである。 さすが海軍管轄の学校だけあり、海軍の教え通り美しくきちんと整理整頓が施され、30年以上経ていてもまるで新築されたばかりの 校舎であるかのように錯覚するほどであった。誇らしい限りであった。1985年に日本の無償資金協力の一環として建設された。 その後10年ほどその協力内容は変わりつつも技術協力が実施された。世界中どこを探しても、これほど整理整頓が行き届き保守管理と 活用がなされている教育施設はないと思うほどである。アルゼンチンでは、船舶の航海・機関運航の資格は、商船、漁船、河船に 分かれている。漁業学校は漁船の航海士・機関士の海技免状を取得させるための、海軍直轄の教育機関となっている。

  MDPのダウンタウンや海岸通りなどをそぞろ歩きしながら、センティメンタル・ジャーニーを満喫した。全く新しくオープンしていた バスターミナルから再び路線バスに乗り込みブエノス・アイレスを目指した。バスはパンパと呼ばれる大平原を疾走する。 パンパでは1,000km疾走してもまだ見渡す限りの牧草地と牧場、農地が広がる。そんなパンパの中を貫通するMDP-ブエノス国道を その昔何十回と数え切れないほど往復した。30年前とほとんど変わらない車窓風景を5時間ほど飽きることなく眺め続け、2週間ぶり にブエノスへ無事帰着した。マゼラン海峡とビーグル海峡の渡海はアルゼンチン赴任(1984~87年)以来の夢であった。今回、30年の 時を経てようやくその夢が叶った。いずれもわずか1~2時間の渡海体験であったが、感涙のクルージングとなった。

  さて、私がフエゴ島へ旅している間、妻と長女はパラグアイへセンティメンタル・ジャーニーをしていたが、今回の旅で初めて 3人揃って隣国ウルグアイへ遠出することになった。ブエノスの国際フェリーターミナルから高速フェリーに乗り込み、ラ・プラタ 河を横切った。大陸河川のスケールはとにかく半端ではない。パラナ川(パラグアイ川が合流する)、ウルグアイ川などが合わさって ラ・プラタ川という一本の大河となって大西洋に流れ込む。川幅100kmほどあり対岸はほとんど見えない。コーヒーとミルクを 混ぜ合わせたカフェ・コン・レェーチェのような色の河川水である。高速フェリーでも1時間以上かけてラ・プラタ川を横切り対岸の ウルグアイの町コロニア・デル・サクラメントという町に到着した。

  コロニアには小さな旧市街地があり、スペイン・コロニアル風の建物が多く遺され植民地時代にタイムスリップしたかのようだ。 古い要塞跡の一角に小さい「海洋博物館」や歴史を感じさせる古い灯台があって、じっくりと散策した。博物館には、帆船模型の他、 スペイン植民地時代の航海や歴史に関する展示パネル、絵画などが陳列されている。マゼランは世界一周の航海に出た時に、この辺りに バルボアが視認したという「南の海」へ通じる「海の道」が本当に存在するか否かを確かめるてmに、探索分隊を送り出して調べ させた。だが、狭水路をいくら北上しても淡水が続いたので、それ以上遡上することを諦めた。マゼランはその後南下を続け、 サン・フリアンの入り江で越冬し、翌年ついに、後に「太平洋」と名付けた大洋に抜ける「海の道」、すなわちマゼラン海峡を 発見し苦難の末通過したことは、すでに述べたとおりである。

  その後私は、家族と別れ、路線バスに飛び乗り首都モンテビデオへ向かった。パラグアイ赴任中の2002年に訪問以来2度目であった。 その時に首都近郊の海沿いにある「海洋博物館」を訪ねたが、曜日が合わず休館の憂き目にあった。今回はそのリベンジのつもりで わざわざ500km路線バスに乗り首都をめざし再訪しようとした。だがしかし、何とその博物館は閉鎖されてしまっているようであった。 愕然とした。結局2回も博物館から冷たく見放されてしまった。旅していると時々こういうことが起こる。よもやこうなろうとは、 少なくとも真剣にネットで事前に十分検索しなかった結果である。

  止むを得ず、足は自然とモンテビデオ港のウォーターフロントへと向いた。「国会議事堂」近くの「自然史博物館」に寄り道したが、 どうも開店休業の様相でそれも諦めて、ぶらぶらとウインドウショッピングしながらレトロな雰囲気の市街地中心部を抜け、緩やかな 坂道下って港へと向かった。なるほど、旧市街地は小高い丘の上に築かれていたことがよく分かった。マゼランはこの丘を見て 「モンテビデオ、我山を見たり!」と叫んだのであろうと想像しながら下って行った。

  あろうことか、ブエノス・アイレス行きフェリーの午後便は既になかった。ウルグアイ海軍の数隻の艦船がすぐ対岸の埠頭に停泊する 港風景を暫く眺めた。もう風景を切り撮る気力は消え失せていた。その後、気を取り直して、バスターミナルに戻り、コロニアに 取って返すことにした。コロニアでようやく今日のフェリー最終便を捉まえてブエノスに帰着した。一泊二日の短い旅であったので 軽く考え過ぎ、余りの行き当たりばったりの旅となり、成果の少ないものになってしまった。もう少し緻密な下調べをしておくべきだった。 とはいえ、コロニアではミニではあるが目途とした「海洋博物館」やコロニアル風旧市街地内の要塞跡などを今回初めて訪ねることができ、 それで良しと自身を慰めざるをえなかった。悲観的になるのは禁物であった。旅が楽しくなくなるから。

   ブエノスに帰着した翌日、JICAブエノス事務所の旧友の職員との再会、昔何度も家族らと食事に出掛けた韓国料理店での夕食会、 「ラ・ベンターナ」でのタンゴ演奏会のショーを楽しんだり、レコレータに眠るエバ・ペロン夫人の墓地に献花したり、最後の アルゼンチンでのカフェ・コン・レーチェをカフェテリア「トルトニ」で味わったり、昔ピストルを胸に潜ませた日系人に5,000ドルの 口止め料の支払いを脅迫され、何時間も交渉したクリジョン・ホテル傍の洒落たパリ風カフェなど、ブエノスとの別れを惜しんであち こち飛び歩いた。最高のセンティメンタル・ジャーニーとなった。もっとも長女にとっては当時5~7歳で、MDPの幼少期での友人との 日常や学校生活、パタゴニアへの旅など記憶に留めているものはそれほど多くはなかった。その後、アトランタ、シアトル経由で 帰国した。2014年3月3日から31日までの旅であった。

  余談だが、最後にマゼランの世界周航について触れておきたい。 ポルトガル人航海探検家フェルディナンド・マゼラン(Ferdinando Magellan; 1480?-1521年)の率いる5隻・乗組員277名からなる 船隊が、スペイン王国の支援を受け、1519年9月20日スペインのセビーリャを出港し、西回りで香辛料の産地で有名なモルッカ 諸島をめざした。 南米大陸南方に存在すると憶測されていた、「南の海」へ通ずる海峡を発見し (後のマゼラン海峡)、2か月かかってその海 (後に「太平洋」と名付けられた)を横断し、フィリピン諸島に到達した。マゼランは 1521年、フィリピンのセブ島に隣接する マクタン島で原住民との戦闘のさ中に負傷し不慮の死を遂げた。その後、2隻となっていた船隊は、ついにモルッカ諸島に到達し、 大量の香辛料を買い入れた。出港後浸水してしまった僚船を残して、「ビクトリア号」一隻が、インド洋横断、喜望峰を周回して、1522年 本国に帰還、西回りの史上初の世界周航(1519-1522年)を成し遂げた。生還できたのはわずか18人の乗組員であった。

  マゼランの略史をもう少しひも解けば、1504年、マゼランはインドに航海した。その後マラッカ、モルッカ諸島(香料諸島)など に滞在し、1512年に帰国した。その後、少なくとも2回ポルトガル国王に謁見する機会をもった。先ず、俸給引き上げを直訴したが 却下された。その後、1515年末または翌年初めに、モルッカ諸島への派遣を懇請したが、これも却下された。 ポルトガル王室での将来に見切りをつけて、マゼランはポルトガル北部の港町ポルト(またはオポルト)に移り、そこで天文学者 ルイ・デ・ファレイロ、熟達した船乗りのジョアン・デ・リスボアらと交遊した。

  1517年10月、ポルトから海路でスペインのセビーリャに移った。その後、西回り航路で僚友セラーンが滞在するモルッカ諸島へ 向かう航海計画を立てた。そして、スペイン国王カルロス一世 (国王在位1517~56年; 神聖ローマ帝国皇帝カール5世のこと)  に謁見し、同計画への支援を懇請した。1518年3月22日、カルロス一世とマゼランとの間でモルッカ諸島の発見に関する協約が成立した。

  1519年9月20日、グアダルキビール川(Guadalquivir)河口のサンルカル・デ・バラメダ港(Sanlúcar de Barrameda)で最後の 補給を済ませた「ビクトリア号」他5隻からなる船隊は、277名の乗組員を率いて出帆した。船隊構成は、「トリニダード号」(110トン)、 「サン・アントニオ号」(120トン)、「コンセプシオン号」(90トン)、「ビクトリア号」(85トン)、「サンティアゴ号」 (75トン)であった。マゼラン自身が乗艦する旗艦「トリニダード号」が常に先頭を進み、4隻がその後に続くよう指揮を執った。

  西アフリカのヴェルデ岬諸島を通過した後、1519年12月13日に現在のリオ・デ・ジャネイロがある「サンタ・ルシア湾」に到達した。 その後、海岸沿いに南下し、「サンタ・マリア岬」(現在のウルグアイ首都モンテビデオの200kmほど東方; 最寄の都市は ローチャ Rochaである)に到達した。同地より西方に連なる海岸線沿いに航海を続けたところで山を視認したマゼランは、この地を モンテ・ビディ(「山を見た」という意味)と名付けた。現在のモンテビデオである。 海岸線はなおも西方へ続いていた。航海士ジョアン・デ・リスボアはかつてこの地に到達し、この海岸線を西方に辿れば「南の海」 (現在の太平洋のこと; バルボアがパナマ地峡を横断して、西欧人で初めてその先に海があることを認めた) に出られる海道があり、 モルッカ諸島に到達できることを期待した。マゼランは彼と同様にその期待を抱いて西航した。

  1520年1月10日に現在のラ・プラタ川(río de La Plata; モンテビデオから150kmほど西方に位置する)河口に到達したマゼランは、 最も小型の「サンティアゴ号」をもって内奥へと踏査させたところ、結局河川であることが判明した。マゼランは「ソリス川」 と名付けた。これが、マゼランによるモルッカ諸島に向けた探検航海におけるラ・プラタ川との歴史的な出合いである。 更に南下を続け、「サン・マティアス湾」(Golfo San Matías; バルデス半島Península Valdésの北側にある大湾)を調査した後、 現在のアルゼンチンのサンタ・クルス州にある町サン・フリアン (San Julián)の入り江に錨を降ろして越冬した (1520年3月31日から8月23日まで; 南半球における真冬は6~8月頃である)。 航海再開後、「サンティアゴ号」がサン・フリアンの南80kmほどにあるサンタ・クルス川(río Santa Cruz)の河口付近で難破した。

  1520年10月21日、現在のマゼラン海峡の東口(「一万一千の聖母の岬 Cabo Virgenes」から海岸線は西方へ大きく くびれている)に達した。そして、ついに南米大陸南方に存在すると憶測されていた、「南の海」へ通ずるかもしれない狭水道 (後のマゼラン海峡) を発見した。水路を進む過程で「サン・アントニオ号」が一方的に船隊から離脱し、本国に向けて逆航するという 行動を取った。同号は1521年5月6日にセビーリャに帰着した。3隻となった船隊は、難航を重ね、現在のパタゴニア地域とフエゴ島 (Tierra del Fuego; 「火の大地」という意味)との間にあるマゼラン海峡を西方に向け通過し、ついに11月28日「待望の岬」 (カボ・デセアード Cabo Deseado) と命名した岬を最後に大洋へと抜け出た。

  船隊はチリ沖を北上しながら、針路を徐々に北西から西寄りに転針し、3か月余りかかって、後に「太平洋」と名付けられたその 大洋を横断し、ついに1521年3月6日マリアナ諸島に至った。同諸島の旧称は「ラドロネス諸島」 (Ladorones=Ladrone Islands) である。「ladrones」 (複数形) とはスペイン語で「泥棒」という意味で、当時「泥棒諸島」と呼ばれた。そして、3月16日、フィリピン諸島のセブ(Cebu) 島に 到達した。4月27日、マゼランはセブ島に隣接する「マクタン島(Mactan Island)」における原住民との戦闘の最中に負傷し、それが もとで不慮の死を遂げた。

  マゼランの死後、スペイン人のフアン・セバスティアン・デ・エルカーノ (Juan Sebastián de Elcano; 1476?-1526年) が航海 の指揮を引き継ぎ、「トリニダード号」と「ビクトリア号」の2隻で、1521年11月8日モルッカ諸島ティドール島に辿り着いた。 1521年12月18日2隻は同島を出航したが、直後に「トリニダード号」が浸水したため同船を放棄し、エルカーノの指揮の下、 「ビクトリア号」だけが航海を続けた。インド洋を横切り、喜望峰を周回し、西アフリカ沿岸を北上し、1522年9月6日ついに スペイン・セビーリャへ帰着した。ここに史上初の世界周航(1519-1522年)を成し遂げた。生還できた乗組員はわずか18名であった。

  航海半ばにしてこの世を去ったマゼランには、世界初の世界周航者としてはその名を残すことはなく、一航海をもって人類 史上初めて世界周航を果たすという名誉は与えられなかった。だが、 1519年からの西回り航海と、過去における東回りでのインディアス方面 (マラッカ、モルッカ諸島など) への航海とを合わせれば、 人類史上初めて世界周航を成し遂げた航海者は先ずはマゼランであったと考えられている。 大西洋から、当時「南の海」とされていた太平洋への狭水道、即ち「マゼラン海峡」にその名を残した。そして、南米大陸はその 海峡にて尽きことになる。

  かつてスペイン・バルセローナの「ランブラス大通り」を南に下ったところの船着き場に係留されていた復元船「ビクトリア号」 を目にしたことがあった。全長約26m、最大幅6.7mほどの船で、その余りの小ささに驚かされた。人類が地球を球体であること、その 大きさを実体験し実証したのは、わずか18名の、今からわずか500年ほど前のことであった。人間が成し遂げた史実の余りの最近の 出来事であることに改めて驚嘆した。

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    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する
    第5節 アルゼンチン・ビーグル海峡とマゼラン海峡を駆け、パタゴニアを縦断する


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     第20章・目次
      第1節: 「自由の翼」をまとい海外を旅する、世界は広い(総覧)
      [参考] 海外出張などの記録
      第2節: オーストラリアに次いで、東南アジア(タイ・マレーシア・ シンガポール)の海洋歴史文化施設を訪ね歩く
      第3-1節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その1)/釜山、蔚山
      第3-2節: 韓国の海洋博物館や海洋歴史文化施設を訪ねて(その2) /統営、閑山島、潮汐発電所など
      第4節: 英国南部の港町(ポーツマス、プリモス、ブリストルなど)を歩く/2013.5、挙式
      第5節: アルゼンチン・ビーグル海峡とマゼラン海峡を駆け、パタゴニアを縦断する/2014.3
      [参考] ビーグル海峡、マゼラン海峡、パタゴニア縦断の旅程